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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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第四十一話 仮の壁にも、外す日を書く

 仮に作ったものは、完成したものより弱い。


 だが、本当に危ないのは弱さを忘れ、いつの間にか完成品として使い続けることだ。


 だから普通は、早く取り替えなければならない。


 仮の屋根。


 仮の支え。


 仮の通路。


 工事を進めるため、一時的に水を止める壁。


 けれど、誰も外す日を決めなければ。


 仮のものは、弱いまま何年でも残り続ける。


     ◇


 翌朝、俺たちは最初に点検口の水位を測った。


「昨日より、ここまで下がってる」


 ミラが測量杖についた泥の跡を指差す。


 石一段と、指二本分。


 昨日、西壁の外にある排水口を少し開いたことで、地下水路の水位は確かに下がっていた。


「でも、まだ流れは遅い」


 点検口の縁から覗き込まず、長い棒の先へ結んだ小さな木片を水面へ浮かべる。


 木片はゆっくり南へ動いた。


 途中で一度止まり、また少し進む。


「仮塞ぎの穴が小さいからな」


 ガルドが言った。


「下流を開けても、そこで水を止めたままじゃ流れん」


「今日は仮塞ぎを外すの?」


 ミラが尋ねる。


「全部は外さねえ」


「どうして?」


「昨日も言っただろうが。一度に流せば、緩んだ土まで持っていく」


 ガルドが点検口の周りを見回す。


 側面を支える板。


 横木。


 斜めの控え。


 昨日から動いた場所がないか、一つずつ手で確かめていく。


「水が減ったからって、地面が急に丈夫になったわけじゃねえ。むしろ、水で支えられていた土が動くこともある」


「水が土を支えるのか?」


「泥の中に棒を立てたことはあるだろ」


 俺は頷いた。


「水が抜けた直後は柔らかい。乾いて締まるまでは、前より崩れやすいこともある」


 水を抜けば終わりではない。


 流れを戻すことと、傷んだ壁や地面を直すことは別の作業だった。


「石工が来たぞ」


 オーデンの声がした。


 西門の方から、四人の男たちが道具を載せた手押し車を引いてくる。


 先頭にいるのは、背の低い大柄な男だった。


 頭はきれいに剃られ、鼻の下から顎まで濃い髭に覆われている。肩幅はガルドより広く、両腕は石材のように太い。


「ドム親方だ」


 ハーレンが小声で教えてくれた。


「町の石工組合で、水路や石橋を担当している」


 ドムは点検口の前まで来ると、俺たちへ挨拶をするより先に地面へしゃがみ込んだ。


 亀裂。


 土の色。


 支え板。


 掘り出した蓋石。


 一通り見たあと、ガルドを睨む。


「狭い」


「何がだ」


「作業穴だ。石を運び出せん」


「広げたら上が落ちる」


「だから、先に支えを増やす」


「その木は誰が出す」


「呼んだのは役所だろうが」


 二人が同時にハーレンを見る。


「公共水路の安全確認として、役所から出す」


 ハーレンが答えた。


「ただし、使った材の本数と、残した材を記録する」


「木の一本まで書くのか」


 ドムが顔をしかめる。


「五年前に何を残し、何を外さなかったのか分からないことが、今回の原因になっている」


「面倒な仕事を増やすな」


「必要な仕事だ」


「書くのはお前だろ」


「現場で確認するのは、あなたにもしてもらう」


 ドムは大きく息を吐いた。


「役人のくせに、最近は面倒なことばかり覚えやがる」


「以前よりはましだと思っている」


「自分で言うな」


 口調は荒いが、ドムはすぐに道具を並べ始めた。


 木槌。


 鉄のたがね。


 短い鉄棒。


 石の角を削る小さな槌。


 さらに、布で何重にも包まれた壺が一つ。


「それは?」


 俺が尋ねると、ドムが壺を足元へ置いた。


「川貝灰だ」


「石灰?」


「川港で焼いた貝殻を細かくしたものだ。砂と混ぜれば、水気の多い場所でも普通の粘土より崩れにくい」


 水路の石積みに使う材料らしい。


「たくさん使える?」


「一袋だけだ」


「足りるのか?」


「全部塗り固める気なら足りん。外れた石の周りと、水が当たるところだけに使う」


「もっと持ってこられないの?」


 ミラが壺を見る。


「北の石灰荷が止まってる」


「どうして?」


「峠に角狼が出た。荷車を二台ひっくり返したらしい」


「角狼?」


「牛ほどある狼だ。頭に短い角が生えてる」


 ミラの目が少し大きくなる。


「この辺にも来る?」


「よほど餌がなくならなきゃ、山を下りん」



「見つけたら、狩るの?」


 ミラが尋ねる。


 ドムは首を横に振った。


「街道を守る連中は、まず道を閉じる。荷車を境見宿へ戻して、峠の両側へ警告杭を立てる」


「倒す方が早くない?」


「角狼一頭を追えば、群れの位置が分からなくなる。手負いにすれば、山を下りることもある」


 ネッサが、壺を包む布の結び目を見ながら言った。


「森番と山守が足跡を追い、餌場へ戻ったのを確かめる。別の道へ移ったなら、その道を閉じる。討つのは、人を追うことを覚えた個体か、村へ入り込んだ個体だけだ」


「じゃあ、石灰は?」


「待つ」


 ドムが答えた。


「荷主は怒鳴る。工事は遅れる。値も上がる。それでも、山の道が人間の都合で安全になるわけじゃねえ」


「この町の近くには来ない?」


「角狼が暮らす峠からは遠い」


 ネッサは、地面へ簡単な線を引いた。


 北の山。


 境見宿。


 西門。


 帰り火。


「間に、人の畑と街道と二つの見張り所がある。餌が山にあり、傷もなければ、わざわざ煙と鐘の多い町へは来ない」


「傷があったら?」


「逃げる方向を選ばなくなる」


「餌がなかったら?」


「下りることもある」


 絶対に来ない、とは言わなかった。


 ただ。


 山から町までの間には、距離だけでなく、宿場、見張り、森番、街道の閉鎖という何重もの仕組みがある。


 今まで魔物を見なかったのは、魔物がいないからではない。


 こちらへ来ない条件が保たれ、来そうなときは人が道を閉じていたからだ。



 ドムはそれだけ言うと、壺を手押し車の奥へ戻した。


 遠い場所で魔物が街道を塞げば、この町で使える材料も減る。


 帰り火からは見えない山の出来事が、地下水路の補修方法にまで影響している。


 道は、人だけではなく、物の値段や仕事のやり方もつないでいるのだ。


「珍しい材料に見とれてる暇はねえぞ」


 ガルドに言われ、俺は点検口へ向き直った。


     ◇


 最初に、作業穴を広げるための支えを組んだ。


 点検口の周囲を一度に掘り広げるのではなく、一方の土を少し外し、板を当て、横木を入れる。


 支えが効いたことを確認してから、隣へ進む。


「板を置く順番も記録するのか?」


 ドムが尋ねた。


「残す支えと、抜く支えだけでいい」


 ハーレンの隣で、リゼが帳面へ印をつけていく。


 文字の横には、住人にも分かるよう簡単な図が描かれていた。


 丸は残す。


 斜め線は作業後に抜く。


 三角は、翌朝もう一度確認する。


「抜く予定の支えに、日付も書く」


 ハーレンが言った。


「雨が降れば延ばす可能性がある」


「なら、日付だけじゃ駄目だ」


 俺は言った。


「外す条件も書いた方がいい」


「条件?」


「壁の石積みが固まったあと。水位がこの線より下にあるとき。雨が降っていないとき」


 日付が来たからといって、安全とは限らない。


 反対に、条件がそろっているのに、誰も日付を覚えていなければ支えは残り続ける。


「両方書く」


 ハーレンが頷いた。


 リゼが、支え板に小さな札を結びつける。


 文字を読めない人のために、晴れを示す円と、水位を示す横線も描いた。


「こんな札、水路の中じゃ腐るぞ」


 ドムが言う。


「作業中だけなら十分だ」


「五年残す気はないんだな」


「残さないための札だ」


 ドムは少しだけ笑った。


「なら、なくすなよ」


 支えを増やしたあと、ドムとガルド、石工二人が地下へ入った。


 オーデンも荷運び役として続く。


 俺は今日も地上に残った。


 昨日ほど、納得できない気持ちはなかった。


 地下へ入る人間が何を確認するか。


 どこで作業を止めるか。


 地上から何を運ぶか。


 前もって決める作業が、思っていた以上に多かったからだ。


「仮塞ぎには、最初から二つ穴がある」


 俺は地面へ描いた図を指差した。


「一番下の小さな穴と、その少し上に、水が染み出している隙間」


「今日はどっちを広げる?」


 オーデンが尋ねる。


「下の穴から」


「上を先に開けた方が、水は早く減るんじゃないか?」


「早く減りすぎる」


 水位が高い状態で大きな穴を開ければ、押す力も強い。


 水が一気に噴き出し、仮塞ぎの木や周囲の泥を巻き込むかもしれない。


「下の穴を指二本分だけ広げる。水の量を見て、一度戻る」


「中で決めるんじゃないのか?」


「最初の幅は決めておく。想定と違ったら、触らず戻る」


 現場で判断することと、行き当たりばったりに動くことは違う。


 戻るための基準がなければ、少しくらいならと作業を続けてしまう。


「戻る合図は?」


「縄を二回」


「緊急は?」


「続けて三回」


「三回なら、何を置いても戻る」


 ガルドが確認した。


「道具を拾いに戻るな。石が動いても押さえるな」


 全員が頷く。


「入るぞ」


 灯りが一つずつ地下へ消えていった。


     ◇


 俺とミラは、地上で水位を測り続けた。


 点検口へ直接顔を出さず、長い棒の先につけた木片を水面へ下ろす。


 水はゆっくり流れている。


 まだ大きな変化はない。


「昨日の火、今日も使う?」


 ミラが尋ねた。


「今は使わない。中に油灯があるから」


「せっかく昨日より長く出せるようになったのに」


「火を使わない方が安全なときもある」


「分かってるけど」


 ミラは少し残念そうだった。


 魔法が使えるようになれば、何かをしたくなる。


 俺も前世の知識が役に立ちそうだと思ったとき、すぐ口を出してしまう。


 知っていることと、今使うべきことは同じではない。


「あとで空気の流れを調べるときに頼む」


「本当?」


「ああ。ただし、小さく」


「分かってる」


 ミラが指先を見つめる。


「大きくするより、小さく保つ方が難しいんでしょ」


「ガルドさんが言ってたのか?」


「ネッサさん」


「いつ聞いたんだ?」


「昨日、帰りに会った」


 俺が知らないところでも、ミラは自分で話を聞き、練習している。


 少し前まで、ミラの魔法について俺が考えるのは、炉へ火をつけられるかどうかだけだった。


 けれど、ミラ自身は俺の家造りを手伝うためだけに魔法を覚えているわけではない。


「今度、ちゃんと練習を見せて」


「レオに?」


「嫌なのか?」


「嫌じゃないけど」


 ミラが目を逸らす。


「失敗しても笑わない?」


「自分の指を焼いたら止める」


「笑わないって言ってよ」


「笑わない」


「約束ね」


「ああ」


 返事をしたとき、点検口の中から水音が響いた。


 これまでより大きい。


「開いた」


 俺は測量杖を水面へ下ろす。


 水位はまだほとんど変わっていない。


 だが、浮かべた木片の動きが速くなっていた。


「流れが強くなってる」


 ミラが言う。


「水位を読む。今、十二と四」


 リゼが記録する。


「十二と四」


 少し待つ。


「十二と五」


「指一本下がった?」


「ああ」


 地下から戻る合図はない。


 予定どおりなら、穴を広げたあと、水の動きを見ているはずだ。


「十二と六」


 水位がさらに下がる。


 しかし、同時に点検口の壁から細かな土が落ちた。


「止める」


 俺は命綱を一度引いた。


 向こうから一度、返事がある。


 地下の作業が止まる。


「支え板は?」


 ミラが周囲を見る。


「動いてない」


 亀裂も広がっていない。


 落ちた土は、点検口の内側に残っていた古い泥だった。


「再開していい?」


「まだ」


 水位の変化をもう一度測る。


 十二と七。


 下がる速さが少し緩くなった。


「流れが落ち着いてきた」


「じゃあ続ける?」


「今日は最初の穴だけだ」


 予定では、一つ目を広げたあと、全員一度戻る。


 作業が順調に見えると、もう少し進めたくなる。


 けれど、今は予定を変える理由がない。


 命綱を二度引く。


 戻る合図。


 しばらくして、地下から灯りが近づいてきた。


「まだできるぞ」


 最初に上がってきたドムが言った。


「水は落ち着いた」


「だから戻ってもらった」


「次の穴も広げられる」


「最初は一つで戻ると決めた」


「中を見てない奴が――」


「ドム」


 ガルドが後ろから上がってくる。


「決めたとおりだ」


「お前まで子どもの言うことを聞くのか」


「中で欲を出す奴より、外で止める奴の方が役に立つこともある」


 ドムは不満そうに髭を撫でた。


「水位は?」


「十二と七。最初より指三本下がった」


「流れは?」


「最初より強い。でも、下がる速さは緩くなってる」


 ドムが記録を覗く。


「なら、次を開けても――」


「先に壁を見る」


 ガルドが言った。


「仮塞ぎの向こうから、細かい石が流れてきた」


「壁が崩れた?」


「分からん。塞ぎの向こうはまだ見えねえ」


「なら、次の穴を開ける前に、流れてきたものを調べる」


 ドムはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「石屋に石を見ろと言うなら、文句はねえ」


     ◇


 排水口の外へ回ると、濁った水と一緒に小さな石がいくつも流れ出していた。


 ドムが一つ拾い上げる。


 表面を擦り、割れた面を確かめた。


「水路の壁石じゃない」


「どこの石?」


「詰め物だ。丸いだろ。川石を隙間へ入れてた」


「水路の外から入った土に混ざってた可能性は?」


「ある」


 別の石を見る。


「こっちは粘土がついてる」


 ドムが石の側面を爪で削った。


「仮塞ぎに使った石だ」


「塞ぎが壊れ始めてる?」


「下の穴を広げた分、周りが少し崩れたんだろう」


「危ない?」


「すぐ全部抜けるほどじゃない」


「なら、次を――」


「今日は開けない」


 俺が言うと、ドムがまた顔をしかめた。


「水位を下げるんだろうが」


「仮塞ぎが勝手に崩れたとき、止められる準備がない」


「もう一度塞げばいい」


「何で?」


「木と粘土だ」


「同じものを作るの?」


「今度は外す日を決める」


 ドムの返事は早かった。


 俺は仮塞ぎの図を見る。


 水を止める役目。


 作業する人を守る役目。


 五年前に作った人間も、必要だから作ったのだろう。


 問題は、仮塞ぎそのものではない。


 工事が終わったあとに残されたことだ。


「同じ作り方でいいのかな」


「何が言いたい」


「外すときに、また全部を壊すしかない」


「仮の壁なんぞ、そんなもんだ」


「外すための場所を最初から作れない?」


 地面へ断面を描く。


 水路の幅。


 木の板を何枚も並べた壁。


 その間へ詰めた粘土と石。


「全部を一枚の壁にしない。中央に抜ける板を何本か入れる」


「板を抜けば穴になる?」


 ミラが図を見る。


「最初は一番下の一本だけ抜く。水が落ち着いたら、その上を抜く」


「今やってることと同じだな」


 ガルドが言う。


「でも、穴を掘り広げなくてもいい」


 抜く板の端を上流側へ出すのは危険だ。


 水に押されて抜けなくなる。


 下流側から、木栓や楔を外せる形にする必要がある。


 ドムが図へしゃがみ込んだ。


「横から溝へ入れる」


「溝?」


「壁の両側に石の溝を作る。板を上から落として並べるんだ。外すときは一枚ずつ上へ引き抜く」


 木材で水を止める簡易の堰に近い。


「でも、天井まで板を引き上げる高さがない」


 俺が言う。


「短く分ける」


 ガルドが別の線を描く。


「上と下で二段だ。下の板を横へ抜く口を残す」


「石積みが複雑になるぞ」


 ドムが言う。


「お前なら作れるだろ」


「誰に向かって言ってやがる」


「作れねえのか?」


「作れるに決まってる」


 ドムが俺の描いた図を手で消し、自分で描き直し始めた。


 溝の幅。


 板の厚さ。


 水圧を受ける横木。


 楔を外すための空間。


「川貝灰は、ここの石に使う。外す板へは塗らん」


「また塞ぐの?」


 ベルンが図を見ていた。


「壁を直す間だけだ」


 俺が答える。


「仮塞ぎを全部外す前に、傷んだ場所へ水が強く当たらないようにする」


「また忘れられたら?」


「だから、外す日と条件を残す」


「札がなくなったら?」


 ベルンの問いに、誰もすぐ答えなかった。


 木の札は腐る。


 紙は濡れる。


 記録を保管する人間が替われば、帳面も失われるかもしれない。


「石に刻む」


 ドムが言った。


「仮塞ぎの横へ、外す板の数と順番を刻む。壁を外したあとも、印は残る」


「誰が外すかも書ける?」


 ミラが尋ねる。


「石へ名前を全部彫る気か」


「名前じゃなくてもいい」


 俺は言った。


「役所、水路を直した石工、帰り火。それぞれが確認する印を残す」


 一人だけの仕事にすれば、その人がいなくなったときに止まる。


 複数の人間が知っていれば、誰かが気づける。


「管理する人間も決める必要がある」


 ハーレンが言った。


「公共水路だから役所だけ、では駄目だ。毎日使う場所に近い住人にも、水位と出口を確認してもらう」


「役所の仕事を押しつけるのか?」


 ベルンが言う。


「確認には対価を出す」


「金を?」


「道路と排水の維持費から出せるよう、計画へ加える」


「そんな項目、前はなかっただろ」


「作ったあとの仕事が抜けていた」


 ハーレンは、サラの仮設仕事場を見る。


「その結果が、今ここにある」


 ベルンは何も言わなかった。


 だが、反対もしなかった。


     ◇


 午後は、崩れかけた水路壁を支える作業へ移った。


 水位が下がったことで、昨日より壁の傷みが見えるようになっていた。


 ドムたちが地下へ入り、外れかけた石の下へ仮の支えを入れる。


 一度に石を外さない。


 上の荷重を木の支えへ移し、動いている石だけを抜く。


 その奥から流れ込んだ土を、少しずつかき出す。


「土を全部取らないの?」


 ミラが尋ねる。


「奥まで掘ると、上の地面が落ちる」


「残すの?」


「今はな」


 水路側から取れる土だけを外し、空いた場所へ大小の石を組み直す。


 大きな石で形を作り、小さな石で隙間を詰める。


 最後に川貝灰と砂を混ぜた材料を、水が直接当たる継ぎ目へ押し込んだ。


「固まるまで、どれくらい?」


 俺が尋ねる。


「表面は明日には締まる」


 ドムが答える。


「だが、水をまともに当てるのは三日待ちたい」


「三日間、水を止める?」


「全部は止めん。今の小さな穴から流す」


「雨が降ったら?」


「水位が上がる前に、下流側をもう少し開ける」


「誰が判断する?」


 ハーレンが聞いた。


 ドムは面倒そうに俺を見る。


「こいつでいいだろ」


「レオは組合の職人ではない」


「水位を見て、作業を止めたのはこいつだ」


「責任を子ども一人へ置くわけにはいかない」


 ハーレンの言葉は正しかった。


「三人にする」


 俺は言った。


「石積みの状態はドムさん。水位と地面の変化は俺かガルドさん。作業を止める判断は、そこにいる誰でもできる」


「誰でも?」


「異常を見つけたら、まず止める。再開するかは三人で確認する」


 一人がすべてを決めるのではなく、それぞれが分かる範囲を持つ。


 設計する人。


 作る人。


 使う人。


 全員の目が同じ場所を見なければ、完成したあとに何かが抜け落ちる。


「それで記録する」


 ハーレンが頷いた。


     ◇


 壁の仮補修が終わったころ、点検口の中へミラの煙を入れた。


 今日の作業は終わっている。


 人は地下から全員出ている。


 だからこそ、空気の流れが変わっていないか確かめられる。


「大きくしない」


 ミラが自分へ言い聞かせるように呟く。


 素焼きの皿に載せた木くずへ、人差し指を近づける。


 赤い光が生まれた。


 昨日より小さい。


 けれど、消えない。


 木くずの端だけがゆっくり赤くなり、白い煙が一本立ち上る。


「できた」


 ミラが笑う。


 皿を長い板の先へ載せ、点検口の中へ下ろす。


 煙は地下水路へ吸い込まれた。


 南。


 木場の下流側へ流れていく。


「昨日と同じだね」


「待って」


 俺は板を少し持ち上げた。


 煙の一部が、途中で横へ曲がっている。


「右へ流れてる」


「支線だ」


 ハーレンが古い図を広げる。


 旧測量小屋の方角へ続く、途中で消えた細い線。


 煙は、その方向へ吸い込まれていた。


「入口は水路の中?」


「昨日、ガルドさんたちは見つけてない」


「壁で塞がれているのかもしれない」


 ガルドが灯りを持つ。


「今日は入らないぞ」


「分かってる」


 俺が答えると、ガルドは少し意外そうな顔をした。


「本当に分かったのか」


「壁の材料が固まる前に、人が動けば振動する。それに、支線の空気がどこへ抜けてるか分からない」


「少しは頭を使うようになったな」


「前から使ってる」


「自分で言うな」


 煙の皿を、支線と思われる方向へ少しずつ動かす。


 ある場所で、白い煙が細く引かれた。


 地上の風ではない。


 石壁の隙間へ、確かに吸い込まれている。


「ここだ」


 ガルドが地下で確認した位置を、地面の図へ写す。


 支線の入口は、仮塞ぎより少し上流。


 古い図では、そこから旧測量小屋の下へ続いている。


「明日、壁を開ける?」


 ミラが尋ねた。


「開ける前に、測量小屋側の出口を探す」


 俺は答えた。


「両方の位置を確かめてからだ」


「中から行った方が早いのに?」


「早くても、戻れなくなったら駄目だ」


 言葉にしてから、少し不思議な気持ちになった。


 以前なら、俺が中へ入りたがっていた。


 ガルドに止められても、見るだけだと言い訳していた。


 今も、自分の目で確かめたい気持ちはある。


 けれど、見たいという気持ちだけで作業の順番を変えてはいけない。


「旧測量小屋へ行こう」


 ハーレンが帳面を閉じる。


     ◇


 旧測量小屋の床は、昨日まで何度も調べていた。


 オルセの基準帳が隠されていた棚。


 鍵のなくなった戸。


 古い測量器。


 けれど、床の下に水路の支線があるとは誰も気づかなかった。


「煙は、あの辺りへ向かっていた」


 俺は地下で測った距離を、地上の縄へ移す。


 小屋の奥。


 棚と壁の間。


 床板には、ほかと違うところがない。


 ガルドが木槌の柄で床を叩く。


 乾いた音。


 少し横へ移動する。


 また乾いた音。


 棚の脚に近い場所だけ、わずかに低く響いた。


「下が空いてる」


「床板を外す?」


 ミラが尋ねる。


「棚を先に動かす」


 棚には古い帳面や道具が残っている。


 中身を一つずつ出し、置いた場所を記録する。


 空になった棚を数人で持ち上げると、背面の板に細い傷が見えた。


 何度も動かした跡だ。


「この棚、固定されてなかったのか?」


 オーデンが言った。


「床の溝に脚を入れてあるだけだ」


 ガルドが棚の下を指す。


 脚が置かれていた床板の端に、指を掛けられるほどの小さな欠き込みがあった。


 木片を差し込み、ゆっくり持ち上げる。


 床板の下から、冷たい空気が流れ出した。


「煙の匂いがする」


 ミラが鼻を動かす。


「油灯だ」


 ガルドが言った。


 古い地下の湿った匂いだけではない。


 燃えた油と、煤の匂い。


 最近、誰かが火を使った場所の匂いだった。


 床板を一枚だけ外す。


 下には、石で囲まれた狭い縦穴があった。


 人がどうにか通れる幅。


 壁には鉄の足掛かりが打ち込まれ、暗い下へ続いている。


「支線の点検口か」


 ハーレンが呟く。


「図にない」


「消されたんじゃなくて、最初から別の図にあったのかもしれない」


 穴の縁には、新しい擦り傷が残っていた。


 古い埃の上を、何度も縄が動いた跡。


 さらに、足掛かりの一つへ青い紐が結ばれている。


 昨日、水路の中で見つかった測量紐と同じ色だった。


「誰かがここから入った」


 オーデンが言う。


「出た跡もある?」


 ミラが尋ねた。


 穴の周囲を見る。


 床の埃。


 棚の脚。


 床板の端。


 内側から床板を戻すことはできない。


 棚も、一人で元の位置へ動かすには重すぎる。


「ここから入った人間は、別の場所から出た」


 俺は言った。


「あるいは、まだ下にいる」


 小屋の中が静かになった。


 耳を澄ます。


 水の音は聞こえない。


 人の声もない。


 ただ、縦穴の奥から冷たい空気が上がっている。


「呼んでみる?」


 ミラが小声で言った。


 ガルドが穴の縁から離れたまま、下へ向かって声を張った。


「誰かいるか!」


 返事はない。


 もう一度。


「聞こえたら、壁か石を三度叩け!」


 沈黙が続く。


 やはり誰もいないのかもしれない。


 そう思ったとき。


 遠い場所から、小さな音が返ってきた。


 こつ。


 間を置いて。


 こつ。


 そして、もう一度。


 こつ。


 ミラが俺の袖をつかんだ。


「今の……」


「ああ」


 三度。


 偶然、水が落ちた音ではない。


 けれど、すぐに穴へ入ることはできない。


 どこまで続いているか分からない。


 途中で崩れているかもしれない。


 中の空気も確かめていない。


 今はもう、日が沈み始めている。


「助けに行く」


 オーデンが床穴へ近づく。


「止まれ」


 ガルドが腕をつかんだ。


「人がいるんだぞ!」


「だからこそだ」


「明日まで待てっていうのか!」


「暗い穴へ一人で入って、お前まで出られなくなれば、助ける人間が二人になる」


「でも――」


「声を届ける」


 俺は穴から距離を取り、しゃがんだ。


「聞こえるか!」


 返事はない。


「今から入口を支える! 中の道と空気を確かめてから、必ず迎えに行く!」


 しばらく待つ。


 奥から、一度だけ音が返った。


 こつ。


 聞こえた。


 そう伝える合図のように。


「今夜、見張りを置く」


 ハーレンが言った。


「点検口と、この小屋の両方だ。水位の変化も一刻ごとに記録する」


「食べ物は渡せる?」


 ミラが尋ねた。


「穴へ落とせば、下まで届くかもしれない」


「届かなかったら、水路の邪魔になる」


 俺は縦穴を見る。


「まず、紐を下ろす。向こうが引けるなら、袋を結んで送る」


 長い縄の先へ小さな木片を結ぶ。


 縦穴の中へ、ゆっくり下ろす。


 途中で一度引っかかった。


 少し持ち上げ、位置を変える。


 さらに下へ。


 縄の残りが半分を切ったところで、急に重さが変わった。


「底についた?」


 ミラが尋ねる。


「分からない」


 縄を一度引く。


 しばらく待つ。


 向こうから、弱い力で一度引き返された。


「つかんだ」


 水と黒パン、油灯に使える小さな油壺を布袋へ入れる。


 結び目を二重に確認し、縄へつける。


「ゆっくり下ろす」


 袋が闇の中へ消える。


 縄が止まる。


 再び、向こうから一度引かれた。


 届いた。


 誰がいるのかは、まだ分からない。


 オルセかもしれない。


 別の誰かかもしれない。


 罠の可能性すら、なくなったわけではない。


 それでも。


 暗い水路の先に、助けを待っている人がいる。


 急がなければならない。


 だからこそ、順番を飛ばしてはいけない。


 入口を支える。


 空気を確かめる。


 水位を下げる。


 帰る道を残す。


 そして、中へ入る人間だけでなく、外で戻りを待つ人間を決める。


 仮の壁には、外す日を書く。


 地下へ入るなら、戻る時刻を残す。


 誰かが始めた仕事を、誰かが終わらせなければならない。


 今度こそ。


 この水路の中に、誰も置き去りにはしない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、五年前に残された仮塞ぎを少しずつ開きながら、仮設物を「いつ、誰が、どの条件で外すのか」まで決める話でした。


仮の支えや応急処置は、危険な状況で人を守るために必要です。


しかし、工事が終わったあとに忘れられれば、その仮設物自体が新しい問題になることもあります。


レオも、自分で作業へ入るだけではなく、作業を止める基準や、職人同士の役割を考えるようになってきました。少しずつ、職人見習いから現場全体を設計する側へ進み始めています。


また、遠方の魔物被害が建材の流通へ影響していることにも、少し触れました。今後も道路や交易を通じて、帰り火の外側にある世界を徐々に描いていく予定です。


次回は、旧測量小屋の地下から返ってきた合図を頼りに、救助経路と水路の支線を調べます。


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