第35話 笑顔の温度
夕暮れのミナミの街は、凄まじい熱気と活気に満ち溢れていた。
オレンジ色の空の下、狭い通りには溢れんばかりの人波。立ち並ぶ屋台から漂う香ばしい匂い、派手な巨大看板、行き交う人々の笑い声。騒がしくて、混沌としていて、けれど不思議と居心地が良い。
(変な街だな……)
ソラは周囲を見回しながら思った。ここには、命の危険が迫る旧機械廃棄区域の面影も、規律に縛られた管理局の冷たさもない。ただ、普通の人間たちが、それぞれの呼吸で普通に生きている――そんな温かい街だった。
「何食う? なんでもいいよ」
蓮が3人を振り返る。
「なんでもいいです!」
「それ、一番店選びに困るやつ。紫苑は?」
「……任せる」
「じゃあ、たこ焼きだな」
蓮は迷いのない足取りで路地裏の有名な屋台へと向かった。四人で出来立てのたこ焼きを受け取り、ハフハフと息を吹きかけながら、賑やかな通りを歩く。
「紫苑さんって、普段こういう賑やかな場所に来たりするんですか?」
ソラが、たこ焼きを口に放り込みながら尋ねた。
「……来ない」
「え、ミナミ初めて?」
「存在自体は知っていたが、プライベートで足を踏み入れたことはなかった」
紫苑は、ソースのついた爪楊枝を見つめ、少しだけ声を落とした。
「誰かと一緒に来るような機会も、今までは、なかった」
すると、前を歩いていた蓮が、振り返りもせずに明るい声で言った。
「じゃあ、今日から『誰かと来たことがある場所』に更新されたね」
紫苑は、何も言い返せなかった。けれど、胸の奥がほんの少しだけ温かくなり、たこ焼きを口に運ぶ速度が少しだけ上がった。
「そういえば、蓮さんって普段、怒ることとかあるんですか?」
ソラが思いついたように、何気ないトーンで尋ねた。
蓮はアハハといつものように軽快に笑う。
「俺? ないない。俺、自他共に認める平和主義だからさ」
「えー。でも、平和主義と『怒らない』って、意味が違いますよね?」
「まあね。でもさ、怒ったところで誰も得しないでしょ? 疲れるだけだし」
「それって、怒るのを我慢してるってことですか?」
「細かいなぁ、ソラは」
蓮は、悪戯っぽくソラの顔を覗き込んだ。
「怒って眉間にシワ寄せてるより、笑ってた方が自分もみんなも楽しいじゃん?」
「本当に、一回も怒ったことないんですか?」
「ないない。怒るエネルギーがあるなら、美味しいもん食う方に使うって」
その横顔を、紫苑は静かに見つめていた。
蓮は笑っている。いつもの、誰もが親しみやすさを覚える完璧な笑顔だ。
――けれど。
ほんの一瞬だけ、蓮の笑顔が、凍りついたように止まった。
唇は笑ってるのに、目は笑ってない。
ソラはその微かな変化に気づいていないようだった。
紫苑は何も言わず、ただ、蓮の横顔を見つめ続けた。
◇
アーケードを抜けた、少し薄暗い路地に入った時のことだった。
「お、ちょっと待って。お姉さん、めちゃくちゃ可愛いじゃん。これからどこ行くの?」
行く手を塞ぐように、3人組の若い男たちが現れた。
チャラついた服装に、酒の匂い。彼らは、後ろを歩いていた日和の端正な容姿に目をつけ、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた。
「いいじゃん、ちょっとだけでいいから、あっちで俺たちと話しようよ」
男たちが距離を詰める。
「……結構です」
日和は感情の乗らない声で一蹴し、ノアを抱き直した。
「そんな冷たいこと言うなよ、なぁ――」
男の一人が、しつこく日和の華奢な腕を掴もうと、手を伸ばした。
――その、瞬間だった。
バチチッ!!!
静寂を引き裂くような、鋭い放電音が路地に響いた。
男の手のひらに、青白い小さな稲妻が走り抜ける。
「あ痛っっっ!!!?」
男は、まるで焼き鉄に触れたかのように悲鳴を上げて飛び退き、自分の手を強く押さえた。手のひらが赤く焼け焦げている。
「おっと、すみません。大丈夫ですか?」
男たちの前に、すっと蓮が割って入っていた。
笑顔だった。いつもの、人当たりの良い、優しい笑顔のままだ。
「静電気ですね。今日は乾燥してますから。いやぁ、びっくりした」
掴まれた男が、顔を引きつらせて蓮を睨みつける。
「お前……今、何しやがった……!」
「何って、静電気ですよ?」
蓮は首を傾げた。
その笑顔は、何一つ変わっていなかった。声のトーンも穏やかで、親切そのものだ。
なのに――何かが、決定的に違っていた。
空気がピリッと痺れた。
男たちの顔から笑みが消える。
「あ、あれ。またですね」
蓮が微笑みながら、男の一人の肩に、ぽんと軽く手を置いた。
バチッ!!!
「ぎゃあっ!?」
今度は、男の肩口に強烈な電撃が走り、男の身体が文字通りビクンと大きく跳ね上がった。
「本当に、今日の空気は乾燥してますね」
蓮は困ったように微笑み、ふわりと手を離した。
「気をつけた方がいいですよ、静電気。下手をすると、次はいきなり『心臓が止まる』かもしれないですから」
穏やかな、けれど明確な殺意を含んだ脅迫。
男たちは脱兎のごとく路地の向こうへと逃げ去っていった。
蓮はフゥと息を吐き、何事もなかったかのように紫苑たちを振り返った。
「よし、行こうか」
いつもの、朗らかなお兄さんの笑顔に戻っていた。
日和はノアを抱きしめたまま、無言で蓮の背中を見つめている。
そして紫苑もまた、蓮の歩き出す姿を凝視していた。
紫苑はさっきの笑顔を思い出していた。
口調は優しかったが、少し怖かった。
◇
帰り道、人通りが少なくなった夜の通りで、紫苑はすっと蓮の隣に並んだ。
「……さっき」
「ん? なに、紫苑」
蓮が前を向いたまま答える。
「お前の笑顔、一瞬だけ止まっていた」
蓮は足を止めることなく、視線だけを紫苑に向けた。
「見てたんだ」
「ソラが、お前に『怒ることはあるのか』と聞いた時だ。ほんの一瞬だけ、目が笑っていなかった」
蓮は少しの間、沈黙した。夜風が二人の間を通り抜けていく。
「なんで笑ってるのかなーって」
「そりゃさ、怒鳴ったり怒ったりするより。笑って済むならその方が良くない?」
「笑って済む??」
「そう。俺が笑っていれば、周りのみんなも楽になるでしょ?」
紫苑は、その言葉の意味を、胸の中で静かに咀嚼した。
「……それは、あなたが我慢してるだけでは?」
「かもね」
あっさり認められて紫苑は意外に思った。
「でも、誰かが嫌な気持ちになるなら、俺が飲み込んだ方が早いしね。」
「それであなたは平気なのですか」
「……」
「なーに本気になってんの紫苑」
蓮はケラケラ笑いながら、紫苑の方を軽くこついた。
「なーに俺に惚れてるの?」
「は?」
「そんな顔で見つめられると照れるんだけど」
「気持ち悪い冗談やめてください」
「ひどっ!?」
蓮は大袈裟に胸を抑えて笑った。
少し後ろでは、ソラと日和がアニメの話をしながら歩いている。二人の会話は、こちらの低い声までは届いていないようだった。
「あー、今日、本当に楽しかったです!」
ソラが後ろから駆け寄ってきて、蓮の腕に抱きついた。
「俺も!」
蓮はソラの頭をガシガシと撫で回す。
「またみんなで行こうぜ、ミナミ」
「はい!」
日和も隣で、こくりと静かに頷き、ノアの小さな手をひらひらと振った。
紫苑は、少しだけ後ろから、歩いていく3人の背中を見つめた。
第二部隊に在し得なかった、歪で、不揃いで、けれどどうしようもなく温かい空気。
紫苑はふと、足を止めた。
頭の中に、まだ蓮のあの「笑顔の温度」が残っている。
楽しそうなのは本物だ。けれど、それが彼のすべてではない。
紫苑は何も言わなかった。
ただ、胸の中に新しく灯った、そのかすかな温もりを確かめるように、再び彼らの背中を追って歩き続けた。




