第三十七話 安い道には、数えられないものがある
帰り火が道路計画へ意見を出すには、決められた書式が必要だった。
以前の評議会で認められたのは、試験居住区として整備を続けることまでだ。町全体の道路計画へ異議を出す手続きは、別に始めなければならない。
土地の名称。
代表者。
計画への賛否。
理由。
希望する変更。
「反対に丸をつければいいだろ」
ベルンが言った。
共同集会所の机には、役場から持ってきた意見書が置かれている。
文字を読めるリゼが、項目を一つずつ説明していた。
「反対だけでは、理由が記録に残りません」
「家がある。それが理由だ」
「それも書きます」
「なら終わりだ」
「帰り火の全員が、道路そのものへ反対しているわけではありません」
リゼがオーデンを見る。
オーデンは、木場で使う縄を直していた手を止めた。
「俺は、道ができた方がいい」
集まった住人たちの間に、小さなざわめきが起きる。
「家を壊してでもか」
ベルンが尋ねた。
「誰がそんなこと言った」
「中央案を通せば、帰り火の場所が削られる」
「中央案じゃなくても、道は作れるかもしれない」
「役場と同じことを言うな」
「道ができれば、採石場から石が来る。荷運びの仕事も増える」
「その仕事をもらえる保証があるのか」
「ない」
オーデンは、以前ならそこで声を荒らげていただろう。
今日は縄の毛羽立ちを指で押さえながら、続けた。
「ないから、条件に書きたい」
「条件?」
「道を作るなら、帰り火の住人を工事で雇う。木場がなくなるなら、別の仕事を先に用意する」
「そんな約束、守ると思うか」
「書かなきゃ、最初から何もない」
ベルンが黙る。
紙を信じて家を失った男と。
紙がなければ仕事を失う男。
二人は、同じ机の反対側へ座っていた。
◇
「賛成か反対か、一つに決めないと駄目なの?」
ミラが尋ねた。
「役場の書式では、どちらかへ印をつけます」
リゼが答える。
「分からないは?」
「保留という欄はありません」
「変じゃない?」
「計画へ意見を集める書類なので」
「道は欲しいけど、この線は嫌って人は?」
「反対へ印をつけ、変更条件を書く形になります」
「反対って書いたら、道そのものが嫌に見える」
公開用の暮らしの地図では。
一つの場所へ、いくつもの意味を重ねて描いた。
だが意見書は、一つの問いへ一つの答えを求めている。
「別紙をつける」
俺は言った。
「別紙?」
「一枚目は書式どおり。二枚目へ、意見を分けて書く」
「役場が読む?」
カイが尋ねる。
「受け取らせる」
「受け取るだけで、読まなかったら?」
「受け取った人の名前を残す」
書類を出した。
それだけでは足りない。
誰が受け取り。
どこへ回し。
いつ読まれたか。
あとから確かめられるようにする。
「また記録が増える」
ベルンが言った。
「増やさないと、一枚にまとめられる」
全員反対。
全員賛成。
短い言葉へまとめれば、その中の違いが消える。
◇
意見を四つへ分けた。
一つ目。
現在の中央案には反対。
二つ目。
新しい荷道の必要性そのものは否定しない。
三つ目。
帰り火と木場を、未利用地として扱わない。
四つ目。
代わりの道を比べるとき、工事費だけではなく、移転、仕事、水、避難、安全への影響も費用として数える。
「最後のは、金にできるの?」
サラが尋ねた。
「全部は難しい」
俺は答えた。
「じゃあ、比べられない」
「比べられないから、ゼロにはしない」
道路計画の比較表では。
南案。
中央案。
北案。
三つの工事費が数字で並んでいた。
橋の材料。
盛土。
丘を削る人手。
距離。
中央案が最も安い。
だが。
サラの仕事場を移す費用。
オーデンが仕事を失う期間。
子どもが水場へ行く途中で荷車道を横切る危険。
仮設住宅。
共同蔵。
古い地下排水路の補強。
そうしたものは、比較表へ入っていなかった。
「書いてないものは、無料になる」
ミラが言った。
「ああ」
「家を壊すのも?」
「壊す費用は入ってるかもしれない」
「住んでる人が困る分は?」
「入ってない」
「変だね」
「作る側から見えなければ、数字にしにくい」
「見せればいい?」
「見せても、全部は数字にできない」
悲しさ。
不安。
思い出。
近所とのつながり。
それを銅貨何枚と書くことはできない。
「なら、数字の外へ書く」
エナが言った。
「数えられないから、ないことにするんじゃないよ」
◇
意見書の代表者を決めるところで、また止まった。
「サラでいい」
住人の一人が言う。
「今まで役場と話してきた」
「一人だけ?」
カイが尋ねる。
「代表は一人と書いてあります」
リゼが書式を示す。
「また一人」
ミラが嫌そうに言った。
「一人の名前で、みんな同じ意見になる」
「連絡先として一人必要なのです」
「サラさんがいないときは?」
「代理人を別紙へ書けます」
「ベルンも書け」
サラが言った。
「俺?」
「反対する人間の名前も必要だろ」
「俺は役場で話すのが嫌いだ」
「向こうも、あんたに話されるのは嫌だろうね」
「なら、なおさら行かん」
「だから行くんだよ」
住人たちの間に、小さな笑いが起きた。
「オーデンも」
サラが続ける。
「俺も?」
「道が必要な側の話をする」
「三人も代表にできない」
リゼが言う。
「代表者はサラ。説明者として二人を別紙へ書く」
「レオは?」
ルナが尋ねた。
「俺は代表じゃない」
「地図を作った」
「みんなで作った」
「役場で説明しないの?」
「聞かれたらする」
自分の考えを通すための地図ではない。
住人の言葉を届ける地図だ。
俺が前へ出すぎれば。
また、技術の話だけで人を隠してしまう。
◇
提出前に。
暮らしの地図を、もう一度確認した。
公開用。
家。
仕事場。
水場。
避難場所。
人の流れ。
その横へ、道路の中央案を透明な薄布へ写し、重ねる。
「ここ」
カイが指した。
「点呼場所が道路の端になる」
「火事のとき、集まれない?」
「荷車が止まれば使える」
「止まらなかったら?」
「避難場所を移す必要がある」
「どこへ?」
空いている場所は少ない。
木場との間の防火空地は。
火を止めるために、燃える物を置かない場所。
避難場所として使うことはできるかもしれない。
だが、木場側で火が出た場合は危険になる。
「一つじゃ足りない」
ミラが言った。
「何が?」
「集まる場所」
住居側の火。
木場側の火。
道路上の事故。
危険の場所によって、逃げる先は変わる。
「第二点呼場所を作る」
「どこ?」
帰り火の北端。
少し高くなった場所。
水場からは遠いが、木場と計画道路のどちらからも離れている。
「道ができる前にも必要だ」
俺は言った。
「火事で一つ目が使えないかもしれない」
道路への意見を作る途中で。
今の帰り火にも足りないものが見つかった。
「役場が道を作らなくても、これは作る?」
「ああ」
「誰が?」
「帰り火で」
「お金は?」
「目印と草刈りなら、少なくて済む」
大きな施設はいらない。
集まれる場所。
人数を数える板。
夜に分かる印。
まずは小さく始められる。
◇
「地図を出したら、返ってこない?」
ルナが尋ねた。
「写しを出す」
「同じもの?」
「同じ内容」
「向こうが線を足したら?」
「帰り火に残した方と比べる」
「紙を取り替えたら?」
「受け取り印を頁の途中へまたがるようにつける」
紙と添付地図。
別々ではなく、重ねた端へ印を押す。
一枚を抜けば、印が欠ける。
「契約書の一枚みたいに?」
「ああ」
「今度は抜けない?」
「抜きにくくする」
「絶対じゃない?」
「絶対ではない」
ルナは少し不満そうだった。
「何でも絶対じゃないんだね」
「家も直すだろ」
「雨漏りしたら」
「記録も同じ」
壊れないようにする。
壊れたとき、分かるようにする。
そして直す。
◇
昼前。
意見書を持って、町役場へ向かった。
サラ。
ベルン。
オーデン。
エナ。
俺。
ミラ。
カイ。
リゼは、役場側の案内として先を歩く。
「子どもまで行くのか」
ベルンが言った。
「地図の印を作った」
カイが答える。
「会議で騒ぐなよ」
「あんたが先に怒鳴らなければ」
「俺は必要なときしか怒鳴らん」
「いつも必要だと思ってるじゃん」
◇
役場の道路計画室には。
以前見た三つの案が、壁へ掛けられていた。
南案。
中央案。
北案。
中央の長机には、町議会から三人。
道路計画担当者が二人。
ハーレン。
そして、書記。
奥の席に座る白髪の男が、最初に口を開いた。
「西部仮設居住管理区の意見を受け付けます」
帰り火。
その名は使われなかった。
「その前に」
サラが言った。
「呼び方を直してください」
「何を?」
「町外れの居住区――住人たちが『帰り火』と呼ぶ場所です」
「正式名称ではありません」
「意見を出している人間が、何と呼んでいるかは正式じゃないんですか」
「議事録には、登録名称を」
「両方書いてください」
サラは引かなかった。
白髪の男が書記を見る。
「登録名称の後ろへ、通称として記録を」
書記が筆を動かす。
西部仮設居住管理区。
通称、帰り火。
まず。
名前を置いた。
◇
リゼが、提出書類を机へ並べる。
意見書。
別紙。
公開用の暮らしの地図。
道路案を重ねた薄布。
頁の端を合わせ。
受け取り印を、二枚へまたがるよう押す。
「そこまで必要ですか」
若い計画担当者が言った。
「契約書から一枚抜かれていました」
ベルンが答えた。
「必要かどうかは、もう試した」
担当者は黙った。
◇
「中央案へ反対する理由を説明してください」
白髪の議員が言った。
サラが立つ。
「家と仕事場があります」
「移転補償については、計画決定後に」
「決定してから、どこへ移るか考えるんですか」
「計画前には、正確な対象範囲が」
「対象範囲を決めるために、今話してるんでしょう」
サラは地図へ、自分の針の印を置く。
「ここで縫い物をしています。洗濯も受けています。道が通れば、作業場を移す必要がある」
「仮設の台ですね」
「仮でも、仕事です」
「移動は可能でしょう」
「移す日の仕事は?」
「それは」
「台を動かす木と人手は? 注文品を置く場所は? 雨の日は? 新しい場所を客が知らなかったら?」
一つの台。
図面では、小さな四角。
動かす費用も小さく見える。
だが、そこで続いている仕事は。
板一枚を運ぶだけでは移せない。
「移転費用へ、営業への影響も含めるべきだと?」
「難しい言葉は分からない」
サラが答える。
「でも、台だけ動かして終わりにはしないでください」
◇
次に、ベルンが立った。
「私は道に反対だ」
部屋の空気が少し硬くなる。
「以前、道路計画で家を移転した経験があると聞いています」
別の議員が言った。
「記録を見たのか」
「提出された別紙に」
「前の家の記録は、役場に残ってるか」
「北門外の拡幅計画については」
「俺の名前は?」
議員が書記を見る。
書記は別の帳簿を開き、しばらく探す。
「移転世帯の代表者名は、土地所有者のみです」
「俺は借りてた」
「そう記録されています」
「妻の名前は?」
「ありません」
「移った先は?」
「記録対象外です」
「道は?」
誰もすぐに答えない。
「計画変更により、別路線へ」
「じゃあ、役場に残ってるのは」
ベルンは机を叩かなかった。
声も上げなかった。
「土地の持ち主に金を払ったことと、俺たちが出ていったことだけだ」
「……はい」
「それを、今度も費用にするのか」
中央案。
立ち退き補償。
土地代。
建物撤去。
数字にはなる。
「移った人間が、そのあと暮らせたかは、数えないのか」
白髪の議員が答える。
「これまでの道路事業では、継続的な生活状況までは」
「だから安かったんだな」
部屋が静かになった。
「俺の家を壊す金だけ払った。壊したあと、俺たちが困った分は無料だった」
◇
オーデンが立つ。
「私は、道には反対じゃない」
ベルンが横を見る。
だが、口を挟まなかった。
「採石場まで道ができれば、仕事が増えると思う」
「そのとおりです」
若い計画担当者が、少し安心したように言った。
「町の物流と建築費の改善が」
「でも、中央案には反対だ」
担当者の顔が止まる。
「なぜです」
「木場で働いてるから」
「木場は、契約条件の問題により移転を」
「移転したあと、俺はどこで働く」
「新しい木場の計画が決まれば」
「決まるまで?」
「停止期間中の一部作業については、商会が」
「木場がなくなれば、俺は商会の正式な働き手でもない」
日雇い。
保証の外。
「道で仕事が増えると言うなら、工事が始まる前から、今の仕事を失う人を雇ってください」
「技能が合わない場合もあります」
「運ぶ。掘る。縄を結ぶ。荷を止める。木場で覚えた」
カイが見つけた傷んだ縄。
オーデンは。
止めたことで助かった一人だった。
「できない仕事は教えてくれ。何もできない人間として、計画の外へ置くな」
◇
「要望は理解しました」
白髪の議員が言う。
「しかし、道路には町全体の利益があります」
「帰り火は、町全体に入ってないの?」
ミラが尋ねた。
議員たちが子どもの方を見る。
「そういう意味ではありません」
「役場の地図では未利用地だった」
「それは調査上の不備です」
「お金を比べる表にも、暮らしが入ってない」
「移転補償は、後の段階で」
「後から入れるなら、今は安く見える」
ミラは、三案の比較表を指した。
「中央が一番安いって決めるときには入れない。でも中央に決めたあと、少し払う」
担当者が説明しようと口を開く。
「それだと」
ミラが続けた。
「中央にするための数字と、中央にしたあとの数字が違う」
俺も、そこまでは言葉にできていなかった。
計画を選ぶとき。
立ち退きや生活への影響を小さく扱い。
選んだあとで補償を考える。
それでは。
選ぶ段階で、安く見える道が有利になる。
「比較の段階から、必要な移転費と対策費を加えるべきです」
ハーレンが言った。
「地下構造の補強も含めて」
「中央案の費用は、再計算が必要だ」
◇
「それでも、南案や北案より安い可能性はあります」
若い担当者が言った。
「なら、その数字を出してから比べればいい」
サラが答える。
「今の数字で決めないでください」
「計画を遅らせれば、採石場の開発にも影響します」
「急いで間違った場所へ道を通す方が、高くなる」
俺は口を開いた。
「地下通路が崩れれば、道も荷車も沈む」
「補強は可能です」
「どこまで崩れてるか、まだ調べてない」
「調査は行います」
「調査前の値段で、中央案を安いと言わないでください」
俺は。
道を造ることへ反対したいわけではない。
現代の道路が。
物流や救急や暮らしにどれほど必要かも知っている。
だが。
便利だから。
安いから。
それだけで線を引けば。
線の下にいる人が、見えなくなる。
◇
エナが、椅子から立とうとした。
ミラが腕を支える。
「座ったままで構いません」
白髪の議員が言った。
「座って話すよ」
エナは、その言葉に従った。
「昔、この土地には西外仮宿があった」
「記録を確認しています」
「仮宿の人間が町から消されたあと、土地は空いたことになった」
「その件と、今回の道路計画は担当も時代も」
「違う人なら、同じことをしても違うことになるのかい」
議員が黙る。
「昔は、石鳴村へ移したと書いた。今は、未利用地と書いた」
言葉は違う。
書いた者も違う。
だが。
そこにいる人を見ないという点では同じだった。
「私らの意見を全部聞けとは言わないよ」
エナは続ける。
「道が必要な人もいる。石を待ってる人もいる。町の外で仕事を探してる人もいる」
「では」
「でも、決める前に、いるものを数えておくれ」
「暮らしている人々を?」
「人だけじゃない」
水場。
仕事。
子どもの道。
避難場所。
隣へ声をかけられる距離。
「安い道を選ぶなら」
エナは比較表を見る。
「何を数えなかったから安いのかも、隣に書いておくれ」
◇
審議は、予定の時間を越えた。
結果。
西外荷道の中央案は。
地下構造の調査。
現在の居住と仕事への影響。
移転と安全対策を含む費用。
それらを再計算するまで、比較対象として確定しないことになった。
「中止じゃない」
ベルンが言う。
役場の外。
日が少し傾いている。
「でも、前の数字では進まない」
サラが答えた。
「また役場が変えるかもしれない」
「だから写しを持ってる」
提出した意見書。
受領印。
議事録の要点。
三枚。
帰り火へ持ち帰る。
「道ができる可能性は残った」
オーデンが言う。
「嫌か」
ベルンが尋ねる。
「なくなったら困る」
「俺は、通らない方がいい」
「分かってる」
「それでも一緒に出した」
「あんたの家の話も、俺の仕事の話も書いた」
二人は、仲直りしたわけではない。
道路への考えも違う。
だが。
一方の言葉を消さずに、同じ書類へ載せた。
◇
帰り火へ戻る途中。
ミラが俺の隣を歩く。
「今日は、あまり話さなかったね」
「みんなが話した」
「話したかった?」
「ああ」
「我慢した?」
「少し」
「えらい?」
「自分で言うの?」
「聞いただけ」
俺は、ミラが持つ地図の筒を見る。
「ミラの言葉、よかった」
「数字のところ?」
「ああ」
「レオが先に気づくと思った」
「気づかなかった」
「前の世界の人なのに?」
「前の世界でも、全部のことを知ってたわけじゃない」
道路。
建物。
契約。
補償。
俺が知っていたのは、現場で見た一部だけだ。
「知らないって言えるようになったね」
ミラが言う。
「前も言ってた」
「前は、言ったあとすぐ自分で答えを作ってた」
反論できない。
「今は?」
「みんなで作る」
「なら、少し成長した」
「ミラに言われると変な感じだ」
「私の方が一つ年上かもしれないし」
「かもしれない?」
「レオ、自分の年齢もちゃんと分からないでしょ」
「……そうだった」
ミラが笑う。
俺も、少しだけ笑った。
◇
帰り火へ着く前。
西門から、馬に乗った役人が追ってきた。
「ハーレン監督!」
馬から降りる前に、声を上げる。
「境見宿から返書です!」
全員が止まった。
「オルセ・バランは通ったか」
ハーレンが封書を受け取る。
「登録上は、通っています」
「登録上?」
「灰川隊商の名簿に名前があります。ただし」
役人が息を整える。
「宿場の検査官が覚えていた人物は、四十代から五十代の男ではありません」
オルセは。
背の高い、五十歳を越えた男だと、事務所の家主が証言している。
「若い男だった?」
ミラが尋ねた。
「二十歳前後。測量師の証書を提示し、オルセ・バランと名乗ったそうです」
「ニル」
カイが言った。
「助手が先生の名前を使った」
「可能性が高い」
ハーレンが封書を読む。
「一人だった?」
「隊商へ加わった時点では、一人です」
「どこへ向かった?」
「灰川隊商は、西の領境を越え、その先の川港へ向かっています」
帰り火から。
歩きと荷馬車で、一月以上。
さらに川船へ乗れば。
別の国へ続く道もある。
「もう追いつけない?」
ルナが尋ねる。
「早馬を出せば、領境の先で照会できます」
「捕まえる?」
「まだ事情を聞く段階です」
ハーレンが答えた。
「でも、逃げたんだろ」
ベルンが言う。
「偽名を使った事実は重い」
リゼが封書の続きを読む。
「持っていた荷物は、衣服袋一つと、測量図を入れる筒」
オルセの事務所から。
ニルの部屋から。
持ち出された図面がある。
「筒の印は?」
「欠けた方位印」
西外荷道の図面。
オルセの署名の横にあった印。
「オルセさんは?」
ミラが尋ねた。
「本物のオルセさんは、どこを通ったの?」
町の門記録。
西門。
南門。
東門。
北門。
どこにも。
オルセ本人と思われる年齢と姿の者は記録されていなかった。
「町を出てない?」
カイが言う。
「門を通らずに出たかもしれない」
地下道。
古い排水路。
隠された出口。
町には、記録されない道がある。
「それとも」
サラが言った。
「出られなかったのか」
ニルは。
オルセの名前を使い。
オルセの測量師証を持ち。
オルセの印がついた図面筒を持って、境見宿を通過した。
事務所には。
オルセを犯人に見せる証拠が残されている。
そして。
本物のオルセは。
火事の二日前に町を出たと、家主へ思われていた。
「家主が見たのは、本当にオルセさん?」
俺は尋ねた。
「朝、外套と帽子で顔がよく見えなかったそうです」
役人が答える。
「背格好は?」
「普段より、少し小さく見えたと」
オルセ本人ではなく。
ニルが、師の服を着て出た。
そう考えれば。
境見宿で名前を使ったことにもつながる。
「じゃあ、オルセさんは」
ミラの声が低くなる。
「町を出る前から、いなくなってた?」
誰も答えられない。
◇
帰り火へ戻ると。
公開用の暮らしの地図へ、新しい印を加えた。
第二点呼場所。
高台。
二つの避難先。
今日、役場へ提出した地図にも。
後日、追加として出す。
地図は、一度作って終わりではない。
人が暮らせば、変わる。
危険が見つかれば、書き加える。
道が変われば、また比べる。
その隣へ。
境見宿から届いた返書の写しを掛けた。
若い男。
オルセ・バランを名乗る。
欠けた方位印の図面筒。
本物のオルセの行方は不明。
安い道には。
数えられなかったものがある。
消された仕事。
移された家。
記録されなかった名前。
そして。
誰かが別人の名前を使って通った道。
名簿には。
オルセ・バランが、境見宿を通過したと残る。
その紙だけを見れば。
オルセは、西へ逃げた。
だが。
実際に道を歩いたのは、若い助手ニルだった可能性が高い。
正しい名前が書かれていても。
正しい人が歩いたとは限らない。
俺は地図の西端を見る。
境見宿。
灰川隊商。
その先。
まだ何も描かれていない場所。
ニルは。
誰かの名前と。
誰かの罪を持って。
帰り火から遠ざかっていた。
お読みいただきありがとうございます。
帰り火は中央道路案への反対だけでなく、道路の必要性、住民の仕事、移転後の暮らしまで含めた意見を正式に提出しました。
一方、境見宿を「オルセ・バラン」の名で通過した人物は、オルセ本人ではなく、若い助手ニルだった可能性が高まります。
次回はオルセの行方を町の中で捜し直すと同時に、ニルが持ち去った図面筒の中身を特定します。その過程で、五年前の木場建設に関わったもう一人の人物が浮かび上がります。




