第三十九話 地面は、紙より正しい
紙の上に引かれた線は、勝手には動かない。
昨日と今日で長さが変わることも、高さが沈むこともない。
だから人は、紙へ記録を残す。
けれど、紙に書かれた数字が間違っていたとしても。
その下にある地面まで、間違った数字に合わせてくれるわけではない。
◇
夜が明ける前、西門の前には十人を超える人が集まっていた。
門の脇に立つ古い石。
角が欠け、表面を苔に覆われたその石が、今回の測量の出発点だった。
「これが西門の基準石だ」
ハーレンが、石の側面を布で拭う。
汚れの下から、横向きに刻まれた一本の細い溝が現れた。
「町の西側で高さを測るときは、ここを基準にする。門の建て替えや道の補修があっても、この石だけは動かさない決まりだ」
「本当に動いてないのか?」
ベルンが言った。
朝から機嫌が悪い。
もっとも、役所の人間が持ってきた数字によって、住んでいる場所を道路にされかけたのだ。
素直に信じろという方が無理だろう。
「それを確かめるためにも、今日は複数の記録を比べる」
ハーレンは怒らなかった。
抱えていた三冊の帳面を、簡素な作業台の上へ並べる。
一つは、現在の道路計画に使われている測量記録。
一つは、役所の倉庫に残っていた古い門の補修記録。
そして最後の一つが、昨日、古い測量小屋から見つかったオルセの基準帳だった。
五年前、西側一帯の高さを測った記録。
表紙は汚れ、端には水に濡れた跡がある。
それでも、中の数字は読める状態で残っていた。
「役所の人間だけで測るのか?」
ベルンが尋ねた。
「いや」
ハーレンは、長い測量杖を一本持ち上げた。
表面には、指の幅ほどの間隔で線が刻まれている。
「住人にも立ち会ってもらう。測量杖を持つ者、数字を読む者、記録する者を分ける」
「俺たちは数字を読めねえ奴も多い」
「だから、読み上げる。古い帳面、現在の計画、今日の測定値を、一つずつ全員の前で確認する」
ベルンは差し出された杖を見た。
すぐには受け取らない。
「途中で、都合が悪くなって数字を変えるんじゃねえだろうな」
「変えたと思ったら、その場で止めてくれ」
「俺が止めていいのか?」
「危険や間違いに気づいた者は、誰でも作業を止めていい」
帰り火で決めた作業の約束と同じだった。
まず止める。
理由を説明するのは、そのあとだ。
ベルンはハーレンの顔を見たあと、測量杖を奪うように受け取った。
「曲げたら弁償しろって言うなよ」
「曲げないでくれ」
「先に言うな」
少し離れたところで、ガルドが鼻を鳴らした。
「朝から元気な爺どもだ」
「お前も似たような年だろうが」
「誰が爺だ」
ベルンとガルドが睨み合う。
「始めないの?」
ミラが俺の隣で言った。
「太陽が出る前に喧嘩で終わりそう」
「測るぞ」
ハーレンが疲れた声で言った。
◇
測量に使う道具は、三本脚の台と、その上に載せる細長い見通し器だった。
中央には小さな重りが糸で吊られている。
台が傾いていれば、糸の位置が中央の印からずれる。
脚の長さを少しずつ調整し、重りが中央へ来るようにすることで、見通し器を水平に近づけるらしい。
「完全な水平ではない」
ハーレンが言った。
「だから、一度測ったあと、器具の向きを反対にしてもう一度見る。数字が大きく変われば、台か地面が動いている」
「一度の数字を信じないんだな」
俺が言う。
「測量器も、人の目も間違える。二度測って合わなければ、三度測る」
基準石の上に測量杖を立てる。
ベルンが杖を支え、別の住人が横から垂直になっているか確認する。
ハーレンが見通し器を覗き込んだ。
「基準石、中央の溝。読み、七つと二」
記録係が復唱する。
「七つと二」
「反転する」
器具の向きを変え、もう一度覗く。
「七つと二」
同じ数字だった。
次に、門の外側にある小さな石杭を測る。
古い基準帳にも、門の補修記録にも載っている地点だ。
「今日の読み、八つと一」
ハーレンが言う。
記録係が三つの数字を読み上げた。
「門の補修記録、八つと一。オルセの基準帳、八つと一。現在の道路計画、八つと一」
「全部同じか」
ベルンが呟いた。
「ここまではな」
ガルドが言う。
まだ一か所だ。
それだけで、すべての記録が正しいとは言えない。
見通し器を前へ移す。
西門から町外れへ続く道に沿い、決められた地点ごとに高さを測っていく。
二つ目。
三つ目。
古い基準帳と今日の測定値は、ほとんど変わらなかった。
わずかに違う場所もあったが、地面へ積もった土や、長年の通行で削れた範囲として説明できる程度だった。
「オルセの帳面は、でたらめじゃなかったのか」
オーデンが言った。
「少なくとも、ここまでの地点についてはな」
ハーレンは慎重に答えた。
オルセが何をしたのか。
なぜ姿を消したのか。
基準帳が正しいからといって、すべてが正しかったことにはならない。
測量を続ける。
西門から離れるほど、周囲の建物は少なくなっていった。
石畳も途切れ、地面には荷車の轍が深く残っている。
その先にあるのが、町外れの居住区。
住人たちが、帰り火と呼ぶ場所だった。
「次は、木場へ入る手前だ」
ハーレンが帳面をめくる。
ベルンが、印のついた場所へ測量杖を立てた。
「ここでいいのか?」
「その石の脇だ。五年前の測量杭は失われているが、道の端からの距離が記録されている」
杖の足元を確認する。
表面は固く見える。
だが、ベルンが体重をかけると、靴の下から湿った音がした。
「沈むぞ」
「石の上ではなく、地面へ立ててくれ」
「立ててる」
ハーレンが見通し器を覗く。
一度、顔を離した。
もう一度覗く。
「杖を動かしたか?」
「動かしてねえ」
「垂直は?」
横にいたオーデンが確認する。
「まっすぐだ」
ハーレンが器具を反転させた。
再び測る。
表情が変わった。
「今日の読み、十と六」
記録係が古い帳面を見る。
「オルセの基準帳、十と三」
「指三本分、地面が低い?」
ミラが尋ねた。
「そうなる」
「道を荷車が通って、削れたんじゃないのか?」
オーデンが轍を指す。
「その可能性はある」
ハーレンは、現在の道路計画を開いた。
「だが、計画図では十と一になっている」
一瞬、意味が分からなかった。
「待って」
俺は三つの数字を頭の中で並べる。
五年前の地面が、十と三。
今の地面が、十と六。
測量杖の読みが大きくなるほど、地面は基準より低い。
つまり、現在の地面は五年前より指三本分ほど沈んでいる。
しかし、現在の道路計画には、五年前より高い地面として記録されている。
「地面が沈んだだけじゃ説明できない」
「ああ」
ハーレンが答える。
「この道路計画の測量日は、八か月前になっている。五年前の数字を写したとしても、十と三になるはずだ」
「なのに、十と一」
ミラが言う。
「実際より、指五本分くらい高く書いてあるってこと?」
「この地点だけを見れば、そうなる」
地面を高く記録すれば、道路を造るために必要な盛土は少なく見える。
土を運ぶ荷車の数も、地面を固める人手も、排水施設の深さも小さく計算できる。
中央案が安い理由。
その一部が、紙の上で作られていた可能性がある。
「もう一度測る」
ハーレンが言った。
「杖を少し横へ移してくれ」
道の中央。
轍の外側。
木場の柵に近い場所。
三か所を測る。
どこも古い基準帳より低かった。
ただし、沈み方は同じではない。
轍の下だけが削れているのではなく、木場側へ近づくほど地面が低くなっている。
「次の地点へ行く」
ハーレンが見通し器を持ち上げた。
「この先で、沈下がどこまで続いているか確かめる」
測量を再開する。
木場の跡地を横切り、帰り火へ近づく。
一つ進むごとに、古い基準帳とのずれが大きくなった。
指三本。
手のひら半分。
場所によっては、手のひら一枚近く低くなっている。
「こんなに沈むものなのか?」
オーデンが尋ねた。
「普通に締め固めた地面なら、短い期間でここまでは沈まん」
ガルドが靴の先で土を削る。
表面の下から、色の違う土が出てきた。
黒く湿った土。
その下には、砕けた煉瓦や木片が混ざっている。
「埋めた土だ」
「五年前に木場を造ったときか?」
ベルンの声が低くなる。
「可能性は高い」
ハーレンが答えた。
「古い帳面には、この辺りに水路と共同蔵の跡があると記されている」
「共同蔵?」
俺は帳面を覗き込む。
文字の横に、細い線と小さな四角が描かれていた。
「西外仮宿が使われていたころのものだ」
ベルンが言った。
「食い物や薪を置いてた。火事のあと、半分埋まったはずだ」
「取り除かずに、そのまま土をかぶせたのか?」
「俺に聞くな」
ベルンは吐き捨てるように言った。
「俺たちが戻ったときには、木場の柵が立ってた」
古い地下水路。
埋められた共同蔵。
その上に盛られた土。
さらに、木場へ積まれた大量の丸太と、繰り返し通った重い荷車。
土の下に空洞が残っていれば、上からの重さで少しずつ潰れる。
水路が壊れていれば、流れた水が土を運び、さらに空洞を広げる。
紙の上では、地面は一枚の線でしかない。
だが、実際の地面の下には、過去に作られたものが埋まっている。
「この沈んでいる線は、どこまで続いてる?」
ミラが尋ねた。
「測ってみないと分からない」
俺は答えた。
「古い水路に沿っているなら、帰り火の中まで――」
そこまで言って、生活図に並ぶ帰り火の家々へ視線を移した。
帰り火の中まで。
道の計画線だけではない。
今、人が暮らしている家の下まで続いている可能性がある。
「レオ」
ミラが俺を見る。
「何?」
「地面が沈んでるなら、今住んでる家は大丈夫なの?」
「だから、まず水路の位置と高さを最後まで測って――」
「測り終わるまで、みんなは家にいるの?」
言葉が止まった。
中央案の数字が正しいか。
誰が測量結果を書き換えたのか。
マーゼンが何を知っていたのか。
そればかり考えていた。
けれど、地面が沈んでいるなら、一番先に確かめるべきなのは道路計画ではない。
今、その地面の上にいる人たちだ。
「測量を止める」
俺が言うと、ハーレンが顔を上げた。
「ここでか?」
「帰り火の家を先に見る」
「沈下の範囲を確かめなければ、危険な家も判断できない」
「全部を測り終えるまで待って、誰かの床が抜けたら遅い」
ハーレンは黙った。
俺はベルンを見る。
「地面が沈んでいる線に近い家は?」
「サラの仕事場。その隣に二軒ある」
「夜も人がいる?」
「一軒には子どもがいる。サラのところは昼間だけだ」
「先に確認しよう」
「道路の測量はどうする」
オーデンが尋ねた。
「家の安全を確かめてから戻る」
「役所の仕事を、途中で放り出すのか?」
ハーレンを見る。
問われたハーレンは、古い基準帳を閉じた。
「中止ではない。一時停止だ」
「いいのか?」
「危険に気づいた者は、誰でも止めていい」
自分で言った言葉を、ハーレンは繰り返した。
「理由は十分にある」
◇
サラの仮設仕事場は、帰り火の西側にあった。
柱と板壁で囲った細長い建物。
中には作業台が並び、布や縄、修繕途中の袋が置かれている。
俺たちが着いたとき、サラは入口の扉を何度も押していた。
「朝から閉まりにくいと思ってたんだ」
「昨日までは?」
「少し擦ってた。でも、持ち上げれば閉まった」
扉の下端が、土間へ当たっている。
蝶番の緩みだけなら、扉側の問題だ。
だが、入口の左右に立つ柱を見ると、隙間の幅が上と下で違っていた。
糸の先に小さな重りを結び、入口の梁から垂らす。
左の柱と糸の間隔は、上と下でほとんど変わらない。
右の柱は、下へ行くほど糸へ近づいていた。
「柱が内側へ傾いてる」
「どれくらい?」
サラが尋ねる。
「まだ、すぐ倒れるほどじゃない。でも、前から傾いていたか分からない」
「建てたときはまっすぐだった」
ガルドが柱の根元を調べる。
「石台が沈んでる」
土を少しどけると、柱の下に置かれた平たい石の片側だけが、深く地面へ入っていた。
「中の物を出すぞ」
ガルドが言う。
「全部?」
「重い物からだ。布まで急いで運ぶ必要はない。作業台と積んである荷を先に出せ」
「今日は仕事があるんだよ」
サラが眉を寄せる。
「袋の修繕を待ってる人がいる。ここを空にしたら、どこで仕事をするのさ」
「第二集合所を使う」
オーデンが言った。
道路計画の話し合いで、住人たちが新たに決めた二つ目の集合場所。
普段は空けておき、火事や崩落が起きたときに人が集まれる場所だ。
「屋根はある。長机も運べる」
「避難場所で仕事をしていいのかい?」
「全部をふさがなければいい。危険があれば、すぐ片づけられるようにする」
サラは仕事場を見回した。
「いつ戻れる?」
「今は分からない」
俺は答えた。
分からないことを、安心させるために決めつけるわけにはいかない。
「地面の下を調べて、支え方を決める必要がある」
「一日?」
「分からない」
「三日?」
「まだ言えない」
サラは唇を噛んだ。
「安全だから出ろと言われても、仕事が止まれば食べられないんだよ」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
危険だから移る。
それだけなら簡単だ。
だが、人は家の中で眠るだけではない。
働き、食べ物を買い、誰かとの約束を守りながら暮らしている。
「第二集合所へ作業台を移す」
オーデンが言った。
「運ぶのは俺たちがやる。今日の分の作業ができるようにする」
「雨が降ったら?」
「屋根の端から入るところを先に塞ぐ」
「誰が?」
「俺がやる」
オーデンは少し考え、付け足した。
「終わらなければ、明日の分も手伝う」
サラはオーデンを見た。
「ただで?」
「道路工事の仕事が始まるまで、木場の連中も暇じゃない。貸しにしておけ」
「返せないかもしれないよ」
「なら、別の誰かが困ったときに返せ」
サラはしばらく黙ったあと、大きく息を吐いた。
「分かった。重い物から出す」
隣の二軒も確認する。
一軒は、石台に目立った沈みはなかった。
もう一軒は、床の一部がわずかに傾いていたが、柱や梁に新しい割れはない。
すぐ退去するほどではない。
ただし、何もせず暮らし続けてよいとも言えない。
入口に、住人たちが使っている印をつけた。
サラの仕事場には、二本の板を交差させた印。
中へ入ってはいけない。
隣の一軒には、三角に組んだ枝。
注意して使い、毎朝と雨のあとに柱や床を確認する。
もう一軒には丸い縄の印。
現時点で異常は見つからなかったが、測量が終わるまでは監視を続ける。
文字を読めない者にも分かるよう、印の意味を全員で確認する。
「道路のための測量だったのに」
ミラが、交差させた板を見上げる。
「避難する家が出たね」
「ああ」
「でも、先に見てよかった」
「……ああ」
俺は答えた。
危険を見つけたことで、問題を増やしたように見える。
けれど、見つけなければ問題が消えるわけではない。
知らないまま、誰かが床の下へ落ちるだけだ。
◇
測量を再開したのは、太陽が頭上へ近づいたころだった。
サラの作業台は第二集合所へ移され、仮の仕事場が作られている。
完全ではない。
それでも、今日の仕事をすべて止めずに済む場所にはなった。
「続けるぞ」
ハーレンが見通し器を据える。
「次の測点は、サラの仕事場の裏だ」
ベルンが測量杖を立てた。
先ほどまでより、地面が柔らかい。
「押し込むなよ」
「押してねえ」
「杖の重さだけで立てろ」
「分かってる」
ベルンが手を緩めた。
測量杖の先が、土の中へわずかに沈んだ。
「止めろ」
ガルドが言った。
「今、沈んだぞ」
ベルンが杖を持ち上げる。
先端には黒く湿った土がついていた。
「表面だけじゃない」
俺は細い鉄棒を借り、杖を立てた場所から少し離れた地面へ差し込んだ。
手のひら二枚分ほどで、一度固い感触がある。
さらに力をかけると、その下へ急に抜けた。
「空いてる」
「抜け」
ガルドが俺の肩をつかんだ。
「でも、深さを――」
「穴を見つけたからって、上から広げる馬鹿がいるか。中が空洞なら、縁ごと落ちるぞ」
以前、古い水路を開けたときにも言われた。
穴を掘る前に支える。
見たいからといって、先に壊してはいけない。
鉄棒をゆっくり引き抜く。
「周りを踏むな」
ハーレンが声を上げた。
住人たちが地面から離れる。
縄を張り、近づかないよう範囲を囲う。
測量杖を置く位置を変え、空洞の外側から測る。
ここでは、古い帳面との差が最も大きかった。
地面が広く沈んでいるのではない。
細長い線に沿って、帯のように低くなっている。
「古い水路と重なる」
ハーレンが帳面の図を指でなぞった。
西壁から旧共同蔵を通り、木場の下へ続いていた水路。
その先は、帰り火の西側へ入っている。
「水路の中を確認しないといけない」
俺が言う。
「今日すぐには入れん」
ガルドが答えた。
「上が潰れてるかもしれねえ。入口を見つけても、支えなしで降りるな」
「どこかに点検口が残ってないか?」
「五年前の帳面には、壁の近くに一つある」
ハーレンが西壁の方を見る。
「埋められていなければな」
沈下している線をたどる。
歩くのではなく、鉄棒で前方を確かめながら進む。
土の硬い場所。
柔らかい場所。
空洞がありそうな場所。
それぞれに異なる印を立てた。
西壁へ近づいたところで、地面に細い亀裂が見つかった。
幅は指一本もない。
だが、亀裂はまっすぐではなく、土の下にある何かを避けるように曲がっている。
「ここだけ石がある」
ミラがしゃがみ込んだ。
「触るな」
俺が止める。
「触ってないよ。見てるだけ」
土の隙間から、灰色の角が覗いていた。
ガルドが周囲を棒で確かめる。
「浅い。これなら表面だけ外せる」
直接手を入れず、小さな木片で土を少しずつ取り除く。
出てきたのは、石ではなかった。
腐りかけた太い木の杭。
頭の部分が斜めに切られ、側面には印が刻まれている。
四角い囲いの中に、三本の縦線。
その下に、横向きの矢印。
ハーレンの顔から血の気が引いた。
「知ってる印か?」
ベルンが尋ねる。
「西部仮設地の管理印だ」
ハーレンは杭へ近づいた。
だが、手を触れる前に止まる。
「四十一年前の印じゃない。これは、五年前に役所が一時的に使っていたものだ」
「誰が管理してた」
ベルンの声が低くなる。
ハーレンはすぐには答えなかった。
「マーゼン・クルド」
周囲が静かになった。
現在はドーレン商会の道路計画へ助言している人物。
五年前には、町の仮設地管理を担当していた。
「この矢印は?」
俺が尋ねる。
「地下施設か、水路の方向を示す印だ」
「なら、マーゼンは水路の場所を知ってたってことか?」
オーデンが言う。
「この杭が、当時ここへ置かれたものなら」
「置いたのは本人か?」
「分からない」
「部下に置かせた可能性は?」
「ある」
「なら、知ってたんだろ」
「それだけでは決められない」
ハーレンが言った。
ベルンが険しい顔になる。
「また役人をかばうのか」
「違う」
ハーレンは杭を見たまま答えた。
「この印が示すのは、管理する側が地下水路の位置を確認していた可能性だ。なぜ確認したのかまでは書かれていない」
「埋めるためかもしれねえ」
「残すためかもしれない」
「今の地面は沈んでるぞ」
「だから調べる」
ハーレンの声は強くなかった。
それでも、言葉を曲げなかった。
「印を見ただけで、そこに書かれていない罪まで決めるわけにはいかない」
ガルドが杭を見下ろす。
「印を信じるな、だったか」
オルセが残したかもしれない書き置き。
印を信じるな。
高さを測り直せ。
「印が嘘をつくって意味じゃなかったのかも」
ミラが言った。
「印だけで、全部分かったと思うなってこと?」
「そうかもしれない」
認証の印。
確認の印。
管理の印。
印は、誰かが何かを確かめた証になる。
けれど、どこまで確認したのかが残されていなければ、あとから好きな意味へ広げられる。
ハーレンの狭い範囲だけを確認した印も、道路案すべてを認めたように使われていた。
「今日の測量結果を記録する」
ハーレンが作業台を出すよう指示した。
「中央案について、現在の高さの記録は使用できない。地下水路と地盤の安全が確認されるまで、工費の比較から外す」
「中央案を止めるのか?」
「道路を止めるのではない」
ハーレンが紙へ文字を書く。
「誤った数字を使った比較を止める」
文章を書き終えると、確認印を取り出した。
以前なら、決められた欄へ印を押すだけだったのかもしれない。
今日は違った。
ハーレンは、印を押す場所の横へ、自分の手で範囲を書き足した。
今日確認した測点。
確認できていない地下の状態。
停止するのは中央案の工費算定だけであり、他の案を承認したものではないこと。
住人の家屋について、緊急確認を続ける必要があること。
「長いな」
ベルンが言った。
「短く書いた結果、別の意味に使われた」
ハーレンは印を押した。
「今度は、どこまで確認したかを残す」
赤い印が紙へつく。
以前と同じ形の印。
けれど、その周囲に書かれた言葉は違っていた。
「住人の確認も必要だ」
ハーレンが言う。
「字を書けない者は、印の意味を聞いたうえで、丸、三角、線のどれかを記してくれ」
「俺たちの印も残すのか?」
「役所だけが見た記録にしない」
ベルンはしばらく紙を見つめた。
やがて、記録係から炭を受け取る。
「丸でいいのか」
「今日の測量に立ち会い、読み上げられた数字を聞いたという意味だ」
「道路へ賛成した意味にはならねえな?」
「ならない。そう書いてある」
「読めねえ」
「今、読み上げる」
ハーレンは最初から最後まで、ゆっくり読み上げた。
ベルンは聞き終えてから、紙の端へ不格好な丸を描いた。
「道を信じたわけじゃねえ」
「分かっている」
「お前らを見張るためだ」
「それでいい」
◇
測量が終わったころには、日が西へ傾き始めていた。
中央案は、比較表から一度外されることになった。
実際より高く書かれた地面。
五年間で沈んだ土地。
地下に残る古い水路。
マーゼンの管理印が刻まれた杭。
昨日まで見えなかったものが、いくつも地面の上へ出てきた。
道路計画を止める理由としては、十分すぎるほどだった。
けれど、誰も喜ばなかった。
第二集合所では、サラが移した作業台の上で袋を縫っている。
いつもの仕事場より狭い。
道具も十分には並べられない。
それでも、手を止めずに働いていた。
立入禁止の印をつけた仕事場は、夕日の中で静かに傾いている。
「中央の道は、なくなるの?」
ミラが尋ねた。
「まだ分からない」
「でも、今のままは造れないんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、帰り火は残る?」
答えようとして、サラの仕事場を見た。
道を通さなければ、家は壊されない。
そう思っていた。
けれど、道路工事が始まらなくても、地面はすでに沈んでいる。
古い水路の上には、家がある。
仕事場がある。
今夜眠る人がいる。
「残すだけじゃ駄目だ」
俺は言った。
「何が?」
「帰り火を地図から消さなくても、地面の下が壊れたままなら暮らせない」
ミラは沈んだ地面を見た。
「直せる?」
「調べる」
「直せるか聞いたんだけど」
すぐに答えることはできなかった。
地下水路がどれほど壊れているのか。
空洞がどこまで広がっているのか。
何軒の家を移す必要があるのか。
土を埋めれば済むのか。
水の行き先を作り直さなければならないのか。
まだ何も分からない。
「簡単じゃない」
正直に答えた。
「でも、道路の線を消して終わりにはしない」
ミラが俺を見る。
「今度は、最初に家を見る?」
「ああ」
「人も?」
胸の奥が痛んだ。
「人も見る」
ミラは小さく頷いた。
紙の上には、中央道路案の線が残っている。
数字を書き換えれば、地面はいくらでも高くできる。
家を消せば、空き地にもできる。
住人の名前を書かなければ、誰も住んでいない場所にも見せられる。
けれど、実際の地面は持ち上がらない。
沈んだ土地は、沈んだままだ。
その上で暮らす人も、紙から消しただけではいなくならない。
地面は、紙より正しい。
だからこそ。
紙を見る前に、その上で生きている人を見なければならなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、道路計画の数字を確かめるために始めた再測量が、帰り火で暮らす人たちの足元へつながっていく話でした。
紙に残された数字や印は大切ですが、それだけですべてを判断することはできません。
実際の地面がどうなっているのか。
その上で、誰がどんな暮らしをしているのか。
レオも少しずつ、建物や仕組みだけでなく、その中にいる人を先に見ることを覚え始めています。
次回は、沈下の原因となっている古い地下水路と、サラたちの暮らしをどう守るかを考えていく予定です。




