第49話 嵐にのって
柱のあいだを通り抜ける風が、低い音を立てていた。物陰に得体の知れないものが潜んでいて、こちらの様子を窺っているような、そんなありもしない想像を掻き立てられる。さぞ恐ろしかろう。震えあがる少年を笑ってやるつもりでいた老婆は、視線の先に期待した様子が見られず、つまらなそうに鼻を鳴らした。
ヒウノは確かに畏怖の念を抱いていた。両脇にそびえ立つ巨大な石柱群は、森で触れてきた大樹よりもはるかに背が高く、明らかに質が異なるからだ。海の底に突き刺さり、それでいて頂きが見えない大きさにただただ圧倒される。
船が波を押し分け、大列柱を抜けてゆく。
すると、また別の異様が姿を現した。
「海が……赤い」
風は静まり波が穏やかになる。
気がかりなのは眼下に広がる海の色だった。少年は身を乗り出して海を覗き込んだ。
青でも濃紺でもない。赤みを帯びたその色を見て、少年はこう感じていた。どこか、人の血の色に似ている、と。
「海へ落ちぬようにな」
翁が言葉少なに言った。なぜだか沈んだ顔つきをしている。
「ここまで連れて来ておいて、なにを言ってるんだい」
言葉こそ皮肉っぽいが、老婆も笑みは浮かべていなかった。
ふたりの老人の雰囲気から、ヒウノはここが特別な場所なのだと感じ取った。ここで、自分がなにかしなければならないのだ。きっと。
「ヒウノ」
ユユエに名前を呼ばれどきりとした。気づけば、彼女はいつの間にか真横に立っていた。ユユエの表情から変化は見てとれなかった。
「じきに着く。凪のままならば、そなたにできることはなにもない」
「風が吹かなかったとき、他に方法は――」
「ない。そのときは諦めなさい」
ヒウノは黙ったまま、最後の言葉には頷かなかった。はじめから、諦める選択肢など持ち合わせてはいない。
「僕は運がいいのだと思います。ユユエさん、翁――それからおばあさん。あなたたちがいるから、きっと僕は諦めずに済む」
少年の言葉を聞いて、老婆は大声で笑った。その姿を見ても、ヒウノは不快にはならなかった。馬鹿にして笑ったのではないと感じられたからだ。
「愉快な坊やじゃないか。あたしの邪魔ばかりして、実に気に入らない。けれど、ちょっとだけなら好きになってやらんでもないよ」
老婆は大きく息を吸い込んで、言葉とともに吐き出した。
「風よ吹きなぁ!」
すると凪いだ海に突如風が起こった。海水を飛び散らせながらうねりを起こす風は、やがて太い竜巻となって天へとのびてゆく。
「あれは不憫な娘だ。ひとりくらい馬鹿がとなりにいてやるといいさ。もっとも、あんたはこれから風に切り裂かれて、海の藻屑になるかもしれないけれどね」
ヒウノは改めて海に目を向けた。老婆は『海の藻屑』と言った。視線の先にある赤い色は、この場所で嵐に呑まれた人の成れの果てなのかもしれない。
自分も海の一部になる。そう思うと恐れが湧いてくる。しかし、連れ戻したい少女は、恐れを乗り越えて地上にやってきた。彼女とともに生きるのなら、自分も超えていかなければ。
少年は船べりから身を乗り出し、風の渦を正面から見据えた。
「おばあさん。まだ、あなたの名前を聞いていませんでした。僕はヒウノといいます」
「ふん。名前なんて知ってどうするんだい。まぁ、あの娘と一緒に帰って来られたら、教えてやってもいいよ」
「約束しましたよ」
「ふん。さっさと行っちまいな」
「はい。行ってきます」
老婆と言葉を交わし終えると、ヒウノはぐんと力強く船べりを蹴って飛び出した。
嵐はなんの躊躇もなく彼の小さな体を呑み込み、猛烈な勢いではるか天空へと巻き上げてゆく。少年の姿はあっという間に見えなくなった。
しばらくして海には凪が戻った。波は穏やかな音を立てている。空からはなにも落ちてはこなかった。
第49話 終
本話をお読みくださり、ありがとうございました。
第2章はここでおわりです。
もしよろしければ、つづく最終第3章をお楽しみくださいませ。




