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1 も、モォ!? ……いや、モォってなんだ


 その男には、これといった長所がなかった。

 勉強はそこそこ。

 容姿は月並み。

 身長は高くも低くもない。

 口数はやや少なめで、しかし、いざ口を開いても大したことは言わなかった。


 それでも男は肩で風を切って歩いてみたかった。

 誇りが欲しかった。

 胸を張るために。

 しかし、才能は凡庸、努力するにしても要領が悪いときた。

 誇るべき自分の姿は高く遠いところで陽炎のように揺れていた。


 そこで男は簡単なことに取り組むことにした。


《一日一善》――。

《困っている人がいたら必ず助ける》――。


 誰にでもできるが、誰もが面倒臭がることを男は信条として胸に刻んだ。

 死ぬまでこれを続けると誓いを立てた。


 その日も、落としたハンカチを拾ってやるくらいのつもりで、気づけば飛び出していた。

 細い手首を掴み、鋭く引っ張る。

 少女がきゃっ、と声を上げ、点字ブロックの上に倒れ込んだ。

 その華奢な体と入れ替わる形で、男の体は前に出た。

 誰かが、あっ、と叫んだ。

 クラクションで耳が潰れる。

 衝撃はすさまじかった。


「――――」


 呼吸が止まった。

 世界が回った。

 間延びした時間の中で、馬鹿みたいに飛ばされた。

 硬い路面をボールのように跳ね転がり、空の青、コンクリの黒が目まぐるしく切り替わる。


 ブレーキ音とバンパーが追うように近づいてきて、男はまた飛ばされた。

 今度は黒一色だった。

 全身が砕ける音を聞いた。

 車体と路面の間で大根おろしにされているのだと理解したが、どうすることもできなかった。


 残酷な音が止み、世界が回転を止める。

 ねじ切れた腕が遅れて転がってきて顔にぶつかった。

 男は自分の膝小僧を枕にして寝ていた。

 ありえない姿勢のまま、ゆっくりと瞬きする。

 それだけしかできなかった。

 ゆるいカーブを描いた血のわだちの先で少女が泣いていた。


 ――あの子は助かったのだ。

 ――俺が助けたのだ。


 男は満たされていた。

 今、体が動き、立ち上がることができたなら、きっと胸を張れるに違いない。

 肩で風を切り、名前も告げずに颯爽と去っていく。

 そんな自分の姿を夢想した。

 同時に、言いようのない虚しさがあった。


(なんてもろい体なんだ……)


 叩き壊されたガラス像のように、あるいは、落果した熟柿のように。

 男の体はむごい有り様を衆目にさらしていた。

 命の水がこぼれ、冷えていく。

 もはやどこが痛いのかさえわからなかった。


 もし、生まれ変われたなら、何ものにも傷つけられない鋼の体が欲しい――。


 男は終わる刹那、そう願った。

 それに応えるものがあった。


『全人、魂底ヨリ……叫ブトコロノ……モノ、我……聞キ届ケタリ…………』


 それは男の声であり、女の声だった。

 1人の声であり、すべての声でもあった。


『ソノ全ナル魂……ニ、再ビ……器ヲ授ケン』



◇



「……」


 気づけば、男は二本の脚で立っていた。

 空を見上げていた。

 3つの月が親子のように寄り添い、その手前を大小無数の島が流れていく。

 島々を繋ぐのは緑のツル。

 そこで羽を休めているのは、どう見てもドラゴンだった。


「異世界……なのか」


 戦車じみた排気音が口から噴き出した。

 男は驚き、喉に触れる。

 木の幹のような太い感触。

 節くれだった巨大な手のひらを見つめ、男は戸惑いの声を上げた。


「も、モォ!? ……いや、モォってなんだ」


 指の隙間に光が踊る。

 水面だった。

 湖が広がっている。

 そこに映し出されているのは、ひとつの巨影。

 隆とした胸を天に誇り、岩のような肩が風を切る。

 顔は牛に似、猛る双角が神に抗うかのごとく空を突き上げていた。


 半人半牛のモンスターが水面に揺れていた。


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