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Boundary  作者: 楓シロ
112/140

第112話 談話室

 本部ビルの談話室は、凍りついたように静まり返っていた。


 これまでのどんな過酷な任務のあとも、ここには微かな救いや会話があった。なのに今は、異様なほどの沈黙が部屋の空気を重く支配している。


 蓮はソファに深く腰を沈めたまま、ただじっと前を向いていた。

 だが、その視線は焦点が合っておらず、虚空の何かを睨みつけているかのようだった。


 窓際に立つ日和は、ノアを胸元に強く抱きかかえている。

 彼女の影から、いつもなら出てくる「クロエ」も「アウル」も、今はその気配を完全に潜めていた。


 紫苑は冷たい壁に深く背を預け、腕を組んだまま、きつく目を閉じている。


 その隣のソファには、いつもなら真っ先に軽口を叩くはずのモモが、九条のすぐ隣に静かに腰掛けていた。彼女が九条にこれほど寄り添うように座るなど、平時なら有り得ない光景だった。


 誰も、言葉を発さなかった。

 その沈黙の中で、紫苑が低く口を開いた。


「……カイさんが消えた時の、あの光」

 全員の視線が紫苑へ向く。


「あれは師乃の能力だった」


 蓮の視線が揺れる。

「……間違いないのか?」


「ああ。俺もあの場で見た」


 蓮はしばらく黙った。


「……なんで」


 九条が重く首を振った。その顔には、深い疲弊と苦渋が刻まれている。


「わかりません。私も今日、咲洲の現場ログを確認するまで、師乃隊員が関わっていたとは思っていませんでした」


「……何か、おかしなところはなかったのかよ」


「ありません。少なくとも、それまでに不審な動きを示す記録は一切残されていません」


「気づかなかったて事かよ」


「……ええ。少なくとも私は、気づけなかった」



その場に沈黙が流れる。



「もう一つ言っておかなければならないことがある」

 

 九条が、ゆっくりと口を開く。


「師乃は……久世の実の息子だ」


「……え」

 紫苑の声は、ほとんど呼吸のようだった。


「じゃあ……最初から……」


 そこまで言って、言葉が止まる


「わかりません」

 九条は同じ言葉を繰り返した。


「師乃の母親は、久世が望んでいた『時間系能力を持つ子』を産めなかった。それが原因で離婚したと聞いています」


 九条は一度、言葉を切った。


「師乃自身も、久世とはずっと絶縁状態だったはずです」


「なら、なぜっ」


「……わかるのは、彼は最後、自分の足で久世の元へ行った事だけだ」


 談話室の空気が、さらに一段と冷たく沈み込む。


 俯いた蓮から、震えるような声が漏れた。


「なんでだよ……。師乃さんが、なんでそんなことするんだよ……」


「……何か、あったんじゃないか」

 紫苑が床を見つめたまま、呟く。


「何かってなんだよ!」

 蓮が顔を上げた。


「俺たち、ずっと一緒にいただろ……! ずっと、同じ飯食って、同じ戦場を潜り抜けてきたのに……それでも、俺たちには何も言えなかったのかよ!」


 パチチッ……!


 蓮の感情の昂りに呼応するように、彼の手のひらから紫色の小さなプラズマの火花が漏れ、爆ぜた。本人は、それ自体の暴走にすら気づいていない。


「……じゃあ、久世はどうなんだよ」


 誰も答えを返さない。蓮は低い声で続けた。


「政府の、機構を統括する側のトップの一人だろ。なんであいつが、旧AIコアを起動させてるんだよ!」


「それは……わかりません」


 九条の答えに、蓮が苛立ったように奥歯を噛んだ。


「わからないって……機構のトップは何やってたんだよ!」


 九条はすぐには答えなかった。


「……諜報は、動いていました」


「え?」


「御影が、以前から久世について調べていたようです」


「御影さんが?」


「ええ。何かを掴みかけていた。ただ、疑いを確信に変えるだけの証拠は得られていなかったようです」


しばらく沈黙が落ちた。


「……カイさんは、久世のことに気づいてたんじゃないか」


 紫苑が壁に背を預けたまま言った。


「だから一人で久世を追った」


「おそらくは」

 九条が静かに答える。


「なのに……」

 蓮の言葉が、途中で激しく震えた。


「なのに、なんでカイさんが消えなきゃいけないんだよ!」


 俯いていた顔を上げ、九条を見る。


「……死んだのか?」


 九条は答えない。


「おい……死んだのかよ、カイさんは」


 再び、誰も答えることができなかった。死を肯定することも、無事を祈ることも、今の彼らには等しく残酷だった。


 静寂を破り、九条が消え入りそうな声で言った。


「現場には、あの男が片時も離さなかった愛刀だけが遺されていた。いま確かなことは、それだけです」


 蓮はそれ以上言葉を続けられず、両手で乱暴に顔を覆った。


 日和はノアをさらに強く抱きしめた。

 紫苑は目を伏せたまま、動かなかった。



 ーー長い沈黙が落ちた。



 やがて九条が、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……始末書」


「あれだけ壊したんだ。本人に書かせるつもりだったのに‥‥」


 モモはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐く。


「……これからは、何か壊してもカイのせいにできないわね」


 その言葉にも、誰も何も返さなかった。


 時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえた。


 誰も帰ろうとはしなかった。

 何を話すでもなく、ただそれぞれが同じ場所に残っていた。


 どれくらい、そうしていただろう。

 

 ふと、モモが窓の外へ視線を向けた。


「……夢洲。あれ、まだ止まってないのね。」


「ええ」

 九条が頷く。

「六つ目のサテライトが起動したことで、あの人工島に眠っていたシステムが強制起動したと思われます」


「何が起動したの? あそこに何があるっていうのよ」


「……まだ、判明していません」


 また、重い静寂が降り積もる。


 紫苑が壁から完全に背中を離し、前へと歩み出た。


「……最悪の状況だな」


 紫苑は九条の目をまっすぐに見据えた。


「俺たちは、次にどうすればいい?」

「どうすれば、まだ間に合うんだ?」


 九条は少しの間を置き、集まったメンバーを一人一人見つめてから、静かに告げた。


「今夜は、とにかく休んでください」


「休めるわけないだろ!」

 蓮が顔から手を引き剥がし、声を荒らげた。


「それでも、休むのです」

 九条の声には、有無を言わせぬ組織の長としての重みがあった。

「今の状態で動いても、判断を誤るだけです。明日、全ての情報を精査して、次の方針を伝えます。……今は眠りなさい」


 蓮はきつく奥歯を噛み締めた。これ以上の反論は無意味だと分かっているのか、彼はそれ以上何も言わなかった。


 談話室の大きなガラス窓の向こう。

 はるか遠く、真っ黒な大阪湾の対岸で、夢洲の人工的な光の群れが、薄く、しかし不気味なほどに確かな輝きを放ちながら、夜の闇をじわじわと侵食していた。

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