第64話 心配という名の
機構の地下に設けられた、狭く無機質な面会室。
金属製の冷たいテーブルを挟んで、日和と母親が向かい合って座っていた。
日和の膝の上には、いつも通りぬいぐるみのノアが静かに乗っている。
母親は不安と苛立ちの入り混じった視線で、じっと日和を見つめていた。
「……機構の寮に住むって、本当なの?」
「……うん」
日和は視線を落としたまま、短く頷いた。
「急すぎない? それに、あんな事があったばかりだし…」
「言おうとは思ってた。でも……うまく言えなかった」
「今まで普通に通えてたじゃない。送り迎えだって苦じゃなかったのに」
「もう、大丈夫だから」
その言葉で、母親の動きが止まった。
「日和……変わったわね…」
それは責める言葉ではなかった。
けれど、手の届かない場所へ行ってしまうものを見る目だった。
「前はもっと、何でも話してくれてたのに」
日和は答えない。
ただ、ノアの頭をそっと撫で続けた。
母親の声が少しずつ強くなる。
「ここって危ない場所なんでしょ? この前だってテロがあったってニュースで……」
「仕事だから。私にしかできないから」
「そんなの理由にならないわよ。まだ若いのに、もっと別の――」
「もう決めたの」
静かな一言だった。
だが、それ以上の会話を拒む強さがあった。
「……勝手に、そんな……」
「勝手じゃない。ずっと考えてた」
「でもお母さんにとっては急なの!」
母親の声が震える。
「そんなところに行ったら、お母さん……心配で……!」
その言葉を聞きながら、日和はテーブルの木目を見ていた。
“心配”という言葉は、一見優しい形をしている。
その時だった。
「……うるさいにゃ」
影から、黒猫のクロエが現れた。
エメラルドの瞳が母親を射抜く。
「心配だけじゃないにゃ」
「……な、何なのこの猫……!」
クロエは淡々と言った。
「日和が離れていくのが怖いんだにゃ」
部屋の空気が凍る。
母親の顔が歪む。
「そんなこと……!」
クロエはそれ以上言わなかった。
ただ、視線だけで切り落とすように見ていた。
「……お母さん」
日和がようやく顔を上げた。
その瞳に、揺れはもうなかった。
「心配してくれてるのはわかる」
母親が息を呑む。
「私は、ここにいたい」
「ここで、みんなと戦いたい」
「でも……!」
「みんながいるから」
誰かに頼りきるのではなく。
一人で抱え込むのでもなく。
その真ん中に、今の日和は立っていた。
母親は言葉を失ったまま、しばらく日和を見つめていた。
怒りではない。
理解でもない。
ただ、手の中にいたはずのものが、自分の知らない速度で遠ざかっていく現実だった。
「……時々でいいから、連絡してね」
ようやく絞り出す。
「うん」
「ご飯はちゃんと食べるのよ」
「食べる」
「……無理、しないで」
日和は少しだけ間を置いた。
そして、まっすぐ母親を見た。
「無理をする時も、あると思う」
母親の目が揺れる。
それは安心でも納得でもなかった。
ただ、“止められない”という事実だけがそこにあった。
やがて、母親は小さく笑った。
泣き笑いのような、形の崩れた笑みだった。
「……そう。ほんとに、行っちゃうのね」
それは“強くなったね”ではなかった。
ただの確認だった。
「うん。お母さん、ありがとう…」




