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Boundary  作者: 楓シロ
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第9話  パンの匂い

 数日後、医療室の重いドアを開けた。

 さくらには「安静」と釘を刺され、師乃には「無理厳禁」と念を押され――カイには、鼻で笑われただけだった。


 向かう先は、梅田。

「……止めなくていいんですか?」

 隣を歩く師乃に、ソラは尋ねた。

「止めても行くでしょう、あなたは」

 師乃はモニターの数値を指先で弾きながら、前を向いたまま答える。

「店主の現状は現在、休業中」

「知ってたんですか」

「模造コアに関わった人は監視されますので」


 廃墟区域に入ると、空気が一変した。

 機構の清潔な無機質さとは違う、埃とコンクリートの匂い。割れた窓、焦げた壁。暴動の傷跡はまだ生々しい。

 見慣れた町の変わりように少し悲しくなった。


 おじさんの店は、錆びたシャッターが固く下りていた。

「おじさん」

 ソラが声をかける。返事はない。

「ソラです。……会いに来ました」


 長い沈黙。

 やがて、重い金属音がしてシャッターが少しだけ上がった。隙間から覗くおじさんの顔は、以前よりずっと小さく、老けて見えた。

「……ソラか」

「はい」

「怪我は」

「大丈夫」


 おじさんは僕と背後に立つ師のを一度見て、静かにシャッターを開けた。

 店内は、驚くほど冷え切っていた。オーブンは動いておらず、いつもいい匂いだった店内はなんの匂いも残っていなかった。


「座れ。お茶くらいしか出せん」

 三人で囲む小さなテーブル。おじさんはソラと目を合わせようとしない。


「……迷惑をかけた。すまなかった」

「おじさんは被害者です。あの模造コアが……」

「そうじゃない」

 おじさんの声が、ソラの言葉を遮った。

「あれを手に取ったのは、わしだ。叫んで、壊して、誰かを傷つけた。それは『わしの意志』だ。……許されることじゃない」


 おじさんは丸まった背中をさらに小さくした。

「店は、畳もうと思っとる。……あんな怖い思いをさせたパンなんて、もう近所の誰も食いたくないだろ」


「僕は食べたいです」

 即答だった。おじさんが、驚いたように顔を上げる。

「おじさんのパン、好きなんです。ずっと」

「……」

「母さんが死んでから、僕の時間は止まってました。どこに行けばいいかわからなくて。でも、ここのパンを食べた時だけは、この街に生きてていいんだって思えた」


 ソラは、膝の上で拳を握りしめた。

「大したことじゃないって言うかもしれないけど。僕には、それだけで十分だったんです」


 重い沈黙が流れる。おじさんは、冷めた湯呑みを両手で包み込んだ。


「……わしはな。最初から特別になりたかったわけじゃないんだ。『ありがとう』って言われたら、それで十分だった。はずだったんだ」

 震える声が静かな店内に落ちる。

「でも、いつからか……何も持ってない自分が惨めになった。機構の連中を見るたびに思ってたんだ。同じ飯食って生きてんのに、何でこんな違うんだろうなって」

小さなため息をついた

「わしにはパンを焼くしかできない。毎日、売り上げを気にして人に頭下げて、それが、ゴミみたいに思えてきて……」


 そこに「声」が届いたのだ。お前の怒りは正しい、と。

「壊していいんだって思ったら、楽になった。でも……本当は、そんなこと思いたくなかった…」

 

 ソラの胸が締め付けられる。

 おじさんは、悪人じゃない。ただ、この世界で「自分」を見失しなった…


「おじさんは今も、パンを焼きたいですか?」


 おじさんの視線が、カウンターの上の冷えた生地に止まった。

 長い、長い呼吸。

「パンを焼いてる時間は嫌いじゃなかったんだ」

「………」



 そこから長い長い沈黙が落ちたーーー



「…腹括るか」

おじさんが冷えきったオーブンを見る

「正直怖えけどな。」

苦く笑う

「近所の連中にどう思われてるかもわからんしな」

「……」

「でもまぁ」

おじさんが少し笑って

「わし、パン焼くの嫌いじゃねえんだわ」


  ◇


 帰り道。

 街灯の壊れた廃墟区域を、ソラとシノは並んで歩く。

 空気が、少しだけ澄んで見えた。


「よかったですね」

「そうですね」

 師乃はモニターを閉じ、前を見据えた。

「ソラさん。人は理解されただけでは変わりません」

「え?」

「『仕方がない』だけで生きてると、自分が何をしたいのか分からなくなるんです。彼は自分で気づいたのでしょう。あなたは、その背中を少し押したんだと思います」


 師乃の横顔は冷淡に見えた。けれど、その言葉には不思議な体温があった。

「……そうなんですかね?良かったんですか?」

「十分ですよ」

 師乃はそれだけ言って、歩を早めた。


 ソラも、その背中を追いかける。

 結局、自分にはよくわからなかった。

 ただ、少し話しただけだ。

 あの人を救えたわけでもない。

 何かを変えれたわけでもない。

 それなのに、師乃は「十分だ」と言った。


 ――じゃあ。

 人にとっての「何かができた」って、一体なんなんだろう。


 錆びた鉄とコンクリートの匂い。

 その奥から、まだ火も入っていないはずの、温かいパンの匂いがした気がした。


 

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