第36話 通天閣
通天閣を望む賑やかな下町で、最初の異変が報告されたのは、よく晴れた朝だった。
串カツ屋の店主が、シャッターを半分だけ開けたまま、店先のパイプ椅子に座っていた。
客が声をかけても、動かない。
返事もしない。
ただ、開ききっていないシャッターを、ぼんやり見上げ続けていた。
交差点では、会社員らしき男がモニターを開いたまま停止していた。
通知音だけが、一定間隔で鳴り続けている。
そのすぐ横で、小さな子どもが転んで泣き出した。
だが、隣を歩いていた母親は、一度も振り返らなかった。
歩幅も、速度も、表情も変わらない。
まるで、泣き声そのものが聞こえていないみたいに。
一人。
また一人。
気づけば通りのあちこちで、人々が立ち止まっていた。
誰も怒鳴らない。
暴れない。
苦しみもしない。
ただ、自分が今ここにいる意味を、急に見失ってしまったように。
◇
能力管理局に緊急通報が入ったのは、昼過ぎのことだった。
「――通天閣周辺の広範囲において、市民の『集団無気力状態』が続発しています。現在、機構のシステムで確認できるだけでも三十人以上……なおも拡大中です」
師乃が迅速な手つきでモニターの情報を整理し、深刻な声を響かせる。
「症状の詳細は?」
カイがソファに深く腰掛けたまま尋ねる。
「その場への座り込み、および立ったままの硬直。共通しているのは、外部からの呼びかけに対する反応が著しく鈍麻している点です。バイタルに異常はなく、外傷も認められません」
「チッ、また模造コアか」
「おそらく。ただ、前回第二部隊を襲ったものとは、症状が『真逆』です」
シノはモニターの解析データを全員に向けた。
「前回は感情の“増幅・暴走”でしたが、今回は“抑圧・消去”――いえ、正確には『抑圧型』の侵食と考えられます。人間が心の奥底に抱えている諦め、無関心、無意味感といった『虚無の傾向』を強制的に引き出し、増幅させている可能性があります」
その言葉を聞いた蓮が、いつものように軽い足取りでソファから立ち上がった。
「あーあ、つまり……『どうせ何をやっても無駄じゃん』っていう、あの嫌な感じを限界突破させてるわけね?」
「そのように推測されます」
蓮の顔には、いつもと変わらない、人当たりの良い笑顔が浮かんでいた。
だが、その隣にいた紫苑は、小さな違和感を覚えた。
一瞬、蓮の声から、妙に温度が抜け落ちた気がした。
出動の合図がかかる直前、カイは立ち上がり、全員をぐるりと見回した。
「今回は戦闘より『救助』が最優先だ。動けなくなってる人間を安全な場所へ移送しつつ、模造コアの発生源を叩く。ソラ、日和、紫苑は民間人のカバーに回れ」
「了解!」
「――蓮」
カイが、最後に低く呼び止めた。
「うん? なに、隊長」蓮
がいつも通り振り返る。
「無理するなよ」
一瞬の静寂。蓮は、いっそ眩しいほどの笑顔を作って、あっけらかんと言った。
「何言ってんの。俺、いつも無理なんてしない省エネ主義だからさ。ね?」
カイは何も言わなかった。ただ蓮の背中を見つめていた。
蓮はもう、いつも通り笑いながら、フロアを歩き出していた。




