第37話 やさしいひと
曇り空の下、通天閣のそびえ立つ大通りに足を踏み入れた瞬間、ソラは思わず息を呑み、足を止めた。
昨日蓮たちと来たミナミの賑やかさが嘘のように、この通りは恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
人はたくさんいるのだ。
なのに、音が、生活の匂いが全くしない。
屋台の店先で膝を抱えて座り込んでいる料理人。 モニターを虚空に出したまま、彫刻のように立ち尽くしている若い女性。
ベンチに深く腰掛け、濁った目で灰色の空を見上げている老人。
全員が、まるで魂をどこかに置き忘れてきたかのような目をしていた。
「あ、あの……大丈夫ですか!?」
ソラは一番近くのベンチで、虚ろに俯いている女性に駆け寄り、その肩に手を置いた。
女性は、錆びついた機械のようにゆっくりと顔を上げ、ソラを見つめた。
「……どうせ、何をしたって、何も変わらないし」
「え……?」
「どんなに頑張っても、何の意味もない。どうせ誰も、私のことなんて分かってくれないし……」
女性の声には、怒りも、悲しみも、絶望の涙すらなかった。
ただ、完全に平坦な、凍りついた無音の世界。
「ずっと、そう思ってたの。心のどこかで、ずっと。……でも、今はもう、頑張るのもしんどいから。もう、いいかなって」
ソラはその声を聞いた瞬間、胸の奥が酷く苦しくなった。
この人は、今初めて絶望したわけじゃない。
きっとずっと前から心のどこかで
「どうせ」を積み重ねてきたんだ。
「もういいかなんて、そんなことないです……!」
ソラは必死に声を振り絞り、彼女の前に手を差し伸べた。
「まずは、安全なところに移動しましょう。立って、僕の手を掴んでください!」
女性はソラの必死な瞳をしばらく見つめた後、力なく、その手をそっと握り返した。
◇
一方、別の区画を担当していた蓮もまた、アスファルトの上に力なく座り込んでいる男性の前にしゃがみ込んでいた。
年齢は四十代ほど、スーツ姿の会社員だった。
「大丈夫ですか? ちょっとお疲れみたいですね」
蓮は、いつもの明るく、軽快なトーンで声をかけた。張り詰めた場を和ませる、いつもの彼の「笑顔」だった。
男性は、ゆっくりと濁った眼球を蓮へと向けた。
「……何が、大丈夫なんですかね」
「え?」
「仕事、頑張ってるんですよ。ずっと、死ぬ気で。でも、世界は何も変わらないし、上司も、家族も、誰も俺のことなんて見てくれない」
男性は、自分の膝をきつく抱え込み、自身の影のなかに閉じこもっていく。
「本音を言っても無駄だし。どうせ、誰にも分かってもらえない。……だったら、最初から何もしない方が、何も言わずに笑ってる方が、傷つかなくていいかなって」
――ガツン、と。
蓮の脳内で、何かが激しく衝突するような衝撃が走った。
「……そんなこと、ないですよ」
蓮は、いつものように笑顔で返した。明るく、軽く、その場をやり過ごすための言葉。
だが、目の前の男性は、まるで鏡に映った自分自身のように見えた。
「そうですかね……。でも、どうせ誰にも分かってもらえないんですよ。人間なんて、そういうもんでしょう?」
蓮の笑顔のまま、その思考が、完全に停止した。
『どうせ、わかってもらえない』
『だったら、最初から何も言わずに笑ってる方が――』
その言葉に、蓮の思考が一瞬だけ止まる。
「……そんなこと、ないですよ」
もう一度、同じ言葉を繰り返した。
けれど今度は、うまく笑えてる気がしなかった。
男性が不思議そうに蓮を見上げる。蓮は咄嗟に口元を持ち上げる
いつものえがおを、
崩れないように。
◇
通りを奔走しながら、ソラはある確信に至っていた。
倒れている人も、立ち尽くしている人も、全員が判で押したように同じ言葉を呟いているのだ。
『どうせ、言っても無駄だし』
『どうせ、誰も理解してくれないし』
『頑張ったって、何の意味もない』
怒りでもない、悲しみでもない、ただの巨大な「空っぽ(虚無)」
第二部隊を襲った前回の模造コアは、歪んだ「正義感」を増幅させて人を裁く刃に変えた。だが、今回の模造コアはその真逆――人間からすべてのエネルギーを奪い去る、最悪の『諦念の呪い』だった。
ソラは、曇り空の下に毅然とそびえ立つ通天閣を見上げた。街の象徴はいつもと同じ姿でそこにあるのに、その足元に生きる人々は、全員が遠い目をしている。
ソラの胸の中に、言いようのないザワザワとした焦燥感が広がっていく。
(助けたい……。でも、一体どうやって? 心を空っぽにされた人を、どうやって元に戻せばいいんだ……!?)
その時だった。
静まり返った通りの奥から、場違いな「声」が響いた。
「――ふふふ。あはははは!」
高笑い。
けれどそれは、狂気に満ちた叫び声ではなく、ひどく穏やかで、慈愛すら感じさせる上品な笑い声だった。
ソラが弾かれたように顔を上げると、カイがいつの間にか隣に立ち、鋭い視線を路地の奥へと向けていた。
通りの向こうから、複数の人影がゆっくりと歩いてくる。全員が漆黒のマントを身に纏っている。
彼らはコソコソと隠れる風でもなく、まるで自分の庭を散歩するかのように、堂々と街の中心部を歩いてくる。
先頭に立つマントの人間が、周囲の動けなくなった市民たちを見回し、満足そうに微笑んだ。
「ああ、素晴らしい。みなさん、とても穏やかなお顔をされている。……私はただ、みなさんの心の奥にある『真実の思い』に、少しだけ触れて差し上げただけですよ?」
ソラは怒りを宿した目で、一歩前に出た。
「お前たちが……これをやったのか!」
カイが無言でソラの手を制し、黒マントの集団を冷たく睨みつける。
黒マントの男は、不意に視線を止めた。
その目が蓮を見る。
まるで、ようやく見つけたかのように。
蓮は、笑っていた。
いつものように。
それを見た男が、ゆっくりと目を細める。
「‥ああ」
「あなたは、とてもお優しい人だ」




