第三十八話 押した印は、あとから広がる
オルセ・バランを捜す場所は、西の街道ではなくなった。
「本物のオルセは、町を出ていない可能性があります」
境見宿から届いた返書を前に、ハーレンが言った。
リゼに教わり始めてから、俺も「西」「水」「止」と、日付に使う数字くらいは自分で拾えるようになった。書類の種類や方向を取り違えずに済むだけでも、以前とは違う。
それでも、返書の文章全体は読めない。今日もリゼの読み上げを聞きながら、知っている文字と数字だけを目で追った。
若い助手ニルが、オルセの名前を使って西へ向かった。
町の門を通った記録も。
境見宿の名簿も。
紙の上では、オルセが町を離れたことになっている。
だが、その人物の年齢と姿は合わない。
「門を通らずに出たかもしれない」
ベルンが言った。
「古い排水路みたいな道が、ほかにもあるかもしれん」
「その可能性もあります」
ハーレンは否定しなかった。
「しかし、まず町の中を捜し直します」
「最初から町を捜してなかったの?」
ミラが尋ねた。
「事務所と宿、治療所、留置場、主要な倉庫は確認しています」
「主要じゃないところは?」
「これからです」
「何で最初にやらなかったの?」
ハーレンが答える前に、リゼが口を開いた。
「町を出たという証言と、本人名義の記録があったからです」
「間違った記録を信じた?」
「はい」
リゼは言い訳をしなかった。
「オルセの家主は、本人が出ていくのを見たと思っていました。門の記録には、測量師証を持つ者の通過が残っていました」
「二つあったから、本当だと思った」
カイが言う。
「二つとも、同じ嘘からできていた可能性があります」
ニルがオルセの服を着る。
オルセの証書を持つ。
オルセの名で宿場を通る。
別々の記録に見えても。
元は一人の行動だった。
◇
「町中の空き家を全部見るの?」
ルナが尋ねた。
「勝手には入れません」
リゼが答える。
「使ってない家なのに?」
「持ち主がいます」
「持ち主がいない家は?」
「役場の管理記録を確認します」
「記録にない家は?」
ルナの問いに、リゼが止まった。
西外仮宿。
地下共同蔵。
記録にない場所が、実際には残っていた。
「記録にない場所も探します」
ハーレンが答えた。
「どうやって?」
「人に聞く」
空き倉庫。
使われなくなった工房。
閉鎖した宿。
管理者だけが知っている物置。
人が隠れられる場所は。
役場の地図だけでは見つからない。
◇
捜索は、町の区域ごとに分けて行うことになった。
役場の者。
町の警備。
商会監査部。
帰り火の住人。
ただし。
「子どもだけで空き家へ入るな」
ハーレンが俺たちを見る。
「入らない」
カイが先に答える。
「見つけても、扉を開けない」
「分かってる」
「地下へ続く場所へ近づかない」
「分かってるって」
「分かったと言った者が、一番先に入ろうとした」
石灰窯でのことだ。
カイが顔を逸らす。
「今日は赤い板を持たないの?」
ルナが尋ねた。
「持つ」
カイは背中に差していた停止板を見せた。
「自分を止めるためにも」
◇
俺たちは、すぐ捜索へ出なかった。
先に。
オルセが最後に何をしていたかを、もう一度調べる。
「人を捜すのに、また紙?」
ベルンが言った。
「どこへ行きそうか知るため」
オルセの事務所には、普通の測量記録が残っていた。
土地の広さ。
高低差。
境界。
報酬。
依頼人。
だが、火事の前の数日については。
仕事日誌が空白になっていた。
「空白なら、仕事をしてなかった?」
ミラが尋ねる。
「いつも書いていた人なら、何もしていない日も印を残す」
イルザが答える。
オルセの日誌には。
仕事がない日は、斜線。
雨で中止なら、雲の印。
移動日には、靴の印がある。
火事の三日前から。
頁が三つ、何も書かれていない。
「書かなかった?」
「書いた頁を抜いた?」
綴じ糸を見る。
切られた形跡はない。
「別の帳面を使った?」
「可能性があります」
机の棚には、細長い空白があった。
図面筒一本分。
ニルが持って境見宿を通ったと思われる物。
「筒の中身は、道の図面だけ?」
俺が尋ねた。
「事務所に残る目録を確認します」
イルザが、棚の側面へ貼られた小さな札を読む。
古い地籍図。
測量依頼控え。
西部比較図。
基準帳。
「基準帳って?」
カイが尋ねる。
「測量の基準となる点を記した帳面です」
リゼが答えた。
「地面へ打った杭や、動かない石。そこから何歩、どちらへ進んだか。高さがどれくらい違うか」
「地図と違うの?」
「地図を作る元です」
完成した地図には、必要な線しか描かれない。
だが基準帳には。
どこから測ったか。
途中で何を見つけたか。
どの数字を使ったか。
測量した者の手順が残る。
「それがない?」
「はい」
「ニルが持っていった?」
「図面筒へ入る大きさです」
イルザが目録を指す。
――西外第一基準帳。
――旧西部境界控え。
――地下障害略図。
「三つ?」
「一本の筒へまとめていたようです」
オルセの事務所に残っていた地下通路の図面は、写し。
持ち去られた筒には。
元の測量記録が入っていた可能性がある。
◇
「原本を持って逃げたなら、ニルが犯人だろ」
ベルンが言う。
「証拠を消すために」
「売るためかもしれない」
ヴァルクが答えた。
「誰に」
「西の道が通る場所を先に知りたい者」
基準帳には。
道の正確な位置を決めるための高さや地盤の情報がある。
公開前に手に入れれば。
値段が上がる土地を、先に借りることもできる。
「でも、西の道の比較図は事務所に残ってた」
ミラが言う。
「線が分かれば十分じゃない?」
「比較図は、まだ構想です」
リゼが答える。
「基準点と高低差があれば、実際に道を通せる位置を詳しく予測できます」
「この丘は削りやすい」
「この低地には橋が要る」
「この土地は荷待ち場になる」
「線の周りの値段まで分かる?」
「ある程度は」
地図に引かれた一本の線だけでなく。
その線が、どこへずれる可能性があるか。
工事で何が必要になるか。
測量の元記録を知る者ほど、先に動ける。
◇
「オルセさんは、基準帳をニルへ渡した?」
ミラが尋ねた。
「盗まれた?」
「一緒に持ち出した?」
まだ分からない。
「オルセ本人が、西の土地を買おうとしてた可能性は?」
サラが言った。
「ある」
俺は答えた。
「境界標を消したのも、そのためだったかもしれない」
「じゃあ、被害者とは限らない」
「ああ」
行方不明だから。
心配される側になったから。
過去にしたことまで、なくなるわけではない。
「でも、ニルに殺されたって決めるのも早い」
カイが言う。
殺す。
その言葉が出た瞬間。
ミラがルナを見る。
ルナは意味が分からない顔をしていたが、空気の変化には気づいたらしい。
「まだ、生きてるかもしれない」
俺は言った。
「だから捜す」
◇
オルセが最後に役場へ来た記録が見つかった。
火事の三日前。
西外荷道の初期測量記録を閲覧している。
「誰が対応した?」
リゼが受付簿を読む。
「記録係、ローダ」
「話を聞く」
記録室の奥で働くローダは、小柄な中年の女性だった。
「オルセ・バラン?」
名前を聞くと、すぐ頷いた。
「来たよ。ずいぶん顔色が悪かった」
「何を見た?」
「五年前の木場工事と、西外荷道の比較図」
「何のためと言っていましたか」
「測量の数字に食い違いがある、と」
「どこが?」
「私は中身までは」
「誰かと一緒でしたか」
「若い助手が、廊下で待ってた」
「ニル?」
「名前は知らない。でも、何度か一緒に来てた子だろう」
「二人は話してた?」
ローダが少し考える。
「帰り際に、言い争ってた」
「何て?」
「先生は今さら遅い、と」
ニルの声。
「オルセさんは?」
「測った者が直さなければ、誰が直す、と」
その言葉のあと。
二人は別々の方向へ歩いたという。
「オルセさんはどっちへ?」
「階段を下りた」
「ニルは?」
「計画室の方」
「公開前の道路資料がある方?」
「立入札がなければ入れない」
「ニルは持ってた?」
「見てない」
◇
「オルセは、何かを直そうとしていた」
リゼが呟いた。
「そう言っただけ」
イルザは慎重だった。
「境界標を消したことが知られそうになり、記録を整えようとした可能性もあります」
「自分の責任を減らすため?」
「それでも、結果として正しい記録を出す場合はあります」
理由が立派でなくても。
消された事実が戻ることはある。
「西外荷道の数字の食い違いとは?」
俺が尋ねる。
「比較表を再確認します」
◇
三つの道路案。
南。
中央。
北。
工事費。
距離。
地面の高さ。
必要な橋。
リゼとハーレン。
道路計画担当者。
ドム。
そして俺たちで、測量の数字を比べる。
「中央案の高さ」
ドムが言った。
「この位置だけ、周りと合わん」
「どこ?」
帰り火と木場の間。
地下共同蔵の上。
計画図では。
周囲より地面が高く、硬いことになっている。
「実際は、地面の下が空いてる」
カイが言う。
「測った人、気づかなかった?」
「地下までは、普通の高さ測量では分かりません」
リゼが答える。
「でも、木場の測量でオルセは通路を知ってた」
ミラが言う。
「それを、道の記録へ入れなかった」
「中央案が安く見える」
地下の補強費。
地盤調査。
通路の撤去か保存。
何も入っていない。
「高さの数字そのものも変です」
ハーレンが二つの記録を並べた。
五年前の木場測量。
昨年の道路測量。
同じ場所なのに。
高さが違う。
「土を盛った?」
「木場設置時に、一部盛土しています」
「その分?」
「それ以上です」
計画図では。
実際より地面が高い。
つまり。
低い場所を埋める土の量が、少なく計算されている。
「費用が安くなる」
サラが言った。
「数字を変えた?」
「測る基準点が違えば、差が出ます」
リゼが答える。
「基準点を確認するには」
「持ち去られた基準帳が必要」
◇
ハーレンは、計画図の端を見つめていた。
「この確認印」
「誰の?」
ミラが尋ねる。
小さな印。
縦線。
横へ二つの短い線。
「私のものです」
ハーレンが答えた。
部屋が静かになる。
「ハーレンさんが、中央案を認めた?」
カイが尋ねる。
「違います」
リゼがすぐに言った。
「これは、五年前の木場工事の確認印です」
「でも、道路の図面にある」
「木場周辺の町道境界を確認した記録として、添付されています」
「何を確認したの?」
ハーレンが、自分で答えた。
「木場の柵が、当時の町道へ出ていないこと。排水が道路へ直接流れないこと。荷車の出入口が、見通しを妨げないこと」
「西外仮宿の土地は?」
「確認対象ではなかった」
「境界標は?」
「見ていない」
「地下道は?」
「知らなかった」
「じゃあ、何でこの印が道路計画にも使われてるの?」
ミラが尋ねる。
「木場周辺の現況が、役場により確認済みだと示す資料として添付されたからです」
「確認済み」
カイが繰り返す。
「全部見たみたい」
「ああ」
ハーレンの声が低くなる。
◇
「五年前、何があったの」
俺は尋ねた。
ハーレンは、すぐには答えなかった。
「木場の完成確認は、予定より四日遅れていました」
木材を載せた荷車が、町の外で待っていた。
商会は、一日ごとに損失が増えると訴えた。
役場からも。
町道部分だけでも先に確認しろと指示された。
「私は、町道の境界と排水だけを見ました」
「木場の中へ入った?」
「入口までは」
「何か変だと思った?」
ハーレンの目が。
境界標の出た木場の方へ向く。
「地面の一部が、掘り返されていました」
「石を埋めた場所?」
「今考えれば、そうかもしれない」
「そのときは?」
「ゲイルに聞きました」
「何て言った?」
「地中の古い石を処理した、と」
「オルセさんは?」
「倉庫の古い境界で、現在の契約には関係ないと説明した」
「信じた?」
「確認書を見せられた」
「誰の確認書?」
ハーレンが、木場工事記録の控えを開く。
地中障害処理。
土地利用範囲内。
工事続行可。
下に。
オルセの署名。
ドーレン商会土地部門の印。
そして。
町の仮設地管理係の確認印。
「役場も認めてた?」
ベルンの声が尖る。
「当時の管理係は、すでに退職しています」
リゼが答えた。
「名前は?」
「マーゼン・クルド」
新しい名前。
だがイルザは、その名を聞いて顔を上げた。
「知ってる?」
ミラが尋ねる。
「ドーレン商会の地域事業部で、現在顧問を務める人物です」
「役場を辞めて、商会へ?」
「三年前に採用されています」
「オルセが商会を辞めたのも三年前」
俺は言った。
二人の立場が。
同じ頃に入れ替わっている。
オルセは商会を辞め、土地仲介人へ。
マーゼンは役場を辞め、商会の顧問へ。
◇
「マーゼンは、今回の木場契約に関わっていますか」
ヴァルクがイルザへ尋ねる。
「地域事業部の顧問として、土地利用計画へ助言しています」
「私へ送られた契約抄本は?」
「地域事業部が作成しました」
「抜けた頁も?」
「作成責任者を確認します」
「偽の報告に使われた封印は?」
「地域事業部にも、緊急封印具があります」
商会の人間ではないと。
レムは言った。
だが。
昔は役場にいて。
今は商会にいる人物なら。
どちらの側にも見える。
「レムさんが聞いた、低い声の男?」
カイが言った。
「年齢は合う?」
「マーゼンは六十歳前後です」
若いニルが。
先生と呼ぶ相手。
普通なら、オルセを思い浮かべる。
だがニルが学んでいたのが、測量だけとは限らない。
「マーゼンさんは、町にいる?」
ミラが尋ねた。
イルザの若い書記が、地域事業部の滞在記録を開く。
「本部勤務です。ただし」
「また、ただし?」
「西部土地調査のため、十日前に本部を出ています」
「どこへ?」
「この町へ向かった記録です」
「来てない」
ヴァルクが言う。
「少なくとも、私には面会の連絡がありません」
「宿は?」
「商会の宿泊所には記録がありません」
「どこにいる?」
誰も答えられない。
◇
ベルンが、ハーレンの古い確認印を見る。
「お前も関わってたんだな」
「はい」
「知らなかったで済ませるか」
「済ませません」
ハーレンの返事は短い。
「私は、確認した範囲を明記せず、確認印を押しました」
「書類には、町道と排水って書いてある」
「後から添付されたとき、印だけを見れば木場全体を確認したように見えます」
「それを予想しろって?」
サラが尋ねた。
「すべての悪用を予想することはできません」
「じゃあ、ハーレンさんの責任じゃない?」
ハーレンは首を振った。
「私は、掘り返された土を見ました」
古い石。
ゲイルの説明。
オルセの確認書。
予定の遅れ。
待つ荷車。
「立ち止まる理由はありました」
「でも止めなかった」
カイが言う。
「はい」
今のハーレンは。
危険があれば、作業を止める。
本部の予定より。
現場の安全を優先する。
「昔は、止めなかったから?」
ミラが尋ねた。
ハーレンが彼女を見る。
「この一件だけが理由ではありません」
「でも、一つ?」
「……はい」
五年前。
木場は予定どおり動き始めた。
事故は起きなかった。
だから。
確認は正しかったと思われた。
「何も起きなかったから、止めなくてよかったと思った?」
カイが尋ねる。
「当時は」
傷んだ縄を見つけたとき。
止めたから、切れたかどうかは分からなかった。
五年前は、止めなかった。
それでも、すぐには何も起きなかった。
だが。
埋めた境界標。
消えた契約の頁。
未利用地とされた帰り火。
五年後に。
押した印の意味が広がっている。
◇
「私の確認記録も、今回の監査対象へ入れてください」
ハーレンが言った。
「自分で?」
イルザが尋ねる。
「現在の道路管理監督としてではなく、当時の立会人として」
「処分されるかもしれない」
リゼが言う。
「必要なら」
「ハーレンさんがいなくなったら、今の調査は?」
「引き継ぎます」
「逃げるみたい」
ミラの言葉に。
ハーレンが止まった。
「辞めて終わりにはしないで」
「処分を受けることと、辞めることは同じではありません」
「でも、責任を取るって言っていなくなる大人、多い」
ゲイル。
ヴァルク。
オルセ。
誰か一人がいなくなれば。
責任が終わったように見える。
「調査と、直す作業が終わるまでは残ります」
ハーレンが言った。
「処分が先に決まった場合も、可能な範囲で記録を引き継ぎます」
「可能な範囲じゃなくて」
カイが言う。
「誰に、何を渡したか板に書いて」
「分かった」
◇
午後。
町中の捜索が始まった。
俺たちは、古い木場工事で使われた場所を回る。
当時の作業員宿。
測量道具を置いた小屋。
石灰を保管した倉庫。
オルセが、知っている場所。
「マーゼンさんも知ってる?」
ミラが尋ねる。
「役場の管理係なら」
リゼが答えた。
「ニルは?」
「オルセから聞いた可能性があります」
三人。
オルセ。
ニル。
マーゼン。
誰が誰を使ったのか。
誰が誰を裏切ったのか。
まだ分からない。
◇
五年前の測量小屋は。
町の西壁近くに残っていた。
今は、道路補修用の砂袋を置く物置。
扉には役場の錠。
「ここは捜した?」
カイが尋ねる。
「使用中の役場倉庫として、外から確認しただけです」
リゼが答えた。
「中は?」
「砂袋と道具の記録を、先月確認しています」
「オルセさんがいなくなる前?」
「はい」
鍵を開ける。
砂。
杭。
古い縄。
道路の穴を埋める石。
人が隠れる隙間は、ほとんどない。
「いない」
カイが言う。
「床を見る」
俺は入口で止まる。
土の床。
砂袋を引きずった跡。
靴。
車輪。
多くの痕跡が重なっている。
「奥だけ、埃が薄い」
ミラが言った。
壁際。
使われていない古い測量台の下。
「動かした?」
「先月の記録では、この台は壁へ立てかけてあります」
リゼが倉庫の点検図を見る。
今は、床へ寝かされている。
「すぐ持ち上げない」
カイが自分から言った。
「周りを見る」
◇
測量台の脚。
一本だけ、土が新しい。
下へ何かを押し込んだ跡。
「箱?」
ガルドが梃子を使い、台を少し浮かせる。
受け木を入れる。
横から見る。
下に。
革張りの帳面があった。
「基準帳?」
イルザが手袋をつける。
表紙。
――西外第一基準帳。
ニルが持ち去ったと思っていた物。
「ここにある」
ミラが言った。
「じゃあ、図面筒の中は別のもの?」
「あるいは、これは写し」
イルザが表紙を開く。
最初の頁。
測量者。
オルセ・バラン。
補助者。
空欄。
作成日。
五年前。
「原本?」
「紙と墨は当時のものに見えます」
「ニルは、何を持っていった?」
「確認するには、境見宿で筒を押さえる必要があります」
だが。
基準帳がここへ隠されていたことには意味がある。
「誰が置いた?」
カイが尋ねる。
帳面の間から。
小さな紙片が落ちた。
新しい紙。
鉛筆に似た黒い筆記材で、短い文章が書かれている。
「読める?」
リゼが拾い上げる。
文字を見た瞬間。
顔が変わった。
「何て?」
「私の測った線は、町の図面と合わない」
オルセの言葉か。
「続き」
「古い基準を残す。印を信じるな。高さを測り直せ」
署名はない。
その下には。
欠けた方位印。
「オルセさんが残した?」
「事務所の署名と似ています」
「いつ?」
「紙は新しい」
火事の前。
あるいは、失踪する直前。
「この小屋へ来た」
ミラが言う。
「基準帳を隠した」
「ニルに取られないように?」
「マーゼンに?」
「まだ分からない」
最後の行。
リゼが読む。
「五年前の確認者へ渡せ」
全員が。
ハーレンを見る。
◇
「私へ?」
ハーレンは、紙へ触れなかった。
「オルセさんは、ハーレンさんが確認したことを覚えてた」
ミラが言う。
「なぜ、直接渡さなかった」
ハーレンが呟く。
「会えなかった?」
カイが言う。
「信用してなかった?」
ベルンが続ける。
「五年前、止めなかったからな」
ハーレンは反論しない。
「それでも、渡せって書いた」
俺は言った。
「役場の中で、測り直せる人だから」
あるいは。
五年前の自分の印を見て。
今度こそ止めるか、試したのかもしれない。
◇
基準帳の数字を。
道路計画図と比べる。
最初の基準点。
西門の礎石。
そこから帰り火へ。
高低差。
距離。
古い境界標。
地下共同蔵。
木場。
「道路図の数字と違います」
リゼが言った。
「どれくらい?」
「中央案の低い部分が、図面よりさらに低い」
「土がもっといる?」
「はい」
「地下通路もある」
「補強か、路線変更が必要です」
「中央案は、本当は安くない?」
「少なくとも、現在の比較表は使えません」
オルセが。
五年前に正しく測った数字。
昨年の道路計画では変えられている。
「誰が、道路の数字を作った?」
イルザが図面の欄を確認する。
主測量者。
オルセ・バラン。
「オルセさんの名前」
カイが言う。
「でも、数字はオルセさんの帳面と違う」
「誰かが変えた?」
「オルセが、後から基準帳を書き換えた可能性もあります」
イルザは、まだ両方を疑う。
「調べる方法は?」
俺が尋ねる。
「測り直す」
ハーレンが答えた。
「紙と紙を比べるだけでは終わらせない」
◇
基準点は。
西門の礎石。
動かない大きな石。
そこから、帰り火まで高さを測り直す。
A字型の水平器。
測り縄。
目盛り棒。
道具は単純。
時間はかかる。
「今日から?」
ミラが尋ねる。
「日が足りません」
ハーレンが答える。
「明朝、開始する」
「誰が立ち会う?」
「役場。商会監査。帰り火。道路計画担当」
「オルセさんがいないのに?」
「いないからこそ、同じ場所を測ります」
過去の数字。
現在の地面。
どちらが正しいか。
地面に聞く。
◇
小屋を出る前に。
帳面が置かれていた場所を記録する。
測量台の向き。
土の跡。
扉の鍵。
開けられる者。
「鍵は、誰が持ってる?」
リゼが管理簿を見る。
「道路管理部署に二本」
「二本とも?」
「一本は、私たちが持参したもの」
「もう一本」
リゼの指が止まる。
「旧仮設地管理係が返却したことになっています」
「マーゼン?」
「はい」
「現物は?」
役場の鍵箱。
戻れば確認する。
「返却したことになってる」
カイが言った。
「鍵があるとは限らない」
木場の予備鍵と同じだった。
返したという記録。
なくなった現物。
「この小屋に、マーゼンさんも入れた?」
ミラが尋ねる。
「鍵を返していなければ」
「オルセさんが帳面を置いたあと」
「取りに来られた」
「でも帳面は残ってる」
「見つけなかったか」
「別の物を探していたか」
あるいは。
オルセが。
帳面を隠したあと。
この小屋で、誰かと会った。
◇
役場へ戻ると。
予備鍵は、箱になかった。
管理簿には。
三年前。
マーゼン・クルド。
返却。
受領確認。
その横に、印。
「誰の印?」
リゼが読む。
「オルセ・バラン」
役場の鍵を。
商会の測量役だったオルセが受け取ったことになっている。
「変じゃない?」
ミラが言う。
「役場の鍵を、何で商会の人が確認するの?」
「木場工事で共同使用したため、測量役が返却へ立ち会った可能性があります」
「実際に返した鍵は?」
「ない」
「印だけ?」
「ああ」
ハーレンが低く答えた。
正式な印。
返却済みという文字。
それを信じ。
誰も、箱の中の本数を確かめなかった。
◇
夜。
帰り火の事実板へ。
新しい項目を加えた。
――オルセの基準帳を旧測量小屋で発見。
――道路計画図と、高さの数字が一致しない。
――オルセらしき書き置き。「印を信じるな。高さを測り直せ」
――小屋の予備鍵が不明。
――返却確認には、マーゼンとオルセの印。
――マーゼンは、この町へ向かった記録の後、所在不明。
そして。
――五年前、ハーレンが木場周辺の町道と排水を確認。
ハーレン自身が。
最後の一文を板へ書いた。
「自分の名前、書くんだ」
カイが言った。
「立ち会ったからな」
「悪いことした人の欄?」
「事実の欄だ」
「まだ分からない?」
「確認を狭く行ったことは事実。止めなかったことも事実。その印が後にどう使われたかは調査中」
ハーレンは。
自分を犯人の欄にも。
無関係の欄にも置かなかった。
◇
押した印は。
その場だけで終わらない。
町道を確認した印が。
木場全体を認めたように使われる。
鍵を返した印が。
実物を確認した証拠になる。
測量者の印が。
別の数字へつけられる。
名前も同じだ。
オルセ・バラン。
その名前を、ニルが使って領境を越えた。
紙の上では。
本人が歩いたことになる。
正しい印。
正しい名前。
だから、中身まで正しいとは限らない。
けれど。
印を使わなければよいわけでもない。
誰が確認したか。
誰が責任を持ったか。
残すためには必要だ。
大事なのは。
何を確認した印なのか。
どこまで見たのか。
見ていないものは何か。
その線を、一緒に残すことだった。
五年前。
ハーレンは。
掘り返された地面を見た。
古い石の話を聞いた。
だが。
自分の確認する範囲ではないと、先へ進んだ。
その場で事故は起きなかった。
誰も怪我をしなかった。
木場は動き始めた。
だから、正しかったように見えた。
五年後。
土の下から。
止めなかった理由が掘り出されている。
明日の朝。
俺たちは。
オルセの数字も。
道路計画の数字も。
どちらも、いったん信じず。
西門から帰り火まで。
地面の高さを測り直す。
押された印ではなく。
今ある土地を。
自分たちの目で確かめるために。
お読みいただきありがとうございます。
オルセの基準帳が、五年前に使われた旧測量小屋から発見されました。帳面の数値は現在の道路計画図と一致せず、中央案の工事費が実際より安く見積もられている可能性があります。
また、五年前に木場周辺の確認印を押していたのはハーレンでした。彼は確認範囲を限定したまま工事を止めず、その印が後に木場全体の承認として利用されていたことを認めます。
さらに、当時の役場管理係で、現在はドーレン商会の顧問となったマーゼン・クルドの存在が浮かび上がりました。
次回は西門から帰り火までの再測量を行います。地面から得られた数値は、オルセの基準帳とも道路計画図とも異なる結果を示します。




