第29話 選択
会議が終わり、隊長たちが廊下へと出た。
薄暗い長い廊下の端に、ぽつんと紫苑が立っていた。
もちろん会議室の中の怒号や様子など聞こえていなかったはずだ。だが、彼はひどく心配そうな顔のまま、微動だにせずそこに待ち続けていたのだ。
九条は紫苑の姿を見つめ、それから、隣を歩くカイを見た。
「カイ隊長。……少し、いいだろうか」
「ん? どうぞ」
九条は一呼吸置き、カイに向かって、深く、深く頭を下げた。
「――紫苑を、第一部隊に移籍させてほしい」
カイは驚きもせず、ただポケットに手を突っ込んだまま無言でそれを受け止めた。
九条は頭を下げたまま、絞り出すように言葉を続ける。
「私はあいつを……守っているつもりだった。だが、違ったんだ」
その厳格だった声が、微かに震える。
「私はあいつが壊れないように……完璧な型
の中に、閉じ込めることしかできていなかった」
静まり返る廊下。
夕暮れのオレンジ色の光が、窓から長く伸びている。
カイは九条から視線を外し、遠くの紫苑を見た。
「おい、ミスターかき氷。お前はどうしたい」
紫苑は息を呑み、少しだけ動揺したように目を見開いた。まさか、この場で自分の意見を求められるとは思っていなかったのだ。
彼は自分の右手を見つめ、それから九条の背中を見つめ、少しの間、考えた。
「……俺は、九条さんには、感謝しかありません」
九条がゆっくりと顔を上げる。
「今思えば、俺は『完璧にちゃんとやらなきゃいけない』ってずっと思っていました。うまくできない自分には価値がないと、勝手に思い込んで、自分を追い詰めていた。でも……九条さんが俺に教えてくれようとしていた規律は、そんな冷たいものじゃなかった。今なら、それが分かります」
九条の瞳が、激しく揺れる。
「だから、第二部隊が嫌だとか、九条さんのやり方がどうとか、そういうことではなくて」
紫苑は真っ直ぐに、カイの瞳を見据えた。
「俺は、あの第一部隊という場所に、興味があります。あそこで、自分がどこまでいけるのか……行ってみたい、と思います」
誰かに命令されたわけじゃない。父親の呪縛でも、九条の庇護でもない。
紫苑が、生まれて初めて、自分の意志で「選択」した瞬間だった。
九条の目元が、熱いもので微かに滲む。
カイはそれを見て、小さく不敵に笑うと、九条の肩をポンと叩いた。
「安心しろよ、苦情隊長」
九条の口元から、フッと微かな笑みが漏れた。自嘲気味だったが、心からの、本物の笑顔だった。
「歓迎はするさ」
カイは紫苑の首をぐいっと腕で巻き込んだ。
「行くぞ、新人。かき氷の挨拶回りだ」
「ちょっとカイさん、引っ張らないでください! あと呼び方!」
「却下。お前は今日からかき氷だ」
カイがガシガシと歩き出し、紫苑は文句を言いながらもその後ろを歩いていく。
少し歩いたところで、紫苑はふと足を止め、振り返った。
夕暮れの廊下の向こう、九条がまだそこに、ポツンと佇んでいた。
背中を丸めることもなく、ただ親のような眼差しで、こちらを見守っている。
紫苑の胸の奥に、言葉にできない熱い感情が込み上げてきた。それは、感謝や切なさや決意が混ざり合った、確かな質量を持った想いだった。
紫苑は九条の方へ真っ直ぐに向き直った。
すとん、と背筋を美しく伸ばす。
そして、第二部隊で叩き込まれた、寸分の狂いもない、完璧な、そしてどこまでも優しい敬礼をした。
(――ありがとうございました)
九条はその姿を見つめ、目元を一度きつく瞑ると、自身もきちんと居住まいを正した。
そして、紫苑の敬礼に応えるように、完璧な、そしてどこまでも優しい敬礼を返し直した。
美しい落日が、二人を静かに照らしていた。




