第四十五話 印だけでは、人は決まらない
同じ形の印が残っていれば、同じ人間がつけたように見える。
だが印は、名前より簡単に借りられ、写され、意味を変えられる。形が一致することは手がかりであって、本人を決める証拠ではない。
丸。
三角。
三本の線。
けれど、印は手から離れた瞬間に、誰でも真似できるものになる。
印が同じだからといって。
考えていることも。
責任も。
そこへ至るまでの理由も、同じとは限らない。
◇
町へ戻るころには、空が暗くなり始めていた。
西外仮宿の名前板を積んだ荷車は、帰り火へ直接運ばず、木工組合の建物へ入れた。
一枚ずつ布で包み、見つけた場所と順番を書いた札を結ぶ。
エナの名前が刻まれた板も、その中にある。
「今夜は開けない」
ハーレンが言った。
「全部そろっているかだけ数え、明日、立会人の前で記録する」
「土地台帳へ入った奴が、こっちにも来たら?」
ベルンが尋ねる。
「組合の入口に二人。裏口に一人、見張りを置く」
ガルドが答えた。
「窓は?」
「鉄棒を通した。屋根から入るなら、瓦を外す音で分かる」
「火をつけられたら?」
「水桶は置いた。隣の井戸にも夜番をつける」
守るべきものが一か所へ集まるほど、その場所が狙われやすくなる。
名前板を残すことだけでは足りない。
写しを作り、別々の場所へ置くまでが必要だった。
「土地台帳の保管庫へ行くぞ」
ガルドが言った。
「名前板は俺たちが見ておく」
「俺も行っていい?」
「お前を止めても来るだろ」
「今日は聞いてる」
「少しだけましになったな」
「少しだけなのか」
ミラも一緒に行こうとしたが、エナが組合の片隅で休んでいる。
「わたしは、おばあちゃんと板を見てる」
ミラが言った。
「でも、開けたら駄目なんでしょ」
「見張るだけでも仕事だ」
俺が答えると、ミラが少し笑った。
「レオがそれを言うんだ」
「最近、何度も言われたから」
「一度で覚えろ」
ガルドが先に歩き出した。
「やっぱり言った」
◇
土地台帳の保管庫は、役所本館の裏にある石造りの建物だった。
窓は小さく、外側には鉄格子が入っている。
入口には衛兵が二人立ち、扉の前へ縄が張られていた。
「中のものには触るな」
イルザが俺たちを迎える。
採石道へ向かったはずだが、先行の衛兵へ追跡を任せ、一度町へ戻ってきたらしい。
「侵入した人間は見つかった?」
俺が尋ねる。
「まだだ」
「見張りを閉じ込めた方法は?」
「中を見た方が早い」
入口の扉には、壊された跡がなかった。
鍵穴の周りにも、新しい傷はない。
「鍵を使った?」
「その可能性が高い」
扉を開ける。
中には小さな前室があり、その奥にもう一枚の扉があった。
夜番をしていた男は、この前室へ閉じ込められていたという。
「外から鍵を掛けたんじゃないの?」
俺は扉を見る。
「前室の入口は、夜番が内側から鍵を掛ける決まりだ」
イルザが説明する。
「侵入した者は、裏の保管扉から入った。そのあと、夜番が物音を聞いて前室から廊下へ出たところで、背後から入口を閉められた」
「鍵は?」
「扉へ挿したままだった」
「なら、閉められても自分で開けられる」
「鍵が回らなかった」
鍵を見せてもらう。
歯の部分に、薄い金属片が挟まっていた。
「折れた?」
「違う」
ガルドが金属片を指先で確かめる。
「鍵穴へ先に薄板を入れて、こいつが差し込まれたときに噛むようにしたんだ」
「壊すため?」
「夜番を中へ閉じ込めるだけなら、それで十分だ。扉自体は壊れねえ」
「助けを呼ばなかったの?」
「呼んだ」
イルザが前室の壁を指す。
「だが、この壁は記録を火から守るために厚く造られている。外の衛兵が交代へ来るまで気づかなかった」
燃えにくく。
音も通りにくい。
記録を守るための造りが、閉じ込められた人の声まで外へ出にくくしていた。
「夜番に怪我は?」
「ない。今は別室で休ませている」
「侵入者を見た?」
「背中だけだ。役所の外套を着ていたらしい」
役所の外套なら、町中で珍しくない。
盗むことも、借りることもできる。
服だけで人は決められない。
「裏の扉は?」
保管庫の奥へ進む。
棚が何列も並び、土地台帳や契約書の控えが区画ごとに保管されている。
裏口も、鍵を壊された様子はなかった。
「裏口の鍵は三本」
ハーレンが言った。
「私が一本。土地管理の主任が一本。予備が一本だ」
「全部ある?」
「見た目上は」
「見た目上?」
ハーレンが布袋から三本の鍵を出した。
形は同じに見える。
俺には違いが分からない。
ガルドが一本ずつ木の台へ置き、横から眺めた。
「予備だけ、色が違う」
「錆?」
「いや。新しい鉄だ」
鍵の歯の形を紙へ写す。
三本とも、わずかに違った。
「予備の鍵では、この扉は開かない」
ガルドが試す。
鍵穴には入る。
途中までは回る。
けれど、最後で止まった。
「偽物?」
「似せて作っただけだ」
「いつ入れ替えられた?」
「予備鍵の箱を最後に確認したのは、三か月前だ」
ハーレンが答える。
「封印は?」
「残っていた」
「封印を壊さず、鍵を替えられるの?」
「箱の封印は蓋にある」
鍵箱を見せてもらう。
木製の箱。
蓋と本体へ紐を回し、結び目に蝋の印を押してある。
「底は?」
俺が尋ねる。
箱を裏返す。
底板の一辺だけ、ほかより新しい釘が使われていた。
「下から開けた」
ガルドが言う。
「蓋の封印には触れず、底板を外したんだ」
「見える封印だけ守っても、箱全体を見なかった」
ハーレンが呟く。
確認した印。
返却した印。
封じた印。
印が残っていることで、中身まで守られていると思い込んでいた。
「偽物の鍵を作れる人間は?」
イルザが尋ねる。
「鍛冶屋なら作れる」
ガルドが答える。
「ただし、一度は本物を見なきゃならん。歯の形を測る必要がある」
「鍵を持ち出せた人間か」
「蝋や柔らかい木へ押し当てて、形だけ取った可能性もある」
「役所の人間とは限らない?」
「鍵箱の場所と仕組みを知ってる奴ではある」
マーゼンは以前、仮設地の管理を担当していた。
この保管庫へ出入りする立場にもあったはずだ。
だが、昨夜は町の外へ向かっている。
本人が侵入したとは考えにくい。
「何を取られた?」
俺が尋ねた。
イルザが棚の一角を示した。
空いた場所が二つある。
「土地取得の仮申込控え。それと、紹介者記録」
「紹介者?」
「土地を買おうとする者を、誰が役所へ連れてきたかを記す帳面だ」
土地を買う名義人が町の住人でなくても。
読み書きができなくても。
誰かが役所へ案内し、書類を整えたはずだ。
「仮名義の人だけじゃなく、つないだ人が分かる帳面」
「ああ」
ハーレンが空いた棚を見る。
「ニルが最も消したい記録の一つだ」
「契約書そのものは?」
「残っている」
「どうしてそっちは取らなかった?」
「量が多すぎる」
契約書の控えは区画ごとに別々の棚へ置かれている。
すべてを探して持ち出すには時間がかかる。
だが、仮申込控えと紹介者記録なら、一冊でつながりを追える。
「燃やされた可能性は?」
「まだ、建物内を調べている」
床には、三本の線が引かれていた。
保管庫の中央。
棚から入口へ向かう通路。
白っぽい粉で、短い線が三本。
「これが、ロエンの印と同じだと?」
ガルドがしゃがみ込む。
「形だけなら」
イルザが言う。
「帰り火に置かれた小石も、三本線だった」
「同じ人が書いたと思う?」
俺が尋ねると、イルザは首を横に振った。
「だから、お前たちを呼んだ」
ガルドが床の粉を布の端へ少し取る。
指で擦る。
「石灰じゃない」
「何?」
「白墨だ。帳面の棚番号を書くのに使う」
「役所の中にある?」
「どの部屋にもある」
印を残す材料まで、保管庫の中で手に入る。
「小石の線は炭だった」
俺は言った。
「幅も違う」
三本という形は同じ。
だが、小石の線は細く、長さも不ぞろいだった。
床の線は太く、ほぼ同じ長さにそろえてある。
「誰でも真似できる」
ガルドが立ち上がる。
「犯人の印とは限らん。ロエンへ疑いを向けるためかもしれねえ」
「でも、三本線が何かを示している可能性はある」
俺は、線の向きを見る。
三本とも、棚と平行に描かれている。
「ただの署名なら、場所はどこでもいい」
「棚を示してる?」
ハーレンが尋ねる。
線の延長を目で追う。
空になった二つの棚ではない。
その下。
低い位置に、細い引き出しが三段並んでいる。
「三本目」
俺は一番下の引き出しを指した。
「触るな」
イルザが止める。
衛兵が布を巻いた手で、引き出しを開ける。
中には、土地の境界を示す古い札が入っていた。
木札。
縄。
区画番号を刻んだ薄い金属板。
一見、変わったところはない。
「中身を全部出す」
一つずつ位置を記録し、別の台へ移す。
底に、折り畳まれた紙が一枚残った。
「何て書いてある?」
ハーレンが開く。
短い文章。
その下に、丸と三角と三本線の印が並んでいる。
「読み上げる」
ハーレンが言った。
「申込控えは、南秤小屋。紹介者記録は、持ち出していない」
「持ち出していない?」
イルザが空の棚を見る。
「棚からなくなっている」
「別の場所へ移した?」
「続きがある」
ハーレンは紙を読む。
「紹介者の名前は、最初から書かれていない。別帳の番号だけだ」
「別帳?」
土地の仮申込控えから、紹介者記録へ。
さらに、紹介者の本名を記した別の帳面がある。
「どこにある」
紙の最後には、一つの記号だけが描かれていた。
天秤。
「南秤小屋」
リゼが言った。
南門近くにある、荷車の重さを量るための古い小屋。
新しい荷改め所ができてからは、ほとんど使われていない。
「罠かもしれない」
イルザが言う。
「古い河岸の知らせと同じ書き方だ」
「これを置いた人間も同じ?」
俺が尋ねる。
「分からない」
「なら、調べる前に小屋の造りを見る」
ガルドが俺を見る。
「先に言うようになったな」
「河岸で床が落ちかけたばかりだから」
「学ぶのが遅い」
「学んではいるだろ」
◇
南秤小屋は、土地台帳の保管庫から歩いて四半刻ほどの場所にあった。
町の南門へ向かう荷車が、昔は必ず通った場所らしい。
大きな屋根。
荷車一台が入れる土間。
中央には、木と鉄で作られた秤の台がある。
「床が動くの?」
同行したミラが尋ねた。
名前板の見張りは、エナが休んだあと、サラとベルンへ引き継いでいた。
「荷車を台へ載せると、下の梁が下がる」
ガルドが答える。
「反対側の重りと釣り合わせて、荷の重さを量る」
「下に空間がある?」
「ああ。秤の仕組みが入る穴がある」
つまり。
床板を外せば、人が隠れる場所もある。
「正面の扉は開いている」
イルザが衛兵へ合図する。
誰もすぐには入らない。
窓。
裏口。
屋根。
外側から一周確認する。
「足跡がある」
小屋の裏手。
湿った地面に、靴跡が一つ。
町の方から来て、裏口へ入っている。
外へ出た跡は見つからない。
「まだ中にいる?」
ミラが小声で言う。
「可能性はある」
俺は正面から小屋の中を見る。
秤台の上に、帳面が一冊置かれていた。
空になった土地台帳の棚と同じ大きさ。
「仮申込控えか?」
ハーレンが言う。
「近づかない」
河岸の馬車と同じだ。
見つけやすい場所へ証拠を置き、人を集める。
秤台は荷車の重さに耐えるよう作られている。
だが、長年使われていない。
何か細工されている可能性もある。
「秤の穴へ人がいるなら、台を踏めば危ない」
俺は修繕記録を探す。
南秤小屋の古い図は、役所から持ってきていた。
秤台の中央。
その下に、長い横梁。
小屋の脇に点検口。
「点検口は裏だ」
ガルドが図を見る。
先ほど足跡が入っていた裏口とは別に、地面近くへ小さな扉がある。
草をどけると、錆びた鉄板が現れた。
「鍵が掛かってる」
「壊す前に声をかける」
イルザが扉から離れて呼びかけた。
「中にいる者! 町の衛兵だ! 聞こえたら返事をしろ!」
しばらく待つ。
返事はない。
「石を三度叩け!」
音は聞こえない。
「開ける」
鍵へ縄をかけ、離れた場所から鉄板を引く。
鍵の金具は古く、二度目で外れた。
中から、埃っぽい空気が流れ出す。
油の匂い。
木の匂い。
それから、人の汗の匂い。
「誰かいる」
ガルドが言った。
「火は使わない」
ミラが灰を入れた皿を出す。
息を吹きかけると、灰の一部が穴の中へ入り、別の一部は戻ってきた。
「奥で空気が回ってる」
「出口が一つじゃない」
図を見る。
秤の穴から、重りを運ぶための細い通路が土間の反対側へ延びている。
「正面から誰か入ると、裏から出られる」
「逃げ道か」
イルザが衛兵を小屋の左右へ回す。
「点検口から入るのは一人。中で追わない。人を見つけても、位置を知らせて戻れ」
若い衛兵が命綱を結び、光石を持って穴へ入る。
俺たちは外で待つ。
秤台は動かない。
帳面も置かれたまま。
半刻も経たないうちに、衛兵が戻ってきた。
「人が一人います」
「状態は?」
「意識はあります。自分で歩ける」
「武器は?」
「持っていません」
「誰だ」
「役所の書記です。ネルと名乗っています」
ハーレンの顔が変わった。
「土地申込の写しを担当していたネルか」
「知ってる?」
「三年前から土地管理の補助をしている」
「なぜ出てこない」
「あなたと話す前に、条件があると言っています」
「条件?」
「帳面を先に保護しろ、と」
秤台の上にある仮申込控え。
自分より先に、記録を守れと言っている。
「罠じゃないと、どうやって確かめる?」
ミラが尋ねた。
「台へ乗らずに帳面を取る」
長い棒の先へ、小さな鉤をつける。
帳面には直接掛けない。
下に敷かれた布の端へ鉤を引っかけ、少しずつ引く。
布が動く。
秤台は沈まない。
途中で、帳面の下から細い紐が現れた。
「止めて」
俺は棒を動かす手を止める。
紐は秤台の隙間へ入っている。
「帳面を取ったら、何か動く」
ガルドが言う。
罠かもしれない。
だが、紐が細工のためとは限らない。
「紐の先を確認する」
点検口に入った衛兵へ、台の下から見てもらう。
戻ってきた答えは意外なものだった。
「紐は、ネルの手首へつながっています」
「どういうこと?」
「帳面を誰かが動かせば、本人に分かるよう結んでいるそうです」
逃げるための罠ではない。
帳面を守るための合図だった。
「紐を切っていいか聞いて」
衛兵が再び潜る。
しばらくして、紐が内側から緩んだ。
布ごと帳面を陸側へ引く。
ハーレンが表紙を確認した。
「仮申込控えで間違いない」
「中身は?」
「今は開けない」
イルザが言う。
「ネルを出す」
◇
ネルは細身の若い男だった。
年は二十を少し過ぎたくらい。
役所の外套は脱ぎ、薄いシャツの袖を肘までまくっている。
顔には埃がつき、眠っていないのか目の下が暗い。
武器は持っていない。
「保管庫へ入ったのは、あなたか」
イルザが尋ねる。
「はい」
「夜番を閉じ込めた?」
「はい」
「鍵穴へ金属片を入れたのも?」
「俺です」
言い訳をしなかった。
「紹介者記録はどこにある」
「保管庫です」
「棚からなくなっていた」
「表紙だけ、別の古い帳面へ付け替えました」
「なぜそんなことをした」
「紹介者記録だと思われている帳面には、本当の名前が書かれていないからです」
ネルは秤台の上から回収された仮申込控えを見る。
「番号だけです。紹介者の本名は、荷改めの紹介帳へ分けて書かれている」
「それが、ここにある?」
「ありました」
「過去形?」
「先にニルが持ち出しました」
「いつ」
「三日前です」
オルセが帳面を持って水路へ入ったころ。
「なぜ、その時点で知らせなかった」
ネルの口が固くなる。
「俺も、書類を作った側だからです」
「偽の契約だと知っていた?」
「最初は知りませんでした」
「ロエンも同じことを言った」
「俺は、名義人が土地を買うのだと思っていた」
「本人と会った?」
「会っていません」
「それを不自然だとは思わなかったのか」
「紹介者が代理で申請することはあります」
「大量の土地を、別々の名前で?」
「……途中から、おかしいと思いました」
「それでも続けた」
「はい」
理由は、オルセやロエンと同じだった。
途中でおかしいと気づきながら、自分の関わったことが明るみに出るのを恐れた。
「三本線の小石を置いたのも、あなた?」
「はい」
「なぜロエンの仮印を使った」
「ロエンさん個人の印ではありません」
ネルが答えた。
「土地の申請書を束ねるための組印です」
「組印?」
仮名義で出された申請書は、役所へ一度に持ち込まれたのではない。
日を分け。
担当を変え。
区画もばらばらにして提出された。
あとからニルが整理できるよう、関係する申請書へ共通の印をつけていた。
「三本線は、西外荷道周辺の土地」
「ロエンの名前が、その束の一つに使われていた?」
「はい」
「魚や樽の印は?」
「別の道路案や、川港に近い区画です」
三本線は人ではない。
土地取得の一群を示す印。
だから、同じ印が複数の書類や場所に残されていた。
「保管庫の床に印をつけたのは?」
「俺です」
「どうして」
「三段目の引き出しを見つけてほしかった」
「普通に紙を置けばいい」
「誰かが先に入れば、紙だけ捨てられると思いました」
「印なら捨てられない?」
「消されても跡が残る」
床の白墨は、拭けば消える。
けれど、急いで消せば粉が広がる。
完全に掃除するには時間がかかる。
「それでも、ロエンが犯人だと思われる可能性があった」
「ロエンさんが河岸にいるとは知りませんでした」
「知らなかったから、していいわけじゃない」
「……はい」
ネルは俯いた。
助けるつもりで残した印が、別の人へ疑いを向ける。
人のいないところで使われた記号は、書いた人の考えどおりには読まれない。
「古い河岸の知らせを置いた理由は?」
「ニルとマーゼンが話しているのを聞きました」
「いつ」
「昨夜、土地管理室の裏です」
「二人とも町を出る前?」
「はい。名前板を古い河岸で処分すると話していました」
「直接知らせなかったのは、やはり自分が疑われるからか」
「それもあります」
ネルは一度、息を吸った。
「役所の中に、誰がニルへ知らせているか分からなかった」
「内通者がほかにいる?」
「分かりません」
「何を根拠に」
「土地の売買を一時停止する話が、正式に決まる前からニルへ伝わっていました」
帰り火で話した内容。
役所へ持ち帰る前の案。
それをニルが知っていた。
「あなたではないのか」
イルザが尋ねる。
「違います」
「証明できる?」
「できません」
ネルは正直に答えた。
「だから、帳面を持ち出しました。紹介者の番号と、申請を受け付けた日を残したかった」
「なぜ保管庫の中で写さなかった」
「時間がなかった。それに、紹介者記録が消えたように見せれば、内通している人間が動くと思った」
「相手を誘い出すつもりだった?」
「はい」
「一人で?」
「誰も信用できなかった」
ガルドが低く息を吐く。
「一人で全部やろうとする奴は、ろくなことをしねえな」
俺を見る。
「どうして俺を見るんだ」
「似た顔をしてるからだ」
「似てない」
「穴へ一人で入りたがるところは同じだ」
ネルは俺たちのやり取りを、不思議そうに見ていた。
「でも」
俺はネルへ向き直る。
「自分で全部守ろうとして、夜番を閉じ込めた」
「怪我をさせるつもりはありませんでした」
「怪我がなかったのは結果だ」
鍵が開かなかった。
火事が起きたかもしれない。
夜番が体調を崩したかもしれない。
助けようとした記録を守るために、人を危険へ置いた。
「ロエンさんに疑いが向くことも考えなかった」
「はい」
「だから、帳面を戻したから終わりにはならない」
「分かっています」
ネルは逃げなかった。
「イルザさん」
俺は尋ねる。
「ネルさんは捕まる?」
「保管庫への無断侵入。公文書の持ち出し。夜番を閉じ込めたこと。それぞれ調べる必要がある」
「帳面を守ろうとしたことは?」
「それも記録する」
「罪が消える?」
「消えない」
イルザは答えた。
「だが、何を守ろうとし、何を危険にしたかは、どちらも残す」
助けたから許すわけではない。
罪があるから、助けようとしたことまで消すわけでもない。
一つの印で、人のすべてを決めない。
「仮申込控えを開く」
ハーレンが言った。
「立会人を置いて、ここで確認する」
「今?」
「ニルが紹介帳を持っているなら、こちらに残る番号が必要だ」
「写しを三つ作る」
ネルが言った。
同行する町衛兵の責任者が、彼の前へ出る。
「あなたを拘束する」
「それでも、帳面の読み方は説明できます」
「逃げる気は?」
「逃げるなら、ここへ残っていません」
衛兵責任者はイルザとハーレンの確認を取り、部下へ告げた。
「両手は前で縛る。帳面には触らせない。説明だけさせる」
ネルは頷いた。
◇
仮申込控えには、土地を買おうとした人の名前。
区画番号。
申込日。
紹介者記録へつながる番号。
そして、小さな組印が残されていた。
三本線の頁だけを抜き出す。
ロエン。
町外れの石運び人。
川港の荷役人。
すでに亡くなった老人の名。
「死んだ人の名前まである」
ハーレンが言う。
「名簿が古いままだった」
ネルが答えた。
「ニルは、更新されていない住民記録から名前を選んでいました」
「本人が来ないことを、不自然に思わない名前」
「はい」
「紹介者番号は?」
同じ番号が何度も使われている。
七十二。
書類の上では、別々の人間が土地を買おうとしている。
しかし、全員を役所へつないだ紹介者は同じだった。
「七十二が誰か、ニルの帳面にある?」
「持ち出された紹介帳にあります」
「ほかに分かる方法は?」
「受付日の荷改め記録」
南秤小屋は、土地申請と関係のない場所ではなかった。
町の外から来た人間や荷車は、ここで重さと持ち主を記録されていた。
土地申請の紹介者が町外の商人なら、同じ日に荷改め記録が残っている可能性がある。
「古い荷改め帳は?」
ネルが秤台の下を指した。
「この小屋の書棚です」
イルザが衛兵と一緒に確認する。
湿気で傷んだ帳面が、箱の中から何冊も出てきた。
「申込日を一つずつ比べる」
俺は言った。
「紹介者番号七十二が使われた日。毎回、同じ人か荷車が来ていないか」
「何十件あると思ってる」
ガルドが言う。
「だから分ける」
ハーレン。
リゼ。
役所の書記二人。
ネルは離れた場所から、帳面の項目を説明する。
俺は文字を読めない。
代わりに、日付ごとの頁へ印を置き、土地の区画を地図へ移す。
ミラは、読み上げられた名前と荷車の印を聞き、同じものが出た回数を石で数える。
「同じ荷車が三回」
ミラが言った。
「黒い鳥の印」
「持ち主は?」
リゼが荷改め帳を読む。
「ドーレン商会の下請け。運行責任者――」
言葉が止まる。
「誰?」
「マーゼン・クルド」
土地申請へ直接名前を出していない。
だが、紹介者番号七十二が使われた日には、マーゼンが管理する荷車が南門を通っていた。
一度ではない。
二度。
三度。
「偶然とは言えない」
ハーレンが言った。
「でも、紹介者がマーゼン本人とは限らない」
俺は答えた。
「荷車に別の人が乗っていたかもしれない」
「そのとおりだ」
ネルが言う。
「荷改め記録には、同乗者まで残していません」
「まだ決められない」
数字が重なっても、それだけで人を決めつけない。
だが、調べるべき場所は狭くなった。
「別の日も見る」
四回目。
同じ黒い鳥の荷車。
五回目。
違う荷車だが、持ち込んだ荷は石材。
運送元は、旧採石場。
「採石場?」
イルザが地図を見る。
今、マーゼンとニルが逃げ込んでいる可能性のある場所だ。
「紹介者番号七十二は、採石場とつながってる」
ミラが石を五つ並べた。
「人の名前じゃなくて、場所の番号?」
「可能性はある」
ネルが言う。
「ニルは、人名を直接書かず、荷や道の記録へつながる番号を使っていました」
「七十二が採石場の何を示すか、現地へ行けば分かる?」
「採石場の倉庫番号か、作業班か、契約箱か」
どれかは分からない。
だが、追跡隊へ知らせる必要がある。
イルザが伝令へ短い紙を渡す。
「旧採石場で七十二の番号を探せ。人だけでなく、倉庫、箱、道具、馬具も確認しろ」
「了解!」
伝令が走り出す。
◇
返事が来たのは、夜が深くなってからだった。
俺たちは役所へ戻り、仮申込控えの写しを続けていた。
ネルは衛兵の見張りのもと、別室にいる。
名前板は木工組合で守られている。
オルセとロエンは、それぞれ治療師の確認を受けたあと、別の場所で話を聞かれていた。
全員を同じ部屋へ置かない。
話を合わせられないようにするためだ。
「採石場から報告!」
泥だらけの伝令が役所へ入ってくる。
「マーゼン・クルドを確保しました!」
部屋の空気が動いた。
「状態は?」
イルザが尋ねる。
「右足を痛めています。歩けますが、馬には乗れません」
「ニルは?」
「逃走中です」
「どこへ」
「採石場の上段坑道へ入りました」
「坑道?」
「山の反対側へ抜ける旧運搬路があるそうです」
「崩れているんじゃなかったのか」
「途中までは通れます」
「追ったのか?」
「入口までです。マーゼンが、坑道内に古い火薬庫があると話したため、隊長が追跡を止めました」
火薬。
採石に使う、岩を割るための材料。
この世界では高価で、扱いを間違えれば坑道そのものが崩れる。
強い爆発や負傷はまだ起きていない。
だが、急いで追えば危険がある。
「七十二は?」
伝令が頷いた。
「見つかりました。上段坑道へ入る前の、七十二番保管室です」
「中には?」
「土地の契約書らしき箱が一つ。ただし、扉へ細工がある可能性があり、開けていません」
「ニルは、そこへ入った?」
「足跡が続いています」
「出た跡は?」
「七十二番の奥に、別の通路があります」
土地申請の紹介者番号。
採石場の保管室。
黒い鳥の荷車。
別々に見えた記録が、同じ場所へつながった。
「マーゼンは何を話している」
「ニルに騙されたと言っています」
ベルンがいれば、すぐに怒鳴っただろう。
「名前板を捨てようとしたことは?」
ハーレンが尋ねる。
「認めています」
「水路の仮塞ぎを放置したことは?」
「まだ答えていません」
「土地取得は?」
「知らなかったと」
「偽の基準点は?」
「ニルとオルセが勝手にしたと」
すべてをニルへ押しつけようとしている。
だが、荷改め記録にはマーゼンの管理する荷車が残っている。
名前板を運び出したのもマーゼンだ。
水路の存在と沈下を知っていたという、オルセの証言もある。
「助けたから許すな」
オルセが言った言葉ではない。
これまで、俺たちが何度も確かめてきたことだ。
マーゼンがニルの罠を知らせたとしても。
名前板を消そうとしたことは残る。
「ニルは今夜、坑道から出られる?」
俺が尋ねる。
「山側の出口が開いていれば」
伝令が答える。
「反対側へ衛兵を回しています。ただ、道が崩れており、到着には時間がかかります」
「坑道の図は?」
「採石組合から取り寄せています」
「古い図なら、今の状態とは違う」
ガルドが言う。
「入口を塞ぐ前に、空気穴と水抜きを調べろ。下手に塞げば、中で火を使ったときに別の出口から煙が出る」
「追う側が入るなら?」
「戻る道を作ってからだ」
俺は答えた。
地下水路で決めたことと同じ。
誰かを助けるときも。
誰かを追うときも。
入ることより、戻ることを先に考えなければならない。
「明日の朝、採石場へ行く」
ガルドが言った。
「図を見てからだ」
「俺も?」
「ここまで来て、置いていけると思うか」
「聞いただけだ」
「ミラは――」
「行く」
部屋の入口に立っていたミラが、先に答えた。
木工組合から戻ってきたらしい。
「名前板は?」
「全部、数え終わった。見張りも交代した」
「採石場は危ない」
「分かってる」
「火薬がある」
「だから、火は使わない」
ミラは自分の指先を握った。
「火が必要でも、勝手に出さない。レオやガルドさんの合図があるまで使わない」
魔法を使えることより。
使わないと決められることの方が、今は大切だった。
「ネッサにも来てもらう」
ガルドが言った。
「どうして?」
「山の地面と空気穴を見る。俺たちだけじゃ分からん」
職人だけでも。
役人だけでも。
魔法を使える人だけでも足りない。
必要な人を集め、役割を分ける。
「ネルさんは?」
ミラが尋ねた。
「拘束したまま、調査を続ける」
イルザが答えた。
「知らせを残したから、許されるわけではない。だが、仮申込控えを守ったことも記録する」
「三本線の印は、もう使わない?」
「証拠としては残す」
ハーレンが言った。
「ただし、人を示す印としては使わない」
三本線は、ロエンではなかった。
ネルでもなかった。
土地申請の一群を示し、ニルが書類を整理するために使った印だった。
それをネルが知らせへ使い。
俺たちが犯人の印だと思いかけた。
同じ印でも、置いた人と意味が違う。
「印だけでは、人は決まらない」
ミラが言った。
「ああ」
「でも、印がなくても、したことは残る?」
床下へロエンを置いたニル。
名前板を捨てようとしたマーゼン。
偽の基準点を作ったオルセ。
不正と気づきながら書類を作ったネル。
それぞれが同じ計画の近くにいた。
けれど、同じ責任ではない。
「何を知っていたか」
俺は言った。
「何をしたか。いつ止めようとしたか。止めるために、誰を危険にしたか」
「全部見るの?」
「全部は分からないかもしれない」
人の頭の中までは見えない。
だから、記録と行動を比べる。
証言を一つだけ信じない。
印一つで決めつけない。
「分からないところは、分からないまま残す」
ハーレンが言った。
「それでも、分かっていることまで曖昧にはしない」
◇
夜が明ける前。
俺たちは採石場へ持っていく道具を並べた。
古い坑道図。
縄。
光石。
木の支え。
水。
布。
測量杖。
空気の流れを見る灰。
火を使わず合図を送る木槌。
入る人の名前を書く札。
「ニルを捕まえる道具は?」
ミラが尋ねる。
「それは衛兵が持つ」
「わたしたちは?」
「坑道が崩れないように見る」
「逃げ道を作る?」
「ああ」
追跡を助けるために。
逃げた人間を追い詰めるためだけではない。
中へ入る衛兵も。
もし坑道で動けなくなったニルも。
全員が生きて外へ出られる道を作る。
罪を聞くのは、そのあとだ。
木の札へ、採石場へ向かう者の名前を書いていく。
ガルド。
ネッサ。
ドム。
イルザ。
衛兵たち。
ミラ。
レオ。
俺は自分の名前の横へ、釘の印を描いた。
ミラは小さな火。
最後に、帰る予定の時刻を書く。
地下水路へ入ったときと同じだった。
違うのは。
今度の坑道の先には、助けを待つ人ではなく、逃げ続ける人がいることだけだ。
それでも、戻る道を作るという仕事は変わらない。
人を追うためにも、足場がいる。
真実へ近づくためにも。
まず、自分たちが立っていられる場所を作らなければならない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、土地台帳の保管庫へ入った人物と、複数の場所に残されていた「三本線の印」を調べる話でした。
三本線はロイ個人の印ではなく、ニルが土地の仮申請を整理するために使っていた組印でした。
そのため、同じ印が残されていても、同じ人物がつけたとは限りません。印や記録を一つだけ見て人を決めつけず、何を知り、何を行い、どこで止めようとしたのかを分けて確かめています。
役所書記のレムは、証拠を守り、古い河岸の情報を伝えようとしました。しかし、そのために夜番を閉じ込め、ロイへ疑いが向く可能性も作っています。助けようとした行動と、危険にした責任の両方が残ります。
また、土地申請の紹介者番号「七十二」は、ニルが逃げ込んだ旧採石場の保管室へつながりました。
次回は、火薬庫の残る旧採石場で、ニルの追跡と契約書の回収を行います。追うことを優先して坑道へ飛び込むのではなく、空気、支え、退路を確かめながら進むことになります。




