第114話 ソラと賢者
ソラの部屋は、昨夜からずっと暗いままだった。
電気もつけず、ソラはベッドの横の床に直接座り込み、冷たい壁に背中を預けていた。
すぐ脇には、あの黒いカイの刀が立てかけられている。
じわじわと、手のひらがまた熱を帯び始めていた。
だが、今はただ熱いだけではなかった。
周囲にある空間のすべてを、内側へ、内側へと引き寄せようとする、悍ましい「引力」のような感覚。
ふと見ると、部屋の床に落ちていた微細な埃や髪の毛が、まるで磁石に吸い寄せられるように、ゆっくりとソラの足元に向かって滑り動いていた。
視線を向けた壁の染みさえもが、空間ごと歪んで引き伸ばされているように見える。
ソラは恐怖に駆られ、両手を強く握りしめた。
――動きが、止まる。
だが、恐る恐るまた手を開くと、濁流のような引力が再び部屋の中に満ち始める。
「止まれ……」
ソラは自分の手のひらに向かって、言い聞かせるように呟いた。だが、止まらない。
「止まってくれ……っ」
懇願しても、皮膚の裏側で渦巻く「何か」は、ソラの制御を無視して世界を吸い込もうとする。
ソラは額を床につけたまま、顔を上げることもできなかった。
「入るぞ」
静かに扉が開き、コツン、コツンと、聞き覚えのある古びた杖の音が暗闇の部屋に響く。
賢者様だった。
彼はゆっくりとソラの目の前まで歩み進めると、年齢を感じさせない穏やかな動作で、そのままソラと同じように床へと腰を下ろした。
視線の高さが、ソラと同じになる。
「ソラ」
「近づかないでください……っ」
ソラは顔を伏せたまま、声を絞り出した。
「能力が……うまく、制御できてないんです。全部を吸い込んじゃう。危ないですから……離れてください」
「知っておるよ」
「だったら、なおさらです!」
「儂なら大丈夫じゃ」
賢者様は遮るように優しく言い、ソラの握りしめられた両手を見つめた。そこからはまだ、目に見えない歪んだ熱が放射されている。
「お前は、この世界のすべてを、一人で受け取ろうとしておるのか?」
ソラは、ようやくゆっくりと顔を上げた。涙で潤んだ瞳で、賢者様を見る。
「全部、って……」
「今、お前の元へ流れ込もうとしている力。そして起きてしまった悲劇。それらすべてを、自分の器に受け取ろうとしておるじゃろ」
「止めようとしてるんです! 暴走するのを防ぎたくて……でも、止まらなくて」
「力を止めようとしておるのに、なぜ全部を受け取っておる?」
「え……?」
「入ってくるものを、全部お前の中に置いておく必要があるのか?」
ソラは、言葉を失って黙り込んだ。
「止めようともがきながら、お前はその小さな背中に全部を背負っておる」
賢者様は、諭すように静かに言葉を重ねる。
「カイのこと。師乃のこと。奪われたコアのこと。崩れ始めた世界でさえ――それらすべてを、自分が先回りして止めなければならなかったと、そう思っておるじゃろ」
ソラは何も言えなかった。
「……お主、自分に世界でも背負わせる気かの」
「……だって、僕がもっと早く気づいていれば、こんなことには……!」
「なぜ、お前が気づかなければならなかった?」
「それは……!」
「なぜ、お前が止めなければならなかったのじゃ?」
ソラの思考が、ぴたりと停止した。
「ソラよ。お前が今、罪悪感という名の重荷にして背負っておるもののほとんどは、お前のものではない」
賢者様の目が、暗闇の中で深く、穏やかに光る。
「カイはお前に背負えと言ったか?師乃は止めろと頼んだか?」
ソラは言葉を失った。
「違うじゃろ」
「あやつらはあやつらの足で歩いたのじゃ」
「でも……! それでも僕は……!」
「『でも』、はもう十分聞こえておる」
賢者様は微かに微笑んだ。
「お前がそうやって傷つき、悔やむのは、お前が優しいからじゃ。それはよく分かる。だが、よく考えてみろ。今お前が抱えているもののうち、本当にお前の内から生まれたものが、一体いくつある?」
ソラは、答えられなかった。
カイさんの消失。師乃さんの裏切り。制御できない能力。崩壊していく世界。
ソラは今まで、
自分の手の届かないものまで、
無理やり胸の中へ引きずり込もうとしていた。
「すべて、お前のものか?」
「……全部じゃ、ない、かもしれないです……」
「そうじゃ」
「でも……だからって、放っておくなんて、そんなこと出来ません!」
「誰も放っておけとは言っておらん」
賢者様は杖をコツンと鳴らし、ソラの目を真っ直ぐに見据えた。
「儂はな、ソラ。――『選べ』と言っておるんじゃ」
「選ぶ……?」
「何もかも受け取ろうとする心が、その力にも表れておるだけじゃ」
「選ぶって……どうやって……? この力は勝手に流れてくるのに」
「今お前に来ているその力を見るのじゃ」
賢者様がソラの手を指し示す。
「何もかもを無差別に受け取る必要はない。お前に押し寄せる無数のエネルギーのうち、どれを受け取り、どれを拒絶するか。その主導権は、他でもないお前自身にあるんじゃよ」
ソラは、自分の手のひらを見つめた。
皮膚の裏側で、また引力が膨らみかけている。周囲の空気が、熱が、埃が、また自分の中へ入ろうと押し寄せてくる。
けれど。
「選ぶの……ですか」
「お前の力じゃ。お前が選んで、お前が行動なさい」
「……全部じゃなくても?」
「そうじゃよ」
ソラは少し黙った。
「……本当に、いいんでしょうか」
「うむ。お前はそういう子じゃ」
賢者様は、泣きそうな顔をしているソラを見つめ、静かに続けた。
「お前は、放っておけんのじゃろう。誰かが苦しんでおれば、自分が抱えようとしてしまう。
じゃからこそ、“手を差し伸べる”ことと“背負い込む”を履き違えるな」
ソラは静かに目を閉じた。
意識を委ねてみる。
すると、濁流のようだった力の中に、初めて無数の糸が見えた。
全部を、受け取らなくていい。
選ぶことは、見捨てることでも、逃げることでもない。
ソラは、ゆっくりと両手を開いた。
すぐ側で、カイの刀がソラの引力に引かれてカタカタと揺れ動こうとする。ソラは意識の力で、その糸を受け取らずに手放した。
――刀は、止まった。
床の埃が、壁の染みが、歪もうとする。ソラはそれらの糸も、すべて手放した。
だが、その濁流の中に、一つだけ。
どうしても放したくない、温かで、どこか懐かしい「意志の残滓」のようなエネルギーを見つけた。
ソラは、それだけを、そっと手のひらで受け取った。
――フゥッ、と。
部屋の空気が、劇的に一変した。
さっきまで部屋中を狂暴に満たしていた悍ましい引力が、嘘のように霧散していく。床の埃はピタリと静止し、壁の染みも元の形を取り戻した。
ソラがそっと手を握る。
手のひらは確かに温かかった。けれど、もう暴れてはいない。まるで凪いだ海のように、静かに、優しく、ソラの体内に収まっている。
「……落ち着いた」
ソラが、驚きに目を見開いた。
「そうじゃ」
賢者様が満足そうに頷く。
「僕が……選んだから」
「そうじゃ。お前が、選び取った証拠じゃよ」
ソラは自分の両手を何度も確かめるように見つめた。
「全部じゃなくていいんだ……」
「全部を背負う必要など、最初からない。だがな、ソラ」
賢者様はゆっくりと立ち上がり、ソラを見下ろした。
「自分で選んだことのために、覚悟を持って動くことはできるじゃろ」
「僕が選んで……覚悟を持って、動く」
「そうじゃ」
ソラは、その言葉を胸の中でもう一度繰り返した。
怖さは、まだ消えていない。
それでも。
ソラは、力強く床を踏みしめて立ち上がった。
先ほどまでの身体の重さは消え去り、芯が一本通ったような確かな感覚が宿っている。
ベッドの脇に立てかけてあったカイの刀を手に取る。今度は、刀が勝手に引き寄せられたのではない。ソラが自らの意思で「選んで」、その柄を握りしめたのだ。
「行きなさい」
賢者様が優しく、ソラの背を促すように言った。
「みんなが会議室で、お前を待っておる」
「はい」
ソラが扉へと歩み出そうとした、その時だった。
賢者様がふと、ソラの抱える黒い刀へと視線を落とし、静かに手を伸ばした。
「ソラよ。そのカイの刀、少し儂に預けさせてはくれんか」
「え……?」
ソラは足を止め、驚いて賢者様を振り返った。
「でも、これはカイさんの……。それに、この刀は確か『人を選ぶ剣』だって、カイさんが以前言っていました。力のない人間が鞘から刀を抜くと、精神や命を吸い尽くされてしまうって……。賢者様、いくらなんでも危ないです!」
ソラの本気の心配を前に、賢者様はフハハ、と低く愉快そうに笑った。
「大丈夫じゃよ。ほれ」
賢者様は迷いのない手つきで、ソラの手から刀を受け取ると、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
キィン――。
鋭い金属音が響く。
だが、賢者様が柄を握る手に力を込めると、刃は一転して、静まり返った。
「……すごい」
ソラは息を呑んだ。
「カイの奴め、手入れだけは怠っておらんかったようじゃな。この刀の意志は、しばらく儂が引き受けておいてやろう。お前は今、その身一つで、己の選んだ道へ全力で走りなさい」
「……はい! ありがとうございます!」
ソラは深く一礼すると、今度こそ迷いのない足取りで部屋の扉を開け放った。
朝の光が眩しく差し込む廊下へと、一歩を踏み出す。
何が正しいのかは、まだわからない。
カイがどこにいるのかも、師乃がなぜ去ったのかも。
それでも自分で選んだ一歩だった。




