第四十六話 出口は、追う者にも必要だ
逃げた人間を捕まえるなら、出口を塞げばいい。
救助する側まで同じ穴へ閉じ込めないためには、入口を増やし、戻る人数と時刻を外で数え続けなければならない。
前へ進めなくし。
後ろへ戻れなくし。
どこにも行けなくなったところで、縄を掛ける。
けれど、出口を塞がれた場所へ入るのは、逃げた人間だけではない。
追う人間も。
助ける人間も。
最後には、同じ出口から戻らなければならない。
◇
旧採石場へ着いたのは、朝日が山の端から半分だけ出たころだった。
切り立った灰色の岩壁。
崩れかけた木造の足場。
地面には、使われなくなった石車の軌道が残っている。
鉄の軌道ではない。
平たい石を二列に並べ、その上を木輪の小さな運搬車が走る仕組みだ。
ところどころ石が抜け、草が生えていた。
「軌道の上を歩くな」
ドムが到着してすぐに言った。
「平らに見えるぞ」
衛兵の一人が答える。
「下が空いてる場所がある。排水溝の蓋も兼ねてるんだ」
ドムが石の隙間へ棒を差し込む。
腕一本分ほど下で、水の音がした。
「落ちても足を濡らすだけじゃねえ。蓋石を割れば、後ろから来る奴まで落ちる」
衛兵たちは軌道から離れ、土の硬い場所を選んで進んだ。
採石場の入口には、町衛兵が二人立っている。
その脇には、簡素な天幕が張られていた。
中にマーゼンがいる。
右足首を布で固定され、衛兵の責任者に見張られているという。
「先にマーゼンへ聞く」
イルザが、衛兵責任者と一緒に天幕へ向かう。
臨時共同調査の札を持っていても、拘束されている人間へ一人で質問はしない。
俺たちは坑口の前へ道具を下ろした。
縄。
光石。
測量杖。
木の支え。
木槌。
灰。
水。
濡らした布。
人の名前を書いた札。
「札はここへ置く」
ハーレンが作業台へ横線を一本引く。
線の上が地上。
下が坑道内。
入った者の札は下へ移し、戻ったら上へ戻す。
「俺とミラの札は?」
俺が尋ねる。
「線の上だ」
ガルドが答えた。
「坑道へ入らないの?」
ミラが言う。
「入れねえ」
「最初の分かれ道までなら――」
「火薬庫が残ってる古い坑道だ。子どもを入れる理由がねえ」
「でも、図を見るなら中の方が――」
「戻ってくる奴から聞け」
ガルドは古い坑道図を、俺の前へ置いた。
「お前は地上で図と時間と人数を見ろ。中の奴が見落としたことを、外から止めろ」
以前の俺なら、奥へ行くと言い張っていたかもしれない。
自分で見なければ、判断できないと思っていた。
けれど、地下水路でも。
古い河岸でも。
俺が一番奥へ行かない方が、全体を見られる場面があった。
「分かった」
俺は自分の札を、線の上へ置いた。
ミラは少し不満そうだったが、隣へ小さな火の印の札を置く。
「わたしは何を見るの?」
「風と合図」
ネッサが岩壁の上を指した。
「空気穴を外から調べる。お前は灰の流れと、坑口から出る匂いを見てくれ」
「火は?」
「今日は使わない」
ミラは自分の指を握り、すぐに開いた。
「分かった」
「使えないんじゃない。今日は使わない」
ネッサが言う。
ミラは今度は、しっかり頷いた。
◇
イルザと衛兵責任者が天幕から戻ってきた。
「マーゼンは、七十二番保管室までニルと一緒だったと認めた」
イルザが言う。
「その先は?」
ハーレンが尋ねた。
「ニルが扉へ細工を始めたため、止めようとした。揉み合いになり、斜面から落ちて足を痛めたと話している」
「本当に止めたのか?」
ガルドが言う。
「本人の証言だけだ」
「ニルは火薬庫へ?」
「上段坑道の奥に、古い火薬庫がある。ただし、マーゼンは中身が残っているか知らないそうだ」
「知らない?」
ドムが鼻を鳴らす。
「ここの管理に関わってただろうが」
「十五年前までだ、と言っている」
「十五年前の火薬が使える状態で残るのか?」
俺が尋ねる。
「乾いてりゃ残る。湿ってりゃ火はつきにくい」
ドムが暗い坑口を見る。
「どっちにしても、試す気にはならんな」
ネッサはすでに山腹を一周していた。
「空気穴は二つ生きてる」
「図には一つしかない」
ハーレンが言う。
「一つは自然の割れ目だ。掘削で、古い岩穴ムジナの巣へつながったらしい」
「今もいる?」
ミラが周囲を見る。
「匂いも足跡も古い。今はいない」
「人が通れる?」
「途中までは。奥の幅は分からない」
ネッサは小さな布袋から、白い綿毛のような種を出した。
風渡り草の種。
指先から離すと、綿毛は坑口へゆっくり吸い込まれた。
「正面から空気が入って、山腹へ抜けてる」
「火薬庫で火が出たら?」
「今の流れなら煙は上へ出る。風が変われば、坑口へ戻る」
「変わったら止める」
俺は記録板へ書いてもらう。
灰の向きが外へ戻ったら、全員退避。
焦げた匂いが強くなったら、追跡中止。
木槌の緊急合図が届いたら、坑口へ人を集めず、左右へ分かれて待つ。
「中へ入る者を確認する」
ハーレンが札を一枚ずつ読み上げた。
イルザ。
ガルド。
ドム。
町衛兵の責任者。
衛兵三人。
七枚の札が線の下へ移される。
「ネッサは?」
「山腹の空気穴を見る」
ネッサの札は、坑道とは別に描いた山の印へ置く。
「半刻ごとに、鏡で光を返す」
ネッサが言った。
「合図がなければ、次の場所へ進まない」
「帰る予定は一刻半後」
ハーレンが続ける。
「ニルを見つけても、一刻半で一人は報告へ戻る」
「捕まえられそうでも?」
衛兵が尋ねる。
「状況を外へ伝える者を戻す」
衛兵責任者が答えた。
「全員で奥へ追わない」
光石を二つずつ持つ。
一つを失っても、帰る明かりを残すためだ。
「行くぞ」
七人が坑道へ入る。
光石の白い明かりは、すぐに暗がりへ小さくなった。
◇
俺は坑口前の作業台で、古い図を広げた。
ミラは灰を載せた皿を持ち、坑口の風を見ている。
ハーレンは時刻と入坑者の札。
リゼは、戻ってくる報告を二つの写しへ書く。
「中が見えないと、変な感じ」
ミラが言った。
「何が?」
「声は聞こえないのに、札だけが下にある」
「だから、時間を見る」
「時間が来ても戻らなかったら?」
「救助の人を決めてから入る」
「レオは?」
「入らない」
「本当に?」
答えるまで、少し間が空いた。
「今は、入らない方が役に立つ」
ミラは俺の顔を見た。
「前より、言うのが早くなったね」
「自分でもそう思う」
「自分で言うんだ」
最初の報告役が戻ってきたのは、半刻もたたないうちだった。
「最初の分岐。左の排水坑は詰まっています。水が右、七十二番保管室側へ流れている」
衛兵が、地面へ簡単な図を描く。
「支えは?」
「入口側は新しい杭を追加。古い鉄輪は使っていません」
「空気は?」
「奥へ流れています」
ミラが坑口の灰を見る。
「こっちも同じ」
「七十二番は?」
「扉へ罠があります」
衛兵が別の紙を出した。
扉の裏から縄。
天井の横木。
斜めの支え。
扉を引けば、楔が抜ける形。
「扉の前へ人を集めて、上から落とす」
俺は図を見る。
「別の入口は?」
「隣に細い作業坑。間は積み石です」
「積み石の向こうが保管室か、音を比べた?」
「まだです」
「扉を開ける前に、作業坑側から小さな穴を作る。中の縄と支えを見てから、別の支えへ重さを移す」
衛兵は俺の言葉を紙へ書き、すぐ奥へ戻った。
「ガルドさんたちも、同じことを考えてるかもしれない」
ミラが言う。
「それでいい」
「同じなら、レオが考えなくてもよかった?」
「別々に考えて同じなら、見落としが少ない」
一人にしか分からない答えより。
違う場所にいる人が、同じ危険へ気づける方がいい。
◇
七十二番保管室へ入るまで、さらに半刻かかった。
作業坑側の積み石を一つ外す。
細い穴から室内を確認する。
縄。
支え。
荷箱。
人がいないこと。
外から支えを二本加え、天井の重さを移してから罠の縄を切る。
扉は最後まで開けず、積み石側を人が通れる幅まで広げた。
報告役が、封をした目録を地上へ持ち帰る。
「土地の仮契約、十二件」
リゼが読み上げた。
「区画図、三枚。三本線、魚、樽、黒い鳥の組印」
「中央案だけじゃない?」
ミラが尋ねる。
「ああ」
ハーレンが地図へ印を置く。
北案。
南案。
中央案。
川港へ近い土地。
どの道が選ばれても、値段が動く場所を先に押さえる計画だった。
「ドーレン商会の印は?」
「契約書にはない」
「マーゼンの名前は?」
「ない」
「ニルは?」
「測量補助者の署名が一部にある」
直接の名を残さず、別々の人へ小さな仕事だけをさせる。
全体を知る者を減らす仕組みだ。
目録の最後には、小さな鉄箱の内容があった。
測量士の資格証。
オルセの名で作られた通行許可証。
ニル自身の資格申請書。
「資格申請?」
「測量士補から、正式な測量士への昇格申請だ」
ハーレンが答える。
「推薦者はオルセ。署名は写された可能性がある」
申請書には、中央道路案の測量実績が書かれていた。
偽の基準点を使った測量。
まだ承認されていない工事。
それを、自分の仕事として提出するつもりだった。
「土地の金だけじゃなかった」
ミラが言う。
「資格も欲しかった?」
「道が通れば、大きな測量を成功させた実績になる」
ハーレンが、申請書の写しを閉じた。
「だが、事情が分かっても、したことは別に残る」
◇
山腹にいるネッサから、鏡の光が返ってきた。
長く二度。
短く一度。
「自然穴の近くで音がした」
ハーレンが合図表を読む。
俺とミラは、ネッサのいる山腹へ向かった。
坑道へ入るのではない。
外側の斜面を、見張りの衛兵と一緒に回る。
崩れやすい場所を避け、腰へ一本の縄をつけた。
「穴へ近づきすぎるな」
ネッサが言う。
岩の割れ目から、冷たい空気が出ていた。
人の頭が入るほどの幅もない。
だが、奥で石を動かす音がする。
「ニル?」
ミラが小声で言う。
ネッサが割れ目へ耳を近づけた。
「上段坑道とつながってる」
坑口側から、木槌の音が地面を伝ってきた。
一度。
一度。
異常なし。
少しあと。
遠くから人の声が響いた。
「来るな!」
岩の中で反響し、言葉が割れて聞こえる。
ニルだ。
「それ以上近づけば、火薬庫に火を入れる!」
坑道内のイルザたちへ向けた声だろう。
俺たちは自然穴の外にいる。
穴を通して、ニルの息遣いまでかすかに聞こえた。
「導火紐は濡らした!」
坑道側から衛兵責任者の声が返る。
「別の紐がある!」
「武器と灯りを置き、両手を見せて出てこい!」
「近づけば火をつける!」
石を引きずる音。
ニルは自然穴を広げようとしている。
「やめろ!」
俺は割れ目へ向かって叫んだ。
音が止まる。
「……レオか」
ニルの声が、岩越しに返ってきた。
「そこを広げたら、上の石が動く」
「子どもが何を知ってる!」
「外から割れ目を見てる。根のない土が落ち始めてる」
実際、割れ目の端から細かな砂がこぼれていた。
ネッサが手を上げ、俺たちをさらに一歩下げる。
「俺の測量は間違ってない!」
ニルが叫ぶ。
「見通し器の読みも、差の計算も合っていた!」
「偽の基準点から先はな」
返事が止まった。
「出発点だけを変えたから、その先は正しく見えた」
「なら、俺の技術は認めるのか」
「技術があったから危険だった」
間違いを知らない者が作った数字なら、途中で崩れる。
正しい測り方を知る者が、最初の高さだけを変えれば。
その先の数字は整って見える。
「資格が欲しかったなら、正しい測量をすればよかった」
「正しい仕事を誰がくれる!」
ニルの声が鋭くなる。
「資格がないから重要な仕事は任されない! 重要な仕事をしなければ資格は取れない! オルセの助手のまま、老人になるまで杭を持てと言うのか!」
仕組みの中に、閉じた場所があった。
経験がなければ資格を取れない。
資格がなければ経験を積めない。
焦った理由は、分からなくはない。
だからといって。
帰り火の土地を空白にし。
他人の名前を使い。
地面の高さを変え。
人を地下へ置き去りにしてよい理由にはならない。
「仕組みが悪いなら、変えるために言えばよかった」
「誰が聞く!」
「聞かない人がいたことと、騙していいことは別だ」
「お前は聞いてもらえたから言える!」
胸に引っかかった。
俺も、最初から聞いてもらえたわけではない。
子どもだから。
資格がないから。
文字を読めないから。
何度も止められた。
けれど、ガルドがいた。
ミラがいた。
帰り火の人たちがいた。
一人ではなかった。
「ニル!」
坑道側からハーレンの声が届く。
「資格制度に問題があるなら、調べる!」
「今さら!」
「だが、あなたのしたことも調べる!」
「結局、捕まえるだけだろ!」
「ああ!」
ハーレンは否定しなかった。
「逃げれば、したことがなくなるわけではない!」
割れ目から出ていた風が、急に弱くなった。
「止まって」
ミラが灰を少し落とす。
外へ流れていた灰が、一度穴へ吸い込まれ、また戻ってきた。
「風がぶつかってる」
ネッサの顔が変わる。
「中の穴が広がった。上が動く」
「ニル、動くな!」
俺は叫んだ。
「騙す気か!」
「風が変わった! 差し込んだ木から離れろ!」
ごり、と低い音がした。
岩同士が擦れる。
次の瞬間。
割れ目の奥で、石が連続して落ちた。
大きな爆発ではない。
岩と土が崩れる音。
空気が押し出され、砂埃が自然穴から噴き出した。
ネッサが俺とミラの襟をつかみ、斜面の下へ引く。
「伏せろ!」
数呼吸分。
音が止まる。
「ニル!」
坑道側と外側から、同時に声が飛んだ。
返事がない。
もう一度。
「聞こえたら答えろ!」
遠くで、咳が聞こえた。
「……ここだ」
「動けるか!」
「足が……挟まった」
俺は立ち上がりかける。
ネッサの手が肩を押さえた。
「中へは行かない」
「分かってる」
自分へ言い聞かせるように答えた。
「図を待つ」
◇
坑口へ戻ると、報告役の衛兵が先に着いていた。
「ニルは自然穴の入口近く。落ちた横木と石の間に左足を挟まれています」
地面へ現況図を描く。
自然穴の上に大きな石。
その端を、ニルが穴を広げるために差し込んだ横木が受けている。
横木の反対側が、ニルの足へ落ちた。
「横木を持ち上げたら、大きな石が落ちる」
「そう見えます」
「別の支えを入れる隙間は?」
「右側にあります。ただ、地面が柔らかい」
「支えの下へ幅広い板を入れる」
俺は図の右側へ線を足した。
「板を先に滑らせる。支えを直接土へ立てない。木の楔を少しずつ入れて重さを移す」
「持ってきた支えで長さは足りる」
ドムからの伝言だった。
「引っ張る縄は、ニルの身体じゃなく板ぞりへ」
地下水路でオルセを運んだときと同じだ。
「前後二本。斜路では後ろの縄で速度を止める」
必要な板と楔を、報告役が奥へ運ぶ。
俺は作業台の時刻を見る。
帰還予定まで、残り四半刻。
「延長する?」
ミラが尋ねる。
「救助へ切り替えたことを記録する」
追跡の予定時間を、そのまま使わない。
救助へ入る者。
外へ戻った者。
残る光石。
火薬庫の見張り。
改めて数える。
「火薬庫側は?」
「導火紐を三か所で濡らし、衛兵二人が離れた位置から見張っています」
「焦げた匂いは?」
ミラが坑口の空気を嗅ぐ。
「増えてない」
ネッサも頷いた。
「爆発の兆しはない」
木槌の音が、坑道の奥から伝わる。
一度。
間を置き。
もう一度。
支えを入れている合図。
俺たちは待つ。
待ちながら、図へ入った支えの位置を追加する。
一本目。
二本目。
板の端へ沈下を見る印。
「重さが移った!」
報告役が走って戻る。
「新しい支えは沈んでいません。足を抜きます!」
しばらくして、短い叫びが聞こえた。
すぐに止まる。
「抜けた!」
次の報告。
「立てません。足首が腫れています。大きな出血はなし」
「板ぞりを入れる」
胸。
腰。
脚。
三か所を布で留める。
斜路では、前後二本の縄で速度を調整する。
坑口の暗がりに、白い光が見えた。
最初に戻った衛兵。
次に、火薬庫を見張っていた二人。
一枚ずつ札を線の上へ戻す。
そのあと。
板ぞりに載せられたニルが現れた。
顔は土で汚れ、左脚を固定されている。
俺とミラを見ると、目を逸らした。
「火薬庫は爆発してない」
ミラが言う。
「……見れば分かる」
「助けたから、したことがなくなるわけじゃないよ」
ニルの目がミラへ戻る。
「子どもに言われなくても分かってる」
「じゃあ、逃げないで話して」
ニルは答えなかった。
町衛兵の責任者が、ニルの手を前で縛る。
後ろではない。
板ぞりで運ぶ際、腕を傷めないためだ。
「服の下に書類があるそうだな」
「俺の申請書だ」
「ほかには?」
「……土地契約の一覧」
三人の立会いの前で、油布の包みを取り出す。
区画番号。
仮名義。
購入予定額。
道路完成後の予想価格。
町の外へ権利を売る予定先。
「川港の商人だけじゃない」
ハーレンが読む。
「対岸の都市。北の石灰商。境見宿の宿主」
「宿主も関わってる?」
「今は決められない」
名前が書かれているだけでは、本人が同意した証拠にならない。
売り込み先として、ニルが勝手に記した可能性もある。
「一覧は封印する」
イルザが言う。
「この名前だけで、誰かを拘束しない。契約と証言を照合する」
ニルが小さく笑った。
「また確認か」
「ああ」
ハーレンが答える。
「あなたが、確認されにくい形を選んだからな」
◇
最後に、入坑者を一人ずつ数えた。
イルザ。
ガルド。
ドム。
町衛兵の責任者。
衛兵三人。
七枚の札が、すべて線の上へ戻る。
「ニルも」
ミラが言った。
「最初の札にはなかった」
「でも、中から出てきた」
新しい札へ、ニルの名を書く。
線の下へ一度置き。
すぐ上へ戻す。
「これで、坑道にいた人は全員」
ネッサの札も、山の印から地上へ戻す。
俺とミラの札は、最初から線の上にある。
中へ入らなかったことも、何もしていなかったことにはならない。
図を直し。
報告を受け。
時間を見て。
必要な道具を奥へ送った。
「火薬庫はどうする」
ドムが言う。
「中身を扱える採石職人を呼ぶ。今日は開けない」
「自然穴は?」
ミラが尋ねる。
「全部は塞がない」
ネッサが答えた。
「空気の出口として必要だ。人が通れない幅まで石を組み、岩穴ムジナが戻れる小さな隙間は残す」
「魔獣の穴を残すの?」
「追い出せば、別の場所を掘る」
「採石場へ戻ってきたら危なくない?」
「人が使う坑道との境を作る。全部を奪う必要はない」
道を造れば、人だけが通るわけではない。
穴を塞げば、その穴を使っていたものは別の道を探す。
水と同じだった。
「救助場所の支え木は?」
「二本残す」
ドムが答える。
「誰が確認し、いつ外すか、条件と日付を書く」
「また仕事が残った」
「残った仕事を、終わったことにするよりましだ」
◇
マーゼンとニルは、別々の荷車へ乗せられた。
話を合わせられないよう、別々の衛兵がつく。
「ニル」
荷車が動き出す前に、ハーレンが声をかけた。
「資格制度について話したことは、記録する」
ニルが顔を上げる。
「罪を軽くするためか」
「違う」
「なら、何のためだ」
「同じ場所に、次のニルを作らないためだ」
「俺のせいにして制度を直すのか」
「制度のせいにして、あなたのしたことを消すつもりもない」
ニルは何も言わなかった。
資格が欲しかったこと。
仕事が欲しかったこと。
正しい手順では機会が得られないと感じたこと。
それらを記録する。
同時に。
偽の基準点を作り。
他人の名前を使い。
土地を買う計画を立て。
人を地下へ置き去りにし。
追う者へ罠を仕掛けたことも残す。
どちらか一方だけではない。
「レオ」
ガルドが呼ぶ。
「何?」
「帰るぞ」
「七十二番の箱は?」
「証拠荷車へ載せた」
「名前と数は?」
「イルザとリゼが照合した」
「保管室の支えは?」
「残したものを記録した」
「火薬庫は――」
「お前が思いつく程度のことは確認した」
「ならいい」
「信用してねえ顔だな」
「確認してるだけだ」
ガルドが俺の頭を軽く小突く。
「人へ任せたなら、返事も聞け」
「聞いた」
「なら、もう前を向け」
採石場を振り返る。
暗い坑口。
その中には、まだ回収していない火薬がある。
仮に残した支えがある。
調べ終えていない自然穴がある。
仕事は終わっていない。
それでも、今日坑道にいた人間は全員戻った。
ニルも。
追った衛兵も。
支えを入れた職人も。
地上で図を見ていた俺たちも、一緒に町へ戻る。
出口を塞いで捕まえるだけなら、もっと早かったかもしれない。
自然穴を石で埋め。
山側の道を閉じ。
正面坑口で待てばよかった。
けれど、出口を失った人間が、火薬へ火をつける可能性もあった。
崩れた坑道の中で死ぬ可能性もあった。
死ねば、罪まで消えるわけではない。
ただ、聞けるはずだった話が失われる。
追う者にも、出口は必要だ。
逃げた者にも。
罪を持ち帰り。
何をしたのかを、地上で確かめるために。
帰り道の先には、帰り火がある。
道の線。
土地の名前。
五年前の水路。
四十一年前の名前板。
まだ直さなければならないものが待っている。
俺たちは、人を捕まえるためだけに町を出たのではない。
町へ戻り。
もう一度、誰のための道を造るのかを決めるために来たのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、旧採石場の七十二番保管室と上段坑道を調べ、ニルを確保する話でした。
七十二番保管室には、道路予定地周辺の仮契約書だけでなく、オルセの名を使った通行許可証や、ニル自身の測量士資格申請書も残されていました。
ニルが求めていたのは、土地の利益だけではありません。大規模な道路測量を自分の実績として扱い、正式な資格を得ようとしていました。
資格がなければ重要な仕事を任されず、重要な仕事をしなければ資格を得られない。その仕組みに問題があったとしても、偽の基準点や他人の名義を使った行為が正当化されるわけではありません。制度の問題と、個人の責任を分けて残しています。
また、ニルは崩落によって足を挟まれましたが、レオたちは罰として見捨てず、支えを入れて救出しました。助けることと許すこと、事情を記録することと責任を消すことは別です。
次回は町へ戻り、オルセ、レム、ロイ、マーゼン、ニルの証言と記録を照合します。そのうえで、中央・北・南の三案とは異なる道路案と、帰り火を正式な地図へ残す方法を考えていく予定です。




