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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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33/42

第三十三話 止めた手は、遅れではない

 木場で最も大きな長材の山は、近くで見ると家より高かった。


 積み方を示す札は古く、現在の本数と合っていない。止める判断に必要なのは、昔の札ではなく、目の前の荷重と支えの位置だった。


 太い丸太が、横へ六本。


 その上に五本。


 さらに四本。


 上へ行くほど本数を減らしながら、何段にも積まれている。


 最も長い材は、帰り火の家二軒分ほどある。


「これを、今日中に全部下ろすの?」


 ミラが見上げた。


「無理だ」


 ガルドが答える。


「予定では二日です」


 商会の作業責任者が作業板を示す。


「人員を増やせば、一日半で」


「増やさない」


 ハーレンが即座に言った。


「丸太の周りへ、人を詰め込んでどうする」


 長材の山の周囲には、立ってよい場所と、立ってはいけない場所が縄で示されている。


 丸太が転がる可能性のある側。


 縄が切れたときに跳ねる方向。


 荷車が入る道。


 下ろした丸太を置く場所。


 人の数を増やしても、安全に立てる場所は増えない。


「上から一本ずつ」


 ガルドが言った。


「先に丸太へ控え縄をかける。転がる方へ人を立たせるな。楔を抜く前に、縄を張れ」


「分かっています」


「昨日も分かってる奴が、荷の前へ入った」


 作業責任者が黙る。


「分かってるってのは、口じゃなくて足の位置で見せろ」


     ◇


 最初の一本へ、二本の太い縄をかけた。


 一方は荷車側。


 もう一方は木場中央の固定柱へ回す。


「両方とも引くの?」


 カイが尋ねる。


「片方で動かして、片方で動きすぎるのを止める」


 俺は答えた。


「止める縄?」


「ああ」


「引くためじゃない?」


「動かす道具と、止める道具を分ける」


 丸太を動かすだけなら、一方から強く引けばいい。


 だが、積み上がった丸太は、動き始めると自分の重さで転がる。


 力を加えることより。


 加えたあと、どこで止めるかの方が重要だった。


「人も同じ?」


 ミラが言った。


「何が?」


「始める人と、止める人」


 木場の作業。


 火災。


 町の契約。


 始める許可を出した人はいた。


 だが、途中で止める者はいなかった。


「同じかもしれない」


     ◇


 最上段の丸太は、ゆっくり動いた。


 縄を引く。


 木の軋む音。


 下の丸太との間に隙間ができる。


「楔、一本抜く!」


 声をかけてから、作業員が長い棒で楔を外す。


「離れろ!」


 丸太が半回転した。


 控え縄が張る。


 一瞬だけ強く軋んだが、それ以上は動かない。


 そこから少しずつ縄を緩め、地面へ組んだ受け台の上へ下ろす。


「一」


 ミラが記録板へ線を引いた。


「傷なし」


「縄の毛羽立ちは?」


 カイが確認する。


「荷車側、少し」


「交換?」


「次の一本を下ろす前に見る」


 成功したから、そのまま続けるのではない。


 一度使えば、道具の状態が変わる。


     ◇


 二本目。


 三本目。


 午前の鐘が鳴る前に、上段を下ろし終えた。


「この速さなら、予定より早い」


 オーデンが言った。


「慣れたころが危ない」


 ガルドが答える。


「最初より動きはいいだろ」


「だから、次も同じだと思う」


 下の段ほど、丸太は重い。


 上の重さを長く受けていた楔や受け木も傷んでいる。


「四本目から、やり方を変える」


「同じ山なのに?」


「下は同じじゃない」


 下段の丸太には、地面の湿気が上がる。


 虫に食われているかもしれない。


 五年間、上の荷重を受け続けた受け木が潰れている可能性もある。


「見えない場所ほど、同じだと思わない」


     ◇


 休憩の間。


 オーデンは下ろした丸太の横へ座り、銅貨を数えていた。


「昨日の金?」


 カイが尋ねる。


「今日の前払いも少し」


「何に使うの?」


「粉と塩」


「肉は?」


「木場がどうなるか分からないのに、買えるか」


 カイは少し考えて、自分の腰袋から乾燥豆を一つ取り出した。


「いる?」


「子どもから飯をもらうほど困ってない」


「一個だけだよ」


「もっといらない」


「じゃあ返して」


 オーデンは、手に載せられた豆を見た。


「何なんだ、お前」


「俺も、明日食べる物がないと怖かったから」


 カイとルナが帰り火へ来た頃。


 二人には、何もなかった。


「仕事がなくなるの、怖い?」


「怖くない奴がいるか」


「俺は前、盗んだ」


「知ってる」


「オーデンは盗まない?」


「まだな」


「まだ?」


「追い込まれたら、自分が何するかなんて分からん」


 オーデンは豆を口へ入れなかった。


 指で転がしている。


「だから、仕事があるうちに残したい」


「木場を?」


「ああ」


「帰り火の家より?」


「そういう聞き方をするな」


 オーデンの声が低くなる。


「家を守るために仕事がいるんだ」


     ◇


 作業を再開する。


 四本目の丸太には、三本の縄をかけた。


 荷車側。


 固定柱。


 横ずれを防ぐための補助縄。


「多すぎない?」


 若い作業員が言った。


「下の受け木が見えない」


 俺は積み山の隙間を覗く。


「少し潰れてる」


「五年持った」


「五年持ったから、今日も持つとは限らない」


 丸太の端へ、白い線を引く。


 作業開始前の位置。


 動き始めれば、線がずれる。


「そんな印、見る暇あるか?」


「動いてないと思ってるときに見る」


 目で分かるほど転がってからでは遅い。


     ◇


 楔へ長い棒をかける。


「張り、よし」


「退避、よし」


「荷車側、よし」


「抜く!」


 楔が外れる。


 丸太は動かない。


「もう一本」


 反対側の楔へ棒をかける。


 そのとき。


「止めて!」


 カイの声が響いた。


 赤い板が高く上がる。


 作業員の手が止まる。


「何だ!」


「縄!」


 カイが指す。


 固定柱側の縄。


 丸太の角に触れている部分から、細い繊維が一本ずつ切れていた。


「まだ切れてない」


 作業員が言う。


「だから止めた!」


 カイが怒鳴り返す。


 丸太は動いていない。


 楔も片側が残っている。


 今なら、縄を交換できる。


「作業中断」


 ハーレンが宣言した。


「控えを追加してから、傷んだ縄を外す」


「これくらいなら、次の一本まで使えます」


 商会の作業員が言った。


「その次まで使えるって、縄が言ったのか」


 ガルドが睨む。


     ◇


 新しい縄へ交換する。


 外した縄を見ると、表面だけではなく内側まで擦れていた。


 何本かの繊維は、半分近く切れている。


「この丸太を動かしたら」


 カイが言った。


「切れてた?」


「分からない」


 俺は答えた。


「切れなかったかもしれない」


「じゃあ、止めなくてもよかった?」


「切れたかもしれない」


「どっち」


「止めたから、分からないままにできた」


 事故が起きなかった。


 だから、止める必要がなかったように見える。


 けれど、危険を避けた結果は、何も起きないことだ。


「何も起きなかったなら、カイが正しかったか証明できない」


 ミラが言った。


「証明しなくていい」


 ハーレンが答えた。


「傷んだ縄を見つけた。それで十分だ」


「作業が遅れた」


 オーデンが呟く。


 カイの顔が曇る。


「でも」


 オーデンは外した縄を持ち上げた。


「これが切れたら、俺のいる側へ丸太が来た」


 彼はカイを見る。


「止めてくれて助かった」


 カイは、返事をせず赤い板を握り直した。


     ◇


 午前中に下ろせた丸太は、予定より二本少なかった。


 だが、怪我人はいない。


 昼の記録板には、


 ――作業停止一回。


 と書かれた。


「×?」


 ルナが尋ねる。


「○だ」


 オーデンが先に答えた。


「止められたから」


「遅れたのに?」


「遅れただけだ」


 少し前なら、オーデンは反対のことを言ったかもしれない。


「遅れは、あとで戻せる」


 彼は切れかけた縄を見る。


「潰れた足は、すぐ戻らん」


     ◇


 午後。


 長材の山は、半分ほどの高さになった。


 下段へ近づくにつれ、地面の状態が見えてくる。


「土が盛られてる」


 ドムが言った。


 最初の境界標が見つかった場所と同じ。


 周囲より土の色が明るい。


「ゲイルさんの証言どおり?」


 ミラが尋ねる。


「まだ石は出てない」


 表面を削る前に、残る丸太を下ろさなければならない。


「今日中に見える?」


「急がなければ」


 作業員たちが、俺を見る。


「急がない」


 俺は答えた。


「聞く前に言うようになったね」


 ミラが言った。


     ◇


 残り三段。


 最下段の丸太を押さえる楔が見えた。


「変だ」


 ガルドがしゃがむ。


「何が?」


「この受け木だけ、向きが違う」


 普通、受け木は丸太と直角に置く。


 荷重を広く地面へ伝え、転がりを防ぐためだ。


 だが一本だけ、斜めに入っている。


「あとから差した?」


「上へ積んだあとでは入らん」


「最初から?」


「地面の何かを避けた」


 受け木の先。


 土がわずかに沈んでいる。


「石を避けた?」


「その可能性はある」


 ゲイルは境界標を抜けず、土を盛ったと言った。


 石の上へ直接受け木を置かず、ずらしたのかもしれない。


「記録には?」


 五年前の木場設置日誌。


 イルザが持ってきた写しには、


 ――北積み場、地盤調整。受け台位置変更。


 とだけある。


「境界標とは書いてない」


「でも、位置を変えたことは残ってる」


 完全に消したわけではない。


 意味だけを変えた。


     ◇


 最下段の一本目を下ろす。


 丸太は地面へ近いため、転がる距離は短い。


 だが、上の荷重を受けた楔は食い込んでいた。


「抜けない」


「叩くな」


 ガルドが止める。


「反対から少し浮かせる」


 梃子を入れる。


 支点を置く。


 少しずつ力をかける。


「上がった」


「受けを入れろ」


 隙間へ薄い板を差す。


 もう一度。


 一度に持ち上げない。


 楔へかかる力が抜けたところで、横から引き出す。


「外れた!」


「退避!」


 縄を緩める。


 丸太がゆっくり下りる。


     ◇


 最後から二本目を下ろしたとき。


 土の中から、平らな石の角が見えた。


「石!」


 カイが声を上げる。


「近づくな」


 まだ一本残っている。


「でも、境界標だ」


「最後の丸太を安全に下ろしてから」


 見つけた物へ意識が向くと、今ある危険を忘れる。


 全員が石を見ている。


 俺は丸太を見る。


「作業の人以外、縄の外へ」


 住人たちを下がらせる。


「レオも」


 ミラが言った。


「俺は位置を」


「作業の人?」


 言葉に詰まる。


 縄を操作するのは、ガルドたち。


 俺は記録と確認。


 丸太のすぐそばに立つ必要はない。


「外へ出る」


 自分で決めた線を、自分だけ越えない。


     ◇


 最後の一本が下ろされた。


 長材の山があった場所には、潰れた土と受け木の跡が残った。


 そして。


 半分ほど土に埋まった石。


 最初に見つかったものと同じ幅。


 表面には、削られた三つの屋根。


 その下へ、横線。


「二つ目」


 ミラが呟いた。


 リゼが二本の境界標の位置を地図へ記す。


 線を結ぶ。


 木場の中央を横切り、さらに北へ延びる。


「西外仮宿の境界は、木場の半分以上を含んでいた可能性があります」


「可能性じゃないだろ」


 ベルンが言う。


「石が二つ並んでる」


「境界が直線とは限りません」


「まだ認めないのか」


「正しく認めるために確認しています」


     ◇


 ドムが二つ目の石の周囲を調べる。


「待て」


 刃先で土を軽く叩く。


 石の西側だけ、音が違う。


 乾いた、少し空いた音。


「下が空洞だ」


「穴?」


「石の横に、板石がある」


 土を薄く取り除く。


 境界標とは別の平たい石が、地面へ水平に置かれていた。


 端には、指をかけられる小さなくぼみ。


「蓋だ」


 ガルドが言った。


「開ける?」


 カイが身を乗り出す。


「すぐには開けない」


「また?」


「中に何があるか分からない」


 古い地下空間。


 腐った木。


 水。


 虫。


 空気。


「火を入れて確かめる?」


 商会の作業員が言った。


「駄目」


 俺は答えた。


 中に燃える気体がたまっていれば危険だ。


 何かの記録や布が残っていれば、火を入れた時点で失う。


「まず、少しだけ隙間を開ける」


「顔を近づけるな」


「風上に立つ」


「周りを囲う」


 蓋の上へ縄をかける。


 梃子で、指一本分だけ持ち上げる。


 冷たい空気が漏れた。


「においは?」


 ネッサが少し離れた場所で確かめる。


「湿った土。古い木。強い腐敗臭はありません」


 そのまましばらく待つ。


 隙間を少し広げる。


 中は暗い。


     ◇


 箱灯りを縄で吊り、穴の中へ下ろした。


 石組みの壁。


 深さは、大人の腰より少し下。


 底には木の板。


「地下室?」


 ミラが尋ねる。


「貯蔵穴だね」


 エナの声が震えた。


「知ってるの?」


「仮宿の共同蔵だよ」


 火事で家を失った者たちが、少しずつ持ち寄った食料。


 乾いた布。


 水桶。


 冬の薪。


「地面の下なら、火から守れるって」


 エナが言った。


「ここに入ったことある?」


「子どもは入るなと言われてた」


「何で?」


「大事な食べ物を盗むからさ」


 エナが少し笑う。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「最後の夜も、ここに水と布を置いた」


「火を消すため?」


「ああ」


 けれど、町の者たちが放った火を止めるには足りなかった。


     ◇


 蓋を全て開ける前に、周囲の土を支える。


 板石が動いたことで、縁が崩れる可能性がある。


 入口へ仮の枠を組む。


 空気を入れる。


 人が入るのは、そのあと。


「私が入ります」


 イルザが言った。


「監査役が?」


「商会の木場の下から出た場所です」


「中は狭い」


「だから私一人で」


「一人では駄目」


 ハーレンが止める。


「中へ入る者一人。入口で縄を持つ者二人。外で記録する者」


「大げさです」


「地下で倒れた者は、自分で助けを呼べん」


 最初に入ったのはドムだった。


 石組みの状態を確かめる。


「壁は持ってる」


 下から声がする。


「天井は板石。大きな割れなし」


「床は?」


「乾いてる。奥に棚がある」


「最近使われた跡は?」


 少し間があった。


「ある」


     ◇


 ドムが上がる。


 靴の裏には、薄い灰色の土。


「何があった?」


「古い場所だが、埃が全部同じじゃない」


「誰かが歩いた?」


「棚の前だけ、薄い」


 次にイルザが入る。


 腰へ縄。


 手袋。


 記録用の板。


 中から、物を一つずつ渡す。


 最初は、古い木桶の破片。


 錆びた金具。


 硬くなった布。


 どれも四十一年前から残っていたように見える。


 その奥から。


「これは新しい」


 油を塗った小さな箱が出てきた。


 木は乾いている。


 金具の錆も少ない。


 箱の蓋には、印がない。


「開ける前に、外側を記録」


 リゼが大きさと傷を書く。


 鍵はかかっていない。


 蓋を持ち上げる。


 中には、折り畳まれた紙。


 青い布の切れ端。


 短い蝋燭。


 乾いたパン。


「誰か、ここにいた」


 カイが言った。


「いつまで?」


「パンを見る限り、かなり最近です」


 セナが受け取らずに覗く。


「二日か、三日。長くても五日くらい」


「火事の前」


 ミラが青い布を見る。


「火元と同じ?」


「比較しなければ分かりません」


 イルザは紙を広げた。


     ◇


 木場の簡単な見取り図。


 積み場。


 管理小屋。


 町側門。


 住居側の柵。


 見張り小屋。


 赤い線で、見張りの動く道が描かれている。


「これ」


 サラが指す。


「私が食事を届ける時間」


 日暮れ前。


 入口から見張りがいなくなる、短い時間。


 そこへ、丸がつけられている。


「火をつけた人が使った?」


「そのために調べた可能性がある」


 俺は答えた。


「木場の人しか知らない時間?」


「帰り火の住人も、毎日見ていれば分かる」


 決めつけない。


「ほかに何が書いてある?」


 紙の端。


 小さな文字。


 俺には読めない。


 リゼが声に出す。


「町側門。予備鍵。不在時は管理箱」


「鍵の場所まで」


 ヴァルクが低く言った。


「商会内部の者か?」


「木場で働いた者なら知る可能性があります」


 イルザが答える。


「でも、鍵がなくても入れたんじゃない?」


 ミラが地下の奥を見る。


「この穴に出口があるなら」


     ◇


 共同蔵の奥には、石組みの低い通路が続いていた。


 人が立って歩ける高さはない。


 大人なら、身体を屈めなければ進めない。


「排水路?」


 俺が尋ねる。


「貯蔵穴へ水が入らないよう、外へ逃がす道だろう」


 ドムが答えた。


 床は、わずかに西へ下がっている。


「どこへ出る?」


「昔の地形なら、石灰窯へ向かう谷側」


 ゲイルが倒れていた場所。


 皆の顔が変わる。


「つながってる?」


「まだ確かめていません」


「入ってみる?」


 カイが言った。


「今日は入らない」


「何で!」


「狭すぎる」


 壁の状態も分からない。


 途中で崩れているかもしれない。


 水や泥がたまっている可能性もある。


「子どもなら通れる」


「だから行かせない」


「俺、石工の手伝いしてる」


「手伝いと、古い穴へ一人で入るのは違う」


「縄をつければ」


「曲がりがあれば、引けない」


 カイは納得していない。


「出口から探す」


 俺は言った。


「石灰窯側の出口を見つけて、両方から状態を確認する」


「見つからなかったら?」


「中へ入る方法を考える」


「俺は?」


「外から探す方を手伝って」


 カイはしばらく黙ったあと、頷いた。


     ◇


 箱の中には、もう一つ小さな物があった。


 革の留め具。


 金属の輪。


「これ」


 イルザの若い書記が声を上げた。


「商会伝令の肩掛け鞄に使う金具です」


「レムの?」


 ヴァルクが尋ねる。


「本部の伝令には、同じ型が支給されています」


「名前はない?」


 金具の裏側。


 小さな傷。


 二本。


 その横に一点。


「管理符号?」


「違います」


 イルザが目を細める。


「個人の道具を区別するための刻みです」


「レムの刻みは?」


「二本と一点です」


 木場から本部へ報告を運んだ伝令。


 偽の内容が本部へ届いたあと、戻っていない人物。


「ここにいた?」


 ミラが尋ねる。


「少なくとも、彼の鞄の一部がここにあります」


「レムが火をつけた?」


「まだ決めない」


「じゃあ、レムも襲われた?」


「それも分からない」


 箱に入っていた。


 落ちたのではない。


 誰かが保管した。


 あるいは、隠した。


     ◇


 イルザが、箱の最後の紙を開いた。


 ほかより小さい。


 文字は三行。


「何て?」


 ヴァルクが尋ねる。


 イルザはすぐに読まなかった。


「イルザさん?」


「この文章は、商会の古い契約文です」


「土地の?」


「土地利用権の破棄を求める際に使います」


 リゼが隣から読む。


「居住者による重大な違反が確認された場合、試用期間を待たず、使用権を停止できる」


「放火」


 サラが言った。


「帰り火の住人が木場へ火をつけたことにすれば」


「一度の火事で、追い出せる」


 ベルンの拳が震える。


「誰が書いた」


「署名はありません」


「またか」


「ただし」


 イルザが紙を裏返す。


 裏には、数字。


 土地の広さ。


 金額。


「何の金?」


 俺が尋ねる。


「木場と帰り火を含む西側一帯を、一括で借り受ける場合の試算です」


「誰が?」


「相手の名は書かれていません」


「ドーレン商会が借りる?」


「この金額は、ドーレン商会の通常の土地利用計画より大きい」


 ヴァルクが言った。


「別の商人?」


「あるいは、もっと大きな開発」


 街道との接続。


 倉庫。


 町の拡張。


 この土地を欲しがっている者がいる。


 木場すら、残すつもりではなかったのかもしれない。


「商会も追い出される?」


 オーデンが尋ねた。


「帰り火だけじゃなく?」


「この試算が実際の計画なら」


 イルザが答える。


「現在の木場も、撤去対象になっていた可能性があります」


 住人と商会を争わせる。


 火事を起こす。


 帰り火の使用権を停止させる。


 契約違反の木場も移す。


 土地を一度、空にする。


「木場の人も、使われた?」


 カイが言った。


「住人を追い出す側だと思ってたのに」


 オーデンが、ベルンを見る。


 ベルンも何も言わない。


 二人とも。


 土地から消される側だったのかもしれない。


     ◇


「この地下蔵を、犯人が使っていたと発表しますか」


 イルザが尋ねた。


「誰に?」


「商会本部。町議会。住人全体」


「今すぐ全部見せる?」


 リゼは迷った。


 情報を出せば、疑いが広がる。


 レムが犯人だと決めつける者も出る。


 誰かが証拠を消しに来る可能性もある。


「場所は伏せる」


 ハーレンが言った。


「証拠が見つかったことだけ公開する」


「住人に隠すのか」


 ベルンが反発する。


「隠れ場所の入口を広めれば、夜中に誰かが入る」


「俺たちを信用しない?」


「全員を見張れないと言っている」


「商会には知らせる?」


「本部にも、詳細な位置は監査部だけ」


 イルザが答える。


「私も一人では管理しません」


「じゃあ誰が知る?」


「役場二名。商会監査二名。帰り火の代表二名」


「代表は?」


 サラとエナを見る者が多い。


「私は夜まで見張れないよ」


 エナが言った。


「サラさんと、もう一人」


「ベルン」


 サラが言った。


「俺?」


「あんたが一番、商会を疑ってる」


「だから?」


「隠したら、すぐ騒ぐだろ」


 ベルンは眉を寄せる。


「信用されてるのか、されてないのか分からんな」


「疑っても確かめられるようにするんだろ」


 カイが言った。


     ◇


 共同蔵の入口には、新しい蓋を仮置きした。


 古い板石は、元の位置と向きを記録して横へ置く。


 縄。


 封印。


 三つの記録板。


 役場。


 商会監査。


 帰り火。


「この場所、昔は人を守るためだったんだね」


 ミラが穴を見る。


「ああ」


「今は、火をつける人が隠れるために使った?」


「かもしれない」


「同じ場所なのに」


「場所は、使う人を選べない」


「家も?」


「たぶん」


 家は、人を守る。


 人を閉じ込めることもある。


 倉庫は、食料を守る。


 証拠を隠す場所にもなる。


 道は、人をつなぐ。


 軍隊を運ぶこともある。


「作った人が、ずっと決められるわけじゃない」


 俺は言った。


「じゃあ、作る意味ない?」


「使い方を変えにくくすることはできる」


「どうやって?」


「見えるようにする。記録を残す。誰か一人だけで決めさせない」


 完全には防げない。


 だが、勝手に変えられたとき。


 変えられたことに気づけるようにする。


     ◇


 夕方。


 今日の作業板へ、記録をつける。


 長材の山、解体完了。


 怪我人なし。


 作業停止一回。


 擦れた縄を交換。


 二つ目の境界標を発見。


 地下共同蔵を発見。


 最近使われた形跡あり。


「作業停止は○だよね」


 ルナが尋ねる。


「ああ」


 カイが自分で○を描いた。


「止めたから、誰も怪我しなかった」


 以前なら。


 作業が止まれば、遅れだった。


 予定どおりに進まなければ、失敗だった。


 けれど。


 危険を見つけて止めること。


 分からないものを、分からないまま残すこと。


 予定より少ない本数で終わること。


 それも、正しく進むために必要だった。


     ◇


 夜。


 ベルンと商会の監査員が、共同蔵の入口を見張っている。


 少し離れた場所では、オーデンが木場の火を見ていた。


 昨日まで、互いを疑っていた者たち。


 今も信用しているわけではない。


 けれど、一人では守らない。


 地下から見つかった紙には、帰り火だけでなく木場も消す可能性が書かれていた。


 争っていた二つの側が。


 同じ一枚の紙で、土地から外されようとしていた。


 誰が、この土地を欲しがっているのか。


 なぜ、今なのか。


 まだ分からない。


 ただ一つ。


 見張りの道。


 予備鍵。


 住人を追い出す契約文。


 伝令レムの鞄の金具。


 それらを隠した場所の奥には、古い排水路が続いていた。


 石灰窯の方角へ。


 ゲイルが倒れていた場所へ。


 翌朝。


 俺たちは、穴の中へ進むのではなく。


 外から、その出口を探すことにした。


 道は隠されていても。


 入口と出口のどちらかを残している。

お読みいただきありがとうございます。


長材の解体作業では、カイの緊急停止によって傷んだ縄が発見され、事故を未然に防ぐことができました。


丸太の下からは二つ目の境界標と、西外仮宿時代の地下共同蔵が発見されます。内部には木場の見取り図、帰り火の使用権停止に関する文書、行方不明の伝令レムの鞄の一部が残されていました。


次回は石灰窯側から古い排水路の出口を探します。そこで見つかる足跡は、ゲイルが語った「誰もいなかった」という証言と食い違い始めます。


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