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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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34/42

第三十四話 出口は、逃げるためだけにない

 古い石灰窯は、町の西にある低い丘の裏へ残されていた。


 町の鐘は聞こえるが、丘が視界を遮り、道から窯口は見えない。人を隠すには近く、助けを呼ぶには遠い場所だった。


 煉瓦を積んだ円筒形の窯。


 上半分は崩れ、黒ずんだ壁へ草の根が入り込んでいる。


 かつては白い煙を吐いていたはずだが、今は鳥の巣と蔓草しか見えない。


「ゲイルさんが倒れていたのは、あそこです」


 ハーレンが斜面の途中を示した。


 土が露出し、折れた枝の残る場所。


 捜索の際につけた白い杭が二本、斜面へ立っている。


「窯へ向かう道から外れてる」


 ミラが言った。


「足を滑らせたなら、この辺りから落ちた?」


 カイが斜面の上を指す。


「その可能性が高い」


 ハーレンが答えた。


「ただし、昨日の捜索では、上に二種類の足跡がありました」


「ゲイルさんと、もう一人」


「そうです」


 片方は、木場で使われる厚い作業靴。


 もう片方は、踵に細い横線が入った町売りの靴。


 特別な靴ではない。


 同じ型を履いている者は、町の中に何人もいる。


「足跡は、どこから来てたの?」


 ミラが尋ねた。


 ハーレンが斜面の上へ案内する。


「ここで途切れています」


「途切れる?」


 土の柔らかい場所には、ゲイルの靴跡が続いていた。


 窯へ向かう道から斜面の上へ。


 だが、もう一人の足跡は違う。


 道から来た跡がない。


 斜面の中ほどに、突然現れている。


「飛んできた?」


 カイが言った。


「空から降りたなら、もっと深い跡が残る」


 俺はしゃがんだ。


 踵の横線。


 つま先。


 右足。


 左足。


 二歩目からは斜面を上がっている。


「ここから出てきた?」


 ミラが周囲を見る。


 草。


 低木。


 崩れた石。


 人が隠れられる穴は見えない。


「足跡が消えたんじゃない」


 俺は言った。


「ここから始まってる」


     ◇


 地下共同蔵から延びていた古い排水路。


 床は石灰窯のある西側へ下っていた。


 水は、高い方から低い方へ流れる。


 なら、出口は共同蔵より低い場所にある。


「でも、四十一年前から地面は変わってる」


 ドムが言った。


「土が積もり、斜面も崩れてる。昔と同じ高さに口があるとは限らん」


「排水路なのに、出口が埋まってたら水がたまる」


 カイが言う。


「途中で壊れ、別の場所へ抜けているかもしれん」


「地面の下に水が逃げてる?」


「石の隙間へな」


 見える穴だけを探しても見つからない。


 俺たちは斜面を、上からではなく下から見ることにした。


 水が通っていた痕跡。


 石積みの切れ目。


 土の色。


 生えている草。


「草で分かるの?」


 ミラが尋ねる。


「湿ってる場所は、種類が変わることがある」


「水が出てなくても?」


「地面の下に水があれば」


 ネッサが先へ歩く。


 長い草を手で分け、葉の色と根元を確かめる。


「こちらは乾いています」


 窯の南側。


 低い草と硬い土。


「北側は苔が多い」


 窯の裏へ回ると、崩れた石壁の根元へ濃い緑色の苔が広がっていた。


「出口?」


「苔だけでは分かりません」


 ネッサは即座に否定した。


「窯の影で、日が当たりにくいだけかもしれません」


 印が一つあっても、答えにはならない。


     ◇


 壁の前に、細い糸を垂らす。


 ミラが糸の先へ小さな羽毛を結んだ。


「動かない」


「少し右」


 崩れた石の隙間を一つずつ確かめる。


 風が通っていれば、羽毛が揺れる。


「火を近づけた方が早くない?」


 ロイが言った。


「中に何がたまってるか分からない」


 俺は答えた。


「燃えるものがなくても、古い空気で火が消えることがあります」


 ドムが付け足す。


「人が入れば、同じように息ができなくなる」


「じゃあ、糸だけ?」


「先に安全な方法から」


 火を使えば早いかもしれない。


 だが、早く分かることと、安全に分かることは同じではない。


     ◇


 壁の北端。


 羽毛が、わずかに揺れた。


「今、動いた」


 ミラが息を止める。


 風ではないかと、全員が離れる。


 もう一度。


 羽毛が壁の方へ引かれた。


「中へ空気が吸われてる?」


「共同蔵側の蓋を開けたままにしているから、通り道ができている可能性があります」


 リゼが言った。


「ここが出口?」


「入口として使われていれば、どちらとも呼べます」


 表面は、石と土で塞がれている。


 だが、よく見ると周囲の石と積み方が違った。


 古い壁は、平たい石を横へ重ねている。


 風が出る場所だけ、小さな石を無理に詰めてあった。


「最近動かした跡がある」


 ドムが指す。


 石の角。


 苔が剥がれている。


 土も、周囲より乾いていない。


「昨日の雨が入った?」


「塞いだのが最近なら、土が締まっていない」


 石の間から、青い繊維が一本出ていた。


「箱にあった布と似てる」


 ミラが言う。


「触る前に記録」


 リゼが位置を描く。


 イルザが挟み具で繊維を取った。


「商会の包み布と同じとは、まだ決まりません」


「でも、誰かが布を詰めた?」


「石が動かないよう挟んだ可能性があります」


     ◇


 すぐには石を外さない。


 上の壁が、塞いだ石へ支えられているかもしれない。


 先に周囲を調べる。


 石の上へ木枠を組み、崩れた壁を仮に支える。


「出口を開けるだけなのに、ずいぶん大きいね」


 カイが言った。


「穴より上の石の方が重い」


 ガルドが答える。


「口を開けた瞬間、全部落ちたら人が埋まる」


 縦の柱。


 横の梁。


 斜めの支え。


「斜めの木、必要?」


「横から押されたときに倒れないようにする」


「壁は下へ落ちるんじゃないの?」


「崩れた石は、真下だけに落ちない」


 どちらへ動くか分からないものは、一方向だけ支えても足りない。


     ◇


 枠を組み終えたあと。


 最も小さな石から外す。


 一つ。


 二つ。


 奥に暗い隙間が現れた。


 冷たい空気が流れ出す。


「共同蔵では、空気が中へ入ってた」


 ミラが言う。


「こっちは出てくる?」


「高さと温度の違いで流れができているのかもしれない」


 通路は完全に塞がっていない。


「においは?」


 ネッサが離れた場所から確かめる。


「湿った土。蝋。少し、人の汗に似たにおいがあります」


「人?」


 カイが穴へ近づこうとする。


「縄の外」


 俺が止めた。


「中に誰かいるかもしれないんだぞ」


「だからこそ、崩さない」


「呼べばいい」


 カイが穴へ向かって声を上げた。


「誰かいるか!」


 返事はない。


 鳥の声。


 遠くの町の鐘。


 穴の奥からは、何も聞こえなかった。


     ◇


「灯りを下ろします」


 箱灯りを細い縄へつける。


 炎ではなく、淡く光る小さな照明石を入れた箱。


 この地方では高価だが、イルザが監査用に持ってきていた。


「それ、ずっと光るの?」


 ミラが尋ねる。


「半日ほどです」


「高い?」


「黒パン二十個ほど」


 カイが箱へ触れかけ、すぐ手を引いた。


「落とすなよ」


「落とさないために縄を二本つけます」


 主縄と、抜け止め。


 箱を穴へ入れる。


 石組みの天井。


 泥の床。


 人一人が屈んで通れる程度の幅。


 共同蔵側で見た通路と同じだ。


「奥は?」


「曲がってる」


 光が届くのは、六、七歩ほど。


 その先で通路は右へ曲がっていた。


「入らないと見えない」


 カイが言った。


「先に長い棒」


 ドムが継ぎ足した棒を差し込む。


 床。


 壁。


 天井。


 軽く触れ、崩れがないか確かめる。


 途中で、棒の先が何かへ当たった。


「石?」


 引く。


 もう一度。


 今度は、わずかに動いた。


「柔らかい」


 ドムの顔が変わる。


「布かもしれん」


     ◇


「もう一度、呼びかける」


 ハーレンが穴へ向く。


「中にいる者! 聞こえたら返事をしろ!」


 返事はない。


「石を叩けるなら、三回叩け!」


 ハーレンが入口の石を三回叩いた。


 コン。


 コン。


 コン。


 通路へ音が響く。


 しばらく待つ。


「何も」


 ミラが言いかけたとき。


 奥から。


 小さな音がした。


 コン。


 一度。


「今の、石が落ちた音?」


 ロイが尋ねる。


「もう一回」


 ハーレンが二回叩く。


 コン。


 コン。


 奥から。


 コン。


 コン。


 弱いが。


 同じ数だった。


「人がいる」


 カイが叫んだ。


     ◇


「俺が入る」


 カイが言う。


「駄目だ」


「俺なら小さい」


「だから駄目だ」


「大人より通りやすい!」


「崩れたとき、助けに行けない」


「中の人は、今も埋まってるかもしれない」


「分かってる」


「じゃあ!」


「カイ」


 ミラが赤い板を彼の前へ出した。


「止まって」


「何でお前まで」


「急いで、もう一人埋まったら遅くなる」


 カイは歯を食いしばる。


「待ってる間に死んだら?」


 誰も、絶対に大丈夫とは言えない。


「だから、待つんじゃない」


 俺は答えた。


「入れるようにする」


     ◇


 入口を少し広げる。


 ただし、上ではなく横へ。


 上の石を外せば、荷重が変わる。


 横の土を削り、木枠を延長する。


 通路の入口へ、短い支柱を一本ずつ入れる。


「こんな細い木で持つ?」


 ミラが尋ねる。


「一本で全部を持たせない」


 左右。


 上。


 短い間隔で枠を繰り返す。


「多く使うんだ」


「長く太い一本が入らない場所だから」


 大きな材料が使えなければ、小さなものを組み合わせる。


 ガルドが枠を確認する。


「これより奥は、触るまで分からん」


「誰が入る?」


 ベンが前へ出た。


「俺が行く」


 ドムと同じ石工だが、身体は少し細い。


「腰縄を二本」


 ハーレンが言う。


「一つは引き戻す縄。もう一つは合図」


「合図は?」


「一回、進む。二回、止める。三回、引け」


「声が聞こえなくなったら?」


「合図縄を使う」


「縄が動かなくなったら?」


「入った距離を測り、外側から掘る」


 最悪の場合まで決める。


 決めたからといって、起きなくなるわけではない。


 だが、起きてから相談する時間を減らせる。


     ◇


「ミラ」


 俺は呼んだ。


「何?」


「合図縄を見ていて」


「レオがやれば?」


「俺は入口の枠を見る」


「また別々?」


「同じ人を助ける」


 ミラが俺を見る。


 以前なら。


 俺は構造だけを見て、自分の近くへ人を置かなかった。


「縄が一回なら、進む。二回なら止める。三回なら引く」


「分かってる」


「少しでも変なら止めて」


「私が決めていい?」


「ああ」


「大人が進めって言っても?」


「ああ」


 ミラは合図縄を両手で握った。


「じゃあ、私が見てる」


     ◇


 ベンが通路へ入る。


 箱灯りを前へ押す。


 膝。


 肘。


 腰縄。


 入口から、身体が少しずつ見えなくなる。


「一歩」


 リゼが距離を記録する。


「二歩」


 合図縄が一度動く。


 進む。


「三歩」


 通路の曲がり角。


 ベンの足も見えなくなった。


 声が石へ反響する。


「布がある!」


「人か!」


「待て!」


 縄が二回動いた。


「止める!」


 ミラが声を上げる。


「何があった!」


「天井の石がずれてる!」


 誰も縄を引かない。


 止める合図は、戻せという意味ではない。


 その場で動かない。


「状態を言え!」


「石一枚! 下へ落ちかけてる! 人が、その先にいる!」


「触るな!」


 ガルドが怒鳴る。


「横を見ろ! 支えを入れられる隙間は!」


 少し間。


「右にある!」


「短い板を送る!」


 入口から、薄い板と短い支柱を押し込む。


 長い棒で奥へ送る。


「届いた!」


「先に板を天井へ当てろ! 支柱は真下じゃなく、少し手前!」


「入った!」


「揺れは?」


「ない!」


 合図縄が一度動く。


 進む。


「まだ」


 ミラが縄を押さえた。


「何だ?」


 ハーレンが尋ねる。


「一回だけど、強さが違った」


「ベンさん!」


「今のは、板を引いた!」


「合図じゃない!」


 声で確認してから進める。


 縄は、意図せず動くこともある。


 合図だと思い込めば、間違える。


     ◇


 再び一回。


 今度は、短く二度確かめるように引かれたあと、一回。


「進む」


 ミラが言った。


 ベンが曲がり角の先へ進む。


 しばらくして。


「いた!」


 声が響いた。


「男だ!」


「生きてるか!」


「息がある! 意識も少し!」


「動かせる?」


「足が石の下だ!」


 カイが穴へ向かって身を乗り出す。


「誰!?」


 ベンの声。


「肩掛け鞄の残りがある! 商会の伝令服だ!」


 イルザの顔が変わった。


「レムです!」


 彼女が穴へ叫ぶ。


「レム! 聞こえますか!」


 奥から、かすれた声が返る。


「……監査……」


「レム!」


「みず……」


     ◇


 すぐに水を渡すことはしなかった。


「何で!」


 カイが怒鳴る。


「一気に飲ませるな」


 治療師が答えた。


 捜索に備えて同行していた、町の治療師。


「長く水を飲んでいない者へ急に多く与えると、吐くことがあります」


「少しだけ?」


「布を湿らせ、口を濡らす」


 小さな水袋。


 湿らせた布。


 棒の先へ括り、ベンへ送る。


「意識を保たせてください」


 治療師が言う。


「名前を聞いて」


「レム!」


 ベンの声。


「名前を言えるか!」


「レム……ハース」


「何日いる!」


「分から……ない」


「足以外に痛い場所!」


「肩……頭……」


「眠らせるな!」


 質問を続ける。


 話せる。


 息もある。


 だが、声は弱い。


     ◇


 足を押さえている石を、すぐに持ち上げてはいけない。


 どこへ荷重が流れているか分からない。


 外すことで、上の石が落ちる可能性もある。


「石の形を説明して!」


 ドムが叫ぶ。


「平たい! 膝より下! 壁から落ちてる!」


「上の壁は?」


「一段抜けてる!」


「抜けた穴へ支えを入れる!」


 板。


 小さな楔。


 短い柱。


 狭い通路の中で組む。


「レムの足と石の間へ、布を入れろ」


「何のため?」


 ミラが尋ねる。


「動かすとき、石の角が直接当たらないようにする」


 助けるための動きが、別の傷を作らないようにする。


     ◇


 外では、時間を記録した。


 ベンが入ってから。


 レムを見つけてから。


 水を与えてから。


「時間なんて書いてる場合?」


 カイが言う。


「中の人が、どれくらい作業しているか分かる」


 疲れれば、判断が遅れる。


 狭い場所では、姿勢を変えられない。


「ベンさんを交代させる?」


「石を動かす前に、一度戻す」


 ハーレンが決めた。


「レムを置いて?」


「ベンが力を使い切った状態で石を動かす方が危ない」


 ベンへ説明する。


 本人は残ると言った。


「命令だ」


 ハーレンが答える。


「一度戻れ。次の者へ、直接状況を伝えろ」


 助けたい者ほど、残ろうとする。


 だから外から止める者がいる。


     ◇


 ベンが戻った。


 顔と腕は泥だらけ。


 息が荒い。


「奥の石組みは、一部崩れてる」


 地面へ簡単な図を描く。


「レムは横向き。右足首の上に板石。通路の奥から来たように見える」


「共同蔵側から?」


「頭が出口側。足が共同蔵側だ」


「出口へ向かってた?」


「たぶん」


「逃げてきた?」


「分からん」


 また、その言葉。


「近くにほかの人は?」


「見えない」


「足跡は?」


「泥が荒れてる。レム以外の跡もある」


「何人?」


「少なくとも、一人」


 斜面に突然現れた足跡。


 通路の出口から出て。


 ゲイルの背後へ近づいた人物。


「ゲイルさんが来たとき、誰もいなかった」


 ミラが言う。


「通路の中にいたなら、見えない」


 俺は答えた。


「ゲイルさんが一人で待ってるところへ、後ろから出た」


「音がして振り返った」


「それから何かが当たった」


 証言と足跡が、初めて同じ形になる。


     ◇


 交代したドムとベンが、石を動かすための手順を決めた。


 中へ入るのは、今度も一人。


 外から梃子を送る。


 石を高く持ち上げない。


 足が抜けるだけの隙間を作り、受け木を入れる。


「石を完全に退けないの?」


 カイが尋ねる。


「大きく動かすほど、周りも動く」


「少しでいい?」


「人の足が抜ければいい」


 直すことより。


 まず、逃げられる隙間を作る。


     ◇


 二人目の作業員が入り。


 レムへ腰縄をつけた。


 石へ梃子をかける。


「上げる!」


 合図縄が一度。


「少し!」


 外から支え縄を引く。


 石が動く音。


「隙間!」


「受けを入れろ!」


「入った!」


「足を抜く!」


 レムの声が、通路の中で漏れる。


 痛みをこらえる声。


 カイが拳を握った。


 ミラも合図縄を離さない。


「抜けた!」


「石を戻す!」


 完全には下ろさず、受け木へ荷重を戻す。


「レムを出口へ!」


     ◇


 頭が見えた。


 泥で固まった髪。


 青い伝令服。


 片方の肩から、鞄の切れた紐がぶら下がっている。


 顔は青白い。


 唇も乾いていた。


 腰縄を引きすぎず、本人の身体を板へ載せる。


「首を動かすな」


 治療師が言う。


「板ごと」


 入口から出た瞬間。


 カイが水袋を持って近づいた。


「少しだけだよな」


「口を濡らすだけ」


 治療師の指示どおり、布へ水を含ませる。


 カイがレムの唇へ当てた。


「もうちょっと」


 レムが呟く。


「あとで」


「水……」


「生きて出たら、ちゃんと飲める」


 カイの声が震えている。


「だから、今は少しだけ」


     ◇


 レムの右足は腫れていた。


 骨が外へ出るような傷はない。


 頭には、小さな打撲。


 両手首へ、赤黒い擦れ跡があった。


「縛られていた?」


 イルザが言う。


「今は質問しない」


 治療師が止めた。


「命に関わることだけ」


 名前。


 呼吸。


 痛む場所。


 最後に水を飲んだ時期。


「二日……」


 レムが答える。


「食べ物は?」


「パンを……少し」


 地下共同蔵の箱にあったパン。


「誰かが与えた?」


 治療師が尋ねる。


「置いて……あった」


「歩けますか」


「無理……」


「誰かに襲われましたか」


 これは、治療だけの質問ではない。


 だが、レムが自分から首を動かそうとした。


「報告……」


 イルザが膝をつく。


「報告書のことですか」


「俺は……本部に、届けてない」


 周囲の者が静かになる。


「途中で、止められた?」


 レムの喉が動く。


「馬車……商会の、臨時便だと」


「誰が乗っていましたか」


「知らない……男」


「顔は?」


「布……」


 呼吸が速くなる。


「もう話させないで」


 治療師がイルザを下がらせる。


 だがレムは、彼女の袖を弱くつかんだ。


「報告……読まれた」


「ヴァルクの報告書を?」


「違う紙を……入れられた」


「誰に」


 レムの指から力が抜ける。


「商会の印を……持ってた。でも……」


「でも?」


「商会の人じゃ、ない」


 それ以上は続かなかった。


 気を失ったのではない。


 疲れ切って目を閉じただけだと、治療師が確認する。


     ◇


 レムを町の治療所へ運ぶ。


 石灰窯の斜面を、戸板で下ろす。


 急な道では、頭側を上にする。


 四人で持つ。


 前後に一人ずつ、足元を確認する。


「ゲイルさんと同じ場所で見つかった」


 ミラが言った。


「ゲイルさんは外。レムさんは中」


「あの人は、二人を犯人にするつもりだった?」


「レムさんが消えれば、偽の報告を運んだことにできる」


「ゲイルさんが消えれば、火をつけて逃げたことにできる」


「どっちも、話せなくなる」


 姿を消した人間へ。


 残った者は、好きな理由をつけられる。


「でも、二人とも見つかった」


 カイが言った。


「ああ」


「出口を探したから?」


「足跡が、そこから始まってたから」


 逃げた者の足跡ではない。


 隠れていた者が外へ出た跡。


 そして。


 閉じ込められた者を助け出す道でもあった。


     ◇


 石灰窯の出口は、再び完全には塞がなかった。


 仮の扉をつける。


 鍵は、役場、商会監査、帰り火の三者で管理する。


 入口の周囲には、木枠を残す。


「通路は、これから全部調べる?」


 ミラが尋ねる。


「レムさんの状態と、奥の崩れを確認してから」


「共同蔵から入らない?」


「両方から少しずつ」


「一気に通らない?」


「途中に、まだ崩れた場所がある」


 道がつながっていると分かっても。


 すぐ通れるわけではない。


 出口が見つかったからといって。


 中にある危険が消えるわけでもない。


     ◇


 帰り火へ戻る前。


 斜面に残る足跡を、もう一度確認した。


 踵に細い横線。


 出口から始まり。


 斜面を上がり。


 ゲイルが倒れていた場所へ続く。


 そこから先は、硬い地面で消えている。


「この人、通路へ戻らなかった」


 ミラが言った。


「外へ逃げた」


「どっちへ?」


「町か、街道」


「靴だけじゃ分からない?」


「分からない」


 ただし。


 ゲイルの証言は、足跡と食い違っていなかった。


 ゲイルが窯へ着いたとき、そこには誰もいなかった。


 相手は、見える場所にはいなかった。


 地下で待っていた。


「ゲイルさん、嘘をついてなかった」


 カイが言う。


「このことについては」


 俺は答えた。


「全部、本当だったってことじゃない?」


「境界標を埋めたことは本当」


「丸太の楔も」


「一つが正しかったから、全部を信じない」


「一つ嘘をついたから、全部を嘘にもできない」


 ミラが言った。


「ああ」


 人を一つに決めない。


 証言も、一つずつ確かめる。


     ◇


 帰り道。


 カイは赤い停止板を持ったまま歩いていた。


「今日は使わなかったね」


 ルナが言った。


「使った」


「いつ?」


「俺が穴に入りそうになったとき、ミラが止めた」


「カイが止められたの?」


「ああ」


「嫌だった?」


「嫌だった」


「じゃあ、悪い停止?」


 カイは少し考える。


「たぶん、よかった」


「嫌なのに?」


「中へ入ってたら、レムさんと一緒に埋まってたかもしれない」


「かもしれないだけ?」


「止めたから分からない」


 以前、カイが縄の傷を見つけたときと同じだった。


 何も起きなかったから。


 止めなければ何が起きたかは、証明できない。


「でも、俺じゃなくて大人が入ったから、レムさんを助けられた」


 赤い板は。


 仕事を遅らせるためではない。


 誰かを仲間外れにするためでもない。


 全員が戻るためにある。


     ◇


 夜。


 町の治療所から、レムは今夜を越えられそうだと連絡が届いた。


 足はひどく傷んでいるが。


 命に関わる状態ではない。


 ゲイルにも、レムが見つかったことが伝えられた。


 彼は長い間、何も言わなかったという。


 共同地図の横には、新しい事実が加えられた。


 ――古い排水路の出口を発見。


 ――出口から、ゲイル以外の足跡が続いていた。


 ――通路内でレムを発見。


 ――レムはヴァルクの報告を本部へ届けていない。


 ――何者かが報告書を差し替えた。


 ――差し替えた者は、商会の印を所持していた。


 そして。


 ――レムは、その者を商会の人間ではないと証言。


「商会の印を持ってるのに、商会の人じゃないって、どういうこと?」


 ミラが板を見る。


「盗んだ」


 カイが言う。


「借りた」


 サラが言う。


「昔、商会にいた」


 イルザが言う。


 いくつも可能性がある。


 どれも、まだ答えではない。


 ただ。


 木場と帰り火を争わせ。


 両方を土地から消そうとしていた者は。


 商会の中だけにいるとは限らなくなった。


 古い契約を知り。


 商会の印を使い。


 木場の見張りを調べ。


 西外仮宿の地下通路を知っている者。


 四十一年前の土地と。


 五年前の木場と。


 現在の帰り火。


 三つの時間をつなぐ誰かがいる。


 地下の道には。


 入口と出口があった。


 事件にも、出口があるはずだった。


 だが。


 外へ出るためには。


 まず、誰が入口を塞いだのかを知らなければならない。

お読みいただきありがとうございます。


古い排水路の出口は、ゲイルが倒れていた石灰窯の斜面につながっていました。


通路内からは、行方不明だった商会伝令レムが生存した状態で発見されます。彼は、ヴァルクの報告書を本部へ届けておらず、何者かによって内容を差し替えられたと証言しました。


次回は回復したレムから詳しい事情を聞く一方、帰り火と木場の双方を立ち退かせたあと、この土地で何を始める予定だったのかを調べます。


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