第44話 雨にとけて
小刀を握る手から、柔らかいものを刺した感触が伝わってくる。少年の全身を怖気が走った。万に一つ、自分が彼女の命を奪ったら。そう思うと、勇気の灯が消えてしまいそうだった。
少女の体から吹き出した赤色に手が染まる。そのあたたかさが恐ろしい。懸命に、手と心の震えを抑えた。
そんな少年の手に、そっと少女の手が重なった。
「どうして……」
「リト!」
か細いけれど、生気を感じさせる声だった。
溢れる血がみるみる小刀に吸われてゆく。それにつれて、彼女の銀色に変わった髪と深紅に染まった目の色がもとへと戻ってゆく。
「君を取り戻すにはこうするしかないと思ったんだ。ごめん、きっと痛かったよね」
少女は首を横に振って応えた。
「どうして、わたしを取り戻そうなんて思ったの……。終わらせて欲しかった。あなたの手で、わたしの命もなにもかも、ここで終わりして欲しかったのに……」
大粒の涙をこぼす少女の目は、少年を責めていた。その瞳は、後悔と絶望と感謝とが入り交じり、行き場をなくしかけていた。
(君の願いを想像もしなかった。僕のせいだ。僕がリトをとどまらせた。この先もきっとつらい思いをするだろうに)
彼女が手を重ねてくれたおかげで、残ったほんのわずかな勇気を奮い起こした。
「諦めないで。僕も君と一緒に歩くから。なにがあっても、最後まで。君に嫌われたっていい。君と一緒に生きたいんだ」
「そんなふうに思ってもらう資格なんて、わたしには……」
「違うよ。僕がそうしたいだけだから」
そう言って、少年はほほ笑んだ。
「いいのかな、わたし。まだ生きていて。あなたのとなりにいても……いいのかな……」
「そうしたいって思ってくれたら、とてもうれしい」
少年の気持ちに言葉を失った少女は、彼の胸に顔を埋めて、ただただ大きな声をあげて泣いた。その声は、破壊の力を振るっていたときの悲鳴のような叫び声とは違う、つらく悲しいけれど、どこかあたたかみのある声だった。
湖水が太い水の柱となって侵入してくる。いよいよこの場に留まるのは危うくなってきた。ユユエに促され、ヒウノとリトは彼女の力を頼りに飛行機械の残骸から脱出した。
レレンの墓標が水に没するのを前に、少女の頬をひとすじの涙が伝い落ちた。
*
ほどなくして三人は、小雨に煙る湖上の集落に戻った。人影は明らかにその数を減らし、あちこちに破壊の跡が見られる。
(これを全部わたしが……)
少女はすぐに理解した。誰に聞くまでもない、これはすべて自分がしたことなのだと。
ほぞを噛んだところで、何も取り戻せはしない。リトは目を閉じて深く呼吸をした。どんな誹りを受けようと構わない。自分はそれだけのことをしたのだから。しずかに開かれた瞳には、決意の色がありありと浮かんでいた。
傍らを歩いていた少年の体が、突然ぐらりと傾いだ。
「ヒウノ!」
少女は慌てて彼の体を支えた。ひどく消耗しているのが、はっきりと見て取れた。
「だ、大丈夫……。なんだか、急に……」
少女にもたれかかったまま、少年は意識を失った。
呼吸に乱れはなく穏やかだ。リトは胸をなでおろした。しかし、このまま雨に打たれ続けるのはよくない。
「こちらへ。その子を休ませたほうがいい」
「はい。ありがとう、ユユエ」
周囲から向けられる嫌悪と畏怖の視線を感じながら、リトは少年を背負って歩き出した。
そういえば、と思い出す。
(ヒウノを背負ってあげるのは、何度目かしら)
間もなく破壊の難を逃れた家屋に着き、束の間、三人は平穏を取り戻した。
*
ヒウノを寝かせたあと、リトとユユエは集落を見下ろす高台へ移動した。ふたりきりで話したいことがあったからだ。先に口を開いたのは少女だった。
「本当なら、まずあなたにお礼を伝えるべきでした。それなのに、わたし……」
「礼?」
疑問符を投げかける女性を前に、リトは薄く笑う。
「ええ。ありがとう、ユユエ。あの子を――レレンを看取ってくれて」
「レレンの命を終わらせたのは私だ」
「わかっています。けれど、そうするしかなかった。あの子はわたしにべったりだったから。きっと“わがまま”を言って、きかなかったのでしょう?」
「自分がやれなければ次は姉の番だと、懸命だった」
「しかたのない子……。うまくいかなくたって、わたしは気にしないのに。生きていてくれれば、それだけでよかったのに」
ユユエは少しだけ間を置いて口を開いた。
「――行くのか」
「はい。もう、決めました。それに、ぐずぐずしていたら、終の子が目を覚ましてしまうわ」
そう答えたリトの表情は、どこか晴れ晴れとしていた。
「やっぱり、わたしたちの残した罪は、簡単にはなくならなかった。わたし自身がそうなのだと、痛いほどわかりました。レレンを看取ってくれたあなただけでなく、ヒウノまで――殺そうとした」
ユユエは聞くだけで、言葉を差し挟む様子はない。
「水底で力を使ったとき、意識があったんです。はっきりと。けれど、気持ちを止められなかった。あなたのこともヒウノのことも、死んでしまえばいいって、本心から望んでいた……」
天を仰ぐ少女の頬を、水の粒が伝って落ちる。それは涙なのか雨なのか、どちらとも知れなかった。
「わたし、帰ります。帰って、もうこんなことが起きないよう、今度こそきちんと終わりにします。あなたもヒウノも生きていてくれて、とてもうれしい。本当にありがとう。さようなら」
少女の笑顔は、無理に作ったふうでなく、年相応の爽やかなものだった。ユユエが瞳を閉じて頷く。
彼女がゆっくりと目を開けたとき、少女の姿は雨に溶け込むようにして消えていた。
第44話 終
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