第四十四話 追う者にも、足場がいる
逃げた人間を追うときは、速い方がいい。
けれど、速さのために確認者を減らせば、追う側が罠へ集められる。出発前の人数、道具、帰還時刻を削ることはできなかった。
相手より先に道を塞ぐ。
荷物を隠される前に見つける。
川を渡られる前に追いつく。
けれど、急いでいる人間は、足元を見なくなる。
誰かがそれを知っていたなら。
追う者が走る場所へ、先に罠を作ることもできる。
◇
「古い河岸は、ここだ」
ハーレンが地図の端を指した。
町から南へ延びる街道。
その途中で東へ折れ、川沿いの低地へ下る細い道がある。
今使われている川港より、町に近い。
かつては材木や石を小舟へ積み替えるために使われていたが、大きな船が入れる新しい港ができてからは、ほとんど使われていないらしい。
「マーゼンの馬車が境見宿を通ったなら、古い河岸とは反対方向じゃないのか?」
オーデンが尋ねる。
「宿を出たあと、町側へ少し戻れば分かれ道へ入れる」
「わざわざ戻る?」
「川港へ向かったと思わせるためならな」
ガルドが答えた。
第二集合所の作業台には、匿名で置かれていた小石が載っている。
三本線の印。
裏には、リゼが読み上げた二つの言葉。
川港ではない。
古い河岸。
「罠かもしれない」
リゼが言った。
「だから、全員で押しかけない」
ハーレンは伝令用の短い紙へ文字を書いた。
「イルザたちは境見宿にいる。早馬を一人、古い河岸へ向かわせる。ただし、現地へ入らず、周囲から馬車の跡を確認するよう伝える」
「それだけで間に合うのか?」
ベルンが苛立った声を出す。
「マーゼンが船に乗ったらどうする」
「古い河岸から大きな船は出せない」
ハーレンが地図を示す。
「川底が浅い。使えるのは小舟だけだ」
「小舟なら逃げられるだろ」
「下流へ出れば、川港の見張りに知らせられる」
「上流は?」
「堰と浅瀬がある。荷を積んだ舟では越えにくい」
道が分かれば、逃げる先も絞れる。
ただし、本当に古い河岸へ向かったなら、だ。
「俺たちも行く」
ベルンが言った。
「帰り火の土地を売ろうとした奴だ。役人だけに任せられるか」
「行って何をする」
ガルドが尋ねる。
「捕まえる」
「剣を持った相手なら?」
「……殴る」
「先にお前が斬られるな」
「じゃあ、黙って待ってろってのか!」
ベルンの声が第二集合所に響く。
サラが手を止めた。
オルセも毛布の中で目を開ける。
「待つのも仕事だ、なんて言うつもりか」
ベルンが俺を見る。
何度も、そう言われてきた。
地下へ入らず、地上で待つ。
救助する人を送り、戻る道を守る。
けれど、今回は少し違う。
「待つだけじゃない」
俺は地図の古い河岸を見る。
「行く前に、向こうがどんな場所か確かめる」
「地図ならここにある」
「道しか描かれてない」
建物。
荷揚げ場。
舟をつなぐ杭。
倉庫の床。
今も使える部分。
壊れた部分。
そうしたものは、この地図には載っていない。
「古い河岸を造ったのは、誰?」
俺が尋ねると、ハーレンが考え込んだ。
「四十年ほど前の工事だ。町の石工と木工組合が共同で造ったはずだ」
「ガルドさんは?」
「俺が来る前だ」
「ドムさんは知ってる?」
「親父の代だな」
ドムが髭を撫でる。
「倉庫の石台を直したことはある。十五年くらい前だ」
「床の下は?」
「川の増水を逃がす水抜きがある。倉庫の半分は杭の上だ」
「図は残ってる?」
「組合にあればな」
「取りに行く」
ガルドが立ち上がった。
「追う前に図を探すのか?」
ベルンが言う。
「見つかれば、現地で床を踏み抜かずに済む」
「見つからなかったら?」
「そのときは、見えたものだけで判断する」
速く進むために、先に止まる。
ベルンは納得していない顔をしていた。
だが、ガルドを止めなかった。
◇
木工組合に残っていたのは、完成図ではなかった。
古い修繕記録。
床板の交換本数。
川側の杭の腐食。
水抜き口へ詰まった泥の量。
それぞれが別の紙へ書かれている。
「十五年前に直したのは、この辺りだ」
ドムが炭で倉庫の形を描く。
長方形の建物。
陸側の半分は石の基礎。
川側の半分は、太い木杭と横木で支えられている。
「荷車はどこまで入れる?」
「陸側までだ。川側は荷を一時的に置く床だった」
「今も丈夫?」
「十五年前ならな」
「そのあと、点検は?」
ドムは記録をめくる。
「ない」
「使われてないから?」
「使われていない建物へ、金を出す奴はいない」
使わなくなったから、直さない。
直さないから、さらに使えなくなる。
空き家と同じだった。
「古い河岸の荷揚げ床は、重いものを載せる場所じゃない」
俺は紙へ書かれた交換本数を見る。
「もともとは?」
「舟から上げた荷を、すぐ陸側へ移すための場所だ」
「馬車ごと入れたら?」
「杭が無事なら耐えるかもしれん」
「無事じゃなかったら?」
「川へ落ちる」
ドムの答えは短かった。
「伝令へ知らせる」
ハーレンが修繕記録の要点を書き写す。
「倉庫へ馬車が入っていても、追って床へ乗るな。外側から杭を確認する」
「俺たちは行かないの?」
ミラが尋ねる。
「衛兵が先に確認する」
「そのあと?」
俺はガルドを見る。
「お前は残れ」
予想していた答えだった。
「でも、修繕記録を見たのは――」
「俺も見た」
「地図を合わせたのは俺だ」
「だから何だ」
「現地で違うところがあったら、考え直さないといけない」
「衛兵に図を渡せばいい」
「図にないものがあったら?」
「何でも自分で見なきゃ気が済まねえのか」
「そうじゃない」
「同じだ」
言い返そうとしたとき、組合の外から馬の足音が聞こえた。
早馬の伝令だった。
「古い河岸で馬車を確認!」
男は馬から降りるより先に声を上げた。
「倉庫の中です! 人影は見えません!」
「イルザたちは?」
ハーレンが尋ねる。
「境見宿から向かっています。先行の衛兵は、倉庫へ入らず周囲を見張っています」
「舟は?」
「川岸に一艘。繋がれたままです」
「馬は?」
「二頭ともいません」
馬車だけを残し、馬で別の道へ逃げた可能性がある。
あるいは、小舟で川へ出たあと、誰かが舟を戻したのか。
「もう一つ」
伝令が息を整える。
「倉庫の下から、人の声がしたそうです」
「誰だ」
「分かりません。近づくと、床が大きく鳴ったため、先行の者は退いています」
ガルドが修繕記録を丸めた。
「行くぞ」
「俺も?」
「お前は残れと言った」
「でも――」
「ただし」
ガルドが俺を見る。
「イルザが周囲を確保したあと、俺とドムが現場を見る。お前は倉庫へ入らず、外で図と照らせ」
「それなら――」
「勝手に床へ乗ったら、帰す」
「分かった」
「ミラは残れ」
「どうして!」
今度はミラが声を上げた。
「川辺は地面が悪い」
「レオも子どもだよ」
「こいつは図を見るためだ」
「わたしは煙を見られる」
ミラが素早く答えた。
「倉庫の下に人がいるなら、空気がどこから通ってるか調べられる」
ガルドが眉を寄せる。
「火は使わない」
ミラは続けた。
「油があるかもしれないから。煙だけなら、濡れた木くずじゃなくても作れる。灰を細かく落として、風を見る」
「誰に教わった」
「ネッサさん」
「またか」
「駄目?」
ガルドはしばらくミラを見た。
「俺から離れるな」
「うん」
「返事が軽い」
「分かりました」
「それも信用できん」
「レオと同じこと言わないで」
「俺に言うな」
ガルドは大きく息を吐いた。
「行くぞ。日が落ちる前に着く」
◇
古い河岸へ続く道は、街道より細かった。
長い間使われていないのか、両側から草が伸びている。
荷車が二台すれ違える幅はない。
途中には、水の流れた跡が何本も横切っていた。
「最近、馬車が通ってる」
オーデンが轍を指す。
新しい車輪跡。
深い。
荷を多く積んでいたらしい。
「馬車一台だけ?」
ミラが尋ねる。
「行きの跡は一台だ」
イルザが答えた。
境見宿から戻ったイルザたちと、分かれ道で合流していた。
「帰りは?」
「馬の跡が二頭。人が乗っている」
「マーゼンとニル?」
「まだ分からない」
「馬車を置いて、馬だけで戻った?」
「町の方角ではない。北東へ向かっている」
「北東には何がある?」
「農地と、古い採石道だ」
川港へも、町へも向かっていない。
だが、その先には森沿いの道がある。
領外へ出ることもできるらしい。
「追跡の衛兵を二人出した」
イルザが言う。
「俺たちは河岸を確認する」
森が切れる。
川が見えた。
今の川港より幅は狭い。
対岸には低い林。
岸辺には半分崩れた石段があり、その上に黒ずんだ倉庫が立っている。
屋根の端は落ち、川側の壁は外へ傾いていた。
倉庫の大きな扉は開いている。
その中に、マーゼンが使ったと思われる馬車があった。
「本当に中まで入れたのか」
ドムが呟く。
馬車は陸側を越え、川側の床に近い位置で止まっている。
荷台には、大きな木箱が四つ。
伝令の報告どおりだった。
「誰も近づくな」
イルザが衛兵たちを止める。
「周囲は?」
「窓と川側を見張っています。出た者はいません」
「下の声は?」
「今は聞こえません」
「倉庫の裏は?」
「泥地です。足跡が多く、判別できません」
人の足跡。
馬の跡。
古いものと新しいものが重なっている。
「レオ」
ガルドが呼ぶ。
「図と合うか」
倉庫から十分に離れた場所で、修繕記録を広げる。
陸側の石基礎。
川側の杭。
荷馬車の位置。
「馬車の前輪は、川側の床へ入ってる」
「ああ」
「後輪は、石基礎の端に近い」
「つまり?」
「馬車の重さが、丈夫な側と弱い側にまたがってる」
荷が均等なら、前輪と後輪へ分かれる。
けれど、木箱が荷台の後ろへ寄っていれば、後輪側が重い。
前へ寄っていれば、川側の杭へ大きな力がかかる。
「箱の位置は?」
ミラが目を細める。
「前に寄ってる」
四つの箱は、御者台に近い側へ積まれている。
川側の床へ乗った前輪へ、重さをかける配置だ。
「わざとか」
ドムが言った。
「たぶん」
「何のために?」
「追ってきた人が馬車へ集まれば、その分だけ床が重くなる」
誰かが荷箱を開けようとする。
馬車を外へ引こうとする。
複数の衛兵が乗れば。
腐った杭や横木が耐えられないかもしれない。
「中へ入らなくて正解だったな」
イルザが先行の衛兵へ言う。
「床が鳴った時点で下がりました」
「それでいい」
「だが、人の声がしました」
「先に下から見る」
ドムが川岸へ回る。
倉庫の川側は、石段からは近づけない。
水際の泥へ板を敷き、体重を分散させながら進む必要がある。
「杭が三本、見えない」
ドムが低い姿勢で床下を覗く。
「折れた?」
「泥の中だ。残ってるか分からん」
「横木は?」
「一本が割れてる」
「新しい割れ?」
ガルドが尋ねる。
「表面が明るい。最近だ」
「馬車を入れた重さで?」
「それだけじゃない」
ドムが床下から何かを拾い上げた。
木の楔。
片側には新しい刃物の跡がある。
「横木と杭の間へ入ってた」
「支えるための楔?」
「逆だ」
ドムが楔の細い方を示す。
「横木を少し持ち上げ、力のかかる場所を変えてる。床へ荷が増えれば、割れた部分へ重さが集まる」
自然に壊れたのではない。
誰かが、壊れやすい形へ変えていた。
「床へ人を集めるために、馬車と荷箱を置いた」
俺は言った。
「下から声を出したのも?」
ミラが倉庫を見る。
「本当に人がいるなら、助けようとして集まる」
「声を出した人間が、罠を作ったとは限らない」
ガルドが答えた。
「閉じ込められてるかもしれん」
「どうやって助ける?」
「床の上からじゃない」
倉庫の床下には、増水した水を逃がすための水抜き口がある。
修繕記録では、陸側の石基礎から川へ向けて、低い空間が続いている。
「陸側の外から水抜き口を探す」
俺は図を指した。
「床の下へ入れるかもしれない」
「入口が泥で埋まってる可能性がある」
ドムが言う。
「上から掘るより安全だ」
ガルドが答えた。
「倉庫の外を探すぞ」
◇
水抜き口は、建物の北側で見つかった。
草と泥に覆われ、小さな石積みにしか見えない。
ドムが周囲を棒で確かめる。
「空洞がある」
「すぐ開ける?」
オーデンが尋ねる。
「先に上を支える」
石積みの上には、倉庫の外壁が載っている。
入口の石を不用意に外せば、壁まで動く。
短い柱を二本立て、上の梁へ当てる。
斜め材を入れ、地面へ打った杭と結ぶ。
「倉庫へ触ってないのに、支えるの?」
ミラが尋ねる。
「入口を開けると、今まで石が受けていた重さが動く」
俺は答えた。
「見えてる穴だけを外したら駄目なんだ」
ガルドが俺を見る。
「少しは染みついたな」
「何度も言われたから」
「一度で覚えろ」
支えを確認したあと、入口を塞ぐ泥を少しずつ取り除く。
最初に出てきたのは、濡れた藁だった。
次に、板。
板には新しい釘が打たれている。
「昔から塞がってたんじゃない」
俺が言う。
「最近、誰かが塞いだ」
板を外す前に、ミラが灰を入れた小皿を持ってきた。
火は使わない。
乾いた灰の上へ、指先で細い風を送る。
「魔法か?」
ガルドが尋ねる。
「違うよ。息」
ミラが少し怒ったように言う。
「何でも魔法だと思わないで」
灰が細く舞う。
板の隙間へ近づけると、一部が中へ吸い込まれた。
「空気が入ってる」
ミラが言う。
「奥から外へ出てない」
「別の出口がある」
水抜き口の先で、空気が倉庫の床下から川側へ流れているのだろう。
「油の匂いは?」
イルザが尋ねる。
「少しする」
ガルドが鼻を近づけず、板の隙間から漏れる空気を手で扇いだ。
「古い油か、新しい油かは分からん」
「火を使うな」
イルザが全員へ命じる。
板に縄をかけ、離れた場所からゆっくり引く。
釘が軋む。
一枚目が外れた。
中は暗い。
人が這って通れるほどの高さしかない。
「誰かいるか!」
イルザが呼びかける。
返事はない。
「聞こえたら、石を三度叩け!」
少し待つ。
奥から音が返る。
こつ。
こつ。
こつ。
「いる」
オーデンが入口へ近づこうとする。
「待て」
ガルドが止めた。
「空気を入れ替える」
板をもう一枚だけ外し、入口を広げる。
布を張った枠を使い、外の空気を中へ送る。
一人が枠を押し、一人が引く。
しばらく繰り返す。
「油灯は使えない」
俺が言う。
「どうやって明かりを持っていく?」
「光石を借りてきた」
ハーレンが布袋から、白く濁った小石を二つ出した。
町の倉庫で、夜間の測量に使うものらしい。
強い光ではない。
だが、火を出さずに周囲を照らせる。
「魔石?」
ミラが目を近づける。
「弱い光の魔力を蓄えた石だ」
「高い?」
「油灯を何十日も使えるくらいには」
「落とすなよ」
ガルドが言う。
「言われなくても分かってる」
「お前に言ってない」
「わたし?」
「全員にだ」
入るのはイルザとオーデン。
ガルドは入口。
ドムは倉庫の外の支え。
俺とミラは地上で、床や杭の変化を見る。
「半刻で戻る」
イルザが確認する。
「人を見つけても?」
「状態を伝えるため、一人は戻る」
地下水路での救助と同じだ。
「床の下で、何か動いたら?」
「緊急合図。命綱を続けて引く」
「馬車の下へ入らない」
「必要なら、外から先に馬車を支える」
命綱を腰へ結び、二人が低い水抜き口へ入る。
◇
倉庫の床は、風が吹くだけでも鳴っていた。
ぎい。
少し間を置き。
ぎ、ぎい。
自然の音なのか。
下に入った二人が動いた音なのか。
判断しにくい。
「川側の壁が動いてる?」
ミラが尋ねる。
傾いた壁の端へ、糸と重りを下げていた。
最初につけた印から、大きくはずれていない。
「今は同じ」
「杭は?」
水際の泥へ立てた細い棒。
床が沈めば、棒との間隔が変わる。
「変わってない」
言いながら、馬車の荷箱を見る。
箱の側面には、運送商の印がない。
代わりに、白い粉がついている。
「石の粉?」
ミラが言う。
「たぶん」
川港へ持っていく荷なら、内容を示す印があるはずだ。
だが、この箱にはない。
「重くするためだけに、石を入れた?」
「まだ分からない」
そのとき、馬車の前輪がわずかに動いた。
「止めて!」
俺は声を上げる。
誰も馬車へ触れていない。
床そのものが沈んだのだ。
前輪が板の継ぎ目へ半分落ちる。
倉庫全体が低く鳴った。
「地下へ合図!」
命綱を続けて引く。
イルザたちへ緊急退避を知らせる。
「支えを足すぞ!」
ドムが川側の杭へ近づく。
「床へ入らないで!」
「分かってる!」
外から届く位置へ、太い斜め材を入れる。
地面側へ杭を打ち、馬車の前輪に近い梁を支える。
しかし、泥地では杭が深く入らない。
「板を敷け!」
ガルドが叫ぶ。
杭の下へ幅広い板を置く。
狭い面で泥を押すのではなく、広い面へ力を分ける。
斜め材の位置を変える。
床の鳴り方が止まった。
「中の二人は?」
命綱が動く。
一人。
続いてもう一人。
水抜き口から、オーデンが先に這い出した。
「人を見つけた!」
「状態は?」
「手を縛られてる。柱に繋がれてる!」
「一人?」
「一人だ。意識はある」
「イルザさんは?」
「縄を外してる!」
「戻らせろ!」
「あと少しで――」
「床が沈んだ!」
オーデンの顔色が変わる。
入口へ向かって声を張る。
「イルザ! 戻れ!」
奥から返事が聞こえない。
命綱を二度引く。
止まれ。
さらに、続けて何度も引く。
緊急退避。
しばらくして、縄が動いた。
イルザが後ろ向きで入口から出てくる。
その腕には、別の男の服をつかんでいた。
二人がかりで、男を外へ引き出す。
手首を後ろで縛られ、口には布を詰められている。
四十代ほど。
見覚えはない。
「柱への縄は切った」
イルザが息を整える。
「歩けるか?」
男は頷く。
口の布を外す。
咳き込み、何度も空気を吸った。
「名前は?」
「ロエン……ロエン・ダレス」
帰り火の地図作りに関わったロエンとは別人かと思ったが、ベルンが顔をしかめた。
「石運びのロエンか」
ベルンは知っているらしい。
「前に木場へ石を運んでた」
「どうしてここに?」
ロエンは答えようとして、馬車を見た。
「箱を……動かすな」
「中身は石か?」
俺が尋ねる。
「石と、古い鉄だ。床を落とすために積まされた」
「誰に?」
「ニルだ」
予想していた名前だった。
「マーゼンは?」
イルザが尋ねる。
「一緒にいた。だが、途中で揉めた」
「何があった」
「マーゼンは、帳面を川へ捨てるつもりだった。ニルは契約書だけ持って逃げようとした」
「それで?」
「俺は馬車を運ばされただけだ。河岸へ着いたあと、ニルに床下を見ろと言われた」
「罠を作るために?」
「違う。俺は知らなかった」
ロエンの声が震える。
「下へ入ったら、後ろから殴られた。気づいたときには縛られてた」
目立つ出血はない。
頭の後ろが少し腫れている。
強い傷ではなさそうだが、治療師に見せる必要がある。
「声を出したのは?」
「ああ。上に誰か来たのが聞こえた」
「なぜ三本線の石を帰り火へ置いた」
ロエンの目が見開かれる。
「見つけたのか」
「あなたが置いた?」
ロエンは頷いた。
「帰り火へ荷を運んだことがある。誰にも見られないよう、夕方に置いた」
「どうして直接言わなかった」
「俺の名前が帳面にある」
三本線。
土地を買う仮名義の一つ。
その対応先が、ロエン・ダレスだった。
「土地を買うつもりだったのか」
ベルンが前へ出る。
「違う!」
「名前があるんだろ!」
「銀貨をもらって、紙へ印を押しただけだ!」
「何の紙か知らずに?」
「荷の受け取りだと言われた!」
「そんな話を信じろってのか!」
ベルンがロエンの襟をつかもうとする。
ガルドが腕を遮った。
「今は床から離すのが先だ」
「こいつも仲間かもしれねえ!」
「だから生かして話を聞く」
「オルセの次は、こいつまで助けるのか」
「助けたことと、許すことは別だ」
ガルドの声に、ベルンの動きが止まる。
オルセも。
マーゼンも。
ロエンも。
今ここで助けたからといって、したことが消えるわけではない。
反対に、罪があるかもしれないからといって、崩れる倉庫へ置いていく理由にもならない。
「全員、倉庫から離れろ」
俺が言った。
「馬車の床がさらに沈むかもしれない」
「箱はどうする」
イルザが尋ねる。
「今は触らない」
「中に証拠があるかもしれない」
「床ごと落ちたら、証拠も人も川へ行く」
「支えれば運べるか?」
ドムが床下を見る。
「前輪の下へ、もう一本入れる。だが、馬車を引く前に荷を軽くしたい」
「箱を開けるためには、床へ乗る必要がある」
「上からじゃない」
俺は馬車の側面を見る。
倉庫の陸側。
丈夫な石基礎の上からなら、長い棒や縄を使える。
「箱へ縄をかけて、陸側へ一つずつ引く」
「人が近づかずに?」
「輪を作って投げる」
「箱の角へ掛かるか?」
「何度かやるしかない」
「掛かったあと、箱が倒れたら床へ衝撃が入る」
「その前に、川側の床を支える」
ドムとガルドが図を見ながら、支えの位置を決める。
俺は馬車の車輪と箱の位置を測る。
ミラは糸の重りを見続ける。
「まだ壁は動いてない」
「動いたらすぐ言って」
「分かってる」
追跡の途中であっても、作業の順番は変えられない。
早く証拠を取りたい。
ニルを追いたい。
マーゼンの行方を知りたい。
けれど、焦りを理由に床へ乗れば、相手が作った罠へ自分から入ることになる。
◇
箱を一つずつ陸側へ移した。
長い棒の先に縄の輪をつけ、箱の取っ手へ掛ける。
掛かったら、床を滑らせるのではなく、少し持ち上げながら引く。
陸側の境まで来たところで、複数人が受け取る。
一つ目。
石。
二つ目。
錆びた鉄の塊。
三つ目。
割れた車輪の金具。
どれも、運ぶ価値のないものばかりだった。
「本当に重くするためだけか」
イルザが言う。
「四つ目を開ける」
最後の箱は、ほかより小さい。
だが、同じくらい重かった。
陸側へ移し、蓋の釘を抜く。
中には平たい石が並べられている。
「また石だ」
ミラが言った。
「待って」
一番上の石だけ、表面に縄の跡がある。
持ち上げる。
その下から、油布の包みが出てきた。
「契約書か?」
ハーレンが近づく。
「触る前に箱の中を記録する」
イルザが言った。
石の位置。
油布の場所。
箱の釘。
運んだ者。
見つけた者。
すべてを書いてから、油布を取り出す。
中に入っていたのは、契約書ではなかった。
小さな木札が十数枚。
どれも、端が焦げている。
表には人の名前。
裏には人数と、食料の配給数らしい刻み。
「これ……」
ミラが息を呑む。
エナが話していた。
西外仮宿で、家ごとの名前と人数を書き、共同蔵の壁へ掛けていた板。
「名前板だ」
ハーレンが震える声で言った。
「どうしてここにある」
ロエンが地面へ座ったまま答えた。
「マーゼンが持ってきた」
「どこから?」
「木場の下だ。ニルと二人で、袋に入れて馬車へ運んでた」
「捨てるつもりだったのか」
「マーゼンは、川へ沈めると言ってた」
「ニルは?」
「板なんか価値がないと言ってた。だが、マーゼンは残せないと言った」
板に名前が残っていれば。
西外仮宿に誰が住んでいたか。
どの家に何人いたか。
現在の土地の使用権へつながる手掛かりになる。
「契約書は?」
イルザが尋ねる。
「ニルが持ってる」
「マーゼンは?」
「馬に乗って一緒に出た」
「どちらへ向かった」
「採石道だ」
「なぜ川港ではない」
「古い採石場に、別の馬と荷が用意してある」
「誰が用意した?」
ロエンは首を横に振る。
「知らない。俺は河岸まで運べば銀貨を払うと言われただけだ」
「三本線の印は、あなたの仮名義だ」
ハーレンが言う。
「本当に何も知らなかったのか」
「道が通れば土地の値が上がるとは聞いた」
ロエンは俯いた。
「紙へ印を押せば、あとで分け前をやると言われた」
「荷の受け取りだと思ったんじゃなかったのか」
ベルンの声が冷たくなる。
ロエンは答えなかった。
最初の説明と違う。
「全部を知らなかったのは本当だ」
ロエンが絞り出すように言う。
「だが、まともな仕事じゃないとは思ってた」
「それでも印を押した」
「ああ」
「なら、知らなかっただけでは済まない」
ベルンの言葉に、ロエンは何も返さなかった。
「名前板は町へ運ぶ」
ハーレンが言った。
「一枚ずつ写し、エナたちの記憶と照合する」
「原本は?」
「帳面と同じように、複数の立会人を置いて保管する」
「箱は?」
「この状態のまま封印する」
石を入れ直すわけではない。
何がどう入っていたかを記録し、別々に包む。
証拠を守るために、見つけた状態まで残す。
◇
マーゼンとニルを追った衛兵から知らせが来たのは、箱の移動が終わったあとだった。
「採石道で馬を一頭確認!」
伝令が叫ぶ。
「鞍だけが残され、乗っていた者はいません!」
「もう一頭は?」
イルザが尋ねる。
「足跡が古い採石場へ続いています」
「何人分だ」
「馬は一頭。人の足跡は二人分」
「一頭に二人で乗った?」
「途中から歩いた可能性もあります」
「古い採石場の先は?」
「山道へ抜けます。ただし、昨夜の雨で崩れた場所があるとのことです」
マーゼンとニルは一緒にいる。
少なくとも、採石道までは。
「追跡隊を増やす」
イルザが立ち上がる。
「夜になる前に、採石場の入口を押さえる」
「俺たちも行く?」
ミラが尋ねた。
「行かない」
俺は答えた。
ミラが驚いた顔をする。
「レオが先に言うんだ」
「採石場は衛兵の仕事だ」
「図を見なくていいの?」
「採石場の図は持ってない」
「それだけ?」
「名前板を町へ戻さないといけない」
見つけたものを守る。
ロエンの証言を記録する。
崩れかけた倉庫を、誰かが再び踏まないよう封鎖する。
今ここにも、終わっていない仕事が残っている。
「それに」
俺は倉庫の傾いた壁を見る。
「追う人たちが戻る場所を空けておく必要がある」
「待つの?」
「準備して待つ」
ガルドが鼻を鳴らした。
「少しは言い方を覚えたな」
「ガルドさんが何度も言うから」
「一度で覚えろ」
イルザたちは採石道へ向かった。
俺たちは古い河岸へ残る。
ロエンを馬車とは別の荷車へ乗せる。
名前板を一枚ずつ布で包む。
床下の水抜き口へ仮の柵を作る。
馬車は動かさない。
支えを残し、立入禁止の印をつける。
「この倉庫は、あとで壊すの?」
ミラが尋ねる。
「調べてから決める」
「危ないんでしょ」
「危ないからって、すぐ全部壊せばいいわけじゃない」
「まだ何か残ってるかもしれない?」
「ああ。それに、川の水を逃がす場所でもある」
倉庫だけを見れば、使われなくなった古い建物だ。
けれど、床の下には増水を逃がす空間がある。
川岸を守る杭もある。
壊すことで、別の場所へ水が回る可能性もある。
「空き家と同じだね」
ミラが言った。
「空っぽに見えても、空っぽじゃない」
帰り火で壊した古い空き家を思い出す。
誰かの記憶。
残された道具。
土地を支える壁。
使われなくなっても、そこにあるものは消えない。
「レオ」
ミラが名前板の一枚を見ていた。
焦げた木の表面。
かすれた文字。
「この名前、エナおばあちゃんと同じ?」
俺には読めない。
ハーレンを呼ぶ。
ハーレンは板を受け取り、慎重に文字を読んだ。
「エナ・セルド」
その下に刻まれた人数は、四人。
大人二人。
子ども二人。
四十一年前。
八歳だったエナと、その家族。
「残ってた」
ミラが小さく言った。
「ああ」
紙の登録簿は燃えた。
役所の台帳からは、使用者の名前が消えた。
土地は空白として扱われた。
それでも、共同蔵の地下に隠された木札には、名前が残っていた。
マーゼンは、それを川へ沈めようとした。
人の名前を消せば、土地を空き地にできると思ったのかもしれない。
けれど、名前は板に刻まれているだけではない。
覚えている人がいる。
そこで暮らした人がいる。
今も同じ場所で火を守り、家を建てている人がいる。
名前板を消しただけでは、その暮らしまで消すことはできない。
遠くで、馬の蹄の音が聞こえた。
採石道へ向かった追跡隊ではない。
町から来た、新しい伝令だった。
「帰り火から知らせです!」
男が息を切らしている。
「土地台帳の保管庫へ、何者かが入りました!」
「何を取られた」
ハーレンが声を上げる。
「まだ分かりません!」
「見張りは?」
「一人が、外から鍵を掛けられていました。怪我はありません!」
「侵入した者は?」
「逃げました。ただ――」
伝令は、一度息を吸った。
「保管庫の床に、三本線の印が残されていたそうです」
ロエンは、ここにいる。
なら。
三本線の印を使っている人間は、ほかにもいる。
匿名の知らせを置いた者。
土地台帳へ侵入した者。
同じ人物なのか。
別の誰かが同じ印を使っているのか。
マーゼンとニルを追えば、終わるわけではなかった。
追う人間を町の外へ向かわせている間に。
別の誰かが、町の中で動いている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、匿名の知らせにあった古い河岸を調べる話でした。
マーゼンたちが残した馬車は、証拠を運ぶためではなく、老朽化した荷揚げ床へ重さをかけ、追ってきた人たちを巻き込むための罠として使われていました。
レオたちは急いで馬車へ近づくのではなく、古い修繕記録と現地の状態を比べ、床下から救助する方法を選んでいます。
また、土地取得の仮名義に使われていたロイも救出されましたが、助けたことと、彼が不正な契約へ関わった責任を許すことは分けて考えています。
荷箱からは、西外仮宿で使われていた名前板が見つかりました。その中には、幼いころのエナと家族の記録も残っています。
次回は、町の土地台帳保管庫へ入った人物と、複数の人間に使われている「三本線の印」を調べながら、採石場へ逃げたマーゼンとニルの追跡結果を待つことになります。




