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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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第四十話 埋める前に、水の行き先を見る

 地面に穴が開いていたら、土を入れて塞ぎたくなる。


 床が沈んでいれば、その下へ石を詰めたくなる。


 見えている空間を埋めれば、元に戻ったように見えるからだ。


 けれど。


 その穴を作ったものが水なら、先に水の行き先を作らなければならない。


 出口を失った水は、消えない。


 人の見えない場所へ回り込み、別の地面を壊すだけだ。


     ◇


「何をしてる!」


 朝、外から聞こえた声で目を覚ました。


 俺が家を飛び出すと、サラの仮設仕事場の前に人が集まっていた。


 立入禁止を示す、交差させた二枚の板。


 その脇で、一人の男が地面の亀裂へ土を入れている。


 ベルンだった。


 手にした籠を傾け、黒い土を亀裂へ落としている。


 それをガルドが後ろから止めていた。


「離せ!」


「先に土を置け!」


「穴が開いてるんだぞ! 埋めなきゃ広がるだろうが!」


「原因も分からねえ穴へ、上から土を突っ込む馬鹿がいるか!」


「昨日、お前らが囲って帰ったあとにも沈んだんだ!」


 ベルンが指差す。


 昨日は指一本ほどだった亀裂が、今朝は二本分ほどに広がっていた。


 端の一部は崩れ、黒い土が下へ落ちている。


「だったら、なおさら近づくな」


 ガルドがベルンの腕を引く。


「下が空洞なら、お前ごと落ちるぞ」


「見てるだけでどうする!」


「見てるんじゃねえ。開け方を考えてる」


「考えてる間に家が沈んだら、誰が責任を取る!」


 その言葉に、ガルドの顔が険しくなった。


「だから、先に支えるんだ」


 俺は二人の間へ入った。


「土を入れたら駄目なのか?」


 ベルンが俺を睨む。


「水路が壊れて、土を下へ流している可能性がある」


「土を足せば、その分は埋まるだろ」


「一時的には」


「なら、入れろ」


「でも、水が流れ続けていれば、入れた土も運ばれる」


「もっと入れればいい」


「水の行き先を塞いだら、別の方向へ流れる」


 サラの仕事場を見る。


 その隣には、人が暮らす家がある。


「ここで止めた水が、隣の家の下へ回るかもしれない」


 ベルンの動きが止まった。


「そんなことが分かるのか?」


「分からない」


「分からねえのかよ!」


「だから、開けて確かめる」


 分からないまま埋めることも、分からないまま放っておくこともできない。


 必要なのは、地下に残る水路の状態を確認することだった。


「でも、上から掘るんじゃない」


 ガルドが言った。


「沈んでる真上を掘れば、残ってる天井まで壊す。昨日見つけた古い点検口を探すぞ」


「点検口は西壁の近くだったな」


 ハーレンの声がした。


 振り返ると、帳面を抱えたハーレンと、リゼがこちらへ歩いてくる。


「朝一番で役所の保管図を確認した」


 ハーレンが一枚の紙を広げた。


 簡単な線しか描かれていない古い図だった。


 西壁。


 木場。


 西外仮宿の共同蔵。


 その下を通る排水路。


「昨日見つけた管理杭から、西へ十八歩。壁から南へ七歩の位置に、点検口があったらしい」


「あった、ということは?」


 俺が尋ねる。


「五年前の木場整備図では、上から土を入れて平らにしたことになっている」


「点検口まで埋めたのか?」


「図には、移設と書かれている」


「移した先は?」


 ハーレンは答えなかった。


 代わりに、別の紙を見せる。


「記録がない」


「またか」


 ベルンが吐き捨てる。


「都合の悪いものだけ、よく消えるな」


「消されたのか、最初から作られなかったのかも分からない」


「同じことだろ」


「同じではない」


 ハーレンは静かに言った。


「誰かが隠したのか、仕事を終えずに放置したのかで、責任を負う人間も、次に直す仕組みも変わる」


「今は責任より、穴だ」


 ガルドが紙を覗き込む。


「古い位置から探す。だが、その前に人を分けるぞ」


「何をする?」


「穴を探す者。地面の沈みを見張る者。移した作業場を整える者だ」


 サラが腕を組んで立っていた。


「仕事場を直す人間までいるのかい?」


「昨日のままじゃ、雨が横から入る」


 オーデンが答えた。


 木場で働いていた男たちを数人連れている。


「今日の仕事を止めたくないんだろ」


「止めたくないよ」


「なら、屋根の端へ板を足す。作業台が揺れないよう脚も直す」


「水路を調べる人手が減るんじゃないかい?」


「全員で穴を囲んでも、仕事は進まん」


 ガルドが言った。


「手が多けりゃいいってもんじゃねえ。誰が何をするか決めろ」


 安全のために全員の仕事を止めれば、その日の食事を失う人がいる。


 だからといって、危険な場所で働かせるわけにもいかない。


 穴を直す人間と、暮らしを止めないために動く人間。


 どちらも必要だった。


「ミラはサラさんのところへ行ってくれ」


 俺が言う。


「どうして?」


「作業場の雨の入り方を見て――」


「レオは?」


「点検口を探す」


「わたしも探せるよ」


「地面が沈んでる」


「レオだって子どもでしょ」


 反論できない。


「二人とも、穴の近くへは行かせねえ」


 ガルドが言った。


「でも――」


「地面の上から指示を出すのも仕事だ。中へ入りたがる奴ばかりじゃ、外で異常を見る人間がいなくなる」


 俺は口を閉じた。


 自分の目で見なければ分からない。


 そう思っていた。


 けれど、全員が同じ場所へ入れば、誰が全体を見るのか。


「レオは位置を決めろ」


 ガルドが古い図を俺へ渡す。


「ミラは火を扱えるな」


「少しなら」


「煙を作れるか?」


「煙?」


「風の流れを見る。強い火はいらん。細く、消えない程度だ」


 ミラの表情が変わった。


「やってみる」


「家を燃やすなよ」


「燃やさない!」


 ガルドが歩き出す。


「なら始めるぞ」


     ◇


 古い点検口があった場所は、西壁のすぐ内側だった。


 地面には草が生え、その上を何度も荷車が通った跡が残っている。


 見ただけでは、下に何かあるとは思えない。


「管理杭から十八歩」


 俺は縄を使って距離を取った。


 人の歩幅だけでは、測る人によって位置が変わる。


 昨日測ったハーレンの一歩を基準に、縄へ結び目をつけてある。


「ここ」


 地面へ短い杭を立てる。


 次に、西壁から南へ七歩。


 二本の線が交わった場所へ印をつけた。


「本当にここなのか?」


 オーデンが地面を踏もうとする。


「踏むな」


 ガルドが止めた。


「まず周りから棒を入れる」


 長い鉄棒を、印から離れた場所へ差し込む。


 固い土。


 石。


 また土。


 位置を変える。


 四方から確かめると、印の周囲だけ、浅いところに平たい石が並んでいることが分かった。


「蓋かもしれない」


 俺は言った。


「真上から掘る?」


 ミラが尋ねる。


「蓋が割れていたら危ない」


 ガルドが図を見る。


「側面を出す」


「横から?」


「ああ。少し離れたところを掘り下げて、石の端へ近づく。上の重さを残したまま、状態を見る」


 穴を開ける前に支える。


 帰り火の古い空き家を壊したときにも、地下水路を直したときにも、何度も繰り返してきた。


 見たい場所の真上を、いきなり壊してはいけない。


 点検口と思われる石から二歩離れ、地面を浅く掘る。


 最初に広く表土を外す。


 深くなるにつれ、穴の側面へ短い板を当てる。


 板が倒れないよう、向かい側との間に横木を入れた。


「この木、何度も使える?」


 オーデンが尋ねる。


「割れなければな」


 ガルドが答える。


「土を戻すときに抜く。ただし、抜いたせいで崩れる場所は残す」


「埋めるのに、木を残すのか?」


「木を惜しんで人を埋める気か」


「そうは言ってねえ」


 少しずつ掘り進める。


 腰ほどの深さになったところで、石の側面が現れた。


 大きな平たい石を、何枚も並べて蓋にしている。


 その下には、石積みの壁が続いていた。


「点検口だ」


 ハーレンが古い図と見比べる。


「残っていたのか」


「残ってたんじゃない」


 ベルンが言う。


「上から埋められてただけだ」


 石の継ぎ目へ、細い木片を近づける。


 湿った空気が、かすかに漏れていた。


「中に空間がある」


 俺は耳を近づけようとした。


 ガルドに襟をつかまれる。


「顔を寄せるな」


「水の音を聞こうとしただけだ」


「中の空気が悪ければ、一息で倒れるぞ」


「水路なのに?」


「閉じた場所へ何年も泥や腐った木が溜まってる。何があるか分からん」


 点検口の蓋を開ける前に、周囲の支えを増やす。


 石積みの外側へ板を当てる。


 その板を横木で押さえる。


 蓋石の一枚へ縄を回し、離れた場所から少しだけ持ち上げられるようにする。


「全部開けるな」


 ガルドが言った。


「まず、指二本分だ」


 縄を引く。


 蓋石がわずかに浮いた。


 隙間から、冷たい空気が流れ出す。


 臭いは強くない。


 湿った石と、古い土の匂い。


「ミラ」


 ガルドが呼ぶ。


「火を大きくするなよ」


「分かってる」


 ミラは小さな素焼きの皿へ、湿らせた木くずを載せた。


 指先に赤い火花を作る。


 昨日までなら、火花は一度弾けて消えていた。


 今日は違った。


 小さな光が、指の先で震えながら残っている。


 ミラは唇を結び、ゆっくり皿へ近づけた。


 木くずの一部が赤くなる。


 炎は上がらない。


 代わりに、細い白い煙が生まれた。


「そのまま」


 ガルドが言う。


 煙の皿を、長い板の先へ載せる。


 人が顔を近づけなくても、点検口の隙間へ運べるようにした。


 白い煙は最初、まっすぐ上へ昇った。


 隙間へ近づけると、ゆっくり水路の中へ吸い込まれていく。


「中へ流れてる」


 ミラが言った。


「どこかに出口がある」


 俺は煙の動きを見る。


 完全に閉じた空洞ではない。


 だが、空気が流れているから安全とは限らない。


 蓋石の隙間を少し広げる。


 しばらくそのまま置き、中の空気を外へ入れ替える。


「火を消すなよ」


 俺が言う。


「分かってる」


 煙は細いまま続いている。


「前より長く保てるようになったな」


「毎日、炉で練習してたから」


「一人で?」


「水を横に置いてる。エナおばあちゃんにも見てもらってるよ」


 火を大きくするのではない。


 必要な大きさを保つ。


 簡単そうに見えて、ずっと難しいことだった。


「もういい」


 ガルドが言う。


 ミラが指を閉じると、木くずの赤い光がゆっくり消えた。


「消すのも前より上手くなった」


「出すより簡単だよ」


「火事では、出すより消す方が難しい」


 ネッサが言いそうな言葉が頭に浮かんだ。


 今度会ったら、ミラの火を見てもらった方がいいかもしれない。


     ◇


 点検口を、人が通れる広さまで開けた。


 石の階段が、暗い地下へ続いている。


 階段の途中から水に濡れ、さらに下は見えない。


「俺が先に行く」


 オーデンが縄を腰へ結ぶ。


「俺も行く」


「レオは外だ」


 ガルドが即座に言った。


「でも、水路の状態を見ないと――」


「見たものを伝える」


「それじゃ細かいところが分からない」


「なら、何を見るか先に言え」


 ガルドが俺の前へ立つ。


「お前が中へ入って、外で土が動いたら誰が止める」


「ハーレンさんがいる」


「測量の記録を見る奴は?」


「リゼさんが」


「中の報告を図へ描く奴は?」


 答えられなかった。


「全員が穴へ入りたがる現場は、必ず事故になる」


 ガルドが言った。


「お前の仕事は、中へ入ることじゃねえ。入る奴が何を見て、いつ戻るかを決めることだ」


 自分の手で確かめることだけが、責任を持つことだと思っていた。


 けれど、誰かへ任せるなら、任せるための準備をしなければならない。


「分かった」


「分かったなら、埋める前の図へ戻せ」


「今度は本当に分かった」


「それも信用できん」


「二人とも、話が進まないよ」


 ミラが言った。


 俺は地面へ古い水路の図を広げた。


「確認してほしいのは五つ」


 ガルドとオーデンが図を覗く。


「水の深さと流れる方向。天井や壁の割れ。木の支えが残っているか。土が流れ込んでいる場所。それから、木場の下へ続く通路が塞がっているか」


「五つだな」


「何か見つけても、触る前に戻ってきて」


「崩れそうなら?」


「すぐ戻る。調べるために壊したら意味がない」


「灯りはどうする?」


 ミラが尋ねた。


「油灯を二つ持つ」


 ガルドが答える。


「一つ消えたら、もう一つを頼らず戻る」


「どうして?」


「空気が変わったかもしれん」


 腰へ命綱を結び、地上の太い杭へ固定する。


 ガルドが先。


 少し間を空けて、オーデンが続く。


 水路へ入る前に、二人の名前と時刻を記録した。


「半刻で戻らなかったら?」


 リゼが尋ねる。


「縄を強く二度引く」


 オーデンが言う。


「返事がなければ?」


「誰も入るな」


 ガルドが答えた。


「入口を広げて、救助の支えを組んでからだ」


 助けるために、さらに人が埋まってはいけない。


 二人の灯りが、階段の下へ消えていった。


     ◇


 待つ時間は長かった。


 命綱は、地面の上をゆっくり動いている。


 止まる。


 再び動く。


 それを見ていることしかできない。


「レオ」


 ミラが小声で呼ぶ。


「何?」


「爪、痛くないの?」


 気づくと、拳を強く握っていた。


 爪が手のひらへ食い込んでいる。


「中へ入った方が楽だった」


「でも、外にいる役目なんでしょ」


「ああ」


「なら、ちゃんと外を見て」


 ミラに言われ、周囲を見る。


 点検口の側面を押さえている板。


 横木。


 杭。


 命綱。


 地面の亀裂。


 中のことばかり考えて、外の変化を見落としていた。


「右の板が動いてる」


 俺は声を上げた。


 穴の側面を支える板と土の間に、わずかな隙間ができている。


「土が緩んだ」


 ベルンとオーデンの仲間が近づこうとする。


「全員、縁から離れて!」


 板へ直接手を掛けず、横木の外側から別の支えを足す。


 地面へ杭を打ち、その杭と板の間へ斜め材を入れた。


 隙間の広がりが止まる。


「中へ合図する?」


 ミラが尋ねる。


「縄を一度だけ引く」


 決めておいた合図だ。


 一度は停止。


 二度は戻れ。


 命綱を一度引く。


 しばらくして、向こうから一度返ってきた。


 二人は動きを止めた。


 外の支えを確認する。


「これでいい」


 ガルドたちへ再開の合図を送る。


「本当に、外にも仕事があるんだね」


 ミラが言った。


「ああ」


 自分が穴へ入らなかったからこそ、気づけた動きだった。


 しばらくして、階段の下に灯りが見えた。


 先にガルドが上がってくる。


 服の裾が膝まで濡れていた。


 続いてオーデン。


 二人とも泥だらけだが、怪我はない。


「どうだった?」


「水は北から南へ流れてる」


 ガルドが腰の縄を外しながら答える。


「深さは足首から膝下。天井は石のアーチだ。崩れてる場所はないが、継ぎ目から土が落ちてる」


「木の支えは?」


「三か所残ってる。二つは腐ってる。一本は後から足した新しい材だ」


「新しい?」


「五年前よりは新しい」


 オーデンが言う。


「表面に手斧の跡が残ってた」


「土が流れ込んでいる場所は?」


「サラの仕事場の下に近いところだ」


 ガルドが地面の図へ指を置く。


「壁の石が一部外れ、その隙間から土が少しずつ入ってる。水がその土を運んでる」


「塞がっている場所は?」


 二人の表情が変わった。


「木場の下で、水路が狭くなってる」


「崩れたのか?」


「違う」


 オーデンが首を横に振った。


「木と粘土で塞いである」


「人が?」


「ああ」


 ガルドが図の上に線を引く。


「完全には塞いでない。下に小さな穴を残して、水だけ少しずつ流す形だ」


「何のために?」


 ハーレンが尋ねる。


「工事中の仮塞ぎだろう」


 ガルドが答える。


「向こう側から水が来れば、土を入れたり石を積んだりできん。いったん流れを弱めるために使う方法だ」


「工事が終わったあと、外すもの?」


 ミラが尋ねた。


「普通はな」


 外されなかった仮の壁。


 その後も水は流れ続けた。


 小さな穴で流し切れなかった水が水路の中に溜まり、石の隙間から周囲の土へ回った。


 木場の荷重で地面が沈み、水路の壁がさらに動く。


 五年間かけて、少しずつ帰り火の下を削っていた。


「すぐ外せる?」


 ベルンが言った。


「外せば、水が一気に流れる」


 ガルドが首を横に振る。


「塞いだ向こうに、どれだけ水が溜まってるか分からん。下流が詰まっていれば、別の場所からあふれる」


「じゃあ、どうする」


「先に出口を作る」


 俺は古い図を見る。


 水路は木場の下を通ったあと、西壁の外へ抜けることになっている。


「下流側の出口を確認する。詰まっていれば開ける。それから仮塞ぎに小さな穴を増やして、少しずつ水位を下げる」


「一度に壊さないのか?」


「急に水を動かしたら、緩んでいる土まで持っていかれる」


 ガルドが頷く。


「水を少しずつ逃がしながら、壁の外れた場所を支える。順番はそれだ」


「サラの仕事場は?」


「水位が下がるまで戻せない」


 サラの表情が曇る。


「どれくらい?」


 誰も答えられない。


「今日中に、仮の作業場をもっと使えるようにする」


 俺は言った。


「水路を直す人と、そっちを直す人は分ける」


「また人手が必要になるね」


「帰り火だけでは足りないかもしれない」


 木場の男たち。


 役所。


 ガルドの工房。


 水路の石積みを扱える職人も必要になる。


 自分たちだけで全部直すことにこだわれば、時間がかかり、危険も増える。


「石工組合へ話を持っていく」


 ハーレンが言った。


「費用は?」


 ベルンが尋ねる。


「道路計画の再調査費として出せる部分がある。今回の沈下は道路予定地の安全確認で見つかった」


「帰り火の家を直す金まで出るのか?」


「すべては難しい」


「また、そこだけ住人に払わせるのか?」


「だから、分けて記録する」


 ハーレンは帳面を開いた。


「水路の調査と公共部分の補修。道路計画によって必要になった仮移転。個別の家屋補強。それぞれを同じ費用にしない」


「結局、払えと言われるんじゃないのか」


「そうならないために、今ここで範囲を残す」


 ハーレンは、誰が何を確認し、何のために人や材料を使ったのかを書き始めた。


 以前なら、数字だけが残ったのかもしれない。


 今日は、その数字の下で仕事を止めた人の名前も書かれていた。


     ◇


 午後、西壁の外側にある排水口が見つかった。


 草と泥に埋まり、外からは石の斜面にしか見えなかった。


 完全に閉じてはいない。


 だが、流木やごみが積み重なり、水が細くしか出ていなかった。


「先にここを開ける」


 俺が言う。


「壁の外なら、帰り火の家へ影響しにくい」


「一気に取るなよ」


 ガルドが注意する。


 下から少しずつ、ごみを外す。


 一本取るたびに、水の量を確認する。


 最初は、指ほどの幅だった。


 やがて腕ほどに広がり、濁った水が石の間から流れ始める。


「増えた!」


 ミラが声を上げる。


「まだ離れてろ」


 排水口の周囲を石で固め、流れた水が斜面を削らないよう、下へ平たい石を並べる。


 水の道を作ってから、さらにごみを取り除く。


 水量が増えても、石の上を流れ、外側の古い溝へ入っていった。


「止めるぞ」


 ガルドが言った。


「全部取らないの?」


「今日はここまでだ」


「まだ詰まってる」


「上流の水が動き始めた。地面の変化を見ずに広げるな」


 サラの仕事場へ戻る。


 朝より亀裂が広がった様子はない。


 点検口から水位を確かめると、石一枚分ほど下がっていた。


「動いてる」


 ミラが言う。


「水が出口へ流れ始めたんだ」


 すぐに地面が戻るわけではない。


 沈んだ土が勝手に持ち上がることもない。


 けれど、これ以上削られる力を弱めることはできる。


「明日、仮塞ぎに穴を増やす」


 俺は言った。


「その前に、水路の壁を支える材を入れる」


「石工も来る」


 ハーレンが答えた。


「帰り火の住人にも、作業の順番を説明する」


「先に全部埋めなくてよかったね」


 ミラが朝の亀裂を見る。


「ああ」


「ベルンさんは?」


 少し離れた場所で、ベルンが空になった土の籠を持っていた。


 俺たちの視線に気づくと、顔をしかめる。


「何だ」


「土、どうするの?」


「捨てねえよ」


 ベルンは籠の中を見る。


「乾かして、必要な場所へ使う」


「穴には入れない?」


「水の出口を作ってからだろうが」


 ガルドが鼻で笑った。


「少しは覚えたな」


「お前に教わった覚えはねえ」


     ◇


 日が暮れる前、点検口へ仮の蓋を戻した。


 完全には埋めない。


 周囲へ柵を作り、立入禁止の印をつける。


 誰が中へ入ったか。


 水位がどこまで下がったか。


 支えの板が動いていないか。


 それぞれを記録する札も置いた。


「明日の朝、最初に水位を測る」


 ハーレンが言う。


「雨が降ったら?」


「その時点で作業を止める。流れが変わる」


 片づけを終えようとしたとき、オーデンが点検口の脇へ何かを置いた。


 細い青色の紐だった。


「何だ、それ」


「水路の中で見つけた」


「さっきは言ってなかった」


「仮塞ぎの手前に、乾いた石棚があった。そこに落ちてた」


 ハーレンが紐を受け取る。


「測量用の印紐だ」


「オルセの?」


「測量士なら、同じようなものを使う」


 紐は古く見えない。


 泥で汚れているが、繊維はまだ硬く、簡単には切れなかった。


「五年前のものじゃない?」


 ミラが尋ねる。


「水路の湿気の中へ五年置かれていたなら、もっと傷んでいるはずだ」


 ガルドが答えた。


「誰かが最近、中へ入った」


 水路の入口は、今日まで土に埋まっていた。


 少なくとも、俺たちが開けた点検口から入ったのではない。


「ほかに入口があるのか?」


 俺は古い図を見る。


 西壁。


 共同蔵。


 木場。


 そこから町の内側へ延びる、薄い線。


 途中で消されている。


「この線は?」


 ハーレンへ見せる。


「分からない。水路の支線かもしれない」


「どこへ続いてる?」


「図では、旧測量小屋の近くで途切れている」


 昨日、オルセの基準帳を見つけた場所だった。


 土に埋まった点検口。


 木場の下で塞がれた水路。


 その中に残されていた、新しい測量紐。


 オルセは町の外へ逃げたと思われていた。


 けれど、あの書き置きが本当にオルセのものなら。


 高さを測り直せと伝えたあとも、この水路を使っていた可能性がある。


「明日、支線も調べるの?」


 ミラが尋ねた。


「先に水路を安全にする」


 俺は答えた。


「人を探すために、崩れる場所へ入るわけにはいかない」


「でも、誰かいるかもしれない」


「ああ」


 だから、急ぐ。


 けれど、急いで順番を飛ばしてはいけない。


 仮塞ぎを外す前に出口を作る。


 人を中へ入れる前に支える。


 秘密を追う前に、その上で暮らす人を守る。


 地下の水路は、死んでいたわけではなかった。


 水は今も流れようとしていた。


 ただ、出口を塞がれ、見えない場所で別の道を探していただけだ。


 人が残した記録も、同じなのかもしれない。


 紙から消されても。


 入口を埋められても。


 どこかに出口が残っていれば、真実は別の場所から現れる。


 俺は青い測量紐を見つめた。


 水路の先には、まだ誰かの足跡が残っている。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、沈んだ地面をすぐに埋めるのではなく、先に水の流れと地下水路の状態を確かめる話でした。


穴があれば塞ぎたくなりますが、原因を残したままでは、別の場所へ問題が移るだけかもしれません。


また、レオは自分で地下へ入るのではなく、外から作業全体を見る役目を任されました。


自分の手で確かめることだけでなく、誰かへ任せ、その人が安全に戻れるよう準備することも、これからレオが設計する側へ成長していくうえで必要な仕事になります。


ミラも、火を大きくするのではなく、小さな火を安定して保つことができるようになりました。


次回は、水路の流れを少しずつ戻しながら、壁の補修と、旧測量小屋へ続く支線の存在を調べていく予定です。


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