第八話 水は、店の前だけを流れない
翌朝、目を覚ますと、仕事板に魚が増えていた。
「……何だ、これ」
焦げた木板の中央に、丸い胴体と長い尾を持つ何かが描かれている。
昨日、俺が描いた魚は、その横へ追いやられていた。
「ボルツさんの魚」
炉の前に座っていたミラが答えた。
「俺が描いたのも、ボルツさんの魚だ」
「レオのは犬に見えるから、描き直した」
「ミラのは足が六本あるぞ」
「ひれだよ」
「魚に、こんなひれはない」
「ある魚もいるかもしれない」
この世界なら、否定しきれないのが困る。
ミラが描いた魚の下には、水たまりらしき波線まで加えられていた。
「今日は、これを直すんでしょ?」
「ああ。ボルツさんの露店だ」
右手を見る。
薬草を塗って巻き直した布は、まだ外せない。
指は動くが、強く握ると痛みが走る。
ガルドからは、鋸も手斧も持つなと言われている。
見ること。
考えること。
軽いものを運ぶこと。
今日できるのは、その程度だ。
「レオ」
奥で横になっていたエナが身体を起こした。
「仕事へ行くなら、これを持っておいき」
差し出された布には、昨日セナからもらったパンが包まれている。
「三人で食べる分だろ?」
「三つあるよ」
布を開く。
小さく切り分けられたパンが、三つ並んでいた。
俺の分だけ、少し大きい。
「同じ大きさにして」
「働く人が多く食べるのは当然だよ」
「今日は、ほとんど見てるだけだ」
「考えるのも仕事だろう?」
エナの言葉に、返す言葉がなくなった。
以前の俺なら、身体を動かしていない時間を仕事だとは思わなかったかもしれない。
現場で汗を流すこと。
手を動かして物を作ること。
それだけが働くことではない。
何を作るのか。
なぜ壊れたのか。
どうすれば、同じことが起きないのか。
それを考えずに手だけを動かせば、昨日のセナの雨漏りのように、何度直しても同じ場所が壊れる。
「もらっていく」
「素直でよろしい」
パンを布へ包み、仕事板を抱える。
「わたしも行く」
ミラが立ち上がった。
「今日は魚の匂いがつくぞ」
「昨日もついた」
「それは排水溝を掃除したからだ」
「今日も排水溝でしょ?」
「まだ決まってない」
直す前に、まず原因を確かめなければならない。
◇
「遅え!」
広場へ着くなり、ボルツの怒声が飛んできた。
太陽は昇ったばかりだ。
露店には、まだ魚がほとんど並んでいない。
「市場が始まる前に来た」
「魚屋の朝は、魚より早いんだ!」
「魚は寝坊しないだろ」
「口だけは一人前になりやがって」
ボルツは大きな木箱を地面へ置いた。
中には、川で獲れたばかりらしい魚が重なっている。
「昨日もらった魚、おいしかった」
ミラが言う。
「そりゃよかった。今日は働いたら、骨の多いところをやる」
「骨の少ないところがいい」
「注文までつけるのか」
言いながら、ボルツは少し笑っている。
「それで、どこを直すんだ?」
露店の前を見る。
昨日まで降っていた雨は止み、広場の大部分は乾き始めていた。
だが、ボルツの店の前だけには、大きな水たまりが残っている。
水は濁り、魚の鱗と木くずが浮かんでいた。
「昨日、排水溝は掃除したよな」
「ああ。お前が泥だらけになってな」
「そのときは流れた」
「今も溝は詰まってないぞ」
水たまりの横にある排水溝を覗く。
蓋の隙間から、水がゆっくり流れているのが見えた。
少なくとも、完全には塞がっていない。
「この水、全部店から出たもの?」
「魚を洗った水はある。だが、昨日の雨も残ってる」
「毎日、同じくらいたまる?」
「晴れが続けば減る。雨が降れば、三日はこのままだ」
「ほかの店の前は?」
「見りゃ分かるだろ」
布売りのマーヤの前には、水たまりがない。
隣の野菜売りも同じだ。
広場は北の共同井戸側へ緩く下がっているはずなのに、補修石が重なった場所だけが小さな堤のように高くなっていた。ボルツの店先は、その堤と古い石畳の間にできた皿の底で、周囲の露店よりわずかに低い。
「最初から、ここは低かった?」
「知らねえよ。俺が店を継いだころには、この形だった」
「何年前?」
「十五年くらいだ」
「その間に、地面を直したことは?」
「石が割れたら、新しい石を置いてる」
「古い石は外した?」
「面倒だから上に置いた」
原因の一つが見えた。
広場は長い年月の間に何度も補修されている。
割れた石を取り除かず、その上へ新しい石を重ねれば、補修した場所だけ少しずつ高くなる。
反対に、何も手を入れていない場所は、人や荷車に踏まれて沈んでいく。
その結果、ボルツの店の前が、皿の底のような形になったのかもしれない。
「水を流してみる」
「目の前にたまってるだろ」
「どちらへ流れようとしてるのか見たい」
近くの井戸から、一杯だけ水をくむ。
「無駄にするなよ」
井戸を使っていた女性に睨まれた。
「一杯だけ借ります」
「飲むんじゃないのか?」
「地面に飲ませます」
「変な子だね」
広場の少し高い場所へ、水をゆっくり流す。
細い水の筋が石の間を進む。
最初は排水溝の方へ向かっていた。
だが、途中で向きを変え、ボルツの店の前の水たまりへ流れ込んだ。
「やっぱり、ここが一番低い」
「なら石を置いて、高くすりゃいい」
ボルツが言う。
「店の前だけ高くしたら、水は隣へ行く」
「マーヤの店なら構わん」
「聞こえてるよ!」
隣の露店から、マーヤが怒鳴った。
「冗談だ」
「ボルツの冗談は、顔が怖くて分からないんだよ」
店の前だけを直す。
それなら簡単に見える。
だが、追い出された水は消えるわけではない。
別の低い場所へ移るだけだ。
「水の行き先を作らないと駄目だ」
「昨日、溝を掃除しただろ」
「溝まで水が届いてない」
水たまりと排水溝の間には、幅の広い石が並んでいる。
その中央が、わずかに盛り上がっていた。
目では気づきにくい。
だが、流した水はそこで止まり、横へ逃げた。
「ここが堤防みたいになってる」
「これくらいの高さでか?」
ボルツが石を指差す。
指一本分もない。
「水には十分だ」
水は、ほんのわずかな高低差でも流れる方向を変える。
人が平らだと思っている場所でも、水にとっては坂や谷がある。
「この石を外せば流れる?」
ミラが尋ねる。
「その下を見てみないと分からない」
「壊す気か?」
ボルツの表情が険しくなる。
「外して、元へ戻す」
「戻せなかったら?」
「ガルドさんに頼む」
「俺を便利な道具みたいに使うな」
背後から声がした。
振り返ると、ガルドが道具袋を肩に掛けて立っている。
「工房へ来るなって言ったのに」
「お前が広場を壊さないか見に来た」
「まだ壊してない」
「まだ、ということは壊す気だろうが」
ガルドは水たまりを見たあと、石の並びへ目を向けた。
「どれを外す」
「この三枚」
「理由は?」
「水たまりと溝の間で、一番高いから」
「目で見ただけか」
「水を流した」
「それだけじゃ足りん」
ガルドは道具袋から、長い縄を取り出した。
等間隔の結び目がついた、家を建てたときと同じ縄だ。
両端を細い棒へ結びつける。
「水盛りがあれば早いんだがな」
「水盛り?」
「透明な管に水を入れて、高さを見る道具だ」
「透明な管?」
この世界にも似た方法は知られているらしい。
ただし、透明な材料は高価なのだろう。
「今は縄で見る」
水たまりの端と、排水溝の端へ棒を立てる。
縄を強く張り、少し離れた位置から見る。
「真ん中の石が上がってるな」
「どのくらい?」
「指二本分ほどだ」
水が越えられないには、十分な高さだ。
「市場番には話を通した」
ガルドが市場の管理小屋を顎で示す。
「俺の立ち会いで、通行に使う三枚だけ外して元へ戻す。それより古い構造が出たら、範囲を広げる前にもう一度報告する」
「分かった」
「外すぞ」
ガルドが鉄の棒を石の隙間へ差し込む。
「俺も手伝う」
「その手で触るな」
「足で押す」
「邪魔だから離れろ」
俺の役割は見ることらしい。
ガルドとボルツが鉄棒へ力をかける。
石が少し持ち上がった。
隙間へ木のくさびを入れ、さらに浮かせる。
「ミラ、下へ手を入れるなよ」
「入れない」
石の端へ縄を回す。近くの荷運び人にも声をかけ、大人三人で引くことになった。俺とミラは少し離れ、石が傾く方向と足元を見る。
重い石が、ゆっくり横へ動いた。
その下から、黒く湿った土が現れる。
「何だ、これ」
ボルツが顔をしかめた。
土の中に、細い木片や魚の骨、割れた石が混ざっている。
新しい石を置くとき、下を整えず、ごみの上へ重ねたらしい。
「沈まないように、いろいろ詰めた」
ボルツが目を逸らした。
「自分でやったのか?」
「昔な」
「余計に水が通らなくなってる」
「そのときは平らになったんだ」
「今は?」
「……水たまりだ」
残り二枚も外す。
下の土を少しずつ取り除いていくと、平たい石の端が現れた。
広場の表面に使われている石とは違う。
細長く、一定の間隔で並んでいる。
「ガルドさん、これ」
「昔の排水路だ」
土を手で払いながら、ガルドが答えた。
「今の溝を作る前に使ってたものだろう」
細長い石をたどる。
水たまりの下から、現在の排水溝の方向へ伸びている。
だが、途中で大きな石に塞がれていた。
ボルツの露店を支える重しの一つだ。
「この石、いつ置いた?」
「風で屋根が飛びそうになったときだ。十年くらい前」
「古い水路の上だって知らなかった?」
「知るわけねえだろ。埋まってたんだぞ」
責めても仕方がない。
古い排水路は使われなくなり、土で埋まり、その上へ露店が広がった。
誰も全体の形を知らないまま、必要な場所だけを直してきた。
結果として、水の道を塞いでしまった。
「石をどかせば、水が流れる?」
ミラが尋ねる。
「たぶん。でも、そのままだと店の屋根を支えられなくなる」
重しの石には、露店の柱から伸びた縄が結ばれている。
強風で屋根が浮き上がるのを防ぐ役割だ。
排水のために動かせば、今度は露店が危険になる。
「別の場所へ重しを置く」
ボルツが言う。
「隣へ動かしたら、今の通路を塞ぐ」
「なら、小さい石をいくつか使う」
「同じ重さでも、縄を結ぶ場所が広がれば人が引っかかる」
「じゃあ、どうしろってんだ」
一つを直せば、別の問題が出る。
露店を守る重し。
人が歩く通路。
雨水を逃がす排水路。
どれか一つだけを見て決めることはできない。
「柱の下へ、重しを置く」
俺は露店の屋根を見上げた。
「今は柱から斜めに縄を伸ばして、離れた石へ結んでる。でも、柱の近くへ重しをまとめれば、通路を塞がない」
「柱の真下じゃ、縄で引けねえだろ」
「柱と重しを直接つなぐ」
「どうやって?」
木板を地面へ置き、炭で絵を描く。
露店の柱。
その根元を挟むように置く二本の木。
木の間へ石を載せる。
柱と木枠を縄で固くつなぐ。
「低い箱を作って、その中へ石を入れる」
「石の箱か」
「上を板で覆えば、魚を置く台にもできる」
「俺の店を石だらけにする気か?」
「今も大きな石がある」
露店の横を見る。
人の腰ほどある石が、通路へ張り出している。
「それが、もっと邪魔にならない形になる」
ボルツが腕を組む。
「箱を作る木は?」
材料がない。
俺が黙ると、ガルドが露店の上を見た。
「屋根の後ろ側に、使ってない横木が二本ある」
「使ってるぞ」
「何にだ」
「昔は干物を掛けてた」
「今は?」
「掛けてない」
「なら使ってない」
ガルドが即座に決めた。
「外しても屋根は落ちない?」
俺が尋ねる。
「別の横材がある。あれは後から足したものだ」
「勝手に持っていくなよ!」
「お前の店に使うんだろうが!」
ボルツの反論が止まった。
◇
市場番へ古い排水路が出たことを伝え、外した三枚の範囲だけ流れを戻す許可を受けた。
古い排水路の上から重しの石を動かす。
四人で縄を引いても、石は簡単には動かなかった。
「ボルツさん、魚を食べすぎなんじゃない?」
ミラが言う。
「石の重さと俺の腹は関係ねえ!」
「その腹で押して」
「子どもに使われる日が来るとはな……!」
ボルツが石へ背中を当てる。
ガルドが鉄棒で下を持ち上げた。
ボルツたちが縄を引く。
「右へ傾いてる。いったん止めて!」
俺の声で全員が止まり、縄の位置を掛け直す。
「せえの!」
石が少し動いた。
もう一度。
三度目で、古い排水路の上から完全に外れる。
直後、石の下にたまっていた水が流れ出した。
「うわっ!」
濁った水が一気に古い溝へ入り、土と魚の鱗を押し流す。
水たまりの表面が揺れた。
ゆっくりと、水位が下がり始める。
「流れてる!」
ミラが水を追いかける。
古い排水路は、現在使われている溝の横へつながっていた。
ただし、長く埋まっていたため、途中に泥が残っている。
「全部掘り出す必要はない」
俺は水の流れを見ながら言った。
「水たまりから今の溝まで、ここだけ開ければいい」
「昔の水路を、そのまま使うのか?」
「使えるところは使う」
壊れた家の木材と同じだ。
古いからといって、すべて捨てる必要はない。
水路の底にたまった泥をさらい、割れた石を取り除く。
側面が崩れた場所には、小さな石を詰める。
上には、人が踏んでも割れない厚い板を渡すことにした。
完全に塞がず、外して中を掃除できる形にする。
「どうして石で閉じない?」
ボルツが尋ねる。
「また詰まったときに、開けられないから」
「昨日みたいに全部の石を外すのは、面倒だしね」
ミラが言う。
「昨日外したのは今日だ」
「泥だらけの日は、全部昨日みたいなものだよ」
よく分からない理屈だった。
露店から外した横木を切り、低い木枠を作る。
俺は炭で切る場所と組む形を示し、加工はガルドが行った。
「本当に見るだけだな」
ボルツが言う。
「手を怪我してる」
「口は怪我してないのか?」
「今のところ」
「なら、少し黙ってろ」
ガルドとボルツの意見が一致してしまった。
木枠を露店の柱の根元へ置き、中へ小さめの石を詰める。
石同士の隙間をできるだけなくし、動かないよう並べる。
柱と木枠を縄で結ぶ。
一本だけでは緩んだときに危ないため、異なる方向から二本。
「屋根を押してみろ」
ガルドが言う。
ボルツが露店の柱を揺らす。
以前の大石ほどではないが、簡単には動かない。
「風が強い日は?」
「石を増やせる」
「増やす場所は?」
「箱の中」
通路へ広がらない。
不要になれば石を減らすこともできる。
「悪くねえな」
ボルツが不本意そうに認めた。
「魚を置く台にもするんだろ」
上へ板を載せる。
地面から少し高くなった台ができた。
だが、魚を直接置くには低すぎる。
「座る場所にはなる」
ミラがすぐに腰掛ける。
「客が座ったら、魚を買わずに長居するだろうが」
「ボルツさんが怖いから、すぐ帰るよ」
「俺を何だと思ってる」
「魚を売る怖い人」
今度は周囲の商人まで笑った。
◇
古い水路を開き、表面の石を戻す。
ただし、以前のように高く盛り上がらないよう、下のごみと柔らかい土を取り除いた。
石の下へ小石を均等に敷き、高さを調整する。
「全部同じ高さにする?」
ミラが尋ねる。
「少しだけ溝の方を低くする」
「斜めに見えないよ」
「見えないくらいでいい」
高低差が大きすぎれば、人がつまずく。
小さすぎれば、水が流れない。
人には平らに見え、水には道だと分かる程度の傾きが必要だ。
縄を張り、石の高さを一枚ずつ確認する。
「こっちは高い」
「薄い石へ替えるか?」
「下の小石を減らす」
ガルドの指示で高さを直す。
最後に、井戸からもう一杯だけ水を借りた。
「今度こそ無駄にするんじゃないよ」
先ほどの女性が言う。
「今度は、地面に働いてもらいます」
ボルツの露店の前へ、水を流す。
細い水の筋は、以前のように水たまりへ向かわなかった。
わずかに傾けた石の上を進み、古い排水路の入口へ入る。
そのまま、現在の溝へ流れ込んだ。
「行った!」
ミラが水を追いかける。
残っていた水たまりにも、細い出口を作る。
濁った水が少しずつ減っていく。
乾いた石の表面が、広がっていった。
「これで終わりか?」
ボルツが尋ねる。
「まだ」
「また何かあるのか」
露店の屋根を見る。
片側へ大きく傾いた布屋根。
雨が降れば、その水のほとんどが店の前へ落ちる。
排水路を開いたことで以前よりは流れる。
だが、最初から一か所へ大量の水を集めない方がいい。
「屋根から落ちる水も、直接溝へ運ぶ」
「どうやって?」
店の裏に、魚を運ぶための古い木箱が積んである。
その中に、細長く割れた板があった。
「これ、使っていい?」
「底が抜けた箱だ。好きにしろ」
板を二枚、細長い角度で組み合わせる。
断面が浅い谷のような形になる。
「樋を作るのか」
ガルドが言った。
「銅じゃないから、長くはもたない」
「毎日濡れるからな」
「焦げた油を塗ったら、少しは水を弾く?」
「魚の油か?」
ボルツが顔をしかめる。
「臭くなるぞ」
「今より?」
「魚屋を何だと思ってる!」
結局、板の表面を軽く炙って乾かし、食用には戻せない古い油を布で薄く塗ることになった。余った油は残さない。長く使うものではなく、割れや臭いが出たら交換する仮の樋だ。
木の樋を屋根の低い端へ取りつける。
完全に水平では、水が途中で止まる。
排水溝へ向けて、わずかに下げる。
「どうやって傾きを見る?」
ミラが尋ねた。
ガルドの縄だけでは、短い樋のわずかな高低差を確認しにくい。
「水を流す」
少量の水を樋へ入れる。
途中で止まった。
「ここが低いんじゃなくて、先が高い」
先端の固定位置を少し下げる。
もう一度流す。
水は木の谷を進み、最後まで流れた。
排水溝の中へ落ちる。
「これで、屋根の水は店の前へ落ちにくくなる」
「雨が降るたび、この板を見なきゃいけねえのか?」
「木だから、割れたり曲がったりする」
「面倒だな」
「家も店も、作ったら終わりじゃない」
「お前、最近そればっかりだな」
ボルツが樋を指で叩く。
「だが、まあいい。水に魚を浮かべながら商売するよりはな」
◇
作業が終わるころには、市場に人が増えていた。
水たまりのあった場所を、客が普通に歩いていく。
誰も足元を避けない。
通路へ張り出していた大石もなくなり、以前より歩きやすくなった。
「魚が売れなくなったら、お前のせいだからな」
ボルツが言う。
「どうして?」
「水たまりで足を止める客がいなくなる」
「今まで、水たまりを客寄せに使ってたのか?」
「今考えた」
「なら問題ない」
ボルツは鼻を鳴らす。
それから、一匹の魚を布へ包み、俺へ差し出した。
「今日の分だ」
「骨の多いところ?」
「一匹丸ごとだ」
「いいのか?」
「水たまりが戻らなければな」
「次の雨のあとにも見る」
「それでいい」
魚を受け取る。
約束を一つ果たした。
仕事板の魚へ、終わった印をつけようとしたとき、ボルツが俺を呼び止めた。
「もう一つある」
露店の下から、小さな布袋を取り出す。
中には、細い縄と、先端が尖った金属の重りが入っていた。
「これは?」
「親父が使ってたものだ。川で網の深さを測るときに使ってた」
重りを持ち上げる。
縄の先で、金属が真下へ垂れる。
揺れが収まると、先端は地面の一点を指した。
「下げ振りだ」
「何だ、それ」
「柱が真っすぐ立ってるか見る道具」
「これは川の深さを見る道具だ」
「家にも使える」
前世で使われていたものと、ほとんど同じだ。
重力に従って垂れる糸を基準に、柱や壁の傾きを確かめる。
この世界で、初めて自分のものとして持てる測定道具だった。
「もらえない」
縄をボルツへ返そうとする。
「使ってないんだろ?」
「使ってねえ。だが、捨てるつもりもなかった」
「なら、余計にもらえない」
「親父は道具を使わず腐らせる奴が、一番嫌いだった」
ボルツは俺の手を押し戻した。
「お前なら使うんだろ」
「ああ」
「なら持っていけ」
金属の重りを見る。
表面には傷があり、縄も何度か結び直されている。
長く使われてきた道具だ。
釘一本でも高価なこの世界で、金属の重りは決して安くない。
「大事に使う」
「なくしたら、魚の餌にするぞ」
「俺を?」
「重りをだ。お前は魚が腹を壊す」
最後まで素直ではない。
「ありがとう」
今度は、はっきりと礼を言った。
重りを垂らしてみる。
風で少し揺れたあと、縄は真っすぐな線を作った。
地面へ描いた線よりも確かな、動かない基準。
これがあれば、柱の傾きを今までより正確に見られる。
「次は、マーヤさんの屋根?」
ミラが仕事板を見る。
「その前に、ボルツさんの店を描き直す」
「魚は、わたしが描く」
「店を描くんだ」
「魚屋だから、魚もいるよ」
「足は描くなよ」
「ひれだってば」
板へ新しい絵を描こうとしたとき、人混みの向こうから叫び声が聞こえた。
「誰か来てくれ!」
広場の北側。
井戸の近くからだった。
「荷車が沈んだ!」
人々が集まり始める。
俺たちも向かう。
井戸へ続く道の中央で、荷車の片輪が地面へ深く沈んでいた。
ただのぬかるみではない。
石畳の一部が割れ、その下に黒い穴が開いている。
穴の奥から、水の流れる音がした。
「地下が空洞になってる」
俺が近づこうとすると、ガルドに肩をつかまれた。
「寄るな」
「でも、中を見ないと」
「周りまで崩れるかもしれん」
荷車の持ち主が、必死に馬を押さえている。
割れた石の下では、土が少しずつ穴へ落ち続けていた。
広場の水たまりを直したばかりだった。
だが、水の問題は、店の前だけでは終わらない。
目に見える溝の下には、俺たちが知らない古い水路が町中へ伸びている。
その一つが、今、道の下で壊れようとしていた。
「全員、穴から離れて!」
俺は周囲へ向かって叫んだ。
小さな雨漏り。
露店の水たまり。
そして、道の下に生まれた空洞。
水は、一軒の家だけを見て流れているわけではない。
町全体の高い場所と低い場所をつなぎ、見えないところを通り続けている。
次に直すべきものは、これまでよりずっと大きい。
俺は手の中にある下げ振りを握った。
町の下に隠れた水の道を、見つけなければならない。
お読みいただきありがとうございます。
次回、井戸の近くに開いた穴と、町の地下に残る古い水路をレオたちが調べます。




