第86話 恐怖
静まり返った山道を登りながら、蓮はとにかく喋り続けていた。
「いやあ、本当にいい山なんですよ、生駒山。大阪からも奈良からもアクセスが良くて、有名なお寺もあって。地元の人間にとっては、ただの山じゃなくて、生活の一部っていうか、精神的支柱みたいなもんで――」
「蓮」
背後を歩くカイが、その饒舌な言葉を遮るように、低く鋭く呼んだ。
「はい?」
「無理に喋るな」
蓮の足が、ピタリと止まった。
木漏れ日が、蓮の横顔を斑に照らす。彼はしばらく沈黙し、それから、ふっといつもの自嘲的な笑みを浮かべた。
「……喋ってないと、なんか吐きそうなんですよ」
「そうか」
カイはそれ以上、慰めも叱咤もしなかった。ただ「行くぞ」とだけ言い、蓮の横をすり抜けて歩を進める。
さらに数分、鬱蒼とした木々の隙間から、銀色に輝く巨大な電波塔の鉄骨が見え隠れし始めた、その時だった。
蓮の身体が、完全に硬直した。
山道の脇、巨大な木の根元に、一人の「男」が立っていた。
「誰だっ!」
蓮がそう叫んだ時、カイが視線は動かさないまま問いかけた。
「‥‥人に見えるんだな?」
カイの声に蓮はハッとしてもう一度よく見る
年齢は五十代半ばほど。がっしりとした頑強な体格。不機嫌そうに深く腕を組み、泥靴で地面を踏み締めている。
蓮の喉から、ひゅっと空気が漏れる音がした。
「……来るな」
蓮が一歩後ずさる。
カイが同時に半歩前に出る。手はすでに腰の刀に手がかかっている。
「蓮、何が見えてるかは知らんが、わかってるな」
「……分かってます」
蓮の声はかすれていた。
「分かってます、そんなこと……!」
頭では理解していた。
これは脳が見せている幻だ。
なのに――
足が動かない。
指先が氷のように冷えていく。
木の下の男が、ゆっくりと顔を上げ、その濁った傲慢な眼光を真っ直ぐに蓮へと向ける。
「――また来たのか、お前は」
声を、知っていた。
子どもの頃、毎晩のように家の中で響き渡り、自分の鼓膜を恐怖で震え上がらせた、あの忌まわしい声。
「またそれか」
男が一歩、前へ踏み出す。
「相変わらず、そんな小汚い雷ごっこを続けているのか」
バリバリッーーー!
蓮の意図に反して、彼の手のひらから紫色の火花が激しく爆発した。
「ほらな」
男が、すべてを見透かしたように嘲笑った。
「どうせ、お前は中身は空っぽだ。」




