第107話 去る背中
久世が師乃を見た。
それは当然のように。まるで最初からそう決まっていた手順を、ただ淡々とこなすかのような冷徹な視線だった。
「行くぞ」
久世が踵を返したのと同時だった。
師乃の身体が、すうっと動いた。迷いのない足取りで、久世の背中を追うように歩き出す。
ソラは、その光景をただ見つめていた。
最初は、頭が理解を拒んでいた。師乃さんが脅されて、無理やり連れて行かれようとしている――そう思いたかった。
だから、喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。
「師乃さん……!!」
その声に、師乃の足が止まった。ほんの僅かだった。
歩みかけていた右足が、中途半端な位置で静止する。
だが、師乃は最後までこちらを見なかった。
「師乃さん、こっちです……! ここにいてください……!」
ソラの必死の懇願も、暗い制御室の空気に虚しく吸い込まれていく。
師乃はそれ以上動かず、久世の斜め後ろに並んだまま、彫刻のように固まっていた。
「師乃さんを……離してください……」
ソラは久世を睨みつけ、震える声で告げた。「離せ」という強い拒絶の言葉ではなかった。「離してください」という、懇願。
まだ、信じたかったのだ。師乃さんは久世の能力や言葉に縛られているだけの被害者で、自分たちの味方なのだと、そう思いたかった。
だが、久世はただ愉快そうに、喉を鳴らして笑った。
「離す、だと?」
久世は隣の師乃へ視線を落とす。その目は、「従順な部下」を見るものだった。
「面白いことを言う」
「……え?」
「すべては彼自身の選択だ」
ソラは拒絶を噛み殺しながら、師乃の横顔を見つめた。
「師乃さん……。師乃さん、違いますよね……?」
師乃は答えず、ただ深く項垂れている。
「違いますよね……っ!」
ソラの叫びが、制御室に痛々しく反響する。
師乃は答えなかった。
否定も、視線すらも上げず。
それが何より雄弁に物語っていた。
ソラの心の中で支えになっていた何かが、ゆっくりと、しかし決定的に音を立てて崩壊していった。
「なんで……」
ソラの持っていたカイの刀が、カタカタと微かに鳴った。
「なんで、師乃さんが……」
久世が、冷酷に言葉を重ねる。
「カイはいなくなった。これで全て終わりだ。お前たちにできることはもう何もない」
「カイさんに、何をしたんですか……!」
「言ったはずだ。お前たちのような『家畜』には、理解できんとな」
勝ち誇った笑みを浮かべる久世。その顔を見た瞬間、ソラの中で、理解したくなかった「現実の輪郭」が、怒りと絶望と共に一気に明確な形を結んだ。
その、瞬間だった。
バチバチバチッ……!
突如として、制御室の床に散らばっていた古い鉄片やねじ切れたボルトが、激しく震え始めた。
それらが一斉にソラへ引き寄せられる。
周囲の空気そのものが、ソラを中心に歪み始める。
だが、ソラ自身はその異変に全く気づいていなかった。ただ視界が涙と怒りで滲む中、師乃の後ろ姿だけを凝視していた。
「……ほう」
歩き出そうとしていた久世が、足を止め、ゆっくりと振り返った。
宙に浮く無数の鉄片と、その中心で圧倒的なプレッシャーを放ち始めたソラを見つめ、久世の目が細められる。
「なるほど」
初めて僅かな警戒が混じっていた。
「第1部隊は、本当に化け物揃いだな」
久世はそれ以上は語らず、再び背を向けて崩れた扉の向こうへと歩みを進めた。
師乃もまた、吸い寄せられるようにその後ろを追っていく。
そして、防爆扉が完全に閉まる、その直前。
師乃が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ振り返った。
――ソラと、目が合った。
師乃の瞳は、いつもと変わらない冷徹な硝子のようだったが、その奥には言葉にならない酷く複雑な色が揺らめいていた。
彼は何も言わなかった。ほんの一瞬だけソラを見つめーー視線を外した。
ガガガガンッ……!!!
重厚な防爆扉が完全に閉まり、二人の姿を闇の向こうへと遮断した。
それと同時に、ソラの周囲で浮遊していた無数の鉄片たちが、支えを失ったように、バラバラと音を立てて一斉に床へと落ちていった。
冷たい金属の残響だけが、静かに響く。
ソラは、ただ閉ざされた扉を見つめたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。
その手には、主を失った重い一振りの刀だけが、固く握りしめられていた。
隣で、紫苑が息を呑んだ。
ソラの周囲を満たしていた異様な圧力。
そして、本人すら気づかぬまま引き起こされた、先ほどの現象。
紫苑は初めて、ソラの力に恐怖を覚えていた。




