第136話 脱出
天井が、また割れた。
上から一筋の光が真っ直ぐに降ってきた。
ソラは崩落する壁に必死に張り付いたまま、上を仰ぎ見た。
ぽっかりと、大きな穴が開いていた。
暗黒の最深部に開いた、上の階へと繋がる大きな穴。
そこから、見慣れた顔が勢いよく飛び出してきた。
「いたーーーーっ!!」
モモだった。
穴の縁から身を乗り出すようにして、モモが顔を出していた。
頬に煤をつけながらも、それは弾けるような満面の笑みだった。
「モモさん……!」
ソラは枯れた声を絞り出して叫んだ。
「生きてた!!!よかったあ!」
「なんで、上から……っ」
「だって一番早いじゃない!」
穴からもう一人の影がのぞいた。
「!」
九条だった。
眼鏡の奥の鋭い目を走らせ、即座に状況を把握する。
「無事ですか、ソラ」
「はい……無事です!」
「賢者様は」
ソラがハッとして振り返った。
さっきまで道を塞いでいた瓦礫が、次々と天井の穴へ吸い上げられていく。
その向こうに、賢者様の姿があった。
賢者様は、静かに崩壊していくマザーの本体の前に、ぽつんと座り込んでいた。
百年の城の、終わりが始まっていた。
壁の奥から、無数のケーブルが光の粒子となって次々と消滅していく。
エリアを満たしていた青白い光が、急速に落ちていく。
「賢者様!」
ソラが叫ぶのと同時に、九条の身体が動いた。
穴から飛び降り、能力のガンで瓦礫を破壊しながら、乱れる足元をものともせず、九条は一瞬で賢者様の元へと駆け寄る。
「行きましょう、賢者様」
九条がその細い腕を伸ばす。
しかし、老人は動かなかった。
「…ここで終わるのも、また縁じゃ。」
「あなたを失うわけにはいかない」
九条は声を荒らげることなく、しかし拒絶を許さない強さで告げた。
賢者様が、ゆっくりと九条を見た。
「……お主、相変わらず頑固じゃな」
「あなたにだけは言われたくありません」
九条は賢者様の腕を引き、自分の肩に担ぎ上げた。
賢者様は逆らうのをやめ、一度だけ、消えゆくマザーの最後の光を見つめた。
その手には、もうあの刀はなかった。
ただ、百年の終わりを告げる光が、ゆっくりと収束していくところだった。
「……さらばじゃ」
小さく、それだけを呟いた。
老兵は未練をすべて振り切るように、背中を見せた。
頭上の穴から、モモが必死に腕を伸ばしている。
「早く! ここも完全に崩れてくるわよ!」
御影が先に壁を蹴って上がった。
満身創痍の紫苑がそれに続いた。
九条が賢者様の身体を懸命に支えながら、モモの手へと引き継ぐ。
ソラが最後だった。迫り来る暗闇から逃れるようにジャンプし、モモの右手を掴んだ。
グイッ、と強い力で引き上げられた。
上がった先は、上層の廊下だった。
だが、ここも安全ではなかった。天井がひび割れてベースごと崩れ落ち、足元の床が派手に割れていく。
「走って!!」
モモの叫び声を合図に、全員が狂ったように走り出した。
背後から、凄まじい地鳴りと共に崩壊が追いかけてくる。
天井のケーブルが鞭のように落ち、壁が砂のように崩れていく。
百年間、この地下を照らし続けていた人工の光が、ドミノ倒しのように一つずつ、冷徹に消えていった。
背後から迫る崩壊に追いつかれまいと、猛スピードで角を曲がった、その時だった。
「ソラッ!?」
前方の闇から、聞き慣れた声が響いた。
蓮だった。
廊下の向こうから、蓮が凄まじい勢いで走ってくる。その隣には日和の姿もあった。
だが、走る蓮の腕の中には、もう一人の身体がしっかりと抱えられていた。
「師乃さん……!?」
師乃だった。
意識ははっきりとあった。でも、自分の足で立てる状態ではない。
師乃の衣服には血が滲み、傷口の周囲にはまだ薄い氷が残っていた。
蓮に全体重を支えられながら、必死に呼吸を繋いでいた。
「途中で拾った!」
並走しながら、蓮が短く叫ぶ。完全に息が切れていた。
「色々あったけど説明は後だ! 今はとにかく走るぞ!」
「師乃さんは、大丈夫なんですか……っ」
「後だって! 説明してたら死ぬぞ!」
誰もが限界を超えた足で、ただ前だけを見て走った。
背後の崩壊が、さらに速度を増して追いかけてくる。
すぐ後ろの床が完全に割れ、底なしの暗黒へと消えていく。
「──左!」
蓮の腕の中から、師乃が鋭い声を上げた。
「全員、左に曲がれ!」
師乃の声を受け、九条が叫んだ。
全員が全速力のまま左の通路へと滑り込む。
「なんで師乃が指示してんだよっ」
走りながら蓮が毒突いた。
「──こっちが出口だ。間違いない」
「チッ……信じていいんだな!?」
「信じなくてもいい。でも、こっちが出口だ」
蓮は盛大に舌打ちをした。
けれど、その足を緩めることなく、師乃の指し示す左の最奥へと突き進む。
師乃の言葉に、嘘はなかった。
暗闇の向こうに、外の世界へと繋がる風の匂いを感じた。出口のゲートだ。
「あそこだ! 出られるぞ!」
御影が叫んだ。 全員が最後の力を振り絞り、一気に加速する。
だが、ゲートの手前で、床がバラバラと音を立てて完全に割れ落ちた。
外へと続く道が、一瞬で断絶する。
「お前ら、止まるな!!」
紫苑が前に躍り出ると同時に、残る全冷気を前方の虚空へと解き放った。
パリパリパリィィィンッ!!!
「橋にした! 踏み抜く前に渡れ!!」
奈落の上に、強固で美しい氷の架け橋が出現する。
全員がその氷の橋を、文字通り滑るようにして次々と駆け渡っていく。
最後尾はモモだった。
「渡り終えたわよっ!」
紫苑は最後尾のモモがゲート側に飛び移り、全員が渡り切ったのを確認すると、凍結の維持を手放した。
背後で、氷の橋が自重に耐えかねて派手に崩落していく。
足元は完全に巨大な陥没穴となったが、誰も落ちてはいない。全員が、出口のゲートを潜り抜けていた。
──視界が、一気に開けた。
冷たい、本物の夜の空気が肌を刺した。
目の前に広がっていたのは、見慣れた大阪湾の景色だった。
ソラたちは、夢洲の地面へと、もつれ込むようにして次々と転がった。
ドサドサと、全員が地面に倒れ伏す。
誰も立ち上がれなかった。ただ、肺が破れそうなほど激しく、夜の冷たい空気を何度も何度も吸い込んだ。
背後で、轟音が響いた。
百年の歴史を内包していたあの巨大な建造物が、自重で完全に崩落していく。
最後の光が失われ、粉塵が夜空へと舞い上がっていく。
百年間、動かし続けていた巨大な心臓が、今、完全に停止した。
やがて、辺りは深い静寂に包まれた。
全員が、ただ無言でその崩壊の跡を見つめていた。
しばらくの間、誰も、何も言葉を発することができなかった。
ただ、荒い息の音だけが響いている。
生きていた。
ボロボロで、傷だらけで、全員が、生きてここにいた。
蓮が、抱えていた師乃をゆっくりと地面に座らせた。
師乃は、少しだけ、気まずそうに蓮を見上げた。
「……蓮」
「後で話す」
蓮は師乃の言葉を遮るように言った。
「今は黙ってろ。傷に響く」
「……わかった」
ソラが、横たわる師乃を見つめた。
師乃はソラの視線に気づくと、ハッとしたように、気まずそうにパッと目を逸らした。
ソラは何も言わなかった。というより、今は何も言えなかった。
聞きたいこと、伝えるべきこと、感謝も、謝罪も、多すぎて、何一つ言葉にならなかった。
少し離れたところでは、日和が、疲れ果てた身体で大切な相棒たちをすべてその腕に抱えていた。
傷だらけになったノアを。
外装が崩れかけたクロエを。
羽の折れてしまったアウルを。
誰一人、どの相棒も置いていくことなく、全部その胸にしっかりと抱きしめていた。
モモが、ゆっくりと空を仰いだ。
「終わったわね……」
「ええ……終わりましたね」
九条が眼鏡を押し上げながら、静かに、しかし確かな実感を込めて応じた。
賢者様は、九条にささえられながら、夢洲の地面に腰を下ろした。
完全に光の消えた建物の残骸を、ただじっと見つめ続けていた。
その胸中に去来する想いは、誰にもわからない。
老人は、何も語らなかった。
ソラは、そんな賢者様の横顔を見た。
その腰に、あの刀はなかった。
カイの形見であった、あの刀は、あの最深部に置いてきたのだ。
ソラは、ゆっくりと顔を上げて空を見上げた。
長かった夜が、今、明けようとしていた。
東の空の端が、少しずつ、しかし確実に、綺麗な白へと染まり始めていた。




