第六十四話 名前を書く前に、暮らし方を聞く
名簿には、名前を書く。
年齢。家族。来た場所。仕事。
けれど、人を名簿へ入れることは、空いている欄へ文字を埋めることではない。
どこで眠り、誰と暮らし、何を必要とし、いつまでいるのか。
名前を書く前に、その人がどんな暮らしを持ってきたのかを聞かなければならない。
◇
ヴァリス公国から来た十三人のうち。
正しい通行証を持っていたのは。
四人だけだった。
「残りは?」
ハーレンが尋ねる。
「村ごとの移動札です」
先頭の男。
ダンという石切りが。
木札を出す。
公国の印ではない。
山。
槌。
三つの点。
「採石村の印?」
リゼが確認する。
「はい」
「国境の検査所は、これで通した?」
「閉山の避難者だと」
「記録は?」
「検査所に」
「写しは?」
「ありません」
アルネア王国の役所では。
ヴァリスの村札が。
身分証として有効か分からない。
「名前が違う人は?」
ルナが名簿を見る。
一枚の通行証。
名前は。
ダン・オレフ。
だが。
本人は。
ダン・レスと名乗っている。
「オレフは、村の名です」
ダンが答えた。
「公国では、村名を後ろへ書くことがある」
「レスは?」
「父の名」
「どっちが本当?」
ルナが尋ねる。
「どちらも」
名前の形も。
国で違う。
アルネア王国では。
家名。
職名。
土地名。
人によって違うが。
同じ記録の中では。
一つの形へそろえる。
ヴァリスでは。
村を出るまで家名を使わず。
父や母の名を添える地域があるらしい。
「一つに決めたら?」
ルナが言う。
「あとで、別人に見える」
リゼが答えた。
「両方書きます」
「欄が足りない」
「紙を足す」
人を。
書式へ合わせて削らない。
紙の方を増やす。
◇
問題は。
名前だけではなかった。
「この家族は、山羊と一緒に暮らす」
サラが言った。
「家の中?」
ミラが驚く。
「冬は」
ヴァリスから来た女性。
イェナが答えた。
「山では、夜の冷えが強い。家の一階に山羊。人は上」
「この町に二階建ては少ない」
俺が言う。
「山羊を外へ置いたら?」
「盗まれる」
「柵」
「雨」
「小屋」
「材料」
すぐに。
必要なものが増える。
「帰り火へ住むなら、山羊も登録する?」
ルナが尋ねる。
「数は」
リゼが答える。
「名前も?」
「山羊に?」
「あるよ」
イェナの娘が言う。
「白いのがルル。黒いのがバン。角が曲がってるのがモナ。小さいのがピト」
「全部書く?」
ルナは真剣だった。
「家畜記録には、色と印で十分です」
リゼが答える。
「名前も横へ書く」
ミラが言った。
「どうして?」
「呼ぶとき、色だけじゃ分からないかもしれない」
ルナは。
嬉しそうに四つの名前を書いた。
◇
さらに。
食事。
火。
仕事。
暮らし方が違う。
ヴァリスの人たちは。
夜遅くまで石を削ることがある。
朝は遅い。
灰河から来たテオたちは。
日が出る前に起き。
水が冷たいうちに土を練る。
帰り火の木場は。
朝が早く。
夜は火を小さくする。
「同じ場所へ住んだら、眠れない」
ベルンが言う。
「石を削る音は、家二軒離れても響く」
「夜にしかできない仕事もある」
ダンが答えた。
「どうして?」
「昼は、役所の石場で働く。自分たちの道具を直すのは夜」
「じゃあ、仕事場を別にする」
俺が言う。
「家と?」
「少し離す」
「道具を盗まれる」
「夜番」
「また人がいる」
一つの問題を。
壁だけで解決しない。
場所。
時間。
見張り。
記録。
組み合わせる。
◇
十三人全員へ、同じ順番で同じ質問を押しつけることはしなかった。
子ども。
大人。
病気の人。
石工。
家畜を持つ人。
戻る予定の人。
ここへ残りたい人。
「何を聞けばいい?」
ルナが尋ねる。
「名前」
「そのあと」
「どこで眠りたいか」
ミラが答えた。
「家族と?」
「一人で?」
「動物と?」
「火は?」
「何を使う?」
「水は?」
「どれくらい?」
「仕事は?」
「昼か夜か」
質問を。
一枚の板へまとめる。
ただし。
全部へ答えなければ。
泊まれないわけではない。
分からない。
まだ決めていない。
言いたくない。
そういう欄も作る。
「言いたくないって、書くの?」
ルナが尋ねる。
「空白にすると、聞き忘れたと思う」
リゼが答える。
「言わないと決めたことも記録です」
三年前。
分からないことを。
分からないと書いた。
今は。
言いたくないことを。
無理に埋めない。
◇
聞き取りを続けるうちに。
同じ家族の中でさえ。
答えが違うことがあった。
「帰る予定はない」
父親が言う。
「冬が終われば戻る」
娘が言う。
「村は閉じられた」
「叔父さんが残ってる」
「坑道へは入れない」
「家の上なら」
どちらかを。
正しい答えに決めることはできない。
リゼは。
家族単位の欄を、二つへ分けた。
今の予定。
本人の希望。
「予定と希望は違う?」
ルナが尋ねる。
「戻れないと思っていても、戻りたい人がいる」
「戻れると思ってても、戻りたくない人も?」
「いる」
子どもの一人。
ニアは。
自分の名を書かれるところを見ていた。
「その名前、嫌」
「通行札には、ニアとあります」
「村では、ニィって呼ばれてた」
「どちらを書く?」
「ニィ」
父親が口を挟む。
「正式な名はニアだ」
少女は黙る。
俺は。
前のレオの名前を思い出した。
この身体の名前。
今の俺が使っている名前。
同じ文字でも。
呼ばれる人の中身まで、全部同じではない。
「札の名前と、呼んでほしい名前を分ける」
ミラが言った。
「家では、ニィ?」
少女が頷く。
「記録では、ニア。呼ぶときはニィ」
ルナが二つ書く。
「大人になったら変えていい?」
「今でも、変えたいときに言って」
名前は。
一度書けば終わりではない。
次に。
記録を誰が見られるかを決めた。
公開板。
住人の名前。
家の位置。
必要な水。
夜仕事の有無。
内側の帳面。
病気。
亡くなった家族。
逃げてきた理由。
戻り先。
「内側の帳面を見たい人が来たら?」
ベルンが尋ねる。
「一人では開けない」
リゼが答えた。
「記録番二人。本人。必要なら役所」
「本人がいなければ?」
「命に関わる場合だけ。理由を残す」
鍵を一つにしない。
帳面を入れる箱は。
二本の木栓を、別々の側から抜かなければ開かない形へした。
「面倒」
ルナが言う。
「見せたくないことは、簡単に開かない方がいい」
ミラが答えた。
病気や家族の事情など。
公開板へ出さない記録も。
同じ箱へ置く。
「本人が死んだら、その記録はどうするの?」
ルナが尋ねる。
「残したいか。家族へ渡したいか。処分したいか。本人が決められる欄を作る」
リゼが言う。
「今、決められなかったら?」
「考え中と書く」
分からないことを。
誰かが勝手に決めない。
それも。
名前を守る方法の一つだった。
◇
聞き取りの途中。
ルナが、書き終えた仮名簿を集合所の壁へ掛けた。
これまで。
帰り火の名簿は。
誰が、どの家にいるか。
火事や病気のときに確かめるため。
見える場所へ置いていた。
ヴァリスから来た人たちも。
同じようにしただけだった。
「外して」
一人の女性が、壁の紙を見て言った。
イェナ。
山羊と暮らす家族の母親。
「何が間違ってる?」
ルナが不安そうに尋ねる。
「名前じゃない。村」
名簿には。
出身地。
移動理由。
戻る予定。
すべてが、一つの欄に並んでいた。
――石穿ちによる坑道閉鎖。
――採石村カランより退去。
「これを見られると困る?」
俺が尋ねる。
「夫の兄が、鉱務院へ逆らったことになっています」
「本当は?」
「支えが足りないと訴えただけ。でも、村を出た人間は、仕事を捨てたと言われる」
帰り火の中だけなら。
事情を知るための記録。
外から来た石商や役人が見れば。
働き手を選ぶ材料にもなる。
「名簿に書かなかったら、支援を受けられない?」
イェナが尋ねる。
「人数と寝場所は必要」
リゼが答えた。
「出身村と退去理由は、公開板でなくてもよい」
「今まで、全部見える場所だった」
ルナが言う。
「今までは、帰り火の人だけを考えてた」
ミラが紙を外した。
公開する板。
担当者だけが見る帳面。
本人が持つ写し。
三つへ分ける。
公開板には。
名前。
寝場所。
火事のときに必要な人数。
薬や食べ物で注意すること。
ただし。
病気の詳しい内容。
逃げてきた理由。
亡くなった家族。
争いに関わることは載せない。
「名前も隠したい人は?」
ルナが尋ねる。
十三人の中で。
若い男が手を挙げた。
「本名を使いたくない」
「罪を犯した?」
ベルンがすぐ聞く。
「決めつけるな」
サラが止めた。
男は。
採石場の借金を残してきたらしい。
雇い主が。
本人を連れ戻そうとする可能性がある。
「借金から逃げたなら、商会へ知らせるべきです」
ヴァルクが言った。
「契約を見た?」
俺が尋ねる。
「見ていません」
「本人も持ってない?」
「村の役人が保管していた」
正しい借金か。
不当に増やされた借金か。
今ここでは分からない。
「公開板は、呼ばれたい名前にする」
リゼが決めた。
「役所の帳面には、本名を封じて残す。本人の同意なしに、商人へは見せない。ただし、王国の法に基づく正式な照会が来た場合は、本人へ知らせたうえで確認する」
「絶対に隠せるわけじゃない?」
男が尋ねる。
「絶対とは言えません」
リゼは嘘をつかなかった。
「でも、通りすがりの人が壁を見て持っていける情報にはしません」
名前を書くことは。
人を守ることもある。
人数を確かめ。
行方不明を探し。
食べ物や寝床を用意できる。
同時に。
書いた情報が。
誰かを追う道にもなる。
「記録を残すなら」
ミラが言った。
「誰に見せるかも、一緒に残さないと」
文字は。
一度壁へ出せば。
誰が読んだかを戻せない。
新しい名簿の端へ。
目の印。
鍵の印。
本人の手の印。
三つを書いた。
◇
最後に話したのは。
十三人の中で。
一番年上の女性だった。
名前は。
マーレ。
年齢は分からない。
七十を越えているように見える。
「戻る場所は?」
ルナが尋ねる。
「ない」
「採石村は?」
「私の家は、坑道の上だった」
「閉じられた?」
「下が抜けた」
「家族は?」
マーレは。
しばらく答えなかった。
「名前を書かなければ駄目かい」
「マーレさんの?」
「死んだ人の」
坑道の事故で。
息子夫婦と。
孫を失った。
公国の避難札には。
生きて出た人の名前しかない。
「書きたい?」
ミラが尋ねる。
「忘れたくはない」
「でも、知らない人に見せたくない?」
マーレが頷く。
帰り火には。
二つの記録がある。
役所へ出す使用記録。
住人が管理する生活記録。
全員へ見せる地図。
限られた人だけが見る名前板。
「生活記録へ書く」
俺は言った。
「役所には?」
「家族を失って避難したことだけ。名前は出さない」
「消されない?」
「記録が別にあると書く」
三年前。
西外仮宿の人たちは。
物の数だけ残り。
名前が消えた。
今度は。
名前を守るために。
どこへ書くかを選ぶ。
「息子が、オル」
マーレが言った。
「息子の妻が、ネラ。孫が、ティノ」
ルナは。
ゆっくり。
三つの名前を書いた。
見えないよう。
板へ布をかける。
◇
聞き取りを終えた人には。
その場で、記録の読み上げをした。
書いた人だけが正しいと思わないため。
「ダン・オレフ。呼び名はダン・レス。四十二歳。石切り。山羊なし。帰り火へ残るかは未定」
「年は四十だ」
最初の一行で直された。
「通行札には四十二と」
リゼが言う。
「村で、父と同じ年へ書かれた。税の組が一緒だったから」
「本当の年を証明できる物は?」
「ない」
数字を一つに決める代わりに。
本人申告、四十。
移動札、四十二。
両方を残す。
「どっちで扱う?」
ルナが尋ねる。
「仕事の年齢制限へ関わるなら、本人に不利にならない方を仮に使う。正式な確認ができたら直す」
次。
イェナの娘。
「名前は、セラ」
「違う」
少女が小さく言った。
「セラって聞いた」
ルナが困る。
母親が。
ゆっくり発音した。
王国の言葉にはない。
舌を少し巻く音。
「セラじゃない?」
「近い。でも、村ではセェラ」
「書ける文字がない」
リゼが言う。
そのまま近い文字へ変えれば。
呼ばれるたびに、本人の名前から少し離れる。
「本人の印もつける」
ミラが提案した。
少女が。
紙の横へ、小さな山と星を描く。
文字は。
セェラに近い音。
横へ。
本人の印。
「名前を呼ぶときは?」
ルナが何度か練習する。
完全には同じにならない。
少女は。
三度目で頷いた。
「それでいい」
正しく書くことは。
書いた人が読める形へ直すことではない。
本人が。
自分のことだと分かる形を。
一緒に探すことだった。
読み上げの最後。
それぞれへ。
自分の記録の写しを一枚渡した。
「持ってていいの?」
ダンが尋ねる。
「役所だけが持つと、あとで何を書かれたか分からない」
「失くしたら?」
「もう一度写す。変更したら、古い紙へ線を引いて残す」
新しい情報を。
前の記録の上から塗り潰さない。
人の暮らしが変わった跡も。
間違いを直した跡も。
本人が確かめられるようにする。
◇
十日の仮宿期間が終わる前に。
十三人の行き先が決まった。
四人は。
王都方面の採石場へ行く。
三人は。
川港へ。
六人は。
帰り火へ残る申請を出す。
マーレも。
残る。
「仕事は?」
ベルンが尋ねる。
「子どもの見張りならできる」
マーレが答えた。
「山羊も」
「山羊の方が言うことを聞くかもしれん」
「お前よりはね」
ベルンが笑う。
名簿には。
六人の名前。
四頭の山羊。
夜の石仕事。
必要な水。
帰る場所がないこと。
公開しない三人の名前。
書かれた。
人を記録することは。
名前だけを持つことではない。
その名前が。
どんな暮らしの中にあるのか。
聞く。
全部を同じ欄へ押し込めず。
見せるもの。
守るもの。
分からないものを分ける。
名前を書く前に。
暮らし方を聞く。
そうしなければ。
正しい名前だけが残り。
その人の暮らしは。
また、紙の外へ落ちる。




