第137話 夜明け
夢洲の冷たいコンクリートの上で、誰もがようやく生き延びた実感を噛み締め、荒い息を整えていた。
そのとき、九条の肩にもたれていた賢者様の身体が、ふいに傾いた。
そのまま、ずるりと崩れ落ちていく。
「……あ」
ソラの瞳が、恐怖に大きく見開かれる。
倒れて行く賢者様の衣服の裾から、どくどくと、黒い血が地面に流れ落ちていた。
最深部で久世の空間能力を真っ向から切り伏せ、マザーの崩壊から逃げ延びる中で、怪我を負ったのだろう。
老兵の肉体はとうに限界を超えていたのだ。みんなを動揺させないよう、外に出るまでその激痛を一人で耐え忍んでいたに違いない。
「賢者様……っ!?」
ソラの悲鳴のような声に、全員が一斉に駆け寄った。
「クソっ、 今すぐ凍らせる!」
紫苑が慌てて手をかざし、師乃の時と同じように冷気で止血しようとした。
しかし、その紫苑の震える手を、賢者様は残った左手で優しく、静かに制した。
もう、その手には冷気の痛みに抗う力さえ残っていなかった。けれど、老人の顔には不思議なほど苦悶の色はなく、ただ穏やかな笑みが浮かんでいた。
「よい……よい。もう、十分じゃ」
賢者様は掠れた声で、集まったみんなの顔を一人ずつ、愛おしそうに見つめた。
「みんな……ようやったのう」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
賢者様は、みんなの顔をもう一度ゆっくりと見渡した。
その視線が、蓮の隣にいる師乃のところで止まった。
「師乃……もう、大丈夫じゃ。お主はもう、何にも縛られんでええ……」
「……賢者、様……」
師乃の瞳から、大粒の涙が溢れ、血に染まった地面へと落ちていく。
賢者様の呼吸が、一段と浅くなっていく。
ずっと隣でその身体を支えていた九条が、眼鏡の奥の瞳を潤わせながら、きゅっと老人の手を握りしめた。ソラは涙で視界を滲ませながら、ただ祈るようにその姿を見守るしかなかった。
これ以上ないほどに穏やかな、引き締まった横顔。
老兵が遺す、最後の言葉は、あまりにも静かだった。
「……もう、これでええ」
賢者様は、静かに目を細めた。
すべてをやり遂げた。
大切なものは、すべて次の世代へと託した。
その表情は、まるでそう語っているかのようだった。
水平線の向こうから、眩い朝日の最初の一筋が差し込み、夢洲の崩壊跡を、そして寄り添う一同の姿を真っ白に照らし出した。
その光の中で
老兵の浅い呼吸が、ふっと途切れた。
静かに。本当に静かにーーー
九条が握りしめていたその手から、ゆっくりと力が抜けていく。
それでも誰も、すぐには気づけなかった。
ただ、そこに“もう声が返ってこない”ことだけが、静かに遅れて理解されていった。
朝は、ただ何事もなかったかのように、世界を美しく照らしながら昇っていた。




