第四十二話 戻る道を作ってから、助けに行く
誰かが穴の中に取り残されている。
そう分かったとき、最初に考えるのは、どうやってそこへ行くかだ。
縄を下ろす。
梯子を掛ける。
狭ければ、身体を横にしてでも潜り込む。
けれど、本当に先に考えなければならないのは、入る方法ではない。
助けた人と一緒に、どうやって戻るかだ。
◇
その夜、旧測量小屋には火が絶えなかった。
床板を一枚外した穴の周囲を木柵で囲い、油灯を二つ置く。
床下へ下ろした縄の先には、水と黒パンを入れた袋が結ばれていた。
袋はすでに相手へ届いている。
だが、縄は引き上げなかった。
向こう側にいる人間が、いつでも合図を送れるようにするためだ。
「一度は、聞こえた」
ミラが縄の横に座っている。
先ほど、床下から一度だけ弱く引かれた。
水と食べ物を受け取ったという合図だ。
「もう寝ろ」
俺が言うと、ミラがこちらを見た。
「レオは?」
「もう少し起きてる」
「なら、わたしも起きてる」
「明日の朝、火を使ってもらうかもしれない」
「寝ておけってこと?」
「ああ」
「レオも明日、頭を使うんでしょ」
言い返せなかった。
穴の中へ入るわけではないから、身体を休ませなくてもいい。
そんなことはない。
判断を間違えれば、地下へ入った人が戻れなくなる。
「交代で寝るぞ」
ガルドが小屋の壁に背を預けたまま言った。
「見張りは二人いればいい。残りは第二集合所へ行け」
「ガルドさんは?」
「最初の見張りだ」
「じゃあ、俺も――」
「お前は寝ろ」
「さっき、交代って言っただろ」
「お前の番は夜中からだ」
「今は?」
「邪魔だ」
ガルドが俺へ毛布を投げる。
顔に当たった。
「乱暴すぎないか?」
「口を動かす元気があるなら、さっさと行け」
小屋の外には、ハーレンが手配した夜番が二人いる。
地下水路の点検口にも、別の見張りが置かれていた。
一刻ごとに水位を測り、異常があれば鐘ではなく、木板を三度打って知らせる。
大きな鐘を鳴らせば、帰り火全体が火事だと思って動いてしまうからだ。
異常の種類ごとに、合図を分ける。
それも、昨日までにはなかった仕組みだった。
「ミラ」
俺は立ち上がる。
「行こう」
「でも、下の人は?」
「ガルドさんが見てくれる」
「何かあったら?」
「呼びに来る」
誰かへ任せることは、放っておくことではない。
任せる相手と、異常があったときの伝え方を決めておく。
それができているなら、自分がその場に立ち続ける必要はない。
頭では分かっていた。
それでも、小屋を出る前に一度だけ床穴を振り返った。
暗い穴。
動かない縄。
その先にいる人物が誰なのか、まだ分からない。
「必ず迎えに行くって言ったんでしょ」
ミラが言った。
「ああ」
「なら、明日ちゃんと迎えに行けばいい」
俺は頷き、小屋を出た。
◇
夜中に一度、見張りを交代した。
地下から新しい合図はなかった。
夜明け前、水位が指一本分だけ上がった。
雨は降っていない。
仮塞ぎの上流から、少しずつ水が溜まっているらしい。
ただし、地面の亀裂や支え板に動きはなかった。
空が明るくなると、ガルド、ドム、オーデン、ハーレンが旧測量小屋へ集まった。
ドムは床穴の縁を見ただけで顔をしかめる。
「狭すぎる」
「昨日も同じことを言ってたな」
俺が答える。
「昨日は水路の点検口だ。今日は縦穴だ」
「広げられる?」
「床だけならな」
ドムが穴の周囲を木槌の柄で叩いていく。
床板の下には、石で組まれた縦穴がある。
その石積みと、小屋の基礎がどの位置で接しているのかを確かめなければならない。
「ここから先を外すと、小屋の壁を支えてる石に当たる」
ドムが床へ炭で線を引いた。
「広げられるのは、こっち側だけだ」
「人が通れる?」
「今の穴でも、一人なら降りられる」
「怪我人を上げられるか?」
「それは無理だ」
穴の中にいる人物は、昨日の呼びかけに声で答えなかった。
石を三度叩くことはできても、自分で登れる状態かは分からない。
「水路側から運ぶ」
俺は古い図を広げた。
主水路から支線へ入り、測量小屋の下へ向かう。
「ガルドさんたちは主水路から入る。ここは空気と合図、それから縄を通す場所にする」
「支線の入口は、まだ壁の向こうだぞ」
オーデンが言った。
「壁を開ける前に、測量小屋側から距離を測る」
「どうやって?」
穴の中へ下ろしていた縄を見る。
結び目は腕一本分ごとにつけてある。
相手が袋を受け取った位置まで、縄がどれだけ下りたかは分かっていた。
「まず、縦穴の深さを測る」
縄を一度引く。
向こうから返事はない。
もう一度。
しばらく待つと、弱く一度引かれた。
「聞こえてる」
ミラが言った。
俺は穴へ向かって声を張る。
「今から質問する! はいなら一度、いいえなら二度、縄を引いてくれ!」
返事を待つ。
一度、引かれた。
「一人か!」
一度。
「怪我をしているか!」
一度。
「立てるか!」
間があった。
二度。
「自分で縄につかまって、身体を持ち上げられるか!」
二度。
「水路側から、人が近くまで来られるか!」
返事がない。
質問の意味が分からないのかもしれない。
「近くで水の音がするか!」
一度。
「水の流れる場所まで、自分で動けるか!」
二度。
立てず、水路までは動けない。
だが、流れる水の近くにいる。
支線の途中で何かに挟まれている可能性がある。
「ほかに誰かいるか!」
二度。
一人。
少なくとも、本人が分かる範囲では。
「今から助けに行く! 壁を叩く音がしても、動かずに待っていてくれ!」
一度、縄が引かれた。
それから、力が抜けたように静かになった。
「怪我の場所が分からんな」
ガルドが言う。
「脚かもしれない」
「どうして?」
ミラが尋ねた。
「縄は引ける。けれど立てない」
「腕を怪我してても、片手なら引けるよ」
「そうだな」
決めつけてはいけない。
腕。
脚。
背中。
石や木に挟まれている可能性もある。
「狭いところから運ぶなら、担架は使えない」
オーデンが言った。
「板ぞりを作る」
ガルドが答えた。
「森から柱を運んだときのものより、ずっと細い形だ」
俺は床へ図を描く。
人が横になれる長さの板。
幅は支線を通れるぎりぎり。
両側へ細い横木をつけ、身体が落ちないよう布を渡す。
「引く縄だけでは駄目だ」
「何で?」
ミラが図を見る。
「下り坂で止められない」
支線がどちらへ傾いているか分からない。
怪我人を載せた板が前へ滑れば、引いている人間にぶつかる。
「前と後ろに縄をつける。前から引く縄と、後ろから速さを抑える縄」
「二本を同時に動かすのか」
オーデンが言う。
「合図を決める」
引く。
止める。
戻す。
緊急停止。
地下では互いの顔が見えないかもしれない。
言葉も、水音で聞こえにくい可能性がある。
「縄を一度引かれたら進む。二度なら止める。三度なら少し戻す」
「緊急は?」
「続けて何度も引く」
ガルドが頷く。
「板の上でも身体が動かんように、布を三か所で留める。胸、腰、脚だ」
「怪我の場所が分からない」
「見つけてから、留め方を変える」
作るものは決まった。
次に必要なのは、支線へ入る場所を見つけることだった。
◇
ミラが素焼きの皿へ湿った木くずを置いた。
今日は手が震えていない。
指先へ生まれた赤い光は、針の先ほどだった。
「小さすぎないか?」
俺が尋ねる。
「煙が出ればいいんでしょ」
「ああ」
「なら、これでいい」
木くずの端だけが赤くなった。
白い煙が細く上がる。
昨日より火は小さい。
それでも、途中で消えなかった。
「上手くなったな」
「笑わないって約束したから」
「笑ってない」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ミラが少しだけ笑った。
皿を長い板の先へ載せ、縦穴へ下ろす。
煙はまっすぐ下へ流れた。
途中で南側へ曲がる。
主水路の支線へ抜けている。
「空気は流れてる」
ガルドが言う。
「だが、入る前に油灯でも確かめる」
煙は空気の向きを見る。
灯りは、急に消える場所がないかを確かめる。
一つの方法だけを信じない。
次に、縄の先へ小さな重りを結び、縦穴の底まで下ろした。
相手が縄を一度引く。
そこから少しずつ縄を緩める。
「まだ下へ行く?」
一度。
「もう少し?」
一度。
さらに下ろす。
やがて、縄が地面へ着いたように軽くなった。
「底まで、結び目が十四」
リゼが記録する。
そのあと、相手に縄を支線の入口へ向けて引いてもらう。
完全な距離は分からない。
それでも、縦穴の底から人物がいる場所まで、少なくとも三歩以上あることは分かった。
「真下にいるわけじゃない」
俺は図へ位置を記す。
「縦穴の底から、支線の中へ入ったところだ」
「だったら、昨日の袋はどうやって受け取ったの?」
ミラが尋ねる。
「縄を手繰り寄せたんだろう」
床穴から下ろされた縄を、横になったまま引いた。
腕は動く。
だが、立てない。
支線の天井か壁が崩れ、身体の一部を押さえているのかもしれない。
「主水路から支線へ入る場所を開ける」
ガルドが言った。
「石工二人を先に入れる。俺とオーデンが続く」
「ドムさんは?」
「入口を開けたあと、外で石を見る」
ガルドの説明に、ドムが顔をしかめる。
「俺が中へ入らんで、誰が石積みを見る」
「お前まで奥へ入ったら、入口が動いたときに直す奴がいねえ」
「弟子がいる」
「最後に判断するのは親方だろ」
ドムはしばらく黙り、俺を見た。
「お前が言わせたのか」
「俺は何も言ってない」
「顔に書いてある」
以前、ガルドに同じことを言われた。
「ドムさんには入口に残ってほしい」
俺は正直に言った。
「支線へ入ったあと、戻る道が塞がれたら困る」
「助けに入らず、石の前で待ってろと?」
「戻る道を守るのも、救助だと思う」
ドムが太い腕を組む。
「子どものくせに、職人を使うようになりやがったな」
「使ってるんじゃない」
「なら、何だ」
「頼んでる」
「大して変わらん」
ドムは鼻を鳴らした。
「入口は俺が見る。中で勝手に石を外したら、引きずり出すからな」
◇
水路の中へ入る人数は、四人に絞った。
ガルド。
オーデン。
石工組合の若い職人が二人。
腰へ命綱。
油灯は二つ。
板ぞり。
短い支え木。
小さな木槌。
石を動かす鉄棒。
水と布。
怪我を固定するための細い板。
持ち物を一つずつ読み上げる。
「余計な道具は持ち込まない」
俺は言った。
「狭いところへ置けば、戻る道を塞ぐ」
「救助される人間を見つけたら?」
オーデンが確認する。
「最初に周りを見る。すぐ引っ張らない」
「挟まっていたら?」
「上の石や木を支える。身体を抜く前に、何が重さを受けているか確かめる」
「出血があったら?」
「布で押さえる。ひどければ、外す前に知らせる」
「意識がなければ?」
「呼吸を確認する。無理に水を飲ませない」
前世で救助訓練の説明を聞いた記憶がある。
だが、この世界の地下水路で、すべてが同じように使えるとは限らない。
「分からないことがあれば、戻って相談する」
ガルドが俺の言葉を引き取った。
「中で答えを作るな」
「半刻で戻らなかったら?」
ハーレンが尋ねる。
「合図があっても、一度戻らせる」
「怪我人が見えていてもか?」
「状態を伝える人間が、一人戻る」
全員を奥へ残さない。
何が必要か分からないまま、地上の人間だけで待つこともできない。
「行くぞ」
四人が点検口から地下へ降りた。
俺たちは旧測量小屋へ移る。
主水路側と測量小屋側。
二つの入口を、伝令が行き来する。
誰がどちらにいるのか、札の位置で分かるようにした。
ガルド。
オーデン。
石工二人。
地下へ入った者の札は、線の下へ置く。
戻れば上へ戻す。
「全員の名前を書く必要ある?」
ミラが尋ねた。
「必要だ」
「人数だけじゃ駄目?」
「誰が戻ったか分からなくなる」
一人を助けたことで安心し、地下に入った別の一人を忘れる。
そんなことが起きてはいけない。
◇
最初の音が聞こえたのは、作業開始から半刻ほど経ったころだった。
旧測量小屋の床下から、石を叩く音が続く。
一定ではない。
止まり、また始まる。
「支線の入口を開けてる」
ミラが床へ耳を近づけようとする。
「縁へ寄るな」
「分かってる」
ミラは少し離れた床へ膝をつけた。
やがて、穴へ下ろした縄が一度引かれた。
「何の合図?」
「向こうにいる人からだ」
俺は縄を一度引き返す。
聞こえていると伝える。
その直後、主水路側から伝令が走ってきた。
「支線の壁が見つかった!」
「状態は?」
「後から積んだ石で塞いである。中央の三つを外せば、人が通れる」
「上は?」
「石のアーチは残ってる。ドム親方が、中央から外せと言ってる」
「中の空気は?」
「油灯は消えてない」
「作業を続ける。石を外す前に、上へ支えを入れて」
伝令が戻っていく。
しばらくして、床下から低い音が響いた。
どん、と一度。
穴の中から冷たい風が吹き上がる。
ミラの髪が揺れた。
「開いた」
煙を一筋だけ縦穴へ入れる。
先ほどより速く下へ吸い込まれた。
主水路まで空気が通ったのだ。
「入口がつながった」
俺は穴の中へ声を張る。
「今、そっちへ人が向かっている! 聞こえたら一度引いてくれ!」
縄が一度動いた。
待つ。
伝令は戻ってこない。
床下から、人の声らしき音が聞こえる。
言葉までは分からない。
そのあと、縄が続けて何度も引かれた。
「緊急?」
ミラが顔を上げる。
「向こうの人が引いてるのか、救助側か分からない」
俺は縄を二度引く。
止まれという合図。
返事はない。
「主水路へ知らせる」
伝令を走らせる。
俺も小屋を出ようとしたとき、穴の奥から声がした。
「……引くな!」
かすれた男の声だった。
「縄を……引くな!」
俺は縄から手を離す。
「聞こえる!」
穴へ近づきすぎない位置から叫ぶ。
「何が起きた!」
「足に……絡んでる!」
袋を下ろした縄を、自分の身体の近くへ手繰り寄せた結果、脚か石に巻きついているらしい。
救助側が縄を動かしたことで、締まった可能性がある。
「縄を緩める!」
床の上にある縄を、少しずつ穴へ送る。
「これでどうだ!」
「……止まった」
「動かさずに待ってくれ! 人が近くまで来ている!」
今度は、声で返事があった。
「分かった」
弱い。
けれど、はっきりした声だった。
「レオ」
ミラが俺を見る。
「今の声……」
「ああ」
以前、役所で聞いたことがある。
測量の証言を求められたとき、逃げるように目を逸らした男。
「オルセさんだ」
◇
支線から最初に戻ったのは、若い石工だった。
「見つけた!」
点検口から上がる前に叫ぶ。
「オルセだ! 支線の奥で、落ちた横木に脚を挟まれてる!」
「意識は?」
「ある。弱ってるが、話せる」
「横木は何を支えてる?」
「天井じゃない。棚みたいに組まれてた古い足場だ。片側が外れて、脚の上へ落ちてる」
「上の石は?」
「ガルドさんが確認してる。すぐ崩れる様子はない」
「出血は?」
「大きなものはない。足が腫れてる」
「板ぞりは入る?」
「通る。ただ、途中に段差が一つある」
俺は図へ段差の位置を記す。
「後ろの縄を強く持つ人が必要だ」
「俺が戻る」
石工が言った。
「もう一人は?」
「中で支えを入れてる」
「水位は?」
「膝下。流れは昨日より速い」
救助を続ける。
ただし、一度に横木を持ち上げない。
短い支えを横木の下へ差し込み、少しずつ重さを移す。
脚が抜けたら、すぐ細い板で固定する。
「オルセさんを板ぞりへ載せたあと、測量小屋側の縄は外す」
俺は言った。
「絡んだまま残せば、また締まる」
「誰が外す?」
「ガルドさん」
「伝えてくる」
石工が再び地下へ降りる。
待つ時間が続く。
今度は、縄に触れなかった。
結び目の一つ一つが、床の上に伸びている。
向こう側で何が起きているか分からない。
けれど、分からないからといって、自分の不安を消すために縄を引くわけにはいかない。
「怖い?」
ミラが小さな声で尋ねた。
「何が?」
「みんなが戻ってこなかったらって」
いつもなら、戻るための準備はしてあると答えたと思う。
命綱がある。
入口にドムがいる。
支えも確認している。
けれど、それは怖くない理由にはならない。
「怖い」
俺は答えた。
ミラが少し驚いた顔をする。
「レオでも?」
「ああ」
「じゃあ、どうするの?」
「怖いから、戻ってくる方法を考える」
怖くないふりをして中へ入るのではない。
怖いことを認めたうえで、減らせる危険を一つずつ減らす。
「ミラも怖い?」
「少し」
「そっか」
「でも、レオが怖いって言ったから、少しましになった」
「どうして?」
「わたしだけじゃないから」
ミラは床に伸びた縄を見つめた。
「ちゃんと戻ってくるよね」
「戻ってくる」
今度は、安心させるためだけの言葉ではなかった。
戻るために、できることはやった。
それでも、何が起きるかを完全に決めることはできない。
だから、戻ってくると信じながら、異常を見逃さないよう待つ。
◇
先に動いたのは、主水路側の命綱だった。
一度。
止まる。
もう一度。
一定の間隔で、ゆっくり引かれている。
「板ぞりを動かしてる」
旧測量小屋側の縄は、途中で軽くなった。
絡んでいた部分が外されたらしい。
俺は穴へ向かって声をかける。
「オルセさん! 聞こえるか!」
少し遅れて、返事があった。
「……聞こえる」
「今から、その縄を引き上げる! 身体から外れているなら、一度引いてくれ!」
縄が一度動く。
ゆっくり引き上げる。
泥に濡れた縄の先には、空になった布袋と、青い測量紐が結びついていた。
青い紐は一本ではない。
細い束になっている。
その中央に、油布で包んだ長方形の物が固定されていた。
「帳面?」
ミラが尋ねる。
「濡らさないよう、縄につけたんだ」
油布は泥で汚れている。
だが、結び目は固く、途中で外れないよう何重にも巻かれていた。
「開けるな」
ハーレンが言った。
「本人が戻ってから確認する」
帳面らしき包みを、乾いた布の上へ置く。
その直後、外から声が上がった。
「戻ってきたぞ!」
俺たちは主水路の点検口へ走った。
最初に若い石工が上がってくる。
続いて、板ぞりの前につけた縄が引かれる。
点検口の階段は狭い。
板ぞりをそのまま立てて上げることはできない。
途中で一度止め、オルセの身体を布で作った簡易の吊り具へ移す。
「急ぐな!」
ドムが入口で指示を出す。
「頭を先に上げるな! 身体が折れる!」
胸と腰を別々の布で支える。
脚は固定したまま。
上から二本の縄を引き、下からガルドたちが身体を支える。
「上げるぞ!」
少しずつ。
吊り具が階段を上がる。
泥に濡れた手が見えた。
次に、煤と土で汚れた顔。
髭は伸び、頬はこけている。
それでも、オルセだった。
「地面へ寝かせろ」
用意していた板の上へ移す。
セナが持ってきた毛布を掛ける。
水を一度に飲ませず、唇を濡らす程度から与えた。
「ガルドさんたちは?」
ミラが点検口を見る。
「まだ二人いる」
オルセが出たからといって、終わりではない。
地下へ入った者の札を見る。
戻った石工一人。
オルセ。
地下には、ガルド、オーデン、もう一人の石工が残っている。
「全員出るまで、入口を空ける」
人が集まりそうになるのを止める。
しばらくして、残りの石工が上がった。
次にオーデン。
最後がガルド。
ガルドの足が地上へ出たところで、札をすべて線の上へ戻す。
「全員、戻った」
声に出して確認する。
「道具は?」
ガルドが尋ねた。
「油灯が一つ残ってる」
石工が答える。
「取りに戻るか?」
「戻らん」
ガルドは即答した。
「残した場所を記録しろ。水路の補修で次に入るとき回収する」
油灯一つのために、もう一度危険な場所へ入らない。
残したものは、なかったことにせず記録する。
救助は、全員が外へ戻ったことで終わった。
◇
オルセは第二集合所へ運ばれた。
足首から膝下まで強く腫れている。
骨が折れているかは、まだ分からない。
町の治療師が来るまで、細い板を両脇に当て、動かないよう布で固定した。
「どれくらい、中にいた」
ハーレンが尋ねる。
オルセは目を閉じたまま答えた。
「四日……たぶん」
「水は?」
「支線の壁から落ちる水を飲んだ」
「食べ物は?」
「少し持っていた。昨日、袋が下りてくるまでは」
「なぜ水路へ入った」
ベルンが近づこうとする。
「今すぐ聞くことじゃない」
リゼが止めた。
「こいつのせいで、帰り火が――」
「話は逃げない」
ガルドが言った。
「本人が死ねば、話す奴はいなくなる」
ベルンは拳を握った。
それでも、それ以上は近づかなかった。
オルセがゆっくり目を開く。
最初に俺を見た。
「お前が……レオか」
「知ってるんですか」
「聞いていた」
「誰から?」
オルセは答えず、ハーレンへ目を向けた。
「中央案は」
「高さを再測量した。現在の比較表から外した」
「止めたのか」
「誤った数字を使った計算を止めた。計画そのものは調査中だ」
オルセの肩から、わずかに力が抜ける。
「間に合った」
「何が間に合ったんだ」
ハーレンの声は厳しかった。
「あなたは五年前、何をした。なぜ今まで黙っていた。ニルはどこへ行った」
オルセは目を閉じた。
「全部……話す」
「今でなくていい」
「今、言わなければ」
咳き込み、言葉が途切れる。
セナが身体を起こそうとするオルセの肩を押さえた。
「寝たまま話しな。倒れた人間は、自分が元気だと思い込みすぎる」
「一つだけ」
オルセは、旧測量小屋から回収した油布の包みを見る。
「あれを、開けろ」
「本人の確認を待っていた」
ハーレンが包みを持ってくる。
油布の結び目を解く。
中から出てきたのは、薄い帳面と、二枚の折り畳まれた図だった。
一枚は、俺たちが見てきた西側の測量図に似ている。
もう一枚には、見覚えのない印が並んでいた。
西門の基準石。
木場。
帰り火。
それぞれの高さ。
けれど、木場の手前に、別の三角形が描かれている。
「この三角は?」
俺が尋ねた。
「仮基準点だ」
オルセが答える。
「道路工事の測量で、一時的に使う高さの印だ」
「西門の基準石とは違う?」
「最初は、同じ高さから取った」
「最初は?」
オルセの喉が動く。
「あの道路計画の数字は、あとから書き換えられたんじゃない」
ハーレンが図を見る。
「どういう意味だ」
「途中から、別の基準で測った」
オルセの指が震えながら、木場の手前にある三角を示す。
「西門の基準石につないだふりをして、ここにもう一つの高さを作った」
昨日まで、俺たちは道路計画の数字が一つずつ書き換えられたのだと思っていた。
だが、基準そのものを変えれば。
その先で測った数字は、すべて正しく見える。
測量杖の読み方も。
計算も。
帳面の合計も。
出発点だけが、実際の地面とは違う。
「誰が作った」
ハーレンが尋ねる。
オルセはすぐには答えなかった。
「俺だ」
周囲の空気が止まった。
「マーゼンに命じられたのか」
ベルンが低い声で言う。
「違う」
「なら、自分からやったのか」
「違う!」
オルセが声を上げ、苦しそうに息を吐く。
「……最初に言い出したのは、ニルだ」
「ニルが?」
「あいつは、地面を高く見せれば中央案が通ると知っていた。だが、帳面を書き換えれば、前の測量と比べられる」
「だから、別の基準を作った」
俺が言う。
オルセは頷いた。
「俺は止めなかった。仮の測量だと思った。正式な計画には使わないと……そう言われた」
「誰に?」
「ニルに」
「マーゼンは知っていたのか」
オルセは包帯の端を握り、言葉を選ぶように呼吸を整えた。
答えを拒んでいるのではない。
何をどう話すべきか、迷っているように見えた。
「マーゼンは」
しばらくして、オルセが言った。
「偽の基準点を作ったことは知らなかった」
ベルンが鼻を鳴らす。
「信じろっていうのか」
「だが、水路のことは知っていた」
「何を知ってた?」
「木場の下に水路が残っていること。仮塞ぎを外していないこと。地面が沈み始めていたこと」
ハーレンの顔が固くなる。
「それでも、木場を使い続けたのか」
「ああ」
「なぜだ」
オルセの視線が、油布の中に残った二枚目の図へ向く。
「木場を移せば、あの土地を返さなければならなかったからだ」
「誰に?」
オルセが答えようとした、そのとき。
外から馬の足音が聞こえた。
一頭ではない。
帰り火の入口で、誰かが大声を上げている。
「役所から伝令だ!」
リゼが外へ出る。
すぐに戻ってきた。
顔色が変わっていた。
「何があった」
ハーレンが尋ねる。
「マーゼン・クルドが、町からいなくなりました」
「いつだ」
「昨夜です。ドーレン商会の馬車が一台、南門を出ています」
「行き先は?」
「川港」
この道の先にある、町の外へ続く場所。
水運と交易が集まり、別の領地へ荷が運ばれる港。
マーゼンは、道路計画が止められたことを知っていたのか。
オルセが水路にいることを知っていたのか。
そして。
「ニルは?」
俺が尋ねた。
伝令は首を横に振った。
「馬車に乗っていた人数は、確認できていません」
境見宿では、オルセの名を使った若者が目撃されている。
ニルが町の外へ逃げたと思わせるためだったのかもしれない。
あるいは、本当に一度外へ出て、町へ戻っていたのかもしれない。
オルセが震える手で、俺の腕をつかんだ。
「追うなら……気をつけろ」
「マーゼンさんを?」
「違う」
オルセは、息を整えながら言った。
「ニルは、帳面の数字が欲しかったんじゃない」
「じゃあ、何が欲しかった?」
「あいつが欲しかったのは」
オルセの指が、図の西側をなぞる。
帰り火。
木場。
西外荷道。
そして、町の外へ続く川港への道。
「道が通ったあと、値段が上がる土地だ」
偽の高さも。
塞がれた水路も。
消えた境界標も。
すべては、一本の道路だけを通すためではなかった。
道の先にある土地を。
誰より早く、安く手に入れるためだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、旧測量小屋の地下に取り残されていたオルセを救出する話でした。
救助では、誰かのところへ急いで向かうだけでなく、怪我人をどう運び、救助へ入った人たちがどう戻るかを先に考えています。
レオは今回も地下へ入りませんでした。
その代わり、道具、合図、人数、戻る時刻、運び方を決め、地上から救助全体を見る役目を担いました。自分の手を動かす職人から、人へ仕事を任せながら全体を組み立てる側への変化を描いています。
また、ミラも小さな火を安定して保ち、地下の空気の流れを確認する役割を果たしました。
オルセの証言により、道路計画の数字は一つずつ書き換えられたのではなく、途中に偽の基準点を設けることで作られた可能性が出てきました。
次回は、オルセの証言と回収された帳面を照合しながら、マーゼン、ニル、ドーレン商会、土地取得計画の関係を整理していく予定です。




