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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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第三十九話 地面は、紙より正しい

 紙の上に引かれた線は、勝手には動かない。


 昨日と今日で長さが変わることも、高さが沈むこともない。


 だから人は、紙へ記録を残す。


 けれど、紙に書かれた数字が間違っていたとしても。


 その下にある地面まで、間違った数字に合わせてくれるわけではない。


     ◇


 夜が明ける前、西門の前には十人を超える人が集まっていた。


 門の脇に立つ古い石。


 角が欠け、表面を苔に覆われたその石が、今回の測量の出発点だった。


「これが西門の基準石だ」


 ハーレンが、石の側面を布で拭う。


 汚れの下から、横向きに刻まれた一本の細い溝が現れた。


「町の西側で高さを測るときは、ここを基準にする。門の建て替えや道の補修があっても、この石だけは動かさない決まりだ」


「本当に動いてないのか?」


 ベルンが言った。


 朝から機嫌が悪い。


 もっとも、役所の人間が持ってきた数字によって、住んでいる場所を道路にされかけたのだ。


 素直に信じろという方が無理だろう。


「それを確かめるためにも、今日は複数の記録を比べる」


 ハーレンは怒らなかった。


 抱えていた三冊の帳面を、簡素な作業台の上へ並べる。


 一つは、現在の道路計画に使われている測量記録。


 一つは、役所の倉庫に残っていた古い門の補修記録。


 そして最後の一つが、昨日、古い測量小屋から見つかったオルセの基準帳だった。


 五年前、西側一帯の高さを測った記録。


 表紙は汚れ、端には水に濡れた跡がある。


 それでも、中の数字は読める状態で残っていた。


「役所の人間だけで測るのか?」


 ベルンが尋ねた。


「いや」


 ハーレンは、長い測量杖を一本持ち上げた。


 表面には、指の幅ほどの間隔で線が刻まれている。


「住人にも立ち会ってもらう。測量杖を持つ者、数字を読む者、記録する者を分ける」


「俺たちは数字を読めねえ奴も多い」


「だから、読み上げる。古い帳面、現在の計画、今日の測定値を、一つずつ全員の前で確認する」


 ベルンは差し出された杖を見た。


 すぐには受け取らない。


「途中で、都合が悪くなって数字を変えるんじゃねえだろうな」


「変えたと思ったら、その場で止めてくれ」


「俺が止めていいのか?」


「危険や間違いに気づいた者は、誰でも作業を止めていい」


 帰り火で決めた作業の約束と同じだった。


 まず止める。


 理由を説明するのは、そのあとだ。


 ベルンはハーレンの顔を見たあと、測量杖を奪うように受け取った。


「曲げたら弁償しろって言うなよ」


「曲げないでくれ」


「先に言うな」


 少し離れたところで、ガルドが鼻を鳴らした。


「朝から元気な爺どもだ」


「お前も似たような年だろうが」


「誰が爺だ」


 ベルンとガルドが睨み合う。


「始めないの?」


 ミラが俺の隣で言った。


「太陽が出る前に喧嘩で終わりそう」


「測るぞ」


 ハーレンが疲れた声で言った。


     ◇


 測量に使う道具は、三本脚の台と、その上に載せる細長い見通し器だった。


 中央には小さな重りが糸で吊られている。


 台が傾いていれば、糸の位置が中央の印からずれる。


 脚の長さを少しずつ調整し、重りが中央へ来るようにすることで、見通し器を水平に近づけるらしい。


「完全な水平ではない」


 ハーレンが言った。


「だから、一度測ったあと、器具の向きを反対にしてもう一度見る。数字が大きく変われば、台か地面が動いている」


「一度の数字を信じないんだな」


 俺が言う。


「測量器も、人の目も間違える。二度測って合わなければ、三度測る」


 基準石の上に測量杖を立てる。


 ベルンが杖を支え、別の住人が横から垂直になっているか確認する。


 ハーレンが見通し器を覗き込んだ。


「基準石、中央の溝。読み、七つと二」


 記録係が復唱する。


「七つと二」


「反転する」


 器具の向きを変え、もう一度覗く。


「七つと二」


 同じ数字だった。


 次に、門の外側にある小さな石杭を測る。


 古い基準帳にも、門の補修記録にも載っている地点だ。


「今日の読み、八つと一」


 ハーレンが言う。


 記録係が三つの数字を読み上げた。


「門の補修記録、八つと一。オルセの基準帳、八つと一。現在の道路計画、八つと一」


「全部同じか」


 ベルンが呟いた。


「ここまではな」


 ガルドが言う。


 まだ一か所だ。


 それだけで、すべての記録が正しいとは言えない。


 見通し器を前へ移す。


 西門から町外れへ続く道に沿い、決められた地点ごとに高さを測っていく。


 二つ目。


 三つ目。


 古い基準帳と今日の測定値は、ほとんど変わらなかった。


 わずかに違う場所もあったが、地面へ積もった土や、長年の通行で削れた範囲として説明できる程度だった。


「オルセの帳面は、でたらめじゃなかったのか」


 オーデンが言った。


「少なくとも、ここまでの地点についてはな」


 ハーレンは慎重に答えた。


 オルセが何をしたのか。


 なぜ姿を消したのか。


 基準帳が正しいからといって、すべてが正しかったことにはならない。


 測量を続ける。


 西門から離れるほど、周囲の建物は少なくなっていった。


 石畳も途切れ、地面には荷車の轍が深く残っている。


 その先にあるのが、町外れの居住区。


 住人たちが、帰り火と呼ぶ場所だった。


「次は、木場へ入る手前だ」


 ハーレンが帳面をめくる。


 ベルンが、印のついた場所へ測量杖を立てた。


「ここでいいのか?」


「その石の脇だ。五年前の測量杭は失われているが、道の端からの距離が記録されている」


 杖の足元を確認する。


 表面は固く見える。


 だが、ベルンが体重をかけると、靴の下から湿った音がした。


「沈むぞ」


「石の上ではなく、地面へ立ててくれ」


「立ててる」


 ハーレンが見通し器を覗く。


 一度、顔を離した。


 もう一度覗く。


「杖を動かしたか?」


「動かしてねえ」


「垂直は?」


 横にいたオーデンが確認する。


「まっすぐだ」


 ハーレンが器具を反転させた。


 再び測る。


 表情が変わった。


「今日の読み、十と六」


 記録係が古い帳面を見る。


「オルセの基準帳、十と三」


「指三本分、地面が低い?」


 ミラが尋ねた。


「そうなる」


「道を荷車が通って、削れたんじゃないのか?」


 オーデンが轍を指す。


「その可能性はある」


 ハーレンは、現在の道路計画を開いた。


「だが、計画図では十と一になっている」


 一瞬、意味が分からなかった。


「待って」


 俺は三つの数字を頭の中で並べる。


 五年前の地面が、十と三。


 今の地面が、十と六。


 測量杖の読みが大きくなるほど、地面は基準より低い。


 つまり、現在の地面は五年前より指三本分ほど沈んでいる。


 しかし、現在の道路計画には、五年前より高い地面として記録されている。


「地面が沈んだだけじゃ説明できない」


「ああ」


 ハーレンが答える。


「この道路計画の測量日は、八か月前になっている。五年前の数字を写したとしても、十と三になるはずだ」


「なのに、十と一」


 ミラが言う。


「実際より、指五本分くらい高く書いてあるってこと?」


「この地点だけを見れば、そうなる」


 地面を高く記録すれば、道路を造るために必要な盛土は少なく見える。


 土を運ぶ荷車の数も、地面を固める人手も、排水施設の深さも小さく計算できる。


 中央案が安い理由。


 その一部が、紙の上で作られていた可能性がある。


「もう一度測る」


 ハーレンが言った。


「杖を少し横へ移してくれ」


 道の中央。


 轍の外側。


 木場の柵に近い場所。


 三か所を測る。


 どこも古い基準帳より低かった。


 ただし、沈み方は同じではない。


 轍の下だけが削れているのではなく、木場側へ近づくほど地面が低くなっている。


「次の地点へ行く」


 ハーレンが見通し器を持ち上げた。


「この先で、沈下がどこまで続いているか確かめる」


 測量を再開する。


 木場の跡地を横切り、帰り火へ近づく。


 一つ進むごとに、古い基準帳とのずれが大きくなった。


 指三本。


 手のひら半分。


 場所によっては、手のひら一枚近く低くなっている。


「こんなに沈むものなのか?」


 オーデンが尋ねた。


「普通に締め固めた地面なら、短い期間でここまでは沈まん」


 ガルドが靴の先で土を削る。


 表面の下から、色の違う土が出てきた。


 黒く湿った土。


 その下には、砕けた煉瓦や木片が混ざっている。


「埋めた土だ」


「五年前に木場を造ったときか?」


 ベルンの声が低くなる。


「可能性は高い」


 ハーレンが答えた。


「古い帳面には、この辺りに水路と共同蔵の跡があると記されている」


「共同蔵?」


 俺は帳面を覗き込む。


 文字の横に、細い線と小さな四角が描かれていた。


「西外仮宿が使われていたころのものだ」


 ベルンが言った。


「食い物や薪を置いてた。火事のあと、半分埋まったはずだ」


「取り除かずに、そのまま土をかぶせたのか?」


「俺に聞くな」


 ベルンは吐き捨てるように言った。


「俺たちが戻ったときには、木場の柵が立ってた」


 古い地下水路。


 埋められた共同蔵。


 その上に盛られた土。


 さらに、木場へ積まれた大量の丸太と、繰り返し通った重い荷車。


 土の下に空洞が残っていれば、上からの重さで少しずつ潰れる。


 水路が壊れていれば、流れた水が土を運び、さらに空洞を広げる。


 紙の上では、地面は一枚の線でしかない。


 だが、実際の地面の下には、過去に作られたものが埋まっている。


「この沈んでいる線は、どこまで続いてる?」


 ミラが尋ねた。


「測ってみないと分からない」


 俺は答えた。


「古い水路に沿っているなら、帰り火の中まで――」


 そこまで言って、生活図に並ぶ帰り火の家々へ視線を移した。


 帰り火の中まで。


 道の計画線だけではない。


 今、人が暮らしている家の下まで続いている可能性がある。


「レオ」


 ミラが俺を見る。


「何?」


「地面が沈んでるなら、今住んでる家は大丈夫なの?」


「だから、まず水路の位置と高さを最後まで測って――」


「測り終わるまで、みんなは家にいるの?」


 言葉が止まった。


 中央案の数字が正しいか。


 誰が測量結果を書き換えたのか。


 マーゼンが何を知っていたのか。


 そればかり考えていた。


 けれど、地面が沈んでいるなら、一番先に確かめるべきなのは道路計画ではない。


 今、その地面の上にいる人たちだ。


「測量を止める」


 俺が言うと、ハーレンが顔を上げた。


「ここでか?」


「帰り火の家を先に見る」


「沈下の範囲を確かめなければ、危険な家も判断できない」


「全部を測り終えるまで待って、誰かの床が抜けたら遅い」


 ハーレンは黙った。


 俺はベルンを見る。


「地面が沈んでいる線に近い家は?」


「サラの仕事場。その隣に二軒ある」


「夜も人がいる?」


「一軒には子どもがいる。サラのところは昼間だけだ」


「先に確認しよう」


「道路の測量はどうする」


 オーデンが尋ねた。


「家の安全を確かめてから戻る」


「役所の仕事を、途中で放り出すのか?」


 ハーレンを見る。


 問われたハーレンは、古い基準帳を閉じた。


「中止ではない。一時停止だ」


「いいのか?」


「危険に気づいた者は、誰でも止めていい」


 自分で言った言葉を、ハーレンは繰り返した。


「理由は十分にある」


     ◇


 サラの仮設仕事場は、帰り火の西側にあった。


 柱と板壁で囲った細長い建物。


 中には作業台が並び、布や縄、修繕途中の袋が置かれている。


 俺たちが着いたとき、サラは入口の扉を何度も押していた。


「朝から閉まりにくいと思ってたんだ」


「昨日までは?」


「少し擦ってた。でも、持ち上げれば閉まった」


 扉の下端が、土間へ当たっている。


 蝶番の緩みだけなら、扉側の問題だ。


 だが、入口の左右に立つ柱を見ると、隙間の幅が上と下で違っていた。


 糸の先に小さな重りを結び、入口の梁から垂らす。


 左の柱と糸の間隔は、上と下でほとんど変わらない。


 右の柱は、下へ行くほど糸へ近づいていた。


「柱が内側へ傾いてる」


「どれくらい?」


 サラが尋ねる。


「まだ、すぐ倒れるほどじゃない。でも、前から傾いていたか分からない」


「建てたときはまっすぐだった」


 ガルドが柱の根元を調べる。


「石台が沈んでる」


 土を少しどけると、柱の下に置かれた平たい石の片側だけが、深く地面へ入っていた。


「中の物を出すぞ」


 ガルドが言う。


「全部?」


「重い物からだ。布まで急いで運ぶ必要はない。作業台と積んである荷を先に出せ」


「今日は仕事があるんだよ」


 サラが眉を寄せる。


「袋の修繕を待ってる人がいる。ここを空にしたら、どこで仕事をするのさ」


「第二集合所を使う」


 オーデンが言った。


 道路計画の話し合いで、住人たちが新たに決めた二つ目の集合場所。


 普段は空けておき、火事や崩落が起きたときに人が集まれる場所だ。


「屋根はある。長机も運べる」


「避難場所で仕事をしていいのかい?」


「全部をふさがなければいい。危険があれば、すぐ片づけられるようにする」


 サラは仕事場を見回した。


「いつ戻れる?」


「今は分からない」


 俺は答えた。


 分からないことを、安心させるために決めつけるわけにはいかない。


「地面の下を調べて、支え方を決める必要がある」


「一日?」


「分からない」


「三日?」


「まだ言えない」


 サラは唇を噛んだ。


「安全だから出ろと言われても、仕事が止まれば食べられないんだよ」


 その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。


 危険だから移る。


 それだけなら簡単だ。


 だが、人は家の中で眠るだけではない。


 働き、食べ物を買い、誰かとの約束を守りながら暮らしている。


「第二集合所へ作業台を移す」


 オーデンが言った。


「運ぶのは俺たちがやる。今日の分の作業ができるようにする」


「雨が降ったら?」


「屋根の端から入るところを先に塞ぐ」


「誰が?」


「俺がやる」


 オーデンは少し考え、付け足した。


「終わらなければ、明日の分も手伝う」


 サラはオーデンを見た。


「ただで?」


「道路工事の仕事が始まるまで、木場の連中も暇じゃない。貸しにしておけ」


「返せないかもしれないよ」


「なら、別の誰かが困ったときに返せ」


 サラはしばらく黙ったあと、大きく息を吐いた。


「分かった。重い物から出す」


 隣の二軒も確認する。


 一軒は、石台に目立った沈みはなかった。


 もう一軒は、床の一部がわずかに傾いていたが、柱や梁に新しい割れはない。


 すぐ退去するほどではない。


 ただし、何もせず暮らし続けてよいとも言えない。


 入口に、住人たちが使っている印をつけた。


 サラの仕事場には、二本の板を交差させた印。


 中へ入ってはいけない。


 隣の一軒には、三角に組んだ枝。


 注意して使い、毎朝と雨のあとに柱や床を確認する。


 もう一軒には丸い縄の印。


 現時点で異常は見つからなかったが、測量が終わるまでは監視を続ける。


 文字を読めない者にも分かるよう、印の意味を全員で確認する。


「道路のための測量だったのに」


 ミラが、交差させた板を見上げる。


「避難する家が出たね」


「ああ」


「でも、先に見てよかった」


「……ああ」


 俺は答えた。


 危険を見つけたことで、問題を増やしたように見える。


 けれど、見つけなければ問題が消えるわけではない。


 知らないまま、誰かが床の下へ落ちるだけだ。


     ◇


 測量を再開したのは、太陽が頭上へ近づいたころだった。


 サラの作業台は第二集合所へ移され、仮の仕事場が作られている。


 完全ではない。


 それでも、今日の仕事をすべて止めずに済む場所にはなった。


「続けるぞ」


 ハーレンが見通し器を据える。


「次の測点は、サラの仕事場の裏だ」


 ベルンが測量杖を立てた。


 先ほどまでより、地面が柔らかい。


「押し込むなよ」


「押してねえ」


「杖の重さだけで立てろ」


「分かってる」


 ベルンが手を緩めた。


 測量杖の先が、土の中へわずかに沈んだ。


「止めろ」


 ガルドが言った。


「今、沈んだぞ」


 ベルンが杖を持ち上げる。


 先端には黒く湿った土がついていた。


「表面だけじゃない」


 俺は細い鉄棒を借り、杖を立てた場所から少し離れた地面へ差し込んだ。


 手のひら二枚分ほどで、一度固い感触がある。


 さらに力をかけると、その下へ急に抜けた。


「空いてる」


「抜け」


 ガルドが俺の肩をつかんだ。


「でも、深さを――」


「穴を見つけたからって、上から広げる馬鹿がいるか。中が空洞なら、縁ごと落ちるぞ」


 以前、古い水路を開けたときにも言われた。


 穴を掘る前に支える。


 見たいからといって、先に壊してはいけない。


 鉄棒をゆっくり引き抜く。


「周りを踏むな」


 ハーレンが声を上げた。


 住人たちが地面から離れる。


 縄を張り、近づかないよう範囲を囲う。


 測量杖を置く位置を変え、空洞の外側から測る。


 ここでは、古い帳面との差が最も大きかった。


 地面が広く沈んでいるのではない。


 細長い線に沿って、帯のように低くなっている。


「古い水路と重なる」


 ハーレンが帳面の図を指でなぞった。


 西壁から旧共同蔵を通り、木場の下へ続いていた水路。


 その先は、帰り火の西側へ入っている。


「水路の中を確認しないといけない」


 俺が言う。


「今日すぐには入れん」


 ガルドが答えた。


「上が潰れてるかもしれねえ。入口を見つけても、支えなしで降りるな」


「どこかに点検口が残ってないか?」


「五年前の帳面には、壁の近くに一つある」


 ハーレンが西壁の方を見る。


「埋められていなければな」


 沈下している線をたどる。


 歩くのではなく、鉄棒で前方を確かめながら進む。


 土の硬い場所。


 柔らかい場所。


 空洞がありそうな場所。


 それぞれに異なる印を立てた。


 西壁へ近づいたところで、地面に細い亀裂が見つかった。


 幅は指一本もない。


 だが、亀裂はまっすぐではなく、土の下にある何かを避けるように曲がっている。


「ここだけ石がある」


 ミラがしゃがみ込んだ。


「触るな」


 俺が止める。


「触ってないよ。見てるだけ」


 土の隙間から、灰色の角が覗いていた。


 ガルドが周囲を棒で確かめる。


「浅い。これなら表面だけ外せる」


 直接手を入れず、小さな木片で土を少しずつ取り除く。


 出てきたのは、石ではなかった。


 腐りかけた太い木の杭。


 頭の部分が斜めに切られ、側面には印が刻まれている。


 四角い囲いの中に、三本の縦線。


 その下に、横向きの矢印。


 ハーレンの顔から血の気が引いた。


「知ってる印か?」


 ベルンが尋ねる。


「西部仮設地の管理印だ」


 ハーレンは杭へ近づいた。


 だが、手を触れる前に止まる。


「四十一年前の印じゃない。これは、五年前に役所が一時的に使っていたものだ」


「誰が管理してた」


 ベルンの声が低くなる。


 ハーレンはすぐには答えなかった。


「マーゼン・クルド」


 周囲が静かになった。


 現在はドーレン商会の道路計画へ助言している人物。


 五年前には、町の仮設地管理を担当していた。


「この矢印は?」


 俺が尋ねる。


「地下施設か、水路の方向を示す印だ」


「なら、マーゼンは水路の場所を知ってたってことか?」


 オーデンが言う。


「この杭が、当時ここへ置かれたものなら」


「置いたのは本人か?」


「分からない」


「部下に置かせた可能性は?」


「ある」


「なら、知ってたんだろ」


「それだけでは決められない」


 ハーレンが言った。


 ベルンが険しい顔になる。


「また役人をかばうのか」


「違う」


 ハーレンは杭を見たまま答えた。


「この印が示すのは、管理する側が地下水路の位置を確認していた可能性だ。なぜ確認したのかまでは書かれていない」


「埋めるためかもしれねえ」


「残すためかもしれない」


「今の地面は沈んでるぞ」


「だから調べる」


 ハーレンの声は強くなかった。


 それでも、言葉を曲げなかった。


「印を見ただけで、そこに書かれていない罪まで決めるわけにはいかない」


 ガルドが杭を見下ろす。


「印を信じるな、だったか」


 オルセが残したかもしれない書き置き。


 印を信じるな。


 高さを測り直せ。


「印が嘘をつくって意味じゃなかったのかも」


 ミラが言った。


「印だけで、全部分かったと思うなってこと?」


「そうかもしれない」


 認証の印。


 確認の印。


 管理の印。


 印は、誰かが何かを確かめた証になる。


 けれど、どこまで確認したのかが残されていなければ、あとから好きな意味へ広げられる。


 ハーレンの狭い範囲だけを確認した印も、道路案すべてを認めたように使われていた。


「今日の測量結果を記録する」


 ハーレンが作業台を出すよう指示した。


「中央案について、現在の高さの記録は使用できない。地下水路と地盤の安全が確認されるまで、工費の比較から外す」


「中央案を止めるのか?」


「道路を止めるのではない」


 ハーレンが紙へ文字を書く。


「誤った数字を使った比較を止める」


 文章を書き終えると、確認印を取り出した。


 以前なら、決められた欄へ印を押すだけだったのかもしれない。


 今日は違った。


 ハーレンは、印を押す場所の横へ、自分の手で範囲を書き足した。


 今日確認した測点。


 確認できていない地下の状態。


 停止するのは中央案の工費算定だけであり、他の案を承認したものではないこと。


 住人の家屋について、緊急確認を続ける必要があること。


「長いな」


 ベルンが言った。


「短く書いた結果、別の意味に使われた」


 ハーレンは印を押した。


「今度は、どこまで確認したかを残す」


 赤い印が紙へつく。


 以前と同じ形の印。


 けれど、その周囲に書かれた言葉は違っていた。


「住人の確認も必要だ」


 ハーレンが言う。


「字を書けない者は、印の意味を聞いたうえで、丸、三角、線のどれかを記してくれ」


「俺たちの印も残すのか?」


「役所だけが見た記録にしない」


 ベルンはしばらく紙を見つめた。


 やがて、記録係から炭を受け取る。


「丸でいいのか」


「今日の測量に立ち会い、読み上げられた数字を聞いたという意味だ」


「道路へ賛成した意味にはならねえな?」


「ならない。そう書いてある」


「読めねえ」


「今、読み上げる」


 ハーレンは最初から最後まで、ゆっくり読み上げた。


 ベルンは聞き終えてから、紙の端へ不格好な丸を描いた。


「道を信じたわけじゃねえ」


「分かっている」


「お前らを見張るためだ」


「それでいい」


     ◇


 測量が終わったころには、日が西へ傾き始めていた。


 中央案は、比較表から一度外されることになった。


 実際より高く書かれた地面。


 五年間で沈んだ土地。


 地下に残る古い水路。


 マーゼンの管理印が刻まれた杭。


 昨日まで見えなかったものが、いくつも地面の上へ出てきた。


 道路計画を止める理由としては、十分すぎるほどだった。


 けれど、誰も喜ばなかった。


 第二集合所では、サラが移した作業台の上で袋を縫っている。


 いつもの仕事場より狭い。


 道具も十分には並べられない。


 それでも、手を止めずに働いていた。


 立入禁止の印をつけた仕事場は、夕日の中で静かに傾いている。


「中央の道は、なくなるの?」


 ミラが尋ねた。


「まだ分からない」


「でも、今のままは造れないんでしょ」


「ああ」


「じゃあ、帰り火は残る?」


 答えようとして、サラの仕事場を見た。


 道を通さなければ、家は壊されない。


 そう思っていた。


 けれど、道路工事が始まらなくても、地面はすでに沈んでいる。


 古い水路の上には、家がある。


 仕事場がある。


 今夜眠る人がいる。


「残すだけじゃ駄目だ」


 俺は言った。


「何が?」


「帰り火を地図から消さなくても、地面の下が壊れたままなら暮らせない」


 ミラは沈んだ地面を見た。


「直せる?」


「調べる」


「直せるか聞いたんだけど」


 すぐに答えることはできなかった。


 地下水路がどれほど壊れているのか。


 空洞がどこまで広がっているのか。


 何軒の家を移す必要があるのか。


 土を埋めれば済むのか。


 水の行き先を作り直さなければならないのか。


 まだ何も分からない。


「簡単じゃない」


 正直に答えた。


「でも、道路の線を消して終わりにはしない」


 ミラが俺を見る。


「今度は、最初に家を見る?」


「ああ」


「人も?」


 胸の奥が痛んだ。


「人も見る」


 ミラは小さく頷いた。


 紙の上には、中央道路案の線が残っている。


 数字を書き換えれば、地面はいくらでも高くできる。


 家を消せば、空き地にもできる。


 住人の名前を書かなければ、誰も住んでいない場所にも見せられる。


 けれど、実際の地面は持ち上がらない。


 沈んだ土地は、沈んだままだ。


 その上で暮らす人も、紙から消しただけではいなくならない。


 地面は、紙より正しい。


 だからこそ。


 紙を見る前に、その上で生きている人を見なければならなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、道路計画の数字を確かめるために始めた再測量が、帰り火で暮らす人たちの足元へつながっていく話でした。


紙に残された数字や印は大切ですが、それだけですべてを判断することはできません。


実際の地面がどうなっているのか。

その上で、誰がどんな暮らしをしているのか。


レオも少しずつ、建物や仕組みだけでなく、その中にいる人を先に見ることを覚え始めています。


次回は、沈下の原因となっている古い地下水路と、サラたちの暮らしをどう守るかを考えていく予定です。

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