第六十一話 透明な板にも、歪みがある
透明なものは、向こう側をそのまま見せるように思える。
けれど薄い硝子にも、波、泡、色、作った場所の違いが残る。
透明だからといって、何も隠していないわけではない。
見えている形が、本当の形と同じだとも限らない。
◇
灰河の隊商が置いていった硝子箱は。
第二集合所の奥へ運ばれていた。
売り物にならない欠片。
角の欠けた板。
大きく割れた窓。
小さい物でも。
素手では触らない。
厚い布。
革手袋。
木の箱。
「これ、本当に使うの?」
ルナが箱の外から覗く。
「使える形へ切れれば」
俺が答える。
「切れるの?」
「分からない」
「割るんじゃなく?」
「それを教える人が来る」
隊商責任者のセトが。
川港へ知らせを出していた。
割れた硝子を。
どう扱うか。
町で使える職人がいない。
勝手に削れば。
細かい破片が飛ぶ。
窓へはめても。
縁から割れる。
三日後。
川港から、小柄な女性が来た。
「サイラ・メル」
短く名乗る。
灰河諸市同盟。
南港市の硝子職人。
黒い髪を短く切り、目元には透明な板をはめた小さな防具を掛けている。
「それは?」
ミラが尋ねる。
「目を守る」
「硝子で?」
「細かい欠片が飛ぶから」
「見えにくくない?」
「少し歪む」
サイラが外し。
ミラへ渡す。
透明な板を通すと。
集合所の柱が。
わずかに曲がって見える。
「本当に歪む」
「目を守る方が大事だ」
「町の景色が曲がる」
「作業中だけ」
前世なら。
保護眼鏡。
当たり前の道具。
ここでは。
硝子そのものが高い。
目を守るために使える職人は、多くない。
「俺たちも必要?」
「切る者は」
「何個ある?」
「一つ」
「一人ずつ?」
「一人しか切るな」
サイラの答えは。
簡単だった。
◇
硝子を切る前。
大きさを決める。
「できるだけ大きい窓」
俺が言うと。
サイラは首を横に振った。
「この板から、大きくは取れない」
「ひびの外側を使えば」
「端が欠けている。力が残っている」
「力?」
硝子の表面には。
見えない小さな傷がある。
そこへ力が集まる。
一見。
無事に見える場所でも。
切ったとき。
別の方向へ割れる。
「この線」
サイラが。
板へ油を薄く塗る。
光が反射し。
細い傷が見えた。
「見えなかった」
「透明な傷は、見落とす」
「木みたいに叩けない?」
「割る気か」
「音で分かる?」
「大きなひびなら。小さい傷は光で見る」
材料で。
調べ方が違う。
木。
石。
土。
硝子。
前世の知識があっても。
手の感覚は。
この世界の職人から学ばなければならない。
「最初は小さく取る」
サイラが言う。
手のひら二つ分。
四角ではない。
傷を避け。
少し細長い形。
「窓枠が作りにくい」
「硝子を枠へ合わせるな」
「枠を硝子へ合わせる?」
「高い方へ、安い方を合わせろ」
硝子は高い。
木は。
ガルドの工房に端材がある。
割れた硝子を。
無理に四角くして小さくするより。
硝子の形へ。
木枠を作る。
「家と同じだ」
ミラが言う。
「柱の長さが違っても、上を合わせた」
「何でも家にするな」
俺が言うと。
「レオがいつもする」
「俺が言う前に言わないで」
◇
見本を一枚切ったあと。
サイラは、俺たちへ硝子を渡さなかった。
代わりに。
薄い焼き板を、同じ形へ割らせた。
「硝子じゃない」
俺が言う。
「手の置き方を覚えるまで、硝子は使わない」
焼き板へ線を引く。
下へ細い棒。
両側へ、同じ力。
最初の一枚は。
線の途中から斜めに割れた。
「右手が強い」
サイラが言う。
「同じに押した」
「同じと思っただけだ」
次は。
指の位置へ炭の印をつけた。
押す前に。
板の下の棒が、線の真下にあるかを見る。
パキン。
今度は、ほぼ線の通り。
「硝子なら?」
「最初の一枚は、使える部分まで失っていた」
高い材料ほど。
練習の失敗まで、同じ材料で行う必要はない。
ただし。
焼き板と硝子は、同じではない。
焼き板でできたからといって。
硝子でもできるとは限らない。
「次は、割れてもよい小片」
サイラが。
指二本ほどの硝子を出した。
俺は革手袋をつけ。
目を守る硝子片を顔へ当てる。
見える景色が。
青く歪んだ。
「線が曲がって見える」
「目守りの欠点だ」
「外した方が切りやすい」
「目を失えば、もっと切りにくい」
線を二重に見ないよう。
顔の向きを変える。
一度だけ刃を引く。
キィ。
音が途中で弱くなった。
「押す力が抜けた」
「もう一度なぞる?」
「駄目だ」
失敗した線のまま。
棒へ載せる。
力をかける。
硝子は。
線の途中まで進み。
そこから横へ割れた。
「使える?」
ミラが尋ねる。
サイラは。
割れた形を見た。
「小さな三角窓なら」
「失敗じゃない?」
「欲しかった形ではない」
サイラは答えた。
「だが、危険な割れを切り落とせば、別の形にできる」
失敗を。
なかったことにはしない。
それでも。
材料まで全部捨てる必要はない。
割れた硝子の縁へ。
白い石粉をつける。
削っていない危険な辺が、一目で分かるようにする。
「透明なのに、印がいるんだ」
ルナが言う。
「透明だからいる」
見えると思う物ほど。
傷が見えにくい。
硝子箱の横へ。
未加工。
切断済み。
縁削り済み。
割れ待ち。
四つの置き場を作った。
同じ透明な板でも。
触れてよい段階は違う。
◇
焼き板で十回、同じ手順を繰り返したあと。
サイラは、ようやく小さな硝子片を一枚出した。
手のひらより少し大きい。
薄い緑。
端に、小さな泡が並んでいる。
「最初は、これを切る」
「泡のないところ?」
俺が尋ねる。
「泡を避けて線を引け」
「小さい泡なら、残しても――」
「そこから割れる」
サイラは。
硝子を光へかざした。
泡の周囲だけ。
向こう側の柱が大きく歪む。
「見える?」
「歪んでる」
「冷える速さが違った場所だ」
作ったときに入った小さな空気。
見た目は。
模様にも見える。
けれど。
その周りには、目で見えない力が残っている。
「切る前に、布を立てる」
サイラが作業台の向こうへ、厚い布を垂らした。
「何のため?」
「飛ぶ」
「下へ割れるんじゃないの?」
「そう割る。だが、硝子はお前の予定を守らない」
革の袖。
目の前の薄い木板。
床へ敷く布。
落ちた欠片を、土や木屑の中へ混ぜないための受け箱。
硝子を一枚切る前に。
木より多くの準備が要った。
最初に刃を持ったのは、俺だった。
線を引く。
一度だけ。
焼き板では、同じ力で真っすぐ引けた。
けれど。
硝子の表面は滑り。
刃が泡の近くへ寄った。
「止める?」
ミラが尋ねる。
「途中で止めたら、線が二つになる」
俺は、そのまま端まで引いた。
台の縁へ線を合わせ。
上から押す。
パキッ。
硝子は。
線の途中までは真っすぐ割れた。
泡の手前で。
斜めに逸れた。
小さな欠片が跳ね。
布へ当たって落ちる。
布がなければ。
俺の頬か。
見ていたユリの方へ飛んでいた。
「失敗」
俺が言う。
「半分は使える」
サイラは、割れた硝子へすぐ触れなかった。
先に。
飛んだ欠片の数を確かめる。
一つ。
二つ。
三つ。
線の外れた場所。
布の下。
受け箱。
「欠片を全部見つけるまで、次を切らない」
「小さいのも?」
「小さい方が、靴へ入る」
木屑なら。
手で払える。
硝子は。
見えないほど小さくても、人を切る。
透明な物を扱う仕事には。
見えない物が残っていないと確かめる時間が必要だった。
「泡を避ければ、次は割れない?」
ユリが尋ねる。
「割れるかもしれない」
サイラが答えた。
「同じ炉で作った板でも、端と真ん中で違う。だから、最初に小さく試す」
材料の値段が高いから。
一度で大きく取りたくなる。
けれど。
高い物ほど。
小さな失敗で性質を確かめた方がよい。
俺が切った半分の硝子は。
窓には小さすぎた。
代わりに。
貯水桶の蓋へ入れ。
中の水が濁っていないかを見る試験に使うことになった。
失敗した形も。
使い道まで失うとは限らない。
◇
切る線へ。
細い金属の刃を当てる。
サイラは。
一度だけ引いた。
キィ。
小さな音。
「もう一回?」
「一回だけ」
「浅い」
「同じ線を二度なぞると、割れ方が乱れる」
線の下へ。
細い木棒を置く。
両側へ。
同じ力をかける。
パキン。
硝子が。
線の通りに分かれた。
ルナが。
息を呑む。
「きれい」
「触るな」
切った縁は。
刃と同じ。
石へ。
水をつけながら。
少しずつ擦る。
「全部丸くする?」
「手へ触れる部分だけ。削りすぎれば、欠ける」
丈夫にしようとして。
削りすぎる。
木でも。
同じ失敗をした。
◇
切った硝子は。
同じ大きさでも。
置く向きで見え方が変わった。
波の筋を縦にすると。
立っている人の身体が、細長く揺れる。
横にすると。
床と机の線が、波打って見える。
「どっちが正しい?」
ルナが尋ねる。
「どちらも、元の形ではない」
サイラが答えた。
「窓にするなら?」
「何を見る窓かで決める」
治療所。
寝台にいる人の顔。
手当てをする手。
薬の色。
大きく歪んでは困る。
そこで。
白い板へ。
真っすぐな線。
丸。
人の顔に見える印を描き。
硝子越しに見る。
「この青い板、きれい」
ユリが言う。
「でも、線が二本に見える」
薄緑の板は。
色は濁るが。
形の歪みが小さい。
「きれいな方を使わないの?」
「治療所では、形が分かる方」
サイラが答えた。
「青い板は?」
「光を和らげる場所。西日の強い窓」
同じ硝子でも。
透明に近いから上等。
色があるから失敗。
とは限らない。
窓の向き。
見る物。
入れたい光。
役目で価値が変わる。
さらに。
一枚ずつ、日向へ置いた。
透明な板は。
すぐ熱くなる。
濃い青は。
もっと熱を持った。
「色が濃い方が冷たそうなのに」
ミラが触れる前に、手を止める。
「見るだけでは分からない」
サイラが金属棒で温度を比べた。
寝床の近くへ使えば。
夏の午後。
木枠と布を熱くするかもしれない。
透明さ。
歪み。
色。
熱。
一枚の硝子へ。
四つの記録をつけた。
「窓にするまで、長い」
ベルンが言う。
「割ったら戻らない」
サイラが答えた。
「切る前に考える時間の方が安い」
◇
最初の硝子窓は。
治療所へ入れることになった。
「役所じゃないの?」
ルナが尋ねる。
「役所には、もうある」
サイラが答える。
「商会は?」
「ある」
「一番お金のない場所に?」
「治療所には、明るさがいる」
傷。
顔色。
薬の色。
雨の日でも。
見なければならない。
今までは。
木戸を開ける。
すると。
風。
雨。
冷気。
一緒に入った。
硝子があれば。
閉じたまま。
光だけ入れられる。
「透明な壁」
ミラが言う。
「壁なのに、向こうが見える」
「でも、全部は見えない」
古い硝子は。
波打っている。
人の顔が。
少し伸びる。
真っすぐな柱も。
場所によって曲がる。
「外から、中が見える」
治療師が言った。
「寝台は見せたくない」
光は欲しい。
視線は入れたくない。
「高い場所へつける」
俺は答えた。
「目の高さより上」
「治療する手元へ光が来る?」
「窓の下へ、白い壁」
光を反射させる。
サイラが。
壁の位置を見る。
「灰河では、薄い布を内側へ掛ける」
「硝子の意味がなくならない?」
「光は通る。人の形はぼける」
透明なものへ。
さらに。
見え方を調整する布。
窓は。
穴を塞ぐだけではない。
何を見せ。
何を見せないか。
決める場所でもある。
◇
治療所の壁へ。
小さな窓が入った。
不規則な形。
木枠は。
硝子へ合わせて作った。
外側には。
雨を流す小さな庇。
下には。
水が壁へ戻らない傾斜。
内側へ。
薄い白布。
午後の光が。
布を通り。
寝台の足元へ落ちた。
「明るい」
治療師が言う。
「風は?」
「入らない」
「雨は、次に見る」
完成とは。
まだ言わない。
雨。
冬。
強い風。
硝子が。
木枠の動きへ耐えられるか。
見なければならない。
◇
窓を入れた翌朝。
治療所から。
小さな音がした。
チッ。
木が乾く音にも。
硝子へ砂が当たる音にも聞こえる。
サイラは。
窓へ近づく前に。
全員を寝台の反対側へ下げた。
「割れた?」
ミラが尋ねる。
「まだ」
硝子の右下。
木枠へ触れる角に。
白い点が一つできている。
昨日はなかった。
「傷?」
「押されている」
夜の雨で。
木枠が水を吸い。
少し膨らんだ。
硝子は。
木と同じようには膨らまない。
ぴったり作った枠が。
角を押している。
「隙間がない方が、雨は入らないと思った」
俺が言う。
「木へ任せすぎた」
サイラが答える。
「硝子を固定しなければ、風で動く」
「締めつければ、枠が割る」
窓を外す。
昨日削った木枠の内側には。
硝子の角が当たった細い跡が残っていた。
「どれくらい空ける?」
「爪の先ほど」
「それだと、がたつく」
「硬い物で埋めない」
薄い羊毛布を。
細く折る。
硝子の四隅ではなく。
辺の途中へ入れる。
外側は。
木の押さえを強く打ち込まず。
外せる小さな木栓で留める。
「粘土で全部塞がない?」
「外の雨が入る上側だけ」
下側には。
入った水が外へ戻る細い隙間を残す。
「隙間を作って、雨を防ぐの?」
ルナが不思議そうに言う。
「入れないことだけ考えると、入った水が出られない」
屋根と同じ。
壁と同じ。
完全に閉じたつもりの場所ほど。
水は見えないところへ溜まる。
枠を直したあと。
外から少しずつ水を流した。
上。
左右。
最後に下。
水は。
庇と傾斜を通り。
壁の外へ落ちる。
内側の羊毛布は。
濡れなかった。
「次の雨で、もう一度」
サイラが記録札へ書く。
「今度は完成?」
「一晩使えた」
「完成じゃない?」
「使い始めた」
透明な板は。
動かないように見える。
けれど。
周りの木は。
雨と熱で動く。
変わらない物を守るためにも。
周りが動ける小さな余白が必要だった。
「次は、どこ?」
ミラが尋ねる。
「共同記録所」
「家じゃない?」
「数が少ない」
「一枚だけなら?」
「誰の家へ入れるかで揉める」
「じゃあ、共同の場所」
「そうする」
ミラは。
硝子越しに外を見る。
顔が。
波の中で。
少し歪んで見えた。
「変な顔」
俺が言う。
「硝子のせい」
「本当に?」
「レオも変」
「硝子のせいだ」
二人で。
位置を変える。
見え方も変わる。
透明だから。
正しいとは限らない。
地図も。
記録も。
窓も。
誰が。
どこから見るかで。
同じものが違って見える。
だから。
一枚を通した景色だけで。
向こう側を決めない。




