第84話 山に潜む影
生駒山の麓の古い住宅街に足を踏み入れた瞬間、ソラは肌を刺すような強烈な違和感に襲われた。
空気が、ねっとりと重く、狂っている。
一見すれば、どこにでもある平凡な地方の住宅街だった。
時間は夕暮れ前。本来なら買い物客や学校帰りの子どもたちの往来があるはずの時間帯だ。
だが通りには人っ子1人いない。
窓は閉じられ、カーテンは固く引かれている。
家々は、まるで中から息を潜めているようだった。
路地の先には、すでに先発していた第二部隊と第三部隊の姿があった。九条が青ざめた住民たちの対応に追われ、モモが周囲の路地を鋭い視線で警戒している。
「状況は」
カイが歩み寄ると、
九条は前髪をかき上げ、息を吐いた。
「住民の混乱が、もう区域単位で広がってる」
「早いな」
「しかも、見えてるはずのないものを見せられてるらしい……恐怖そのものを」
九条は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから忌々しげに言葉を継いだ。
「……住民同士で、揉め始めてる」
「住民同士?」
カイの問いに、九条は短く頷いた。
「自分にしか見えない“敵”を、周囲の人間に重ねてる。殴ってる側も、正気じゃない。自分を守ってるつもりだ」
九条はため息をつく
「……これはもう、戦闘状態だな。人間の恐怖をそのまま増幅させてる」
「師乃、電磁波の指向性は」カイが鋭く問いかける。
「今見ていますが、山の方角から来ているとしか……現段階で断定はできません。直接的な精神破壊というより、広域にじわじわ染み込んでいるタイプです」
「どこから湧いているのか掴めないが、確実に俺たちの足元まで広がっている、か」
そこへ、路地の影からモモが足早に戻ってきた。その鋭い顔つきが、微かに強張っている。
「カイ、これ思った以上にタチが悪いわよ」
モモが一瞬だけ呼吸を整える。
「さっき、私自身も少し“喰らった”」
「何を見た?」
「……昔の任務よ」
一拍置く。
「正確には“思い出したくない場面”って言った方が近いかもね」
「視界に入った瞬間、頭では“違う”って分かってるのに、身体が止まった」
モモは舌打ちするように吐き捨てた。
「厄介よこれ。見た瞬間に動けなくなるわ」
「なるほどな、徹底して『弱点』を突いてくるわけか」
「見る人間によって幻覚が異なるのは、そのためのようですね。」
師乃は一度だけ間を置く。
「個人の“最も反応しやすいマイナスの記憶”に干渉している可能性があります」
「極めてクソな攻撃だな。」
「急がないと私たちもヤバいわよ」
「どこから干渉している」
「特定を急ぎます」
カイは住宅街の背後にそびえ立つ、生駒山の深い木々を見上げた。
「探すぞ。3手に分かれる」
カイの決断は一瞬だった。
「ソラ、日和は住宅街の住民の保護と、紫苑とシノは麓側の発生源探索に当たれ。――俺と蓮は、電波塔側の山に入る。」
「蓮」
カイが踵を返し、山道へと歩み出しながら短く呼んだ。
「はい」
「地元だろ。山道は頭に入ってるか」
「分かってますよ。子どもの頃、クワガタ捕りで毎日登ってましたから。」
「案内しろ」
「了解です」
蓮は軽快な足取りで、先頭に立って山道へと踏み出した。
懐かしい。涙が出るほど懐かしいはずの山だった。
だが、今の彼の目に映る生駒山は、いつもとは全く違うように見えていた。




