第89話 小さかった背中
蓮が静かに右手を掲げた。
その瞬間、周囲の空間のノイズが完全に消失した。
現れたのは、荒々しく爆発する雷ではない。
それは、陽炎のように青白い光。
その光はまとまって空間の一点へと、凄まじい引力で内側へと収束していく。
「……なんだこれ」
蓮自身が、その異質すぎる進化に目を見張った。
カイの口元が、微かに上がった。
「――やれ、蓮」
「はい……!」
蓮が青白い光を、男の幻影へと向けた。
放たれた光波は、爆音を一切立てない。ただ、男の身体を静かに透過した、その瞬間――。
バシィィィィン!!!
大気を引き裂くような高周波の音が響き、男の輪郭が激しく歪んだ。
鼓膜を震わせていた怒鳴り声が途切れる。
こちらを押し潰していた威圧感が、まるで霧のように薄れていく。
大きく見えていた身体が、少しずつ縮んでいくようだった。
ーーーそして最後に残ったのは ただ一人の、人影だった。
幻惑の霧が晴れた地中から、
黒い火花を散らす小さな発信装置が姿を現した。
山道に、完全な静寂が戻った。
だがそのすぐ奥に電波塔が建っていた。
カイはそれをジッと見つめると刀に手をかけた
「あっ、ちよっとカイさん!!」
蓮が止めるままなく、カイは電波塔を豪快にぶった斬った。
ーーーガシイイイイイン
凄まじい金属音を立てて倒れた電波塔の頭部から
不気味に明滅する旧AIコア出てきた。
カイが一歩進む。
「……あったな」
「カイさん……! もう、また上の人たちにめちゃくちゃ怒られますって!」
おでこを押さえて人知れず始末書の枚数を計算する蓮に、カイは短く、平然と言い放った。
「これが1番早いだろ」
カイは短く言う。
「住宅街の霧も、これで終わりだ」
「あー、また師乃さん苦労するな‥‥」
山を降りる途中、避難誘導が進む住宅街の境界線に差し掛かった時のことだった。
隊員たちが慌ただしく行き交う路地の一角に――男がいた。
白髪の混じった五十代半ばの男。
不機嫌そうに腕を組み、誘導に当たっている若い隊員に文句を言っている。
父親だった。
偶然の悪戯か。それとも、この騒動に巻き込まれていたのか。
こちらの視線に気づいたのか、男がゆっくりと不機嫌そうにこちらを振り返った。
蓮と、父親の目が、ぶつかる。
男は何も言わなかった。蓮もまた、言葉を発しなかった。
夕暮れの赤い光が差し込む路地で、二人の間の時間だけが、静かに止まる。
やがて――先にきまずそうに目を逸らしたのは、父親の方だった。
男はバツが悪そうに舌打ちをすると、隊員の誘導に従って、そそくさと避難車両の方へと歩き去っていった。
蓮は、その背中をずっと見つめていた。
子どもの頃、世界のすべてを支配する怪物だと思っていた背中。
今はただ――
少し猫背で。どこにでもいる、中年の男の背中だった。
ただの不器用な人間だった。
「蓮」
隣を歩くカイが、前を見据えたまま声をかける。
「どうした」
「……思ったより、小さかったです」
蓮はまっすぐ前を見る。
「あんなに怖かったのになぁ」
「そんなもんだ」
カイは短く言った。
蓮は、ふっと息を吐いて、笑った。
それは、作ったものでも、誤魔化すものでもなかった。
全部隊が住宅街の中央広場に集合した。
干渉波はすでに消え、住民たちの混乱も収まっていた。
「蓮さん!」
遠くから蓮の姿を見つけるなり、ソラが駆け寄ってきた。
「大丈夫でした?」
「大丈夫。問題なし」
蓮はいつもの調子で、軽く親指を立ててみせる。
「山の中で…何があったんですか?」
ソラが心配そうに身を乗り出す。
「んーまぁ敵はエグかったわぁ」
そこで一瞬止まる。
「自分だった、みたいなもんかな」
ソラは目を丸くする。
「……え?」
蓮はそれ以上説明しない。
でも笑顔だった。
燃えるような空が、彼らの背後で生駒山の深い木々を優しく染め上げていった。




