第四話 家は、小さく始めればいい
家を建てるとき、最初に必要なのは木材ではない。
釘でも、鋸でも、腕のいい職人でもない。
何を、どこまで作れば家と呼べるのか。
その条件を知ることだ。
「ミラ。昨日の男が持っていた紙、何が書いてあったか分かるか?」
赤い印が描かれた石壁の前で尋ねる。
ミラは首を横に振った。
「文字は少ししか読めない。おばあちゃんは?」
「目が悪くなってから、細かい字はねえ」
仮の屋根の下で、エナが申し訳なさそうに目を伏せる。
俺も読めない。
この身体に残っている記憶を探ってみたが、文字らしきものはほとんど浮かんでこなかった。
前世では図面も契約書も読めた。
だが、今の俺は、立ち退きを告げる紙一枚の内容さえ確認できない。
知らない規則の中で家を建てることは、地盤を調べずに柱を立てるようなものだ。
「ガルドさんに聞いてくる」
「また工房に行くの?」
「あの人なら、商会のことも知ってるはずだ」
「怒られるよ」
「もう慣れた」
昨日もらった黒パンを取り出し、ミラとエナへ渡す。
二人が食べ始めるのを確認してから、俺は工房へ向かった。
◇
「馬鹿か、お前は!」
予想どおり、ガルドは怒った。
「勝手に土地の話を進めたのは、俺じゃない」
「そんなことは分かってる!」
作業台を叩いた拍子に、道具が跳ねる。
「ドーレン商会に目をつけられた土地へ、三日で家を建てるだと? 昨日、鋸を持ったばかりのガキが何を寝ぼけてやがる!」
「だから、どうすればいいか聞きに来た」
「諦めろ」
「嫌だ」
「なら、町の外で雨に打たれて死ね!」
「それも嫌だ」
「何なら受け入れるんだ、お前は!」
「家を建てる方法」
ガルドは額を押さえた。
前世の現場でも、無理な工程を押しつけてくる人間はいた。
今の俺は、間違いなくそちら側だ。
だが、退くわけにはいかない。
「昨日の男は、建物が倒壊したから土地を回収すると言った。建物があれば、回収できないんじゃないか?」
「そんな簡単な話じゃない」
「じゃあ、何が必要なんだ?」
「……ドーレン商会へ行くぞ」
ガルドが壁から外套を取った。
「え?」
「ここで説明しても、お前は納得しねえだろうが」
「仕事は?」
「誰のせいで止まったと思ってる」
間違いなく俺だった。
◇
ドーレン商会は、町の中央にあった。
石畳の大通りに面した、三階建ての建物だ。
町外れでは傾いた家ばかりを見てきたため、真っすぐ立っているだけで立派に感じる。
正面の壁には白い漆喰が塗られ、窓には透明なガラスがはめ込まれていた。
屋根から落ちた雨水を集める樋までついている。
「ここには樋があるんだな」
「そりゃあるだろ」
「町外れの家には、ほとんどなかった」
「銅板を使った樋だ。貧乏人が買えるものじゃねえ」
材料の値段が、そのまま暮らしの差になっている。
商会の中へ入ると、昨日の男が受付にいた。
紺色の外套は脱いでいたが、泥ひとつついていない革靴で分かった。
「これはガルド親方。珍しいお客様ですね」
「誰が親方だ。俺は弟子なんぞ取らん」
男が俺を見る。
「そちらの少年は、昨日の」
「土地の契約を見せろ」
「ご家族ではない方には――」
「エナ婆さんの代理だ。文句があるなら本人をここまで歩かせろ」
男の笑顔が少しだけ引きつった。
「少々お待ちください」
奥の棚から、丸められた紙が運ばれてくる。
広げられた契約書には、見たことのない文字が細かく並んでいた。
「読んでくれ」
俺が言うと、男は眉を上げた。
「文字も読めないのですか?」
「読めないから頼んでる」
「では、簡単に説明しましょう」
男が紙の一か所を指でなぞる。
「二十六年前、エナ様のご主人は、家屋の修繕費としてドーレン商会から銀貨を借りました。返済が滞ったため、この区画の使用権は商会へ移りました。土地そのものは領主のものですが、契約期間中の管理権は商会にあります」
「家も商会のものなのか?」
「家屋はエナ様の所有物です。商会は、建物が存在する間に限り、この区画での居住を認める契約を結びました」
「それなら、建て直せばいい」
「そうはいきません」
男が次の行を指す。
「家屋が倒壊し、居住に適さない状態となった場合、土地の使用契約は終了します。ただし、三日目の日没までに修繕または建て替えを完了し、町の建築組合から居住可能との認証を受けた場合は、契約を継続できます」
「今から修繕を始めればいいんじゃないのか?」
「現在の家屋については、すでに危険家屋として撤去が決定しています。その判断を、修繕によって取り消すことはできません」
男は穏やかに言った。
「ただし、三日目の日没までに、この土地に雨風を防ぎ、住人が安全に暮らせる家屋が存在すれば、居住資格は失われません。組合に所属する職人の確認を受け、合格の印を得る必要があります」
つまり、今ある家を直しただけでは、撤去の決定は覆らない。
だが、期限までに安全な家を用意できれば、ここを追い出されずに済む。
思っていたより厳しい。
「その家屋の大きさに、決まりはありますか?」
男が一瞬、黙った。
「最低面積の規定はありません」
「部屋の数は?」
「規定されていません」
「壁は?」
「四方が壁で囲われ、外部と仕切ることのできる、開閉可能な出入口が必要です」
「窓は?」
「採光と換気を確保できれば、数や大きさまでは定められていません」
「水は?」
「共同井戸を使用できるため、家屋内に必要はありません」
「便所は?」
「町外れの共同設備を利用できます」
「炉は?」
「暖を取り、食事を作れる設備が必要です」
条件を頭の中で整理する。
家族三人が横になれる広さ。
雨を防ぐ屋根。
四方の壁。
閉じられる扉。
窓か排煙口。
簡単な炉。
そして、安全性を認める職人の印。
以前と同じ大きさの家を建て直す必要はない。
「小さくてもいいんだな」
「規定上は」
男は少し不愉快そうだった。
「ただし、子どもが廃材を積み重ねただけの小屋を、組合が家として認めるとは思えませんが」
「組合の職人なら、誰でも認証できるのか?」
「建築に関わる親方の資格を持つ者に限ります」
俺は隣を見る。
ガルドが腕を組んでいる。
「ガルドさんは?」
「木工組合の親方資格をお持ちです」
男が答えた。
「なら――」
「俺は印を押さねえぞ」
ガルドが遮った。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
男が薄く笑う。
「無理に認証すれば、事故が起きた際に親方の責任となります。ガルド親方も、その危険は理解されているでしょう」
「俺を巻き込む気か」
「最初から巻き込まれてる」
「お前が勝手に巻き込んだんだ!」
少なくとも、道は見えた。
「確認は三日目の日没でいいんだな」
「ええ」
「その前に取り壊したり、材料を運び出したりはしない?」
「契約に従う限りは」
男は紙を巻き直した。
「ただし、赤い印を消すことは禁止されています。商会が使用権を持つ区画であることを示すものですので」
「分かった」
「本当に建てるつもりですか?」
「そのために来た」
「何の得にもなりませんよ」
男の声から、わずかに笑みが消えた。
「仮に家を建てても、土地の使用権があなたへ移るわけではありません。住み続けられるだけで、あなたのものにはならない」
「住み続けられるなら十分だ」
「貧民街の古い土地に、そこまでこだわる理由が分かりません」
理由は簡単だった。
「そこが、ミラとエナさんの家だからだ」
男は何も答えなかった。
◇
「駄目だ」
工房へ戻る途中、ガルドは何度目か分からない言葉を繰り返した。
「まだ何も頼んでない」
「俺の印が必要なんだろ」
「必要だ」
「それを頼むと言うんだ」
「安全な家を作れたら、確認してほしい」
「作れねえ」
「どうして?」
「時間が足りない。材料がない。人手もない。何より、お前には腕がない」
すべて事実だ。
「じゃあ、大きな家は作らない」
「何?」
「必要なものだけ入る、小さな家を作る」
道端で足を止める。
泥の上にしゃがみ、指で四角を描いた。
「三人が寝られる床があればいい。立って歩き回れる広さもいらない。調理は入口近くで行う。炉は石と粘土で最低限のものを作る」
「狭すぎる」
「今はそれでいい。あとで増築する」
「家を途中で大きくするだと?」
「最初から完成形を作ろうとするから、時間も材料も足りなくなる」
小さな四角の隣に、もう一つ四角を描き足す。
「まず、この一部屋だけ作る。土地を使い続けられたら、次に寝室を足す。その次に作業場所を足す」
前世でも、家族構成や予算に合わせて増築する考え方はあった。
最初に必要な部分だけを作り、暮らしながら成長させる家。
ここなら、最初から大きな完成品を目指すより現実的だ。
「基礎はどうする」
ガルドが尋ねる。
「残っている石を使う。ただし、昨日の壁には屋根を預けない」
「なぜだ」
「上の石が崩れている。中も傷んでいるかもしれない。新しい家は独立して立てる」
「柱の数は?」
「四本」
「四本だけで壁と屋根を支える気か」
「筋交いを入れる」
「すじかい?」
呼び方は通じないらしい。
四角の中へ斜めの線を引く。
「柱と横材だけだと、横から押されたときに四角が潰れる。斜めの木を入れて、形が変わらないようにする」
近くに落ちていた細い枝を四本並べ、四角を作る。
指で押すと、簡単に平行四辺形へ変形した。
次に、対角線上へもう一本の枝を置く。
再び押す。
今度は動きにくい。
ガルドがしゃがみ込む。
「斜め材を入れる方法はある。だが、壁の下地に使う程度だ」
「柱としっかりつなげれば、横からの力に耐えられる」
「接合部が先に壊れる」
「だから、ガルドさんの技術が必要だ」
「結局それか!」
怒鳴られたが、ガルドは泥の図から目を離さなかった。
「屋根は片流れ。高い方を風上に向ける」
「昨日と同じだな」
「ただし、今度は軒を深くする。雨を壁から離して、溝へ流す」
「屋根板はどうする」
「使えるものを拾う」
「拾うって、どこからだ」
答えられない。
昨日の家から回収できる屋根板だけでは足りない。
柱に使える太い木材も、二本程度しか残っていなかった。
「工房の木をくれとは言わない」
「当たり前だ」
「町で捨てられる木はないのか?」
「木を捨てる馬鹿はいねえ。割れた板でも、炉へ入れれば燃料になる」
釘一本にも値段がある世界だ。
使える木が道端へ捨てられているはずがない。
「倒木は?」
「町の周囲の森は領主のものだ。勝手に切れば捕まる」
「流木」
「川までは遠い」
「壊れた荷車」
「持ち主がいる」
どれも使えない。
材料がなければ、どれだけ小さく設計しても建てられない。
「レオ」
声をかけられた。
振り返ると、籠を背負った女性が立っていた。
年齢は三十歳くらいだろうか。
茶色い髪を布でまとめ、腕には小麦粉の跡がついている。
身体に残った記憶が、彼女の名前を教えた。
パン屋のセナ。
以前のレオが、店先の商品へ手を伸ばし、何度も追い払われた相手だ。
「朝から町の真ん中で、何をしてるの」
「家を建てる話をしてる」
「家?」
「三日目の日没までに家を用意できなければ、翌朝壊される」
セナの表情が曇った。
「聞いたよ。ドーレン商会の人が、赤い印をつけたって」
「材料を探してる」
「だからって、うちの薪を盗らないでおくれよ」
「盗らない」
反射的に答えたが、信用されていないのは当然だった。
セナの視線が俺の右手へ向く。
昨日の傷に巻いた布が残っている。
「ガルドのところで働いてるのかい?」
「借りを返してる」
「盗んだ釘の?」
「知ってるのか」
「この辺じゃ、みんな知ってるよ」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
俺のしたことではない。
そう言い訳するのは簡単だった。
だが、この町でレオとして生きるなら、過去から逃げることはできない。
「残り七本分」
「数えてるんだね」
「全部返す」
セナはしばらく俺を見つめ、それから籠を背負い直した。
「木なら、広場にあるよ」
「広場?」
「昨日の雨で、露店の屋根が二つ壊れた。持ち主は板を持って帰ったけど、骨組みの一部は濡れて使えないって置いたままだ」
「もらえるのか?」
「勝手に持っていけば、また泥棒だよ」
もっともだった。
「持ち主は誰?」
「魚売りのボルツと、布売りのマーヤ」
「頼んでみる」
「ただじゃくれないと思うけどね」
「働いて返す」
俺が答えると、セナはわずかに笑った。
「そればっかりだね」
「今は、それしか持ってないから」
◇
広場には、朝の雨でできた水たまりが残っていた。
石造りの噴水を囲むように、何軒もの露店が並んでいる。
その端に、折れた木材が積まれていた。
柱に使うには細い。
だが、屋根の垂木や壁の下地には使えそうだ。
「駄目だ」
魚売りのボルツは、俺の話を聞くなり断った。
太い腕を組み、露骨に嫌そうな顔をする。
「濡れて使えないんじゃないのか?」
「乾かせば薪になる」
「代わりに仕事をする」
「お前に任せる仕事なんぞねえ」
「昨日の雨で、店の下に水がたまってる」
露店の足元を見る。
広場の端にある排水溝が、泥と魚の鱗で詰まっている。
水は行き場を失い、店の荷物置き場まで広がっていた。
「溝を掃除すれば、水が引く」
「そんなことは分かってる」
「なら、どうしてやらない?」
「店を開けながら、泥さらいまでできるか」
「俺がやる」
ボルツが目を細める。
「木を盗んで逃げる気じゃねえだろうな」
「ガルドさんに預けてもらえばいい。仕事が終わってから受け取る」
隣に立つガルドを見る。
「どうして俺が保証人になる」
「駄目か?」
「……勝手にしろ」
ガルドは不機嫌そうに答えた。
否定しないということは、引き受けてくれたらしい。
「排水溝を全部掃除したら、そこの木をくれるか?」
「全部だと?」
広場の外周を回る溝は、かなり長い。
泥が詰まっているのは、ボルツの店の前だけではなかった。
「ボルツさんの前だけ掃除しても、先が詰まってたら水は流れない」
「一人でやる気か?」
「やる」
ボルツは笑った。
「日が暮れるぞ」
「それでもやる」
「好きにしろ。終わったら、その折れた骨組みは持っていけ」
「約束だぞ」
「俺に二言はねえ」
俺は近くにあった木箱を借り、排水溝の蓋を外した。
強い臭いが上がってくる。
泥。
腐った野菜。
魚の内臓。
布切れ。
水と一緒に流されたごみが、何層にも重なっていた。
「素手で触るな」
ガルドが工房から持ってきていた火ばさみのような道具を投げる。
「手の傷が腐るぞ」
「手伝ってくれるのか?」
「俺は見てるだけだ」
道具は貸してくれた。
溝からごみを取り出し、種類ごとに分ける。
腐ったものは捨てる。
布や縄は洗えば使えるかもしれない。
木片は乾かせば燃料になる。
一か所の詰まりを取り除くと、濁った水が少し動いた。
だが、数歩先で止まる。
そこも開ける。
さらに先も。
腰をかがめたまま、少しずつ進んでいく。
「何してるの?」
途中で、ミラがやってきた。
「家の材料を稼いでる」
「泥を拾って?」
「この先に木がある」
ボルツの店の横を指差す。
ミラは折れた骨組みを見て、それから排水溝を見た。
「私もやる」
「エナさんは?」
「セナさんが見てくれてる」
止めるより早く、ミラは蓋を持ち上げ始めた。
二人で作業を進める。
昼が近づくころには、手も服も泥だらけになっていた。
腕が痛い。
腰も重い。
それでも、水が動き始めると、周囲の人々がこちらを見るようになった。
「こっちも詰まってるよ」
布売りのマーヤが声をかけてくる。
「全部つながってるから、順番にやる」
「うちの前まで掃除してくれたら、破れた天幕をあげるよ」
「本当か?」
「どうせ商品には使えないからね」
壁の代わりになる。
完全に雨を防ぐことはできなくても、板の内側へ張れば風を弱められる。
「やる」
「こっちの古い籠も持っていけ!」
「割れた樽の板ならあるぞ!」
いつの間にか、周囲から声が飛ぶようになっていた。
すべてが建材として使えるわけではない。
それでも、何もない状態から比べれば大きな前進だ。
「レオ」
ミラが、泥の中から何かを拾い上げた。
短い鉄の棒。
いや、頭が潰れているが、釘だった。
「曲がってる」
「持って帰ろう」
「使えるの?」
「直せば使える」
昨日、ガルドに教わったばかりだ。
たった一本。
それでも、この世界では黒パン一つの価値がある。
捨てられていたものを、もう一度使えるようにする。
家造りも同じなのかもしれない。
壊れたからといって、すべてを諦める必要はない。
使える部分を見つけ、足りないものを補い、新しい形へ組み直せばいい。
◇
排水溝の最後の詰まりを外した瞬間、大量の水が音を立てて流れ始めた。
広場にたまっていた水が、ゆっくりと減っていく。
「流れた!」
ミラが歓声を上げる。
店の前に立っていたボルツが、足元を見下ろした。
「本当に全部やりやがった」
「木は?」
「分かってるよ」
折れた骨組みを持ち上げ、こちらへ渡す。
「好きに使え」
「ありがとう」
「礼を言う前に、魚臭い身体を何とかしろ。客が逃げる」
近くの商人たちが笑った。
以前のレオなら、その笑いを馬鹿にされたと受け取ったかもしれない。
今は違う。
少なくとも、追い払われてはいない。
布売りのマーヤから破れた天幕を受け取り、別の店から樽板と縄をもらう。
材料は十分ではない。
柱となる太い木が、あと二本必要だ。
炉を作る石と粘土も集めなければならない。
時間も、すでに半日近く失った。
それでも、家の形が少しずつ見えてきた。
「戻るぞ」
ガルドが骨組みの一部を担いだ。
「持ってくれるのか?」
「お前とミラだけじゃ、日が暮れても運び終わらん」
「手伝わないんじゃなかったのか?」
「これは工房へ持って帰るだけだ。使える材か確かめる」
「家を建てるのは?」
「まだやるとは言ってない」
ガルドはそう言いながら、最も重い木材を選んでいた。
◇
夕方。
俺たちは材料を、赤い印のついた土地へ並べた。
再利用できる梁が二本。
露店の骨組みだった細い木材が七本。
樽板が十二枚。
破れた天幕。
古い縄。
曲がった釘が一本。
平たい石がいくつか。
少ない。
だが、昨日まではなかったものだ。
俺は縄を一本取り出した。
「何をするの?」
ミラが尋ねる。
「家の大きさを決める」
残った石壁から距離を取り、地面へ四本の杭を打つ。
杭の間へ縄を張り、小さな長方形を作った。
三人が並んで眠れる幅。
入口近くに炉を置ける長さ。
大人が両手を広げれば、壁に触れそうなほど狭い。
「これだけ?」
ミラが不安そうに言う。
「最初は、これだけだ」
「前の家より、ずっと小さい」
「でも、三日で作れるかもしれない」
縄で囲まれた中へ入り、ミラの隣に立つ。
「ここがおばあちゃんの寝る場所」
奥を指す。
「その隣がミラ。俺は入口の近くで寝る」
「レオも住むの?」
「嫌なのか?」
「別に」
ミラは足元の縄を見る。
「狭いけど」
「次は、こっちに部屋を足す」
長方形の隣を指でなぞる。
「おばあちゃんが昼間に過ごす場所。その次は、食事をする場所。必要になったら、少しずつ増やしていく」
「家が大きくなるの?」
「ああ」
「木みたいに?」
「木ほど勝手には育たないけどな」
ミラが初めて楽しそうに笑った。
ガルドは少し離れた場所で、腕を組んで縄を見ている。
「小さすぎる」
「でも、条件は満たせる」
「柱が足りん」
「二本は、壊れた家から使える」
「残り二本はどうする」
「明日探す」
「屋根板も足りん」
「樽板と天幕を使う」
「三日目に雨が降れば終わりだ」
「樹皮を重ねる」
「乾いた樹皮が、どこにある」
答えに詰まる。
まだ足りない。
設計図の上では成立しても、現物がなければ建物にはならない。
「それに」
ガルドが、地面に張った縄の角を指す。
「四角が狂ってる」
「目で見た限りでは――」
「目で決めるな」
工房から持ってきた一本の縄を取り出す。
縄には、等間隔で結び目がついていた。
「三つ、四つ、五つに分ける」
三つ分の辺と四つ分の辺を、家の角へ合わせる。
残った五つ分の縄を斜めに張ると、三角形ができた。
「この形になれば、角は真っすぐだ」
3:4:5。
直角三角形。
三平方の定理。
前世では当たり前に知っていた方法だ。
だが、ガルドは数式ではなく、結び目のついた縄として使っている。
「この世界にもあるんだな」
「何がだ」
「いや、何でもない」
縄の位置を直す。
四つの角を確認し、対角線の長さも比べる。
ようやく、家の輪郭が正しく地面へ描かれた。
「家は、木を切る前から始まってるんだな」
俺が呟くと、ガルドが鼻を鳴らした。
「地面に正しく線も引けん奴が、上だけ真っすぐ建てられるか」
もっともだった。
俺は縄で囲まれた小さな土地を見る。
まだ柱は一本もない。
屋根も壁もない。
それでも、昨日までの空き地とは違って見えた。
ここに家が建つ。
頭の中だけにあった形が、初めて現実の地面へ移されたのだ。
「ガルドさん」
「何だ」
「安全な家を作れたら、印を押してくれる?」
男はすぐには答えなかった。
赤い印のついた古い石壁。
地面に張られた新しい縄。
集められた廃材。
そして、俺とミラを順番に見る。
「俺が安全だと判断できたらな」
それは、初めての肯定だった。
「ただし、一つでも危険な箇所があれば、そこは壊してやり直しだ。印も押さねえ」
「分かった」
「屋根から雨が漏れるようでも駄目だ」
「ああ」
「炉の煙が室内へ戻るようでも駄目だ」
「そうならないようにする」
「三日目の日没までに完成しなければ、俺は印を押さん」
「必ず間に合わせる」
「調子に乗るな」
ガルドはそう言ったが、帰ろうとはしなかった。
代わりに、地面へ置かれた二本の梁を調べ始める。
「この一本は柱に使える。もう一本は内部が腐ってる」
「表面は硬いけど」
「根元を見ろ」
木材を裏返す。
切り口の中央に、小さな空洞があった。
細い棒を差し込むと、奥まで簡単に入ってしまう。
「これを柱に使えば、屋根を載せたときに折れる」
使えると思っていた柱が一本、失われた。
必要な柱は四本。
手元にあるのは一本だけ。
残り三本。
期限まで、あと二日と少し。
「明日は日の出前に、寝床の前で待ってろ」
ガルドが立ち上がる。
「どこかへ行くのか?」
「森の手前に、去年の嵐で倒れた木がある。領主の管理人に許可を取れれば、柱に使えるかもしれん」
「一緒に来てくれるのか?」
「木を見に行くだけだ」
ガルドは背を向けた。
「家を建てるとは、まだ言ってねえ」
その言葉を聞きながら、俺は地面の輪郭を見つめた。
家は、小さく始めればいい。
信用も同じだ。
昨日まで、俺には何もなかった。
けれど今は、一本の縄が地面に張られている。
もらった廃材がある。
わずかでも、俺を信じ始めてくれた人がいる。
家の形は、まだ線にすぎない。
それでも、線を一本ずつ正しく重ねていけば、いつか人を守る壁になる。
残された時間は、あと二日。
明日、柱にできる木を探す。
お読みいただきありがとうございます。
次回、家の骨組みに使う木材を求めて、レオたちは森へ向かいます。




