第52話 雲の檻の集落
一時間ほど歩いただろうか。女の子と老人の幻を見て以降、初めて、白い砂ではないなにかが少年の目にうつった。目を凝らすと、それは人の姿に見えなくもない。歩を進めると、輪郭がはっきりとしてきた。建物だ。
風にのって、かすかに食べ物の匂いがした。思い返してみれば、最後になにかを口にしたのはいつだったか。そう気づいたとたん腹が鳴る。
(こんなときでも、お腹が空くんだ)
ヒウノは思わず笑いたくなり、同時に自身の生を改めて実感した。そういえば、と思い出す。彼女は本当によく食べる人だった、と。自然に笑みがこぼれた。
少年は緩んだ表情を引き締めた。向かう先に人影が見えたからだ。相手は気配を消すどころか、身を隠そうともしていないようだった。けれど、用心するに越したことはない。
少年は警戒しつつ、近づいていった。
*
少年が集落に足を踏み入れると、突如異変が起こった。
遊びに興じる子どもたちや木陰に腰を下ろしていた老人、食欲をそそる匂いの、そのすべてが一瞬にして消えたのだ。空虚で寂しい無人と化した集落。気づけば風も止んでいる。なにかがおかしい。
生命の気配は一切感じられなかった。けれど、警戒の視線が自身に向けられているがわかる。
(無理もない。ここはフィルアノアなんだ。きっと、長いあいだ人の訪れはなかったのだろうから)
ヒウノは誰もいない空を正視し、よくとおる大きな声を発した。
「僕の名はヒウノ。嵐にのって雲の外側から来ました。リト――リリーシエが戻っているはず。どうか、会わせてもらえませんか?」
少年の声が響き渡り、不気味なほどの静寂の中に消えていった。
ヒウノは柔らかな表情を浮かべ、姿勢を正したまま待った。深い呼吸を幾度か繰り返す。見られている。警戒心を感じさせてはならない。少年は自然体でいることを貫いた。
しばらくして、低い声がかかった。老齢な男性の声だ。
「リリーシエと、どのようなかかわりを持つ者か?」
「これを彼女から贈られました」
そう言って少年は、真っ白な拵えの小刀を手に持って、まっすぐに差し出した。
「それは我らが祭儀で要となるもの。誰にも渡すまい。『盗まれた』と聞いたがね」
「……彼女は嘘が下手な人でした。本当に。きっと、それでつらい思いをしていたはず。これは『お守りみたいなものだから』と、僕の手に握らせてくれたんです。鞘から抜けない僕を見て、微笑んでいた」
最後のほうは独り言に近かった。
「まこと疑わしい。我らがそなたの言を信ずるとでも?」
せせら笑う老人に、少年は凛とした声で言い放った。
「これは、彼女と僕をつなぐ大切なものです。レレン君をなくして、彼女はなにか大きなものを諦めてしまった。それが僕にはわかる。もう失わせたくないんです。彼女から、なにひとつ」
「口ではなんとでも言えよう。が――」
弱い風が吹き、少年の頬を撫でる。ついで、枯れ枝を思わせる小柄な老人が姿を現した。
「そなたの話は聞いているよ。あの子が世話になったね。礼を言う」
「あなたはリトの――いえ、リリーシエの……?」
「あれは『リト』と呼ばせておったのか。救ってほしかったのかもしれんのぅ。自分だけでなく、部族のみなを。あの子はわしの自慢の孫じゃ」
「おじいさん」
「もう少し早くに訪れておれば。……あの子はもう、いってしまったよ」
老人は柔和な笑みを浮かべて、そう言った。
第52話 終
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