表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第一部 居場所を建てる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/26

第七話 雨漏りは、真上からとは限らない

 家を完成させた次の朝、頬が濡れているのに気づいて目を覚ました。


「……嘘だろ」


 雨漏りを疑った。


 目を開け、屋根を見上げたが、そこから雫が落ちてくることはなかった。


 代わりに、隣で眠っていたミラが寝返りを打つ。


 濡れた髪の先が、俺の顔へ触れた。


「お前か」


「んん……」


 ミラは目を覚まさない。


 昨日の疲れが残っているのだろう。俺の腕へ頭を載せたまま、静かな寝息を立てている。


 奥では、エナも眠っていた。


 屋根を打つ雨音は、もう聞こえない。


 昨夜のうちに雨は止んだらしい。


 俺はできるだけ身体を動かさず、家の中を見回した。


 昨日、皆で建てた一部屋だけの家。


 朝の光が、壁の上部に作った小さな開口から差し込んでいる。


 不揃いな柱。


 樽板と布を組み合わせた壁。


 石を積んだ炉。


 昨日までは、ただ完成させることしか考えられなかった。


 こうして落ち着いて見ると、直したい場所がいくつもある。


 入口の扉には、わずかな隙間がある。


 雨を受けた布の壁は、下端が湿っていた。


 炉の周囲も、もう少し広く石で囲った方がいい。


 屋根板の一枚は、隣の板との重なりが浅い。


 完成したと思った翌朝には、もう次の仕事が見えている。


「建物って、そういうものだよな」


 作って終わりではない。


 人が住み、雨が降り、風が吹いて、初めて分かることがある。


 こうやって建物の観察をしてしまうのは、前世の職業病かもな。


 前世の記憶は、こういうときになると今でもはっきりしている。


 その一方で、この身体に残っていた記憶は、最初の数日より輪郭が薄くなっていた。


 人の名前や路地の向きが、必要な時だけ不意に浮かぶ。


 けれど、この町で使われている文字の読み方や、前のレオが何を考えていたのかまでは残っていない。


 思い出せない部分を、都合よく自分の記憶で埋めることもできなかった。


 前のレオがどこへ行ったのか、俺には答えが出せなかった。


 ただ、この名前で残った借りと、人とのつながりからは逃げない。


 今は、そう決めている。


 俺はそっと身体を起こそうとした。


「痛っ」


 手のひらに鋭い痛みが走る。


 巻かれた布を見ると、傷口の周囲が赤く腫れていた。


「動かすな」


 入口から声がした。


 ガルドが、開け放たれた扉の向こうに立っている。


「いつからいたんだ?」


「今来た」


「人の家なんだから、声くらいかけろよ」


「扉が開いていた」


「閉め忘れたのか?」


「一番入口側で寝てたのはお前だろ?」


 俺のせいだった。


 ガルドは家へ入り、俺の手をつかむ。


「布を替えるぞ」


「自分でできる」


「両手を怪我してる奴が、どうやって巻く」


「片方はまだ動く」


「動くことと、使っていいことは違う」


 昨日も似たようなことを言われた気がする。


 ガルドが古い布を外す。


 傷口へ水を流され、思わず顔をしかめた。


「沁みる」


「腐って手を切り落とすよりましだ」


「朝から怖いことを言うなよ」


「怖がる頭があるなら、もう少し手を大事にしろ」


 薬草を潰したらしい緑色の軟膏を塗られる。


 強い匂いがした。


「今日は工房へ来るな」


「借りを返さないと」


「その手で何ができる」


「掃除くらいなら」


「箒を握れば傷が開く」


「じゃあ、木を見る」


「見るだけで仕事になると思うな」


 もっともだ。


 しかし、何もしないで一日を過ごす気にもなれなかった。


「レオ、起きたの?」


 ミラがようやく目を覚ました。


 俺がいなくなったことで枕を失い、藁の上へ顔を伏せている。


「ああ、さっき起き―」


「今日、パン屋さんへ行くんでしょ。わたしも行く」


「あ」


 約束を思い出す。


 家の材料を集めるため、セナには店の雨漏りを見ると約束していた。


「その手では屋根に上がれんぞ」


 ガルドが言う。


「見るだけならできる」


「さっき俺が言ったことを、そのまま返すな」


「雨漏りは、屋根に上がらなくても調べられる」


「どうやって?」


「最初は、中を見る」


 雨が落ちている場所。


 天井や梁に残る染み。


 水が流れた跡。


 それを見れば、侵入した方向を推測できる。


「屋根へ上がるのは、そのあとだ」


 ガルドは俺の顔を見た。


「本当に見るだけだぞ」


「必要なら、ガルドさんが屋根に上がってくれる?」


「誰がやると言った」


「でも来るんだろ?」


「お前が勝手なことをしないか見張るだけだ」


 それは、来てくれるという意味だった。


     ◇


 セナのパン屋は、広場から一本入った通りにある。


 石造りの壁へ木の屋根を載せた、二階建ての建物だった。


 一階が店と厨房。


 二階は住居として使っているらしい。


 まだ朝早いというのに、店の前には焼きたてのパンを待つ人が数人並んでいた。


 中から、麦と薪の匂いが流れてくる。


「遅いよ」


 厨房へ入るなり、セナが言った。


「今朝来る時間は決めてなかっただろ」


「パン屋の朝は、太陽より早いんだよ」


「この町の働く人、みんな太陽に厳しくないか?」


「口を動かす前に、こっちを見ておくれ」


 セナが厨房の奥を指差す。


 大きな石造りの窯の横。


 天井から、茶色く濁った水が桶へ落ちていた。


 雨は止んでいる。


 それでも、一定の間隔で雫が落ちてくる。


「昨日の雨が残ってるのか」


「雨が強いと、丸一日は落ち続けるよ」


 セナが桶を少しずらした。


 桶の周囲には、小麦粉の袋が積まれていた。


 濡れないよう布が掛けられているが、一番上の袋には染みがある。


「今まで、どう直してた?」


「水が落ちる真上へ板を足して、隙間に粘土を詰めてた」


「誰が?」


「前は近所の人に頼んでた。最近は私が自分で」


「直した直後は止まる?」


「弱い雨ならね。強く降ると、また同じところから落ちる」


 俺は桶の位置から天井を見上げた。


 板張りの天井には、大きな染みができている。


 だが、染みは桶の真上を中心とした丸い形ではなかった。


 窯の方から斜めに伸びている。


「二階に上がれる?」


「上は寝室だよ。屋根裏へ入るなら、そこから梯子を使う」


 セナが奥を指した。


「その手で上る気か?」


 ガルドが睨む。


「梯子は足で上がれる」


「落ちたら、今度は足まで使えなくなるぞ」


「じゃあ、わたしが上がる」


 ミラが手を挙げた。


「わたしなら手も怪我してない」


 俺は首を振る。


「暗い屋根裏だぞ」


「怖くない」


「怖いかどうかじゃない。危ない場所が分からないだろ」


「レオだって、この家は初めてでしょ」


 言い返せない。


「俺が上がる」


 結局、ガルドが梯子へ手を掛けた。


「お前は下から指示しろ」


「屋根裏の中が見えない」


「俺が見たものを言う」


「ちゃんと説明できる?」


 ガルドの手が止まった。


「……降りるぞ」


「お願いします」


 機嫌を損ねる前に頭を下げた。


     ◇


 二階の天井にある小さな板戸を開くと、埃が落ちてきた。


 ガルドが灯りを持って屋根裏へ入る。


 俺とミラは梯子の下で待った。


「どうなってる?」


「梁が一本。その上に垂木。屋根板の裏側は煤で黒い」


「水の跡は?」


「ある」


「どこから?」


「窯の上だ」


 厨房の窯から伸びる煙道は、建物の石壁に沿って上がり、屋根を突き抜けている。


 雨染みの方向も、煙道へ向かっていた。


「桶の真上じゃない?」


「そこにも水はある。だが、木の表面を伝ってきてる」


 やはり。


 雨漏りの水は、入った場所から真下へ落ちるとは限らない。


 屋根の下地や梁を伝い、離れた場所から室内へ現れることがある。


「煙道の周りを見て」


「屋根板との間に粘土が詰めてある」


「割れてない?」


「ひびだらけだ」


「上側と下側、どっちがひどい?」


 少し間が空く。


「上側だ。隙間に指が入る」


「そこから入ってる」


「見てもないのに決めるな」


「水の跡が煙道から梁へ続いてるんだろ?」


「ああ」


「なら、可能性は高い」


 煙道の上側から入った雨が、屋根の内側を流れ、梁へ当たる。


 そこから木の表面を伝い、厨房へ落ちている。


 セナは水が落ちる真上へ板と粘土を足していた。


 だが、本当の入口は別の場所だった。


「上から水をかけて確かめたい」


「雨は止んでるよ」


 セナが言う。


「井戸の水を使う」


「屋根へ水を運ぶのかい?」


「少しでいい。入る場所を順番に確かめる」


「水を無駄にするなよ」


 共同井戸から水を運ぶのも労力が必要だ。


 一桶すべてを使うわけにはいかない。


 ガルドが屋根裏から降りる。


「屋根へ上がるぞ」


「俺も――」


「お前は下だ」


 言い切られた。


     ◇


 外から見ると、煙道と屋根の境目には粘土が厚く盛られていた。


 何度も補修したため、元の形が分からないほど膨らんでいる。


 ガルドが屋根へ上り、俺は地上から見上げる。


「まず、煙道の下側へ水をかけて」


「下からか?」


「入ってくる可能性が低い場所から試す。最初に上へかけたら、下側の状態を確かめられなくなる」


 セナが小さな器へ水を入れ、縄で屋根へ上げる。


 ガルドが煙道の下側へ、ゆっくり水を流した。


「ミラ、中を見てきて」


 ミラが厨房へ向かう。


 しばらく待つ。


「落ちてこない!」


 窓から声が返ってきた。


「次、横側」


 左右へ少しずつ水をかける。


 それでも変化はない。


「最後に上側」


 水が流される。


 屋根の傾斜に沿って、煙道へ当たる。


 粘土のひびへ、一部が吸い込まれた。


「落ちてきた!」


 ミラが叫ぶ。


 セナが厨房へ戻り、すぐに出てくる。


「さっきより多いよ」


「入口は、煙道の上側だ」


 ガルドが屋根から粘土を軽く叩く。


 表面が大きく剥がれた。


「中まで割れてるぞ」


「粘土を詰め直せばいい?」


 セナが尋ねる。


「それだけだと、また割れる」


 煙道は、窯を使うたびに熱くなる。


 屋根の木材と石の煙道では、温まり方も動き方も違う。


 その境目を硬い粘土だけで塞いでも、熱や風でひびが入りやすい。


 何より、屋根を流れてきた水が、直接その境目へぶつかる形になっている。


「水を、隙間へ来させないようにする」


「どうやって?」


「煙道の上側へ、小さな屋根をつける」


 紙も板も持っていないため、地面へ炭で図を描く。


 屋根を流れてきた水。


 煙道との境目。


 その上へ、斜めに板か石をかぶせる。


「ここで水を左右へ分ける」


「煙道の周りへ、屋根を作るのかい?」


「大きなものじゃない。水を受けて逃がすだけ」


 前世なら、雨押さえや水切りと呼ばれる部分だ。


 金属板があれば作りやすい。


 だが、この世界で鉄や銅は高価だ。


「薄くて、水を通さず、火に強いものが必要だ」


「全部そろった物なんてあるのか?」


 セナが首を傾げる。


 木や樹皮は加工しやすいが、煙道の近くでは使いたくない。


 布は燃える。


 石は火に強いが、薄く加工しにくい。


「焼き板ならあるよ」


 セナが厨房の隅を指差した。


 そこには、割れた平たい焼き板が何枚も積まれている。


 窯の中でパンを載せるための、焼き固められた土の板らしい。


 割れて商品には使えないが、火には強い。


 厚さは指一本ほど。


「これ、もらっていい?」


「直るなら全部使っていいよ」


 大きめの欠片を組み合わせる。


 そのままでは隙間ができるが、重ねれば水を左右へ流せる。


「煙道の継ぎ目に、焼き板を差し込む溝を作る」


 俺が言うと、ガルドが屋根の上からこちらを見る。


「石を削る気か?」


「石と石の継ぎ目の粘土を少しだけ取る。その隙間へ焼き板の端を差し込む」


「煙道を崩すなよ」


「深くは掘らない。板が抜けない分だけ」


 煙道の上側に、傾けた焼き板を差し込み、下端を屋根の上へ重ねる。


 そうすれば、屋根を流れてきた水は焼き板へ当たり、屋根を流れてきた水は、焼き板へ当たり、煙道の左右へ分かれる。


 境目には直接届きにくくなる。


「ひびはどうする?」


「古い粘土を全部取って、詰め直す。でも、水を止める役目を全部粘土に任せない」


 粘土は、隙間を埋め、板が動くのを防ぐ。


 焼き板は、水を受け流す。


 一つの材料へ、すべての役割を背負わせない。


「やってみるか」


 ガルドが屋根から降りてきた。


「俺が加工する。レオ、お前は形を決めろ」


「作ってくれるのか?」


「見張ってるだけだ」


「屋根から下りたけど」


「うるさい」


     ◇


 まず、煙道の周囲へ盛られた古い粘土を取り除いた。


 表面だけは硬い。


 だが、その内側は雨水で崩れ、泥のようになっている。


「こんなに傷んでたのか」


 セナが驚く。


「外から粘土を足し続けたから、中が見えなかった」


 補修は、傷んだ部分を隠すだけでは意味がない。


 原因を残したまま上から覆えば、見えないところで悪化することもある。


 煙道の石積み自体には、大きな崩れはなかった。


 ガルドが継ぎ目の一部を慎重に削る。


 焼き板の欠片を当て、形を合わせる。


「右が高い」


 俺が言う。


「水は左へ流れる?」


「流れるが、一方へ集めすぎれば屋根板の隙間に当たる」


「左右へ半分ずつ分けたい」


 二枚の焼き板を、煙道の中央から左右へ傾ける。


 上から見ると、開いた本のような形になる。


 さらに、その下へ別の板を重ねる。


 板同士の継ぎ目が、水の流れと逆向きにならないよう注意する。


「上の板を、下へ重ねる」


 ミラが言った。


「屋根と同じだね」


「そうだ。水の流れる順番は変わらない」


 粘土へ細かな砂と、セナが窯から集めた灰を混ぜる。


「灰を入れるの?」


「ガルドさん、どうなんだ?」


「俺に聞くのか」


「この粘土のことを、俺より知ってるだろ」


 前世の材料とは違う性質があるかもしれない。


「窯の周りに使うなら、細かい灰を混ぜることはある。乾いたときの縮みが少し減る」


「なら入れる」


 前世の材料と同じ性質とは限らない。


 知らないことを、知っているふりはできない。


 この世界の職人が持つ経験と、俺の知識を組み合わせる必要がある。


 混ぜた粘土を、煙道と屋根の隙間へ詰める。


 焼き板の端を継ぎ目へ差し込み、動かないよう固定する。


 表面を平らにするだけではなく、水が溜まらないよう傾斜をつける。


「これで終わり?」


 セナが尋ねる。


「確かめてから」


 修理した部分へ、すぐに大量の水をかけることはできない。


 粘土がまだ柔らかいからだ。


 そのため、まず焼き板の上へ少量ずつ流す。


 水は中央で二つに分かれ、煙道の左右へ流れた。


 境目にはほとんど当たらない。


 次に、少し上の屋根から流す。


 同じように左右へ分かれる。


「中は?」


 ミラが厨房へ走る。


 しばらく待っても、声は聞こえない。


「どうだ?」


「落ちてこない!」


 セナも中へ入り、天井を見上げる。


「本当に止まってる」


「今はな」


 俺は答えた。


「次に強い雨が降ったとき、もう一度見た方がいい」


「直ったんじゃないのかい?」


「屋根は、実際の雨を受けてみないと分からないこともある」


 昨日、俺たちの家が雨と風に試されたように。


「それに、屋根裏の濡れた木を乾かさないといけない。ずっと湿ったままだと腐る」


「どうすればいい?」


「晴れた日に、屋根裏の板戸を開ける。厨房の窓も開けて、空気を通す」


「窯を使えば乾くんじゃないのか?」


「急に熱くすれば、木が割れるかもしれない。それに、湿気の逃げ道がなければ中へ残る」


 セナは天井を見上げながら頷いた。


「今まで、水が落ちるところしか見てなかったよ」


「普通は、そこを直したくなる」


 目の前で濡れている場所へ、板を張る。


 穴を埋める。


 桶を置く。


 だが、見えている場所が原因とは限らない。


「雨漏りは、真上から入るとは限らない」


 その言葉を口にした瞬間、前の世界の記憶が蘇った。


 死ぬ直前。


 雨の屋上。


 防水層の端に見つけた、小さな亀裂。


 あの建物の雨漏りを、俺は直せなかった。


 原因は見つけた。


 だが、応急処置をする前に足を滑らせた。


「レオ?」


 ミラが顔を覗き込む。


「どうしたの?」


「何でもない」


「変な顔」


「前にも言われた」


 今度は、直せた。


 小さなパン屋の、小さな雨漏り。


 それでも、俺にとっては前の人生から続いていた仕事を、ようやく一つやり遂げたように思えた。


     ◇


「代金は、これでいいかい?」


 修理を終えると、セナが焼きたての丸いパンを五つ持ってきた。


「多くない?」


「ガルドとミラの分もある。エナさんにも持っていきな」


「材料も使ったし、作業したのはほとんどガルドさんだけど……」


「俺はいらん」


 ガルドが言う。


 しかし、セナは一番大きなパンをガルドへ押しつけた。


「親方がただ働きなんかしたら、ほかの職人に迷惑だよ」


「俺は親方として受けた仕事じゃない」


「なら、朝飯として食べな」


 ガルドは不満そうな顔をしながら、パンを受け取った。


「レオ」


 セナが俺へ残りを渡す。


「これで、広場で約束した分は終わりだよ」


「本当にいいのか?」


「ああ、本当に雨漏りが止まったならね」


 こればかりは雨が降らないとわからなかった。


「次の雨でも漏れなければ、貸し借りなしだよ」


「妙なところで頑固だね」


「直ってないのに、直したことにはできないだろ?」


 セナが少し笑った。


「前のお前なら、パンだけ持って逃げてたのに」


「それ、みんなから言われる」


「仕方ないだろ。みんな、本当にそう思ってるんだから」


 分かっている。


 信用は、家のように一日で完成するものではない。


 小さな仕事を一つずつ重ねるしかない。


「そうだ」


 セナが厨房の棚から、細長い木板を持ってきた。


 表面は平らに削られているが、端が少し焦げている。


「これも持っていきな」


「何に使う板?」


「昔、パンの数を書くのに使ってた。焦がしてしまってからは使ってない」


 指で煤を拭う。


 年季が入ってるがまだ使えそうだ。


「炭で線を描けるよ」


 俺が地面や泥の上へ、何度も家の形を描いていたことを覚えていたらしい。


「ありがとう。家を作る前に図を描ける」


「家を建てる前に毎回図を描く必要はあるのかい?」


「家を作る前に、形を考えられる」


「地面じゃ駄目なの?」


「雨が降ったら消える」


「板だって濡れたら消えるよ」


「屋根の下へ置けばいい」


 俺は木板を抱えた。


 この世界へ来て、初めて手に入れた図面を描くための道具。


 紙ではない。


 定規もない。


 それでも、頭の中にあるものを、人へ見せることができる。


「大事に使う」


「ただの焦げた古い板だよ」


「俺には必要なものだから」


 セナは少しだけ驚いた顔をしたあと、穏やかに笑った。


     ◇


 パン屋を出ると、店の前に何人かの人が集まっていた。


 修理の様子を見ていたらしい。


「雨漏り、直ったのか?」


「今のところは」


 俺が答える。


「今度の雨で、もう一度確認する」


「うちの物置も見てはくれないかい?」


 知らない老人が言った。


「床が傾いててな」


「俺の家は、扉が閉まらねえ」


「井戸の横の道も、水がたまったままだぞ」


 次々と声が上がる。


「ちょっと待ってくれ」


 すぐには答えられない。


 俺はまだ、鋸を真っすぐ引く練習を始めたばかりだ。


 すべてを直せるわけではない。


 見ただけでは分からないこともある。


「俺一人じゃ、できることにも限度が」


「ガルド親方がいるじゃないか」


「俺を勝手に数えるな!」


 ガルドが怒鳴る。


 人々は笑った。


 冗談で済ませているが、頼まれたからといって何でも引き受けるのは危険だ。


 建物は、人の命を預かる。


 分からないことを、分かったつもりで直してはいけない。


「まずは、状態を見ないと」


 俺は言った。


「見て、俺たちで直せるものか考える。危ないと思ったら、別の職人へ頼んでもらう」


「金がないから、お前に頼んでるんだ」


 老人が言う。


「金がなくても、できないものはできない」


 前の俺なら、格好をつけて何でもできると言ったかもしれない。


 あるいは、自信がなくてすべて断っていた。


 今は、そのどちらにもなりたくない。


「ただし、直す方法があるなら考える」


 人々が顔を見合わせる。


「順番は?」


 誰かが尋ねた。


 俺はセナにもらった板を見る。


 炭を取り出し、表面へ線を引く。


 最初に、セナの店。


 修理は終わったが、次の雨で確認が残っている。


 その下に、ボルツの露店。


 マーヤの屋根。


 まだ確認の残っているものと、すでに交わしている約束を書く。


 それぞれ簡単に文字を書いた。


 パン。


 魚。


 布。


「何、それ?」


 ミラが覗き込む。


「……文字」


「レオ、字を書けるの?」


「いや、これは……」


 言いかけて、止まる。


 日本語だ。


 俺には読める。書くこともできる。


 けれど、どうして知っているのかを説明することはできない。


「俺しか読めない字みたいなもの」


「なによ、それ」


 ミラが呆れたように板を見る。


「じゃあ、みんなには分からないじゃない」


「……そうだな」


 俺は文字の横へ、簡単な絵を描き足した。


 丸いパン。


 魚。


 布を広げた形。


「これなら?」


 ミラが板を覗き込む。


「セナさんと、ボルツさんと、マーヤさん」


「分かるな」


「うん」


 俺にだけ分かる文字より、こっちの方がいい。


 この辺りには文字を読めない人も多い。これなら、誰でも順番を確認できる。


「これ、何て呼ぶの?」


「何って……」


 改めて板を見る。


 頼まれた仕事を、順番に並べておく板。


「仕事板……かな」


「そのままだね」


「分かりやすいだろ」


「レオらしい」


 俺は板の空いているところへ、物置、扉、井戸の絵も描き足した。


「まず、残ってる三つから」


「俺の店の排水は、もう直したようなものだろ」


 ボルツが人混みの後ろから声を上げる。


「店の前だけじゃなく、屋根から落ちる水も見たい」


「また掘るのか?」


「必要なら」


「魚をもう一匹取られるな」


「代金は仕事を見てから決めてくれ」


「生意気になりやがった」


 ボルツは笑っていた。


「全部は、すぐにできない」


 俺は集まった人たちへ言った。


「でも、一つずつ見る」


 誰かの家を建てる。


 壊れた場所を直す。


 水の流れを変える。


 そのためには、材料も、人手も、技術も必要になる。


 今の俺には、どれも足りていない。


 だが、仕事がある。


 必要としてくれる人がいる。


「今日は休めと言ったはずだ」


 ガルドが俺の持つ板を見ながら言う。


「休むよ」


「その板を持ってか?」


「家に帰って、直す順番を考えるだけ」


「それを休むとは言わねえ」


 ガルドがため息をつく。


「文字も読めん奴が、仕事の順番を決めるのか」


「絵なら分かる」


「お前の描いた魚は、四本足に見えるぞ」


「ボルツさんの店だって分かればいいんだよ」


「何で俺の店だけ化け物なんだ!」



 人混みの後ろから、ボルツの声が飛んできた。


「魚を描いたんだけど」


「四本足の魚がどこにいる」


 また人々が笑う。


 俺も少しだけ笑った。


 この町へ来たとき、俺は泥の中で一人だった。


 誰にも信用されず、道具も金も、自分の名前の記憶さえ曖昧だった。


 今は、帰る家がある。


 教えてくれる職人がいる。


 帰りを待ってくれる人がいる。


 そして、焦げた一枚の板には、これから直していく場所が少しずつ増え始めている。


 大きな建物を作るには、まだ早い。


 まずは、小さな雨漏りから。


 一つずつ原因を探し、一つずつ直していく。


 焦げた一枚の板から、俺の仕事は少しずつ広がり始めていた。

お読みいただきありがとうございます。


今回から、レオが町の壊れた場所を一つずつ直していく物語が始まります。

次回は、魚売りボルツの露店と、広場に水がたまる原因を調べます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ