第112話 談話室
本部ビルの談話室は、凍りついたように静まり返っていた。
これまでのどんな過酷な任務のあとも、ここには微かな救いや会話があった。なのに今は、異様なほどの沈黙が部屋の空気を重く支配している。
蓮はソファに深く腰を沈めたまま、ただじっと前を向いていた。
だが、その視線は焦点が合っておらず、虚空の何かを睨みつけているかのようだった。
窓際に立つ日和は、ノアを胸元に強く抱きかかえている。
彼女の影から、いつもなら出てくる「クロエ」も「アウル」も、今はその気配を完全に潜めていた。
紫苑は冷たい壁に深く背を預け、腕を組んだまま、きつく目を閉じている。
その隣のソファには、いつもなら真っ先に軽口を叩くはずのモモが、九条のすぐ隣に静かに腰掛けていた。彼女が九条にこれほど寄り添うように座るなど、平時なら有り得ない光景だった。
誰も、言葉を発さなかった。
その沈黙の中で、紫苑が低く口を開いた。
「……カイさんが消えた時の、あの光」
全員の視線が紫苑へ向く。
「あれは師乃の能力だった」
蓮の視線が揺れる。
「……間違いないのか?」
「ああ。俺もあの場で見た」
蓮はしばらく黙った。
「……なんで」
九条が重く首を振った。その顔には、深い疲弊と苦渋が刻まれている。
「わかりません。私も今日、咲洲の現場ログを確認するまで、師乃隊員が関わっていたとは思っていませんでした」
「……何か、おかしなところはなかったのかよ」
「ありません。少なくとも、それまでに不審な動きを示す記録は一切残されていません」
「気づかなかったて事かよ」
「……ええ。少なくとも私は、気づけなかった」
その場に沈黙が流れる。
「もう一つ言っておかなければならないことがある」
九条が、ゆっくりと口を開く。
「師乃は……久世の実の息子だ」
「……え」
紫苑の声は、ほとんど呼吸のようだった。
「じゃあ……最初から……」
そこまで言って、言葉が止まる
「わかりません」
九条は同じ言葉を繰り返した。
「師乃の母親は、久世が望んでいた『時間系能力を持つ子』を産めなかった。それが原因で離婚したと聞いています」
九条は一度、言葉を切った。
「師乃自身も、久世とはずっと絶縁状態だったはずです」
「なら、なぜっ」
「……わかるのは、彼は最後、自分の足で久世の元へ行った事だけだ」
談話室の空気が、さらに一段と冷たく沈み込む。
俯いた蓮から、震えるような声が漏れた。
「なんでだよ……。師乃さんが、なんでそんなことするんだよ……」
「……何か、あったんじゃないか」
紫苑が床を見つめたまま、呟く。
「何かってなんだよ!」
蓮が顔を上げた。
「俺たち、ずっと一緒にいただろ……! ずっと、同じ飯食って、同じ戦場を潜り抜けてきたのに……それでも、俺たちには何も言えなかったのかよ!」
パチチッ……!
蓮の感情の昂りに呼応するように、彼の手のひらから紫色の小さなプラズマの火花が漏れ、爆ぜた。本人は、それ自体の暴走にすら気づいていない。
「……じゃあ、久世はどうなんだよ」
誰も答えを返さない。蓮は低い声で続けた。
「政府の、機構を統括する側のトップの一人だろ。なんであいつが、旧AIコアを起動させてるんだよ!」
「それは……わかりません」
九条の答えに、蓮が苛立ったように奥歯を噛んだ。
「わからないって……機構のトップは何やってたんだよ!」
九条はすぐには答えなかった。
「……諜報は、動いていました」
「え?」
「御影が、以前から久世について調べていたようです」
「御影さんが?」
「ええ。何かを掴みかけていた。ただ、疑いを確信に変えるだけの証拠は得られていなかったようです」
しばらく沈黙が落ちた。
「……カイさんは、久世のことに気づいてたんじゃないか」
紫苑が壁に背を預けたまま言った。
「だから一人で久世を追った」
「おそらくは」
九条が静かに答える。
「なのに……」
蓮の言葉が、途中で激しく震えた。
「なのに、なんでカイさんが消えなきゃいけないんだよ!」
俯いていた顔を上げ、九条を見る。
「……死んだのか?」
九条は答えない。
「おい……死んだのかよ、カイさんは」
再び、誰も答えることができなかった。死を肯定することも、無事を祈ることも、今の彼らには等しく残酷だった。
静寂を破り、九条が消え入りそうな声で言った。
「現場には、あの男が片時も離さなかった愛刀だけが遺されていた。いま確かなことは、それだけです」
蓮はそれ以上言葉を続けられず、両手で乱暴に顔を覆った。
日和はノアをさらに強く抱きしめた。
紫苑は目を伏せたまま、動かなかった。
ーー長い沈黙が落ちた。
やがて九条が、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……始末書」
「あれだけ壊したんだ。本人に書かせるつもりだったのに‥‥」
モモはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……これからは、何か壊してもカイのせいにできないわね」
その言葉にも、誰も何も返さなかった。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえた。
誰も帰ろうとはしなかった。
何を話すでもなく、ただそれぞれが同じ場所に残っていた。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、モモが窓の外へ視線を向けた。
「……夢洲。あれ、まだ止まってないのね。」
「ええ」
九条が頷く。
「六つ目のサテライトが起動したことで、あの人工島に眠っていたシステムが強制起動したと思われます」
「何が起動したの? あそこに何があるっていうのよ」
「……まだ、判明していません」
また、重い静寂が降り積もる。
紫苑が壁から完全に背中を離し、前へと歩み出た。
「……最悪の状況だな」
紫苑は九条の目をまっすぐに見据えた。
「俺たちは、次にどうすればいい?」
「どうすれば、まだ間に合うんだ?」
九条は少しの間を置き、集まったメンバーを一人一人見つめてから、静かに告げた。
「今夜は、とにかく休んでください」
「休めるわけないだろ!」
蓮が顔から手を引き剥がし、声を荒らげた。
「それでも、休むのです」
九条の声には、有無を言わせぬ組織の長としての重みがあった。
「今の状態で動いても、判断を誤るだけです。明日、全ての情報を精査して、次の方針を伝えます。……今は眠りなさい」
蓮はきつく奥歯を噛み締めた。これ以上の反論は無意味だと分かっているのか、彼はそれ以上何も言わなかった。
談話室の大きなガラス窓の向こう。
はるか遠く、真っ黒な大阪湾の対岸で、夢洲の人工的な光の群れが、薄く、しかし不気味なほどに確かな輝きを放ちながら、夜の闇をじわじわと侵食していた。




