第二話 屋根より先に、溝を掘る
建物が崩れた直後に、絶対にやってはいけないことがある。
使えそうな物を見つけたからといって、すぐに中へ戻ることだ。
屋根の半分が落ちた家は、一見すると静かだった。
だが、残った梁は不自然な角度で傾き、壁の上には折れた垂木が引っかかっている。少し力が加わるだけで、残りも崩れる可能性があった。
「レオ、毛布が中にあるの」
少女が、壊れた家へ向かおうとする。
俺は慌てて腕をつかんだ。
「駄目だ」
「でも、おばあちゃんが寒そうで……」
「取りに行ったら、今度はミラが下敷きになる」
口にしてから、自分が少女の名前を知っていることに気づいた。
ミラ。
赤茶色の髪をした、九歳の少女。
寝たきりの祖母と二人で、この家に暮らしている。
その情報が、もともと自分のものだったかのように頭の中へ浮かんできた。
どうやら、この身体にはわずかな記憶が残っているらしい。
ただし、それは古い本のページを風が勝手にめくっていくような、不確かなものだった。
意識して思い出そうとすると、途端に何も見えなくなる。
「わたしの名前、覚えてたんだ」
ミラが意外そうに言った。
「……忘れるわけないだろ」
「昨日は、お前なんか知らないって言ったのに」
前のレオは、ずいぶん感じの悪い子どもだったらしい。
「昨日の俺は、どうかしてたんだ」
「いつもどうかしてるよ」
昨日までのレオを知らない俺には、否定する材料がなかった。
俺たちは崩れた家から距離を取り、軒の深い空き家の壁際へ老女を運んだ。
ミラの祖母の名は、エナ。
五十歳ほどらしいが、病と長年の苦労のためか、実際の年齢よりずっと老いて見える。痩せた身体は驚くほど軽く、雨に濡れた指先は冷たかった。
「すまないねえ、レオ」
「謝らなくていいです」
「この子だけでも、雨の当たらないところへ連れていっておくれ」
「おばあちゃんを置いていかないよ!」
ミラが声を上げた。
「でもねえ……」
「二人とも置いていかない」
俺は壊れた家を振り返った。
夜までは、まだ時間がある。
ただし、雨は止む気配がなかった。
このままでは、老人の体温が奪われる。無事だった家財も濡れ、再利用できる木材まで駄目になる。
必要なのは、立派な家ではない。
今夜を越えるための場所だ。
「まず、水を逃がす」
「水?」
ミラは空を見上げた。
「雨を止めるの?」
「それは神様に頼んでくれ。俺が動かすのは、地面を流れてる方だ」
家の周囲を見る。
道の中央を流れていた泥水が、家の前でせき止められている。
地面の低い場所に建てられているうえ、屋根から落ちた雨水を逃がす溝がない。家の裏手には小さな斜面があり、そこから流れてきた水まで床下へ集まっていた。
これでは、どれだけ屋根を直しても柱の根元から腐っていく。
屋根を作る前に、まず排水だ。
「掘るぞ」
「何で?」
「いいから手伝ってくれ」
道具を探したが、まともな鍬も鋤もない。
崩れた壁の近くに落ちていた細長い板を拾い、先端が割れていないことを確認する。
それを地面へ突き立て、泥をかき出した。
「そんなところに穴を掘ったら、もっと水がたまるよ」
「穴じゃない。溝だ」
家の裏から道の端まで、地面の勾配を目で追う。
測量器も水平器もない。
代わりに、雨水の流れを使う。
泥の上へ少量の水を流し、進んだ方向を確かめる。低い場所をつなぐように、細い溝を掘り進めていった。
しかし、数分もしないうちに腕が重くなった。
「はあ……はあ……」
情けない。
前の身体なら、この程度で息が上がることはなかった。
今の俺は、十歳にも満たない痩せた子どもだ。ろくな食事もしていなかったのか、手足には力が入らない。
「貸して」
ミラが板を奪った。
「できるのか?」
「レオよりは働いてるから」
言い返せるだけの働きを、まだ俺はしていなかった。
二人で交代しながら溝を掘る。
途中から、雨水が俺たちの作った細い道へ入り始めた。
泥水が溝を伝い、少しずつ家から離れていく。
「あっ」
ミラが声を上げる。
それまで家の前に広がっていた水たまりの水位が、目に見えて下がり始めていた。
「流れた……」
「水は高い方から低い方へ流れる。行き先を作ってやればいい」
「そんなの、誰でも知ってるよ」
「知ってることと、使えることは違う」
自分で言いながら、前の人生のことを思い出した。
知識だけなら、いくらでもあった。
図面の描き方も、材料の性質も、建物の納まりも勉強した。
それなのに、自分には経験がないからと、何度も夢を先延ばしにしていた。
知っているだけでは、何も変わらない。
使って初めて、知識は誰かを助ける力になる。
「おい」
背後から低い声がした。
振り返ると、大柄な男が立っていた。
灰色の髪と髭。分厚い革の前掛けを身につけ、右手には古びた手斧を持っている。
男の名は、ガルド。
町の外れで小さな工房を営む木工職人だ。
その名前も、身体に残った記憶が教えてくれた。
「こんな雨の中で何をしてる、馬鹿ども」
「水を逃がしてる」
「見りゃ分かる」
ガルドは溝を流れる水を見たあと、崩れた家へ目を向けた。
「とうとう潰れたか。前から危ねえと言ってただろ」
「直す金なんてなかったんだよ」
ミラが言い返す。
「分かってる。だから、俺も壊れる前に屋根板だけでも外せと言った」
「おばあちゃんを置いて、どこで寝ろっていうの」
ガルドは何も答えなかった。
言い方はきついが、悪意があるわけではないらしい。
「ガルドさん」
俺は男の持つ手斧を見た。
「道具を貸してほしい」
「断る」
即答だった。
「まだ何も言ってない」
「お前に道具を貸せば、壊すか、なくすか、売るかのどれかだ」
「前に売ったことがあるのか?」
「俺の釘を八本盗んで、パンと交換した」
前のレオは、想像以上に問題児だった。
「……返す」
「釘をか?」
「道具も、釘の分も」
「何で返す」
金はない。
見れば分かる。
俺の服にはポケットすらついていなかった。
「働いて返す」
ガルドは鼻で笑った。
「お前が?」
「ああ」
「釘一本まともに打てないお前が、俺の工房で何をする」
「釘を使わなくても、屋根は作れる」
男の眉が動いた。
「何だと?」
「今夜だけ雨を防げればいい。崩れた家から使える木を外して、壁に立てかける。木材は縄と楔で固定する」
「縄はどこにある」
「崩れた屋根の下に、荷物を縛っていたものがあった」
「屋根材は」
「割れていない板を重ねる。足りなければ樹皮を使う」
「雨が隙間から入るぞ」
「下から順番に重ねる。上の板が下の板にかぶさるようにすれば、水は中へ入りにくい」
ガルドは黙った。
俺は地面にしゃがみ込み、指で泥の上へ線を引いた。
残っている石壁。
斜めに立てかける梁。
その上へ並べる垂木。
雨水を流す屋根の傾き。
軒先から落ちた水を受ける溝。
正確な図面ではない。
それでも、作ろうとしているものの形は伝わるはずだった。
「ここを高くして、反対側へ水を流す。風が強くなったときに浮き上がらないよう、梁の端は石で押さえる。ただし、木材へ直接重い石を載せると割れるから、板を一枚挟む」
「誰に習った」
「……覚えてない」
嘘ではなかった。
前世で何人もの職人や監督から学んだ。
だが、この世界でその名前を説明することはできない。
ガルドはしばらく泥の図を見つめていた。
やがて、持っていた手斧を俺の足元へ投げた。
慌てて避ける。
「危ないだろ!」
「刃を地面に当てるな。欠けたら、お前の指を一本もらう」
「物騒すぎないか?」
「それと、工房に古い鋸がある。縄も持ってこい」
「貸してくれるのか?」
「俺が使う」
ガルドは壊れた家へ歩き出した。
「子ども二人に任せてたら、日が暮れる」
ミラが目を丸くする。
「手伝ってくれるの?」
「勘違いするな。エナ婆さんを雨の中で死なせたら、寝覚めが悪いだけだ」
空き家の壁際に座っていたエナが、小さく笑った。
「相変わらず、素直じゃないねえ」
「病人は黙ってろ」
「若いころから変わらないよ」
「余計なことを言うな!」
ガルドの顔がわずかに赤くなった。
どうやら、二人は昔からの知り合いらしい。
ガルドが工房へ道具を取りに行っている間に、俺とミラは使えそうな材料を選別した。
家の中へ入るのは危険なため、外へ飛び出した木材だけを確認する。
表面が黒くても、内部まで腐っていない木はある。
逆に、見た目がきれいでも、叩いたときに鈍い音がするものは使えない。
「これは?」
ミラが一本の木を指差す。
俺は表面を指で押した。
柔らかい。
「駄目だ。中まで腐ってる」
「じゃあ、これは?」
手頃な太さの木を持ち上げ、石で軽く叩く。
乾いた音がした。
「使える」
「何が違うの?」
「音と硬さ」
「それだけ?」
「匂いも違う」
切り口へ鼻を近づける。
湿った土と、古い木の匂いがした。
だが、腐敗した木材特有の甘い臭いは弱い。
「木の声を聞いてるみたい」
「そんな格好いいものじゃないよ」
「でも、前のレオは木を叩いたりしなかった」
「昨日までの俺と、同じではいられない」
思わず口にしてしまった。
ミラが手を止める。
「それ、どういう意味?」
「……昨日までと同じじゃないってことだ」
「頭でも打った?」
「たぶん」
実際には、前の世界で全身を打って死んでいる。
ミラは不審そうに俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「今の方がいい」
「そうか?」
「変だけど、前よりはマシ」
褒められている気はしなかった。
ガルドが戻ると、作業は一気に進んだ。
まず、まだ倒れていない石壁の安全を確認する。
上部の崩れかけた石を棒で落とし、壁の近くに人が立っても危険がない状態にする。
次に、比較的状態のよい梁を斜めに立てかけた。
地面に接する部分には平たい石を置き、木が直接泥へ触れないようにする。
「何で石を置くの?」
ミラが尋ねる。
「木が水を吸わないようにするためだ」
「屋根なのに?」
「家は屋根だけ守っても駄目なんだ。木の足元が濡れ続ければ、そこから腐る」
「でも、これは今夜だけの家だろ」
ガルドが言った。
「今夜だけでも、濡らさない方がいい」
男は何も言わず、梁の位置を少し直した。
三本の垂木を渡し、縄で固定する。
さらに、壊れた屋根から拾った板を軒先側から順番に重ねていった。
板と板の隙間は、次の段の板で覆う。
材料が足りない部分には、ガルドが持ってきた大きな樹皮を使った。
屋根の一番高い部分には板をかぶせ、縄で締める。
見栄えは悪い。
高さもない。
大人が立てば頭がつかえるほどの、小さな片流れ屋根だ。
それでも、三人が横になる広さは確保できた。
「できた……」
ミラが屋根を見上げた。
「まだだ」
最後に、軒先の下へ溝を掘る。
屋根を流れた水が地面を削り、室内へ戻らないように、最初に作った排水路へつなげた。
「これでいい」
雨は相変わらず降っている。
屋根へ落ちた水が板の上を流れ、軒先から線になって落ちる。
ミラが恐る恐る屋根の下へ入った。
一滴。
二滴。
板に残っていた水が落ちた。
だが、それ以降、雨は入ってこなかった。
「濡れない」
ミラが両手を広げる。
「おばあちゃん、ここ、濡れないよ!」
エナを屋根の下へ移し、乾いていた藁を床へ敷く。
ミラが祖母の隣へ座った。
エナは屋根を見上げ、それから俺へ目を向けた。
「立派な家だねえ」
「こんなの、家とは呼べません」
「雨の日に、家族が一緒に眠れる場所だよ」
老女は穏やかに笑った。
「それなら、十分に家じゃないか」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
前の世界では、もっと大きな建物に関わっていた。
何十人、何百人が暮らす集合住宅。
鉄筋コンクリートの壁。
高性能な防水材。
何枚もの図面。
厳しい検査。
それに比べれば、目の前にあるものは、廃材を組んだだけの小屋だった。
けれど。
「ありがとう、レオ」
ミラが言った。
その一言は、これまで完成させたどんな建物よりも重く感じられた。
俺は家を作りたかった。
きれいな図面を描きたかったわけでも、有名になりたかったわけでもない。
誰かが安心して眠れる場所を、自分の考えで作りたかったのだ。
「今日はこれでいい」
俺は壊れた家を振り返る。
「明日から、本当の家を建てる」
「明日から?」
ガルドが低い声で言った。
「ああ。使える材料を調べて、足りないものを集める。壁も、屋根も、今までと同じ作り方じゃ駄目だ」
「誰が建てる」
「俺が建てる」
「子ども一人でか?」
「ミラもいる」
「わたしも数に入ってるの?」
「嫌なのか?」
ミラは少し考え、首を横に振った。
「やる」
「二人になった」
ガルドは深いため息をついた。
「二人とも素人だ」
「だから、職人が必要だ」
俺はガルドを見る。
男は露骨に顔をしかめた。
「俺はやらんぞ」
「まだ頼んでない」
「その目は頼む気だろうが」
「道具の使い方だけでも教えてほしい」
「断る」
「釘八本分、働く」
「それで足りると思ってるのか?」
「じゃあ、何本分だ?」
ガルドは俺を睨んだ。
雨音の中で、しばらく沈黙が続く。
やがて男は、泥の上に残っていた俺の図へ目を落とした。
「明日の朝……」
ぼそりと言う。
「日の出までに工房へ来い」
「いいのか?」
「道具の手入れと、木屑の掃除をさせるだけだ。家の建て方を教えるとは言ってない」
「分かった」
「遅れたら二度と来るな」
ガルドはそれだけ言い残し、雨の中を歩いていった。
その背中を見送りながら、ミラが俺の隣へ立つ。
「ガルドさんの工房で働ける人、この辺にはあんまりいないよ」
「そんなに腕がいいのか?」
「頑固で怖いから、みんなすぐ逃げるの」
「そっちか」
「レオも一日で逃げると思う」
「逃げないよ」
もう、逃げるのはやめた。
前の人生では、できない理由ばかりを探していた。
経験がない。
才能がない。
時間がない。
失敗したくない。
そうやって立ち止まっている間に、人生そのものが終わってしまった。
今度は違う。
何も持っていないなら、一つずつ手に入れればいい。
道具の使い方。
この世界の材料。
職人たちの技術。
そして、人から信用されるための実績。
始まりは、雨を防ぐだけの小さな屋根だった。
それでも俺にとっては、異世界で初めて自分の考えを形にした建物だ。
屋根を打つ雨音を聞きながら、俺は拳を握った。
明日から、俺の二度目の人生が本当に始まる。
お読みいただきありがとうございます。
次回から、ガルドの工房での修業が始まります。




