第三話 釘一本の値段
夜明け前、屋根を叩く雨音で目を覚ました。
正確には、ほとんど眠れていなかった。
廃材を組み合わせて作った仮の屋根は、どうにか雨を防いでくれた。だが、壁は片側にしかなく、地面から上がってくる冷気までは防げない。
藁の上で身体を丸めても、足先はずっと冷たいままだった。
それでも、隣ではミラとエナが眠っている。
雨に濡れず、身を寄せ合って眠れている。
それだけで、昨日の仕事には意味があった。
俺は音を立てないように起き上がった。
「もう行くの?」
背後から声がした。
振り返ると、ミラが藁の上からこちらを見ていた。
「起こしたか」
「寒くて起きただけ」
強がっているが、唇が少し青い。
早く、まともな壁を作らなければならない。
「ガルドさんのところへ行ってくる」
「本当に行くんだ」
「日の出までに来いって言われたからな」
「まだ真っ暗だよ」
「遅れるよりいい」
立ち上がると、寝ていると思っていたエナが小さく咳をした。
「レオ」
「はい」
「これを持っていきなさい」
差し出されたのは、布に包まれた黒い塊だった。
開いてみると、乾燥して硬くなったパンが一切れ入っている。
「でも、これは――」
「育ち盛りが、何も食べずに働けるものかね」
「ミラと食べてください」
「わたしは昨日食べた」
ミラが胸を張った。
「嘘つけ」
「半分は食べた」
「残り半分は?」
「……おばあちゃんが食べた」
エナを見る。
老女は笑ってごまかした。
おそらく、二人ともほとんど食べていない。
「これは三人で食べる」
「でも――」
「仕事を覚えて、何かもらって帰る。それまで残しておいてくれ」
布をエナへ返す。
腹は減っていた。
今の身体になってから、まともな食事をした記憶がない。
それでも、ここで一人だけ食べる気にはなれなかった。
「行ってくる」
仮の屋根を出る。
雨は夜のうちに止んでいた。
雲の隙間から、薄い青色の光が差し始めている。
泥だらけの道を歩きながら、昨日見た町を思い出す。
傾いた家。
腐った柱。
雨水が流れ込む道。
直すべきものは多い。
だが、今の俺には道具も材料も信用もない。
まずは、ガルドから一つでも多く学ぶ。
それが家を建てるための最初の仕事だ。
◇
ガルドの工房は、町の東側にあった。
石造りの低い建物に、大きな木製の扉がついている。
扉の上には、板と手斧を組み合わせた看板が掛けられていた。
中から、木を打つ乾いた音が聞こえる。
扉を開けると、濃い木の匂いに包まれた。
壁際には、長さや太さの異なる木材が何段にも分けて積まれている。
梁に使えそうな太い材。
薄く割られた屋根板。
湾曲した枝。
一見すると使い道のなさそうな端材まで、種類ごとに整理されていた。
作業台の向こうでは、ガルドが刃物を研いでいる。
「遅い」
窓の外は、まだ薄暗かった。
「日の出前だろ」
「俺はとっくに仕事を始めてる」
「何時に来ればよかったんだ」
「それを自分で考えるのが仕事だ」
無茶苦茶だ。
「じゃあ、明日はもっと早く来る」
「明日も来るつもりか」
「駄目なのか?」
「今日一日逃げずにいられたら考える」
ガルドは顎で工房の隅を示した。
古い箒が立てかけてある。
「掃除しろ」
「分かった」
「何が分かった」
「工房の床を掃けばいいんだろ」
「本当に馬鹿だな、お前は」
開始早々に怒られた。
「掃除の仕方に何かあるのか?」
「考えろと言った」
ガルドはそれ以上説明しない。
仕方なく箒を手に取り、床を見る。
木くずが大量に落ちていた。
細かな粉。
薄く削られた鉋くず。
木材を切断したときに出た小さな端材。
樹皮や節の欠片。
前の世界なら、まとめて清掃し、廃材用の袋へ入れるところだ。
だが、この世界では事情が違う。
燃料も、寝床に使う藁も不足している。
工房を見ると、壁際にいくつかの籠が置かれていた。
それぞれ、中身が違う。
俺は細かい木粉、長い鉋くず、燃やせそうな端材に分けて集め始めた。
「どうして分ける」
ガルドが背を向けたまま尋ねる。
「細かい粉は火を起こすときに使える。長い削りくずは、荷物の詰め物や寝床に使えるかもしれない。端材は燃料か、楔にできる」
「腐った木は?」
「燃やす」
「煙が出る。室内では使えん」
「じゃあ、外で燃やす」
「雨で濡れてる」
「乾かしてから使う」
「どこで乾かす」
次々と質問が飛んでくる。
「屋根の下で、地面から離して置く」
「何日だ」
「木の状態による」
「それじゃ答えになってない」
「俺はこの町の木を知らない」
正直に答えた。
ガルドの手が止まる。
「知らないのに、家を建てると言ったのか」
「だから知りに来た」
男は鼻を鳴らし、再び刃を研ぎ始めた。
「腐ったものは、裏の穴へ捨てろ。長い削りくずは左の籠だ。木粉は炉の横。端材は樹種ごとに分けろ」
「樹種までは分からない」
「匂いを嗅げ。色を見ろ。重さを比べろ。それでも分からなければ聞け」
「聞いていいのか?」
「勝手に間違えて捨てられるよりましだ」
昨日よりは、わずかに扱いがよくなっている気がする。
掃除を終えるころには、窓から朝日が差し込んでいた。
箒を戻すと、ガルドが一本の木材を作業台へ置いた。
長さは俺の腕ほど。
表面には炭で一本の線が引かれている。
「切れ」
「これを?」
「線の上を切れ。鋸はそこだ」
壁に掛けられていた鋸を手に取る。
前世で使っていたものとは形が違った。
刃は厚く、柄は布が巻かれているだけだ。
試しに軽く引く。
この鋸は、西洋にあるような押して切る鋸ではなく、引くときに切れる日本のものに近いらしい。
「始めるぞ」
木材を作業台へ固定する。
姿勢を整え、炭の線へ刃を当てた。
最初は軽く。
刃道を作り、少しずつ深くしていく。
頭では分かっている。
だが、数回引いただけで腕が震えた。
木が硬い。
それ以上に、今の身体に力がない。
焦って鋸を強く引いた瞬間、刃が線から外れた。
「あっ」
慌てて戻そうとすると、さらに切断面が曲がった。
「止めろ」
ガルドが鋸を取り上げる。
「何が悪かった」
「力を入れすぎた」
「それだけか」
「身体がぶれた。木材の固定も確認してなかった」
「まだある」
切断面を見る。
刃の入り口がささくれ、線の片側が大きく欠けている。
「見える側から切り始めた」
「分かってるじゃねえか」
ガルドが木材を裏返す。
「切り口が荒れる側を、見えない位置へ持っていく。それくらいは考えろ」
「分かった」
「お前の分かったは信用できん」
耳が痛い。
前世では、図面上の納まりを何度も確認していた。
寸法が数ミリずれれば、仕上げが収まらない。
職人に細かい指示を出すこともあった。
だが、自分で一本の木を真っすぐ切ることさえ、今はできない。
ガルドが鋸を持つ。
「力で切ろうとするな」
刃を炭の線へ当て、ゆっくり動かす。
「鋸は勝手に木へ入る。お前がするのは、道を外れないように導くことだけだ」
同じ鋸とは思えないほど、滑らかに刃が進んだ。
音も違う。
俺が切ったときは、木を無理やり引き裂くような音がしていた。
ガルドの鋸は、一定の音を刻みながら木へ吸い込まれていく。
ほどなくして、木材が二つに分かれた。
切断面はほとんど曲がっていない。
「もう一度だ」
新しい端材を置かれる。
今度は、先ほどより細い。
呼吸を整え、鋸を当てる。
力を抜く。
刃の動きに逆らわない。
ゆっくり。
真っすぐ。
途中でわずかに線を外れたが、最初よりはずっとましだった。
「百回やれば、使える程度にはなる」
「百回か」
「嫌なら帰れ」
「やる」
三本目。
四本目。
五本目。
腕が重くなり、手のひらが痛み始めた。
それでも続ける。
十本目を切り終えたとき、右手の皮が破れた。
血がにじむ。
「今日はそこまでだ」
「まだ十本だ」
「血を木につけるな」
ガルドが布切れを投げてきた。
手へ巻きつける。
「職人は怪我をしても働くと思ってた」
「馬鹿はそうする」
「職人は?」
「怪我をしないように働く」
もっともだった。
「知識があるからって、身体まで動くわけじゃないんだな」
「当たり前だ」
ガルドが俺の切った木材を並べる。
最初の一本は大きく曲がり、最後の一本は炭の線から少し外れた程度に収まっている。
「だが、馬鹿にしては覚えが早い」
「褒めてるのか?」
「調子に乗るな」
ガルドは、作業台の脚を蹴った。
台がわずかに揺れる。
「次はこれを直せ」
「脚が緩んでるな」
「見れば分かる」
作業台の下を覗き込む。
脚と横材は、釘ではなく、木を組み合わせて固定されていた。
差し込まれた木栓が痩せ、接合部に隙間ができている。
「木栓を交換する」
「新しい木栓はない」
「作る」
「何で」
先ほど切った端材を見る。
しかし、どれでもいいわけではない。
柔らかい木では、打ち込んだときに潰れる。
硬すぎれば、接合部の方を壊す可能性がある。
端材を一本ずつ持ち、重さと木目を確認する。
その中から、真っすぐな木目の材を選んだ。
「これを割って、くさび形にする」
「どうしてその木だ」
「木目が真っすぐで、割れ方を予想しやすい。作業台より少し柔らかいから、強く打っても本体を傷めにくい」
ガルドが黙って手斧を差し出す。
昨日と違い、今度は投げなかった。
端材へ刃を当て、木目に沿って割る。
細くした材を小刀で削り、先端を少しだけ細くする。
完全な角形ではなく、打ち込むほど締まる形にした。
「入れてみろ」
古い木栓を抜き、新しいものを差し込む。
木槌で慎重に打つ。
一度。
二度。
接合部の隙間が狭くなる。
三度目を打とうとすると、ガルドに腕をつかまれた。
「そこまでだ」
「まだ少し入る」
「入るから打つのか」
「締めた方が――」
「木は鉄じゃない。締めすぎれば割れる」
作業台の脚を見る。
確かに、接合部の角がわずかに膨らんでいる。
あと一度強く打っていたら、ひびが入っていたかもしれない。
「丈夫にしようとして壊す奴は多い」
ガルドが手を離す。
「力をかければ強くなると思うな。木が耐えられる場所で止めろ」
俺は新しい木栓に触れた。
作業台を揺らしてみる。
先ほどまでのぐらつきは、ほとんど消えていた。
「直った」
「当たり前だ。直らなければ仕事とは呼ばん」
厳しいが、言っていることは正しい。
ガルドは作業台の引き出しを開けた。
中から、小さな布袋を取り出す。
布を開くと、黒い鉄釘が並んでいた。
長さも太さも少しずつ違う。
すべて手作りらしく、完全に真っすぐなものは一本もない。
「数えろ」
「十二本」
「違う」
もう一度数える。
「十二本だ」
「お前が盗んだ分を合わせれば二十本だ」
胸の奥が重くなる。
この身体の前の持ち主が盗んだ八本。
「その釘は、そんなに高いのか?」
ガルドの目つきが変わった。
「高いかどうかは、お前が決めることじゃない」
「そういう意味じゃない。この町では、釘一本を作るのにどれくらいかかる?」
ガルドは袋から一本取り出した。
「鉄を買い、鍛冶屋が炉を焚き、熱して叩く。細く伸ばして、頭を作り、冷まして仕上げる」
釘を作業台へ置く。
「これ一本で、黒パンが一つ買える」
「一本で?」
「八本あれば、エナ婆さんとミラが何日食えると思う」
言葉が出なかった。
前の世界では、釘やビスは箱単位で使っていた。
数本落としても、拾われないことさえある。
だが、ここでは違う。
鉄そのものが貴重なのだ。
前のレオは、八本の釘を盗んだ。
空腹だったのかもしれない。
生きるためだったのかもしれない。
それでも、ガルドが怒る理由は十分に分かった。
「ごめん」
「俺に謝ってどうする」
「盗んだのは俺だ」
「今のお前は、そうは見えん」
ガルドが俺を見下ろす。
「昨日までのお前なら、謝る前に逃げていた」
身体に残る記憶は曖昧だ。
なぜ釘を盗んだのかも思い出せない。
ただ、盗まれた側にとっては、昔の俺も今の俺も同じレオだ。
「八本分、必ず返す」
「何で返す」
「働いて」
「今のお前の仕事じゃ、一日働いても釘一本にもならん」
「じゃあ、一本分の仕事ができるまで働く」
ガルドがしばらく黙る。
やがて、袋の中から曲がった釘を一本取り出した。
「直せ」
「釘を?」
「この町じゃ、曲がったからといって捨てる奴はいない」
作業台の上へ小さな鉄板を置き、木槌を渡される。
曲がった部分を少しずつ叩く。
強く叩けば、別の場所が曲がる。
向きを変えながら、ゆっくり真っすぐに戻していく。
完全には直らない。
それでも、再び使える形にはなった。
「一本だ」
ガルドが言った。
「え?」
「八本のうちの一本を返したことにしてやる」
「これだけで?」
「捨てるしかなかった釘を使えるようにした。釘一本分だ」
残り七本。
先は長い。
だが、返せない数ではない。
「ありがとう」
「礼を言う暇があるなら、残りの端材を片づけろ」
俺は曲がりを直した釘を見つめた。
この世界では、一本の釘にも値段がある。
木の削りくずにも役割がある。
俺が当たり前に使い捨てていたものが、ここでは誰かの食事や暮らしにつながっている。
家を建てるなら、この世界の価値を知らなければならない。
前世の知識だけを押しつけても、いい建物にはならない。
材料。
道具。
人の手間。
そのすべてに理由と値段がある。
「ガルドさん」
「何だ」
「ミラの家は、釘を使わずに建てられるか?」
ガルドは俺の顔を見た。
「建てられる」
「本当に?」
「昔の家は、釘なんぞほとんど使わなかった。木を組み、木栓で締めた」
「なら、その方法を――」
「ただし、時間がかかる」
ガルドの声が低くなる。
「木を選び、乾かし、削り、組み合わせる。素人が真似をすれば、屋根を載せる前に全部傾く」
「どれくらいかかる?」
「一人前の職人が数人いて、材料がそろっていたとしても、最低で十日は必要だ」
「十日……」
「お前とミラだけなら、ひと月あっても無理だ」
それでも、方法があるなら諦めるつもりはなかった。
工房の外から、鐘の音が聞こえた。
低い音が三度、町に響く。
ガルドが顔を上げた。
「もう昼か」
朝から働き続けていたらしい。
「飯にするぞ」
「俺は持ってきてない」
「知ってる」
ガルドは棚から黒パンを二つ取り出し、一つを俺へ投げた。
慌てて受け取る。
「これは?」
「今日の働きの分だ」
「釘一本分は?」
「それは借りを返した分だ。飯は飯だ」
パンは硬かった。
それでも、口に入れると麦の香りが広がった。
腹が鳴る。
全部食べたい。
だが、ミラとエナの顔が浮かんだ。
半分だけ食べ、残りを布に包む。
「食わないのか」
「持って帰る」
「腹が減ったままじゃ働けんぞ」
「半分食べた」
ガルドは何も言わなかった。
代わりに、自分のパンを少し大きめに割り、その一片を俺の前へ置いた。
「残りの掃除が終わったら食え」
「ガルドさん」
「仕事中に喋るな」
やはり、素直ではない。
◇
日が傾くころ、俺は工房を出た。
右手には布が巻かれ、身体中が痛い。
それでも、昨日より少しだけ前へ進んだ気がした。
パンの残りを持ち、ミラたちのいる場所へ戻る。
遠くから仮の屋根が見えた。
雨には耐えている。
大きく傾いた様子もない。
ほっとしたのも束の間、その前に見知らぬ男が立っていることに気づいた。
紺色の外套。
泥ひとつついていない革靴。
手には、赤い塗料のついた刷毛を持っている。
仮の屋根を支える石壁には、大きな印が描かれていた。
赤い斜めの線が、二本。
まるで、建物そのものを消すような印だった。
「何をしてる!」
走り寄る。
男が面倒そうに振り返った。
「レオ、来ないで」
ミラが俺の前へ立つ。
目が赤い。
「何があった」
「ここ、壊されるって」
「壊す?」
紺色の外套の男が、紙を広げた。
「この区画は、ドーレン商会が長期使用権を持つ土地だ。居住に使われていた家屋が倒壊したため、契約に従い区画を回収する」
「エナさんたちは、ここに住んでいた」
「建物が存在していた間はな」
「建て直す」
男が鼻で笑った。
「誰が?」
「俺が」
「子どもの遊びにつき合う暇はない」
紙を指で叩く。
「三日目の日没までに認証を受けられなければ、翌朝、残った壁と廃材を撤去する。それまでに荷物を運び出せ」
「三日?」
「十分だろう」
「待ってくれ」
「話があるなら、ドーレン商会へ来い。ただし、土地を借り直すなら銀貨が必要だ」
「いくらだ」
男は俺の服装を見て、笑みを浮かべた。
「お前が一生働いても払えん額だ」
それだけ言い残し、男は立ち去った。
赤い印だけが、石壁に残されている。
ミラが拳を握っていた。
「わたしたち、どこに行けばいいの」
エナは仮の屋根の下で、静かに目を閉じている。
俺は赤い印を見つめた。
まともに直すなら、十日はかかる。
残された時間は三日。
金もない。
土地も自分たちのものではない。
材料も足りない。
今の俺には、木を真っすぐ切ることさえできない。
できない理由なら、いくらでも並べられた。
だが、前の人生で、それを並べ続けた結果を俺は知っている。
「三日で家を建てる」
ミラが顔を上げる。
「無理だよ」
「普通の家は無理だ」
「じゃあ、どうするの?」
赤い印へ手を触れる。
「壊したくても、壊せない家を作る」
まだ方法は分からない。
それでも、止まるつもりはなかった。
釘一本にも値段がある世界で。
俺たちがここに住み続けるための価値を、三日で作る。
それが、俺に与えられた最初の仕事だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回、三日という期限の中で、レオが家を残すための方法を探します。




