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Boundary  作者: 楓シロ
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第70話 風車

 その混乱の中で。


「ママー!!」


 引き裂くような、子どもの悲鳴が響いた。

 日和がガタガタと震えながら振り向く。


 視線の先、小学校低学年くらいの男の子が、地面にへばりついて泣き叫んでいた。

 その小さな足首には、毒々しく変色し、巨大化した蔦が蛇のように固く絡みついている。


「誰か!! 誰か助けて!!」


 少し離れた場所で、群衆に押し流されそうになりながら、母親が狂ったように手を伸ばして叫んでいた。


 日和は辺りを見回した。


「蓮さん!みんなを何とかしないと!」

 ソラが叫ぶ。


「チッ、 押し潰されるぞ!」

 蓮が怒鳴り返す。


 ソラも、目の前で転んだ人を必死に引き起こしている。

 蓮も、パニックでパニックで我先にと出口へ殺到する人々を命がけで制止している。二人とも、手一杯だった。すぐには動けない。


 その時。

 日和だけが、見てしまう。


 バリバリと音を立てて、蔦が男の子を階段の向こう――風車の丘の上へと、凄まじい速度で引きずり上げていく。


 日和の足が、恐怖で地面に張り付いたように動かない。

 胸元で、いつもなら真っ先に泣き出すはずのノアが、じっと丘の上を見つめていた。


「日和」

「……」

「どうするクマ」


 日和はぎゅっと自分の胸元を握りしめた。


 怖い。身体の震えは止まらない。頭のどこかでは、誰かが助けてくれるのを待てと叫んでいる。


 でも。


「……放っておけない」

 ポツリと、言葉が漏れた。

 

 次の瞬間、日和の身体は弾かれたように走り出していた。


 誰にも言わず。カイたちの指示を待つこともなく。地響きを立てて暴れる植物の密林へと、一人で飛び込んでいく。


「日和さん!?」


 ソラが叫ぶ。

 だが、その瞬間だった。


 ズズズズズッ!!


 日和の消えた先で、巨大な蔦が一斉にうねり、壁のように立ち上がる。


「なっ――!」


 蓮が反射的に雷を放つ。

 しかし蔦は何重にも絡み合い、容易く行く手を塞いだ。


「クソッ!」


 ソラが蔦へ駆け寄る。

 その向こうには、もう日和の姿は見えない。


 通信が鳴る。


『ソラ!蓮!何があった!』


 カイの声だった。

 ソラは蔦の壁を睨みながら叫ぶ。


「日和さんが!子どもを追って中に!」

『……何だと』 


 短い沈黙。

 そしてカイの声が低く響いた。


『全員合流する。位置を維持しろ』


 だがその時にはもう。

 日和は誰の手も届かない場所へ踏み込んでいた。


  ◇


「待って……っ!」


 男の子を追いかけながら、日和は必死に蔦の森を駆けていた。


 かつて綺麗に整備されていた遊歩道は、地中から噴き出した太い根によって無惨に破壊されている。足元をすくおうと不気味にうごめく小さなつるを、日和は必死に飛び越え、ただ前だけを見て走った。


 上空を見上げても、重なり合う巨大な葉と蔦が天井のように視界を遮り、初夏の青空はもうほとんど見えなくなっている。


 まるで、生き物の胃袋の中に迷い込んでしまったかのような、薄暗い緑の迷宮。


 バサバサと頭上で何かが弾ける音がするたびに、色鮮やかな、けれど喉を刺すような匂いの花粉が大量に降り注いだ。


「ゴホッ、ゴホッ……!」


 激しく咳き込みながら、日和はノアをぎゅっと抱きしめる。


「ママ……う、ああん……!」 


 植物の擦れ合う不気味なざわめきの向こうから、さっきの男の子の泣き声が、かすかに聞こえた。

 声は、風車の丘の頂上――あの大きな風車の足元から聞こえる。


「……いる。まだ、間に合う……!」


 日和は自分の震える両脚に力を込め、さらに深く、狂った花々の檻の奥へと突き進んでいく。


「どこ……? どこにいるの……っ」


 焦りで胸が押し潰されそうになった、その時だった。


「……う、ああん……ママ……っ」


 すぐ近くの茂みの向こうから、かすかな泣き声が聞こえた。


「――いた!」


 日和はツルをかき分け、声のする方へと飛び込んだ。

 風車の足元にさっきの男の子がうずくまっているのを見つける。


「大丈夫?」


 日和は息を切らしながら膝をつき、男の子の足に絡みついた蔦へ手を伸ばした。

 その瞬間、クロエが音もなく滑り出るように現れた。


「まかせるニャ」


 クロエは男の子の足首を締め上げていた太い蔦を一気に噛み切った。

 蔦が嫌がるように激しく震え、男の子の足からゆっくりと離れていった。


「う、うう……」

「もう大丈夫」


 日和は自分自身の震える声で、言い聞かせるように言った。


「お母さんのところへ帰ろう」


 男の子が涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、コクコクと小さく頷く。

 日和はその小さな、冷たくなった手をきゅっと握りしめた。


 その時だった。


 パン。


 狂暴にざわめいていた植物のノイズが、一瞬で消え去ったかのような静寂の中。

 場違いなほど静かな拍手が響いた。


 日和の身体が、指先まで凍りついたように固まる。


 パン。

 パン。

 パン。


 重なり合う巨大な葉の隙間から、ゆっくりと人影が歩み出てくる。


「素晴らしい」


 低く、どこか楽しげな男の声が、薄暗い緑の檻に溶けるように響いた。



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