第88話 それは本当に
「蓮」
カイが歩み寄り、蓮の隣に立った。そして、相変わらず腕を組んで傲然と見下ろしてくる男の幻影を、じっと見つめた。
「一個だけ、お前に聞いていいか」
「……何、ですか」
「『それ』は本当に強いのか?」
蓮は信じられないというように、カイを見上げた。
「怖いから、そう見えていただけじゃないのか」
「どういうことですか……。あいつは強かった。いつも怒鳴って、暴れて、俺も母親も、誰も逆らえなかった……!」
蓮の脳裏に、再び過去の断片が蘇る。
不機嫌そうな顔。
鼓膜を震わせる怒鳴り声。
ただ怯えるだけの母親。
そして――その奥にあった、父親の「目」
「……あ」
蓮の喉が、小さく鳴った。
今まで、見たことがなかった。
いや、見ようとしたことすら、一度だってなかった。
あの目は――怒っていらように見えた‥が‥‥
「……怖がってた」
思わず、言葉が口から漏れていた。
男の幻影が、ぴくりと不自然に揺れる。
「何だと?」
「怖かったんだ」
蓮は、呆然と男を見上げる。
「だから怒鳴った。だから威張った。だから誰よりも大きな声を出してた……!」
胸の奥が、激しくざわつく。
嫌な予感がした。気づきたくなかった。なのに、一度溢れ出した思考はもう止まらない。
「でも……」
蓮は、自分の両手を見つめた。ガタガタと無様に震えていた。
「俺も、怖かった」
家庭が壊れるのが怖かった。母親が泣くのが怖かった。自分が見捨てられ、嫌われるのが怖くて堪らなかった。
だから、笑ったんだ。
だから、ふざけた。
だから、必死に空気を変えようとした。
「結局……」
言葉が喉に引っかかり、掠れた声が零れ落ちる。
「一緒だったんだ。俺も、あの人も……ただ、怖かったんだ……」
膝から力が抜ける。
自分もあの父親と同類だったのだという絶望に、膝から、すとんと力が抜けていく。
――その瞬間だった。
ゴツッ。
鈍い音を立てて、カイの拳が蓮の頭を無造作に小突いた。
「一緒なわけがあるか」
「……カイさん?」
痛む頭を押さえ、蓮が息を呑んで見上げる。
カイは、男の幻影から頑なに視線を外さないまま、低く言い放った。
「お前は怖かったーーーそれでも、隣に立った」
蓮の胸に、その言葉が鋭く突き刺さる。
「そいつはどうだ」
カイは、忌々しげに男の幻影を顎で示した。
「怖いから、人を従わせた」
短く、それだけだった。
冷徹なまでに事実だけを切り出す声が、静かに山林へ響く。
「一緒なわけがあるか」
「ーーつ」
蓮の胸の奥で、張り詰めてた何かが、音を立てて激しく弾けた。
男の幻影が、その変化を察知したように、初めてその表情を激しく歪めた。
「黙れ……! 黙れ! 出来損ないの分際で、俺を見下すな――!!」
声が変わっていた。さっきまでの支配者の重低音ではなく、ひどく甲高く、余裕のない、悲鳴のような咆哮。
蓮は、ゆっくりと立ち上がった。
その顔に、いつもの笑顔は無い。
「見下してなんかいないよ」
蓮は男の目を、真っ直ぐに見据えた。
「あなたが弱くて、怖がっていたというのは分かった。……でも、俺はあなたと同じじゃない」
「黙れと言っている……!」
「俺は、怖くても逃げないし、怒鳴らない。ちゃんと笑って、最後まで隣に立つ。」
グッと手を握りしめる。
「それが俺だ」




