第三十二話 埋めた境界は、なくならない
木場の移動は、丸太を運ぶことから始まらなかった。
最初に動かしたのは、人だった。
「そこは荷車の通り道です!」
リゼが赤い布を張る。
「止まってください!」
朝の帰り火。
町側の道へ出る荷車。
木場へ入る作業員。
仕事を見に集まった住人。
いつもの道に、いつもより多くの人が立っていた。
赤い四角は止まれ。
緑の三角は進め。
前に決めた合図だ。
だが今日は、一台の荷車が通り過ぎれば終わりではない。
木場から町側の臨時保管地へ、短材と端材を何度も運ぶ。
「一台ずつ!」
ハーレンが声を上げる。
「戻る荷車が門を出るまで、次を入れるな!」
「それでは時間がかかります」
商会の作業員が言った。
「時間を短くして事故を増やす気か」
「今日中に三山は移せと本部から」
「本部の指示より、現場の安全が先だ」
ハーレンは作業板へ大きく×をつけた。
同時進入、禁止。
長材、後回し。
楔の確認前に縄を外さない。
荷車が止まってから、人が近づく。
「書いてあるのに、また言うの?」
ルナが尋ねた。
「書いてあっても、見ない人がいる」
カイが答える。
「見ても、急ぐ人もいる」
俺は付け足した。
「じゃあ、ずっと言う?」
「必要な間は」
決まりを作っただけでは、人は守らない。
忘れる。
自分だけなら大丈夫だと思う。
急げと言われる。
だから、止める者が必要になる。
◇
最初に移すのは、住居区に近い樹皮と端材だった。
火がつけば燃えやすく、風に乗って飛ぶ。
「その縄、先に切るな!」
ガルドが怒鳴った。
若い作業員の手が止まる。
「荷が崩れません」
「崩れてから言う奴は、みんなそう言う」
端材の山は、大きな丸太ほど重くない。
だが形がそろっていない。
細い木。
曲がった木。
板の切れ端。
無理に束ねれば、隙間から抜け落ちる。
「下へ受けを入れろ」
「持ち上がりません」
「全部を一度に上げるな。端から少しずつだ」
梃子を差し込む。
短い木を支点にする。
浮いた隙間へ受け木を入れる。
もう一度、位置を変える。
「一気に持ち上げる方が早い」
作業員が言った。
「落ちたときも早いぞ」
ガルドの言葉に、誰も反論しなかった。
ゲイルが選んだ楔が割れた事故を、皆が覚えている。
◇
オーデンは、荷車の後ろで縄を締めていた。
以前より動きが速い。
木場で働き始めて、荷の扱いを覚えたのだろう。
「そっち、もう一巻き」
年上の作業員が言う。
「これで足りる」
「町までの道で揺れる」
「短材だぞ」
「短い方が跳ねる」
オーデンは少し迷い、縄をもう一度巻いた。
ベルンが柵の外から見ている。
「ずいぶん商会の言うことを聞くようになったな」
オーデンの手が止まった。
「仕事だから」
「帰り火を追い出そうとした商会の仕事か」
「俺を雇ったのも商会だ」
「偽の報告を出したのも商会だろ」
「誰が出したか、まだ分かってない」
「商会の印があった」
「帰り火の印だって、火事の柵に描かれてた!」
オーデンが振り返る。
「じゃあ、俺たちが火をつけたのか?」
「そうは言ってない」
「同じだろ!」
荷車の馬が首を振った。
声に驚いたらしい。
「止めろ!」
俺より先に、カイが赤い板を上げた。
御者が手綱を引く。
荷車が止まる。
「馬の前で怒鳴るな」
カイが言った。
「荷が動く」
オーデンは荷車の車輪と作業員の足元を見て、一歩道を空けた。
ベルンも黙る。
「言い争うなら、道から離れて」
ミラが二人を柵際へ押す。
「仕事中」
「子どもに言われるとはな」
ベルンが吐き捨てる。
「大人ができてないからでしょ」
◇
オーデンは縄へ戻った。
だが、手元が乱れている。
「一回ほどいて」
俺が言った。
「締まってる」
「二本が重なってる」
「これでも運べる」
「外側だけ締まって、中が緩む」
縄を解く。
木材の角に沿わせる。
荷の下を通し、反対側から引く。
「怒ってるときに結んだ縄は、あとで見る」
「何だよ、それ」
「手が急ぐから」
「俺は急いでない」
「じゃあ、確認してもいいだろ」
オーデンは何も言わず、結び直した。
「木場がなくなったら」
やがて、小さな声で言った。
「俺はどうなる」
「分からない」
「みんな、そればっかりだ」
「残すって約束はできない」
「帰り火は守るんだろ」
「守りたい」
「木場で働く俺は、帰り火じゃないのか」
返事に詰まる。
オーデンは帰り火の住人だ。
木場で働く者でもある。
二つの側へ分ければ、どちらにも入る。
「ベルンは、木場がなくなれば安心する」
「たぶん」
「俺は困る」
「ああ」
「どっちを選ぶ」
「今日、全部は選べない」
「逃げるのか」
「今日決めるのは、安全に運ぶこと」
「それで明日は?」
「今日の作業が終わったら、仕事のことを話す」
「また話すだけ?」
「商会と役場に、次の仕事を出させる」
「出なかったら?」
答えられない。
すると、オーデンが苦く笑った。
「正直だな」
「嘘を言っても、仕事は増えない」
「分かってるよ」
彼は結び直した縄を強く引いた。
「だから怖いんだ」
◇
二台目の荷車が出たあと。
住居区に最も近い端材の山を崩し始めた。
上から一本ずつ。
地面へ放らず、受け渡す。
短い材でも、足へ落ちれば骨を折る。
「下が柔らかい」
ドムが言った。
端材を退けた地面。
北側だけ、土の色が違う。
「雨の水が集まった?」
俺がしゃがむ。
「それだけじゃない」
ドムが足で地面を押した。
わずかに沈む。
「埋め戻してある」
「何か掘った跡?」
「昔の穴かもしれん」
木場を作ったときの柱穴。
古い溝。
捨て穴。
分からない。
「先に地面を確認する」
「今日は三山移す予定です」
商会の作業責任者が言った。
「下が抜けたら荷車ごと傾く」
「荷車は入れません。人で運びます」
「人の足が抜ける」
作業を止める。
周囲の端材をさらに退ける。
柔らかい範囲へ白い縄を張る。
「また止まった」
作業員が呟く。
「止めるために見てる」
ミラが答えた。
◇
表面の土を、薄く削る。
一度に深く掘らない。
地面の色が変わるところを追う。
暗い土。
明るい土。
小石の集まり。
「ここ、真っすぐ」
カイが言った。
明るい土の帯が、木場の奥へ延びている。
「昔の溝?」
「幅が狭い」
ドムが掘り進める。
刃先が、硬いものへ当たった。
石。
平らな上面。
「持ち上げるな」
ガルドが言う。
「周りから出す」
土を払う。
現れたのは、腕ほどの幅を持つ石だった。
地面へ縦に埋められている。
「杭?」
「石の境界標だ」
ドムが答えた。
表面には、削られた跡。
一度、何かの印が刻まれていた。
「読めない」
ミラが指で触れようとする。
「待って」
ネッサが止める。
柔らかい刷毛で土を払う。
斜めから光を当てる。
削られた線の下に、浅いくぼみが残っている。
三つの屋根。
その下に、横へ伸びる一本の線。
「西外仮宿の印」
エナが言った。
◇
作業場が静かになった。
エナは椅子へ座って見ていた。
今日は体調がよくない。
それでも、土地が動くところを見たいと言った。
「この石を知ってる?」
ミラが尋ねる。
「同じ印は知ってるよ」
「何の線?」
「仮宿の端に置かれてた石には、線があった」
「境界?」
「子どもの頃は、越えるなって言われた」
「外へ出るなって?」
エナが首を振る。
「反対さ」
「反対?」
「町の荷車や商人が、この線の中へ物を置かないように」
避難地。
家を失った者のために空けておく土地。
外から使う者が、勝手に狭めないための境界。
「今は、木場の中だ」
カイが言った。
石は、木場の柵よりずっと内側にある。
「木場が仮宿の土地へ入ってる?」
「一つだけでは分からない」
リゼが答える。
「境界標は、複数の石と線で範囲を示します」
「ほかも埋まってる?」
「可能性があります」
共同地図に残った三つの屋根。
抜かれた契約の付記。
そして、地面から出た石。
紙だけではない。
土地そのものに、昔の線が残っている。
◇
「作業を止めます」
リゼが宣言した。
「木場全体を?」
商会の責任者が顔を上げる。
「この境界が確認できるまで、地面へ荷重を加える作業は禁止します」
「端材の移動は防火のためです」
イルザが言う。
「住居区に近い燃えやすい物は、引き続き移動すべきです」
「境界標の周囲へ荷車は入れない」
「人力で、表面にある物だけ」
「土を掘らない」
「楔を打ち込まない」
「仮置きもしない」
条件を一つずつ決める。
「また遅れる」
オーデンが呟いた。
「でも、石の上へ丸太を置いたままにもできない」
俺は答えた。
「昔の石だろ」
「その昔の約束を、誰かが抜いた」
「石を守って、俺の仕事がなくなるのか」
「まだ決まってない」
「じゃあ、誰のための石だよ」
オーデンの声が大きくなる。
「死んだ人のためか?」
エナが、ゆっくり顔を上げた。
「生きてる人のためだよ」
オーデンが止まる。
「昔の人が、自分たちだけのために置いたんじゃない」
家を失う者は、また出る。
火事。
水害。
立ち退き。
戦。
「次に来る人が、勝手に追い出されないための石だった」
「でも、そのせいで」
「あんたの仕事がなくなるかもしれないね」
エナは否定しない。
「だから、石を捨てろとは言わない」
「じゃあ、俺に我慢しろって?」
「違うよ」
エナは、木場と帰り火を見渡した。
「石を残したまま、あんたの仕事も残す方法を考えなきゃならない」
「そんな都合のいい方法がある?」
「ないかもしれない」
また、分からない。
「でも、昔は誰も考えなかった。仮宿の人間を消せば、土地が空くと思った」
エナの目が細くなる。
「今度は、働く人間を消せば、正しくなると思うのかい」
◇
境界標の発見は、すぐにゲイルへ伝えられた。
治療師の許可を得て、ヴァルクとリゼが話を聞く。
俺とミラも、今回は小屋の中へ入った。
ゲイルは上半身を起こしていた。
顔色はまだ悪い。
左足は板で固定されている。
「三つ屋根の石が出た」
ヴァルクが言った。
ゲイルの目が動く。
「どこから」
「住居区側の端材置き場です」
「……そうか」
「知ってた?」
ミラが尋ねた。
ゲイルは答えない。
「知っていたのですね」
リゼが言った。
「同じ物かは分からん」
「五年前、木場を作ったときに見た?」
ゲイルの顎がわずかに下がる。
「見た」
小屋の空気が重くなった。
◇
「なぜ報告しなかった」
ヴァルクが尋ねる。
「報告した」
「誰に」
「本部から来た測量役だ」
「名前は?」
「オルセ・バラン」
イルザの記録には、すぐ照合できる名前らしい。
「何を言われた?」
「古い倉庫の境だと」
「西外仮宿の印があったはずです」
「俺は字も古い印も知らん」
「三つの屋根は見た?」
「見た」
「それを、なぜ埋めた」
「測量役が、木場の杭と干渉すると言った」
「だから?」
「抜けと」
「抜いたのか」
「抜けなかった」
石は深く埋められていた。
周囲を掘っても、底が見えない。
「時間がなかった。上だけ削って、土をかぶせた」
石の表面にある削り跡。
印を消したのは、後世の誰かではない。
五年前。
木場を作ったときだった。
「あなたが削った?」
リゼが尋ねる。
「ああ」
「命令されたから?」
「そうだ」
「おかしいと思わなかった?」
「古い石一つで作業を止めるのか」
ゲイルの声に、いつもの苛立ちが戻る。
「木場の開始日は決まってた。荷が来る。職人も雇ってた」
「契約を確認する時間は」
「俺は現場だ。紙は管理の仕事だ」
「現場で見つけた物を報告するのも仕事です」
「報告したと言っただろ!」
「埋めたことを記録した?」
ゲイルが黙る。
「測量役の口頭指示だけ?」
「作業日誌には、地中障害を処理と」
「境界標とは書かなかった」
「そう書けと言われた」
「従った」
「仕事を止めれば、損が出る!」
「だから印を削った?」
ミラの声は小さい。
ゲイルは彼女を見た。
丸太事故で腕を傷つけた子ども。
「石だと思った」
「石なら、印を消していいの?」
「分からなかったんだ!」
「分からないなら、残せばよかった」
ゲイルが言葉を失った。
◇
俺は、削られた境界標を思い出す。
ゲイルは、悪意を持って西外仮宿を消そうとしたわけではないのかもしれない。
意味を知らない。
期限がある。
上から指示された。
木場を始めなければならない。
だから、邪魔な石として処理した。
「ゲイルさん」
「何だ」
「ほかにも見つけた?」
長い沈黙。
「北の積み場」
「何が?」
「同じ石かは分からん」
「形は?」
「上が平らで、横に線があった」
「埋めた?」
「丸太の受け台を避けるため、土を盛った」
「どこ」
ゲイルが目を閉じる。
「一番大きい長材の山の下だ」
◇
一番大きな長材の山。
木場の中央。
太い丸太が何段にも積まれている。
火元からは遠い。
すぐに移動する予定ではなかった。
「今すぐ動かす?」
カイが尋ねる。
「駄目だ」
俺は答えた。
「下を見たい」
「長材は、楔と地面の確認が先」
「でも、石が」
「石より人が潰れない方が先」
ガルドが言った。
「探すために事故を起こすな」
積み方を記録する。
丸太の本数。
長さ。
太さ。
楔の位置。
受け木。
地面の傾き。
どの順番で下ろすか。
「二日はかかる」
作業責任者が言った。
「急げば一日」
「急がない」
「本部から人を増やせます」
「人数を増やしても、置き場がなければ邪魔になる」
作業する場所。
退避する場所。
下ろした丸太を置く場所。
人だけ増やせばよいわけではない。
「今日は計画だけ」
ハーレンが決めた。
「境界を確かめるために、明日から安全に解体する」
◇
「ゲイルの証言は信用できるのですか」
ベルンが言った。
共同地図の前。
住人と作業員が集まっている。
「自分が印を削ったって認めたんだぞ」
「今さら正直者のふりかもしれない」
「長材を動かして、何も出なかったら?」
「何も出ないことも記録します」
リゼが答える。
「出なければ、ゲイルの証言の信用が下がる」
「出たら?」
「木場の配置が、古い境界を無視して決められた可能性が高くなります」
「可能性じゃなく、無視したんだろ」
「境界標の位置を結んで、範囲を確認する必要があります」
点が一つでは、線にならない。
二つあれば方向が分かる。
三つあれば範囲が見えてくる。
「昔の土地を、全部帰り火が使える?」
サラが尋ねる。
「それも、まだ決まりません」
「何で」
「昔の境界と、現在の道路や町有地の区分が異なる可能性があります」
「石があっても?」
「石は重要な証拠です。でも、それだけで現在の権利すべてが決まるわけではありません」
「紙だけでも駄目。石だけでも駄目」
カイが言う。
「じゃあ、何なら決まる?」
「記録。現物。証言。今の法律。そして、現在暮らす人の状況」
リゼが一つずつ挙げる。
「多すぎる」
「土地は、多くの人が長く使うからです」
◇
イルザは本部へ追加の照会を出した。
五年前の測量役、オルセ・バラン。
木場設置時の作業記録。
境界標を地中障害と記した日誌。
土地契約部門の承認。
「オルセは今も商会にいる?」
ヴァルクが尋ねる。
「三年前に退職しています」
「どこへ?」
「東部支店の記録では、退職後に土地仲介業を始めています」
「この町に来る?」
「住所を確認中です」
「逃げるかも」
「罪があるとは、まだ決まっていません」
イルザは慎重だった。
「でも、聞かないと」
「当然です」
ヴァルクは、抜かれた契約書と境界標の写しを見る。
「私は、彼が作成した測量図を信じました」
「ヴァルクさんが木場へ来たのは?」
「設置後です。稼働管理を引き継ぎました」
「石を知らなかった?」
「はい」
「本当に?」
ベルンが聞く。
ヴァルクは怒らなかった。
「疑われて当然です」
自分の管理下。
自分の商会。
自分が示した契約書。
知らなかったと言うだけでは、住人は納得しない。
「ですから、私の着任時の記録も監査へ渡します」
「不利なものが出たら?」
「責任を負います」
「商会を辞める?」
「責任の形を、今決める話ではありません」
「逃げる言い方」
「辞めれば、すべて終わるわけではない」
ヴァルクが共同地図を見る。
「辞めて消えるより、直すところまでは残ります」
◇
午後の作業は、予定の三山には届かなかった。
移せたのは一山と半分。
だが、荷崩れはなかった。
怪我人も出なかった。
住居区に最も近い樹皮は、ほぼ片づいた。
「遅いけど、進んだ」
ミラが記録板へ○をつける。
「境界標が出たから△じゃない?」
カイが言う。
「作業は○。地面は△」
「同じ一日なのに?」
「分ける」
事故なし。
作業量は予定未満。
境界標を発見。
土地範囲は不明。
一つの印だけでは足りない。
「全部○か×にしたら、簡単なのに」
カイが言う。
「簡単すぎると、誰かが消える」
エナが答えた。
◇
夕方。
オーデンが、商会の責任者から賃金を受け取っていた。
一日分。
木場が止まった間の補償ではない。
今日働いた分。
「明日は?」
オーデンが尋ねる。
「長材の解体作業へ入ってもらう」
「その次は?」
「境界確認が終わるまで、安全作業は続く」
「終わったら?」
責任者が困った顔をする。
「まだ答えられない」
「そうか」
オーデンは銅貨を握る。
ベルンが近づいてきた。
「商会にしがみつくのか」
「今日の飯を買う」
「帰り火を追い出しかけた金で?」
「じゃあ、あんたが払うか」
「何だと」
「俺の家の食い物を、あんたが買うのか!」
二人の間へ、サラが入った。
「やめな」
「でも」
「木場を嫌うのは勝手だ。働く人まで嫌うな」
ベルンが眉を寄せる。
「こいつは商会の側に立ってる」
「オーデンは自分の家の側に立ってる」
「俺たちだって家を」
「だから同じだろ」
サラは二人を見る。
「失いたくないものが違うだけだ」
ベルンは作業賃の札へ目を落とした。怒りの向きと、今日ここで働いた事実は分けなければならない。
「木場を残すか消すかは、これから決める。でも、今日働いた金まで責めるな」
「商会が間違ってた」
「間違えた商会から、取れる金は取ればいい」
サラらしい答えだった。
◇
日が沈む前。
境界標の周りへ、小さな囲いを作った。
踏まれないため。
土を戻されないため。
雨水が穴へたまらないよう、周囲へ浅い溝も切った。
「石を掘り出さないの?」
ルナが尋ねる。
「全部は出さない」
「何で?」
「動かしたら、元の場所が分からなくなる」
境界標は、石そのものだけに意味があるわけではない。
どこへ立っていたか。
どちらを向いていたか。
ほかの標とどう並んでいたか。
場所も記録の一部だ。
「持っていかれたら?」
「見張る」
「また灯守り?」
「今度は石守り?」
カイが笑った。
「名前はあとで決めよう」
交代で見張る。
商会側一人。
住人側一人。
夜間は、木場全体の火の見張りと一緒に行う。
「商会だけでも、帰り火だけでも駄目?」
「どっちかだけだと、動かしたって疑われる」
「一緒なら?」
「二人とも疑われるかもしれない」
「意味ないじゃん」
「記録も残す」
見張りの交代時刻。
石の状態。
囲いの縄。
地面の変化。
「疑わなくていいようにするんじゃない」
エナが言った。
「疑っても確かめられるようにするんだよ」
◇
夜。
境界標へ箱灯りの光が当たる。
削られた三つの屋根。
完全には消えていない。
深く刻まれた部分だけが、五年分の土の下に残っていた。
ゲイルは、石を埋めた。
印を削った。
記録には、地中障害を処理とだけ書いた。
それは、彼一人の判断ではなかったのかもしれない。
上からの指示。
期限。
損失。
自分の役割ではないという考え。
どれも、したことを消す理由にはならない。
けれど、ゲイルだけを悪者にすれば。
命令した測量役。
確認しなかった商会。
承認した役場。
見つけられなかったヴァルク。
便利な木場を使ってきた町。
すべてが隠れる。
境界は、人と人の間に線を引く。
ここから内側。
ここから外側。
住人。
商会。
役場。
仕事を守りたい者。
家を守りたい者。
だが、実際の人間は線の上へ立つ。
オーデンは、帰り火の住人であり、木場の作業員だ。
サラはゲイルを許していないが、怪我をした彼を助けた。
ヴァルクは商会の人間だが、商会の記録を疑い始めている。
ゲイルは事故の責任を負う者であり、誰かに利用された可能性のある被害者でもある。
一つの側だけには分けられない。
地面に引かれた境界も。
人の中に引かれた境界も。
上から土をかければ、見えなくなる。
けれど、なくなりはしない。
翌朝から。
木場で最も大きな丸太の山を、一本ずつ下ろすことになった。
その下に、本当に二つ目の石があるのか。
まだ分からない。
ただ。
一つ目の境界標の線は、木場の中央へ向かっていた。
お読みいただきありがとうございます。
木場の地中から、西外仮宿の境界標が発見されました。ゲイルは五年前、商会本部の測量役から指示され、その印を削って埋めたことを認めます。
次回は巨大な長材の山を安全に解体し、二つ目の境界標を探します。しかし、丸太の下から現れるのは石だけではありません。




