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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第一部 居場所を建てる

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2/22

第二話 屋根より先に、溝を掘る

 建物が崩れた直後に、絶対にやってはいけないことがある。


 使えそうな物を見つけたからといって、すぐに中へ戻ることだ。


 屋根の半分が落ちた家は、一見すると静かだった。


 だが、残った(はり)は不自然な角度で傾き、壁の上には折れた垂木(たるき)が引っかかっている。少し力が加わるだけで、残りも崩れる可能性があった。


「レオ、毛布が中にあるの」


 少女が、壊れた家へ向かおうとする。


 俺は慌てて腕をつかんだ。


「駄目だ」


「でも、おばあちゃんが寒そうで……」


「取りに行ったら、今度はミラが下敷きになる」


 口にしてから、自分が少女の名前を知っていることに気づいた。


 ミラ。


 赤茶色の髪をした、九歳の少女。


 寝たきりの祖母と二人で、この家に暮らしている。


 その情報が、もともと自分のものだったかのように頭の中へ浮かんできた。


 どうやら、この身体にはわずかな記憶が残っているらしい。


 ただし、それは古い本のページを風が勝手にめくっていくような、不確かなものだった。


 意識して思い出そうとすると、途端に何も見えなくなる。


「わたしの名前、覚えてたんだ」


 ミラが意外そうに言った。


「……忘れるわけないだろ」


「昨日は、お前なんか知らないって言ったのに」


 前のレオは、ずいぶん感じの悪い子どもだったらしい。


「昨日の俺は、どうかしてたんだ」


「いつもどうかしてるよ」


 昨日までのレオを知らない俺には、否定する材料がなかった。


 俺たちは崩れた家から距離を取り、軒の深い空き家の壁際へ老女を運んだ。


 ミラの祖母の名は、エナ。


 五十歳ほどらしいが、病と長年の苦労のためか、実際の年齢よりずっと老いて見える。痩せた身体は驚くほど軽く、雨に濡れた指先は冷たかった。


「すまないねえ、レオ」


「謝らなくていいです」


「この子だけでも、雨の当たらないところへ連れていっておくれ」


「おばあちゃんを置いていかないよ!」


 ミラが声を上げた。


「でもねえ……」


「二人とも置いていかない」


 俺は壊れた家を振り返った。


 夜までは、まだ時間がある。


 ただし、雨は止む気配がなかった。


 このままでは、老人の体温が奪われる。無事だった家財も濡れ、再利用できる木材まで駄目になる。


 必要なのは、立派な家ではない。


 今夜を越えるための場所だ。


「まず、水を逃がす」


「水?」


 ミラは空を見上げた。


「雨を止めるの?」


「それは神様に頼んでくれ。俺が動かすのは、地面を流れてる方だ」


 家の周囲を見る。


 道の中央を流れていた泥水が、家の前でせき止められている。


 地面の低い場所に建てられているうえ、屋根から落ちた雨水を逃がす溝がない。家の裏手には小さな斜面があり、そこから流れてきた水まで床下へ集まっていた。


 これでは、どれだけ屋根を直しても柱の根元から腐っていく。


 屋根を作る前に、まず排水だ。


「掘るぞ」


「何で?」


「いいから手伝ってくれ」


 道具を探したが、まともな鍬も鋤もない。


 崩れた壁の近くに落ちていた細長い板を拾い、先端が割れていないことを確認する。


 それを地面へ突き立て、泥をかき出した。


「そんなところに穴を掘ったら、もっと水がたまるよ」


「穴じゃない。溝だ」


 家の裏から道の端まで、地面の勾配を目で追う。


 測量器も水平器もない。


 代わりに、雨水の流れを使う。


 泥の上へ少量の水を流し、進んだ方向を確かめる。低い場所をつなぐように、細い溝を掘り進めていった。


 しかし、数分もしないうちに腕が重くなった。


「はあ……はあ……」


 情けない。


 前の身体なら、この程度で息が上がることはなかった。


 今の俺は、十歳にも満たない痩せた子どもだ。ろくな食事もしていなかったのか、手足には力が入らない。


「貸して」


 ミラが板を奪った。


「できるのか?」


「レオよりは働いてるから」


 言い返せるだけの働きを、まだ俺はしていなかった。


 二人で交代しながら溝を掘る。


 途中から、雨水が俺たちの作った細い道へ入り始めた。


 泥水が溝を伝い、少しずつ家から離れていく。


「あっ」


 ミラが声を上げる。


 それまで家の前に広がっていた水たまりの水位が、目に見えて下がり始めていた。


「流れた……」


「水は高い方から低い方へ流れる。行き先を作ってやればいい」


「そんなの、誰でも知ってるよ」


「知ってることと、使えることは違う」


 自分で言いながら、前の人生のことを思い出した。


 知識だけなら、いくらでもあった。


 図面の描き方も、材料の性質も、建物の納まりも勉強した。


 それなのに、自分には経験がないからと、何度も夢を先延ばしにしていた。


 知っているだけでは、何も変わらない。


 使って初めて、知識は誰かを助ける力になる。


「おい」


 背後から低い声がした。


 振り返ると、大柄な男が立っていた。


 灰色の髪と髭。分厚い革の前掛けを身につけ、右手には古びた手斧を持っている。


 男の名は、ガルド。


 町の外れで小さな工房を営む木工職人だ。


 その名前も、身体に残った記憶が教えてくれた。


「こんな雨の中で何をしてる、馬鹿ども」


「水を逃がしてる」


「見りゃ分かる」


 ガルドは溝を流れる水を見たあと、崩れた家へ目を向けた。


「とうとう潰れたか。前から危ねえと言ってただろ」


「直す金なんてなかったんだよ」


 ミラが言い返す。


「分かってる。だから、俺も壊れる前に屋根板だけでも外せと言った」


「おばあちゃんを置いて、どこで寝ろっていうの」


 ガルドは何も答えなかった。


 言い方はきついが、悪意があるわけではないらしい。


「ガルドさん」


 俺は男の持つ手斧を見た。


「道具を貸してほしい」


「断る」


 即答だった。


「まだ何も言ってない」


「お前に道具を貸せば、壊すか、なくすか、売るかのどれかだ」


「前に売ったことがあるのか?」


「俺の釘を八本盗んで、パンと交換した」


 前のレオは、想像以上に問題児だった。


「……返す」


「釘をか?」


「道具も、釘の分も」


「何で返す」


 金はない。


 見れば分かる。


 俺の服にはポケットすらついていなかった。


「働いて返す」


 ガルドは鼻で笑った。


「お前が?」


「ああ」


「釘一本まともに打てないお前が、俺の工房で何をする」


「釘を使わなくても、屋根は作れる」


 男の眉が動いた。


「何だと?」


「今夜だけ雨を防げればいい。崩れた家から使える木を外して、壁に立てかける。木材は縄と(くさび)で固定する」


「縄はどこにある」


「崩れた屋根の下に、荷物を縛っていたものがあった」


「屋根材は」


「割れていない板を重ねる。足りなければ樹皮を使う」


「雨が隙間から入るぞ」


「下から順番に重ねる。上の板が下の板にかぶさるようにすれば、水は中へ入りにくい」


 ガルドは黙った。


 俺は地面にしゃがみ込み、指で泥の上へ線を引いた。


 残っている石壁。


 斜めに立てかける(はり)


 その上へ並べる垂木(たるき)


 雨水を流す屋根の傾き。


 軒先から落ちた水を受ける溝。


 正確な図面ではない。


 それでも、作ろうとしているものの形は伝わるはずだった。


「ここを高くして、反対側へ水を流す。風が強くなったときに浮き上がらないよう、梁の端は石で押さえる。ただし、木材へ直接重い石を載せると割れるから、板を一枚挟む」


「誰に習った」


「……覚えてない」


 嘘ではなかった。


 前世で何人もの職人や監督から学んだ。


 だが、この世界でその名前を説明することはできない。


 ガルドはしばらく泥の図を見つめていた。


 やがて、持っていた手斧を俺の足元へ投げた。


 慌てて避ける。


「危ないだろ!」


「刃を地面に当てるな。欠けたら、お前の指を一本もらう」


「物騒すぎないか?」


「それと、工房に古い(のこぎり)がある。縄も持ってこい」


「貸してくれるのか?」


「俺が使う」


 ガルドは壊れた家へ歩き出した。


「子ども二人に任せてたら、日が暮れる」


 ミラが目を丸くする。


「手伝ってくれるの?」


「勘違いするな。エナ婆さんを雨の中で死なせたら、寝覚めが悪いだけだ」


 空き家の壁際に座っていたエナが、小さく笑った。


「相変わらず、素直じゃないねえ」


「病人は黙ってろ」


「若いころから変わらないよ」


「余計なことを言うな!」


 ガルドの顔がわずかに赤くなった。


 どうやら、二人は昔からの知り合いらしい。


 ガルドが工房へ道具を取りに行っている間に、俺とミラは使えそうな材料を選別した。


 家の中へ入るのは危険なため、外へ飛び出した木材だけを確認する。


 表面が黒くても、内部まで腐っていない木はある。


 逆に、見た目がきれいでも、叩いたときに鈍い音がするものは使えない。


「これは?」


 ミラが一本の木を指差す。


 俺は表面を指で押した。


 柔らかい。


「駄目だ。中まで腐ってる」


「じゃあ、これは?」


 手頃な太さの木を持ち上げ、石で軽く叩く。


 乾いた音がした。


「使える」


「何が違うの?」


「音と硬さ」


「それだけ?」


「匂いも違う」


 切り口へ鼻を近づける。


 湿った土と、古い木の匂いがした。


 だが、腐敗した木材特有の甘い臭いは弱い。


「木の声を聞いてるみたい」


「そんな格好いいものじゃないよ」


「でも、前のレオは木を叩いたりしなかった」


「昨日までの俺と、同じではいられない」


 思わず口にしてしまった。


 ミラが手を止める。


「それ、どういう意味?」


「……昨日までと同じじゃないってことだ」


「頭でも打った?」


「たぶん」


 実際には、前の世界で全身を打って死んでいる。


 ミラは不審そうに俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「今の方がいい」


「そうか?」


「変だけど、前よりはマシ」


 褒められている気はしなかった。


 ガルドが戻ると、作業は一気に進んだ。


 まず、まだ倒れていない石壁の安全を確認する。


 上部の崩れかけた石を棒で落とし、壁の近くに人が立っても危険がない状態にする。


 次に、比較的状態のよい(はり)を斜めに立てかけた。


 地面に接する部分には平たい石を置き、木が直接泥へ触れないようにする。


「何で石を置くの?」


 ミラが尋ねる。


「木が水を吸わないようにするためだ」


「屋根なのに?」


「家は屋根だけ守っても駄目なんだ。木の足元が濡れ続ければ、そこから腐る」


「でも、これは今夜だけの家だろ」


 ガルドが言った。


「今夜だけでも、濡らさない方がいい」


 男は何も言わず、(はり)の位置を少し直した。


 三本の垂木(たるき)を渡し、縄で固定する。


 さらに、壊れた屋根から拾った板を軒先側から順番に重ねていった。


 板と板の隙間は、次の段の板で覆う。


 材料が足りない部分には、ガルドが持ってきた大きな樹皮を使った。


 屋根の一番高い部分には板をかぶせ、縄で締める。


 見栄えは悪い。


 高さもない。


 大人が立てば頭がつかえるほどの、小さな片流れ屋根だ。


 それでも、三人が横になる広さは確保できた。


「できた……」


 ミラが屋根を見上げた。


「まだだ」


 最後に、軒先の下へ溝を掘る。


 屋根を流れた水が地面を削り、室内へ戻らないように、最初に作った排水路へつなげた。


「これでいい」


 雨は相変わらず降っている。


 屋根へ落ちた水が板の上を流れ、軒先から線になって落ちる。


 ミラが恐る恐る屋根の下へ入った。


 一滴。


 二滴。


 板に残っていた水が落ちた。


 だが、それ以降、雨は入ってこなかった。


「濡れない」


 ミラが両手を広げる。


「おばあちゃん、ここ、濡れないよ!」


 エナを屋根の下へ移し、乾いていた(わら)を床へ敷く。


 ミラが祖母の隣へ座った。


 エナは屋根を見上げ、それから俺へ目を向けた。


「立派な家だねえ」


「こんなの、家とは呼べません」


「雨の日に、家族が一緒に眠れる場所だよ」


 老女は穏やかに笑った。


「それなら、十分に家じゃないか」


 胸の奥が、わずかに痛んだ。


 前の世界では、もっと大きな建物に関わっていた。


 何十人、何百人が暮らす集合住宅。


 鉄筋コンクリートの壁。


 高性能な防水材。


 何枚もの図面。


 厳しい検査。


 それに比べれば、目の前にあるものは、廃材を組んだだけの小屋だった。


 けれど。


「ありがとう、レオ」


 ミラが言った。


 その一言は、これまで完成させたどんな建物よりも重く感じられた。


 俺は家を作りたかった。


 きれいな図面を描きたかったわけでも、有名になりたかったわけでもない。


 誰かが安心して眠れる場所を、自分の考えで作りたかったのだ。


「今日はこれでいい」


 俺は壊れた家を振り返る。


「明日から、本当の家を建てる」


「明日から?」


 ガルドが低い声で言った。


「ああ。使える材料を調べて、足りないものを集める。壁も、屋根も、今までと同じ作り方じゃ駄目だ」


「誰が建てる」


「俺が建てる」


「子ども一人でか?」


「ミラもいる」


「わたしも数に入ってるの?」


「嫌なのか?」


 ミラは少し考え、首を横に振った。


「やる」


「二人になった」


 ガルドは深いため息をついた。


「二人とも素人だ」


「だから、職人が必要だ」


 俺はガルドを見る。


 男は露骨に顔をしかめた。


「俺はやらんぞ」


「まだ頼んでない」


「その目は頼む気だろうが」


「道具の使い方だけでも教えてほしい」


「断る」


「釘八本分、働く」


「それで足りると思ってるのか?」


「じゃあ、何本分だ?」


 ガルドは俺を睨んだ。


 雨音の中で、しばらく沈黙が続く。


 やがて男は、泥の上に残っていた俺の図へ目を落とした。


「明日の朝……」


 ぼそりと言う。


「日の出までに工房へ来い」


「いいのか?」


「道具の手入れと、木屑(きくず)の掃除をさせるだけだ。家の建て方を教えるとは言ってない」


「分かった」


「遅れたら二度と来るな」


 ガルドはそれだけ言い残し、雨の中を歩いていった。


 その背中を見送りながら、ミラが俺の隣へ立つ。


「ガルドさんの工房で働ける人、この辺にはあんまりいないよ」


「そんなに腕がいいのか?」


「頑固で怖いから、みんなすぐ逃げるの」


「そっちか」


「レオも一日で逃げると思う」


「逃げないよ」


 もう、逃げるのはやめた。


 前の人生では、できない理由ばかりを探していた。


 経験がない。


 才能がない。


 時間がない。


 失敗したくない。


 そうやって立ち止まっている間に、人生そのものが終わってしまった。


 今度は違う。


 何も持っていないなら、一つずつ手に入れればいい。


 道具の使い方。


 この世界の材料。


 職人たちの技術。


 そして、人から信用されるための実績。


 始まりは、雨を防ぐだけの小さな屋根だった。


 それでも俺にとっては、異世界で初めて自分の考えを形にした建物だ。


 屋根を打つ雨音を聞きながら、俺は拳を握った。


 明日から、俺の二度目の人生が本当に始まる。

お読みいただきありがとうございます。

次回から、ガルドの工房での修業が始まります。

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