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Boundary  作者: 楓シロ
88/102

第88話 それは本当に

 「蓮」


 カイが歩み寄り、蓮の隣に立った。そして、相変わらず腕を組んで傲然と見下ろしてくる男の幻影を、じっと見つめた。


「一個だけ、お前に聞いていいか」


「……何、ですか」


「『それ』は本当に強いのか?」


 蓮は信じられないというように、カイを見上げた。


「怖いから、そう見えていただけじゃないのか」


「どういうことですか……。あいつは強かった。いつも怒鳴って、暴れて、俺も母親も、誰も逆らえなかった……!」


 蓮の脳裏に、再び過去の断片が蘇る。

 不機嫌そうな顔。

 鼓膜を震わせる怒鳴り声。

 ただ怯えるだけの母親。


 そして――その奥にあった、父親の「目」


「……あ」


 蓮の喉が、小さく鳴った。

 今まで、見たことがなかった。

 いや、見ようとしたことすら、一度だってなかった。


 あの目は――怒っていらように見えた‥が‥‥


「……怖がってた」


 思わず、言葉が口から漏れていた。

 男の幻影が、ぴくりと不自然に揺れる。


「何だと?」


「怖かったんだ」


 蓮は、呆然と男を見上げる。


「だから怒鳴った。だから威張った。だから誰よりも大きな声を出してた……!」


 胸の奥が、激しくざわつく。

 嫌な予感がした。気づきたくなかった。なのに、一度溢れ出した思考はもう止まらない。


「でも……」


 蓮は、自分の両手を見つめた。ガタガタと無様に震えていた。


「俺も、怖かった」


 家庭が壊れるのが怖かった。母親が泣くのが怖かった。自分が見捨てられ、嫌われるのが怖くて堪らなかった。


 だから、笑ったんだ。

 だから、ふざけた。

 だから、必死に空気を変えようとした。


「結局……」


言葉が喉に引っかかり、掠れた声が零れ落ちる。


「一緒だったんだ。俺も、あの人も……ただ、怖かったんだ……」

膝から力が抜ける。


 自分もあの父親と同類だったのだという絶望に、膝から、すとんと力が抜けていく。


 ――その瞬間だった。


 ゴツッ。


 鈍い音を立てて、カイの拳が蓮の頭を無造作に小突いた。


「一緒なわけがあるか」


「……カイさん?」


 痛む頭を押さえ、蓮が息を呑んで見上げる。

 カイは、男の幻影から頑なに視線を外さないまま、低く言い放った。


「お前は怖かったーーーそれでも、隣に立った」


 蓮の胸に、その言葉が鋭く突き刺さる。


「そいつはどうだ」


 カイは、忌々しげに男の幻影を顎で示した。


「怖いから、人を従わせた」


 短く、それだけだった。

 冷徹なまでに事実だけを切り出す声が、静かに山林へ響く。


「一緒なわけがあるか」


「ーーつ」


蓮の胸の奥で、張り詰めてた何かが、音を立てて激しく弾けた。


 男の幻影が、その変化を察知したように、初めてその表情を激しく歪めた。


「黙れ……! 黙れ! 出来損ないの分際で、俺を見下すな――!!」


 声が変わっていた。さっきまでの支配者の重低音ではなく、ひどく甲高く、余裕のない、悲鳴のような咆哮。


 蓮は、ゆっくりと立ち上がった。

 その顔に、いつもの笑顔は無い。


「見下してなんかいないよ」


 蓮は男の目を、真っ直ぐに見据えた。


「あなたが弱くて、怖がっていたというのは分かった。……でも、俺はあなたと同じじゃない」


「黙れと言っている……!」


「俺は、怖くても逃げないし、怒鳴らない。ちゃんと笑って、最後まで隣に立つ。」


グッと手を握りしめる。


「それが俺だ」



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