第50話 偽り
嵐の中で、ヒウノはかろうじて目を開いた。うつるのは分厚い風の壁のみだ。空の色も海の色も見えなかった。どちらが天でどちらが地なのか、見当もつかない。自分の体はどこへ向かっているのだろうか。風に運ばれて上昇しているはずなのだが、はるか天空へ向けて落下しているようにも感じてしまう。
激しく吹きつける風が、衝撃となって襲ってくる。無形のものに対して為す術もなく、殴られたような感覚に意識が遠のく。
最後に思い浮かんだものは、なにもなかった。少女の無事でも家族との再会でもなく、無であった。
*
少年が嵐に呑まれているころ、少女は失意の中にいた。すると決めたことは、村の誰にも話せるわけがない。なにも知らない老人や子どもたちを見ると、いたたまれない気持ちになる。
乾いた風と潤いを失った大地。弟と希望を連れて、ここへ帰って来るのを夢見ていた。緑豊かで、水に満ちた美しい世界での旅の話は、きっとこれ以上ないすてきな土産になると、心のどこかで信じていた。
しかし、結果はどうだ。一番大切なものをなくし、村の皆の願いを叶える手立ても見つけられないまま、おめおめと戻ってきてしまった。あまつさえ、これから自分がしようとしているのは――。
「リリィねえさま、どうしたの?」
幼い女の子の声に、少女は我に返った。小さく柔らかで、少しだけかさついた手が、自分の手に添えられている。大きく澄んだ瞳が間近にあった。
「ううん。なんでもないの。みんなと遊んでらっしゃい」
少女が、小さな背中をそっと押す。童女はくったくのない笑顔で駆け出した。その後ろ姿がたまらなく愛おしい。追いすがり、抱きしめて、謝りたい。
少女は伸ばしかけた手を、力なく下ろした。
そんな彼女の背に、穏やかな声がかかる。
「名残惜しくなるじゃろう。そろそろ行こうか」
「はい。おじいさま」
少女は振り向き、微笑んで頷いた。
大地で出会った友人から借りた洋服は、きれいに畳んでおいた。返す機会は永遠に失ってしまったが、それでも礼を尽くしたいと思う。
かわりに纏ったのは、真白なひとつなぎの衣服だ。この旅の始まりと同じく、儀式へ臨むときに着用するのが決まりだ。
「小刀はどうした?」
あるべきものがないと気づき老人が問う。少女はかすかに笑みを浮かべて答える。
「旅の途中で盗まれてしまいました。大地には、そんな悪い人が溢れていたんです。空気も土も、人の心さえもひどく汚れていて。あんなにひどいところと知っていたら、レレンを行かせはしなかったのに」
「どこも大して変わらぬということか……」
「えぇ。離れてみてわかりました。この村のほうが、ずっと住みやすいと」
少女はひと息ついて、言葉を継いだ。
「けれど、村のみんなに知らせるのはやめておきます。心の奥底で、美しく豊かな大地への憧れをもっているでしょうから」
「そうじゃな。わしも信じたかったよ」
「さぁ、行きましょう。誰にも知られずに済ませます」
歩き出した少女は、ふと思い出した。
(ヒウノのおばさまからお借りしたバッグもなくしてしまった。大切なものだったのに。物も想いも、わたしはたくさんもらった。けれど、ぜんぶ失った。なにひとつ持っては行けないから、これでよかったのだわ。きっと……)
「リリーシエ」
「はい、おじいさま。ただいま参ります」
少女は居住まいを正すと、目を閉じてひとつ深く息を吐いた。静かに開かれた瞳は、どこか清々しさを感じさせる。
年老いた数人の従者が彼女を迎えた。彼らのあいだへと踏み出した少女の歩みに、迷いは見られなかった。
第50話 終
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