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Boundary  作者: 楓シロ
35/50

第35話 笑顔の温度

 夕暮れのミナミの街は、凄まじい熱気と活気に満ち溢れていた。


 オレンジ色の空の下、狭い通りには溢れんばかりの人波。立ち並ぶ屋台から漂う香ばしい匂い、派手な巨大看板、行き交う人々の笑い声。騒がしくて、混沌としていて、けれど不思議と居心地が良い。 


(変な街だな……)


 ソラは周囲を見回しながら思った。ここには、命の危険が迫る旧機械廃棄区域の面影も、規律に縛られた管理局の冷たさもない。ただ、普通の人間たちが、それぞれの呼吸で普通に生きている――そんな温かい街だった。


「何食う? なんでもいいよ」

 蓮が3人を振り返る。


「なんでもいいです!」

「それ、一番店選びに困るやつ。紫苑は?」

「……任せる」

「じゃあ、たこ焼きだな」


 蓮は迷いのない足取りで路地裏の有名な屋台へと向かった。四人で出来立てのたこ焼きを受け取り、ハフハフと息を吹きかけながら、賑やかな通りを歩く。


「紫苑さんって、普段こういう賑やかな場所に来たりするんですか?」

 ソラが、たこ焼きを口に放り込みながら尋ねた。


「……来ない」

「え、ミナミ初めて?」

「存在自体は知っていたが、プライベートで足を踏み入れたことはなかった」


紫苑は、ソースのついた爪楊枝を見つめ、少しだけ声を落とした。


「誰かと一緒に来るような機会も、今までは、なかった」


 すると、前を歩いていた蓮が、振り返りもせずに明るい声で言った。

「じゃあ、今日から『誰かと来たことがある場所』に更新されたね」 


 紫苑は、何も言い返せなかった。けれど、胸の奥がほんの少しだけ温かくなり、たこ焼きを口に運ぶ速度が少しだけ上がった。


「そういえば、蓮さんって普段、怒ることとかあるんですか?」

 ソラが思いついたように、何気ないトーンで尋ねた。

 蓮はアハハといつものように軽快に笑う。


「俺? ないない。俺、自他共に認める平和主義だからさ」

「えー。でも、平和主義と『怒らない』って、意味が違いますよね?」

「まあね。でもさ、怒ったところで誰も得しないでしょ? 疲れるだけだし」

「それって、怒るのを我慢してるってことですか?」

「細かいなぁ、ソラは」

 

蓮は、悪戯っぽくソラの顔を覗き込んだ。


「怒って眉間にシワ寄せてるより、笑ってた方が自分もみんなも楽しいじゃん?」

「本当に、一回も怒ったことないんですか?」

「ないない。怒るエネルギーがあるなら、美味しいもん食う方に使うって」


 その横顔を、紫苑は静かに見つめていた。

 蓮は笑っている。いつもの、誰もが親しみやすさを覚える完璧な笑顔だ。


 ――けれど。

 ほんの一瞬だけ、蓮の笑顔が、凍りついたように止まった。

 唇は笑ってるのに、目は笑ってない。

 ソラはその微かな変化に気づいていないようだった。

 紫苑は何も言わず、ただ、蓮の横顔を見つめ続けた。


    ◇


 アーケードを抜けた、少し薄暗い路地に入った時のことだった。

「お、ちょっと待って。お姉さん、めちゃくちゃ可愛いじゃん。これからどこ行くの?」


 行く手を塞ぐように、3人組の若い男たちが現れた。

 チャラついた服装に、酒の匂い。彼らは、後ろを歩いていた日和の端正な容姿に目をつけ、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた。


「いいじゃん、ちょっとだけでいいから、あっちで俺たちと話しようよ」


 男たちが距離を詰める。


「……結構です」

 日和は感情の乗らない声で一蹴し、ノアを抱き直した。

「そんな冷たいこと言うなよ、なぁ――」


 男の一人が、しつこく日和の華奢な腕を掴もうと、手を伸ばした。


 ――その、瞬間だった。


 バチチッ!!!

 静寂を引き裂くような、鋭い放電音が路地に響いた。


 男の手のひらに、青白い小さな稲妻が走り抜ける。

「あ痛っっっ!!!?」


 男は、まるで焼き鉄に触れたかのように悲鳴を上げて飛び退き、自分の手を強く押さえた。手のひらが赤く焼け焦げている。


「おっと、すみません。大丈夫ですか?」

 男たちの前に、すっと蓮が割って入っていた。


 笑顔だった。いつもの、人当たりの良い、優しい笑顔のままだ。

「静電気ですね。今日は乾燥してますから。いやぁ、びっくりした」


 掴まれた男が、顔を引きつらせて蓮を睨みつける。


「お前……今、何しやがった……!」

「何って、静電気ですよ?」


 蓮は首を傾げた。

 その笑顔は、何一つ変わっていなかった。声のトーンも穏やかで、親切そのものだ。


 なのに――何かが、決定的に違っていた。


 空気がピリッと痺れた。

男たちの顔から笑みが消える。


「あ、あれ。またですね」


 蓮が微笑みながら、男の一人の肩に、ぽんと軽く手を置いた。


 バチッ!!!


「ぎゃあっ!?」


 今度は、男の肩口に強烈な電撃が走り、男の身体が文字通りビクンと大きく跳ね上がった。


「本当に、今日の空気は乾燥してますね」

 

蓮は困ったように微笑み、ふわりと手を離した。


「気をつけた方がいいですよ、静電気。下手をすると、次はいきなり『心臓が止まる』かもしれないですから」


 穏やかな、けれど明確な殺意を含んだ脅迫。


 男たちは脱兎のごとく路地の向こうへと逃げ去っていった。

 蓮はフゥと息を吐き、何事もなかったかのように紫苑たちを振り返った。


「よし、行こうか」


 いつもの、朗らかなお兄さんの笑顔に戻っていた。

 日和はノアを抱きしめたまま、無言で蓮の背中を見つめている。

 そして紫苑もまた、蓮の歩き出す姿を凝視していた。


 紫苑はさっきの笑顔を思い出していた。

口調は優しかったが、少し怖かった。

 

    ◇


 帰り道、人通りが少なくなった夜の通りで、紫苑はすっと蓮の隣に並んだ。


「……さっき」

「ん? なに、紫苑」

 蓮が前を向いたまま答える。


「お前の笑顔、一瞬だけ止まっていた」

 蓮は足を止めることなく、視線だけを紫苑に向けた。


「見てたんだ」

「ソラが、お前に『怒ることはあるのか』と聞いた時だ。ほんの一瞬だけ、目が笑っていなかった」


 蓮は少しの間、沈黙した。夜風が二人の間を通り抜けていく。


「なんで笑ってるのかなーって」

「そりゃさ、怒鳴ったり怒ったりするより。笑って済むならその方が良くない?」


「笑って済む??」

「そう。俺が笑っていれば、周りのみんなも楽になるでしょ?」


 紫苑は、その言葉の意味を、胸の中で静かに咀嚼した。


「……それは、あなたが我慢してるだけでは?」


「かもね」

あっさり認められて紫苑は意外に思った。


「でも、誰かが嫌な気持ちになるなら、俺が飲み込んだ方が早いしね。」


「それであなたは平気なのですか」

「……」


「なーに本気になってんの紫苑」

蓮はケラケラ笑いながら、紫苑の方を軽くこついた。

「なーに俺に惚れてるの?」

「は?」

「そんな顔で見つめられると照れるんだけど」

「気持ち悪い冗談やめてください」

「ひどっ!?」


蓮は大袈裟に胸を抑えて笑った。


 少し後ろでは、ソラと日和がアニメの話をしながら歩いている。二人の会話は、こちらの低い声までは届いていないようだった。


「あー、今日、本当に楽しかったです!」

 ソラが後ろから駆け寄ってきて、蓮の腕に抱きついた。

「俺も!」

蓮はソラの頭をガシガシと撫で回す。

「またみんなで行こうぜ、ミナミ」

「はい!」

 日和も隣で、こくりと静かに頷き、ノアの小さな手をひらひらと振った。

 紫苑は、少しだけ後ろから、歩いていく3人の背中を見つめた。

第二部隊に在し得なかった、歪で、不揃いで、けれどどうしようもなく温かい空気。 


 紫苑はふと、足を止めた。

 頭の中に、まだ蓮のあの「笑顔の温度」が残っている。


 楽しそうなのは本物だ。けれど、それが彼のすべてではない。


 紫苑は何も言わなかった。

 ただ、胸の中に新しく灯った、そのかすかな温もりを確かめるように、再び彼らの背中を追って歩き続けた。


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