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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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第三十一話 書かれた権利と、暮らした権利

 ドーレン商会本部の調査役が帰り火へ到着したのは、朝鐘を二つ過ぎたころだった。


 黒い箱馬車。


 二頭の馬。


 車体の側面には、ドーレン商会の印が銀色で描かれている。


 木材を運ぶ荷車とは違い、車輪の外側に薄い鉄板が巻かれていた。


「本部の馬車って、あんなに立派なの?」


 ミラが尋ねる。


「木場の利益で買ったんじゃないか」


 ベルンが不機嫌そうに答えた。


「町中の商売で得た金です」


 ヴァルクが反論する。


「ずいぶん詳しいな」


「私は商会の人間ですので」


「まだ商会側なんだな」


 ヴァルクは口を閉じた。


 これまでなら、契約や立場を説明したはずだ。


 だが今は、商会内部で使われる符号によってゲイルが呼び出され、木場の鍵がなくなっている。


 自分が所属する商会すら、完全には信用できないのかもしれない。


     ◇


 馬車から降りたのは、背の高い女性だった。


 四十歳前後。


 茶色い髪を後ろで強く結び、濃紺の上着を着ている。


 腰には剣ではなく、厚い革の書類入れ。


 その後ろから、若い書記と護衛が一人ずつ降りた。


「ドーレン商会監査部、イルザ・フェルンです」


 女性が名乗る。


「本件については、商会本部から独立した調査権限を与えられています」


「ただし、私が扱えるのは商会の帳簿、職員、契約に関する調査です。町の道路を封鎖したり、人を拘束したりする権限は町側にあります」


「ドーレンって名前じゃない」


 ルナがミラの後ろから言った。


「商会に勤めている者が、全員ドーレン家ではありません」


 イルザは子どもの言葉にも真面目に答えた。


「ヴァルク・セイン」


「はい」


「木場の管理記録、土地契約書、火災記録、鍵の管理板を提出してください」


「準備しています」


「ゲイル・オルダンは?」


「負傷し、仮住居で治療を受けています」


「意識は?」


「短時間であれば会話できます」


「先に火元を見ます」


 ゲイルを尋問するより、現場が先。


 俺と似ている。


 だがイルザは、火元へ向かう途中で足を止めた。


「負傷者は何名ですか」


「火災による軽傷一名。煙を吸った者が二名。ゲイルは別件で負傷しています」


「全員、治療を受けましたか」


「はい」


「費用負担は?」


「商会負担としました」


「記録してください」


 人を確認してから現場を見る。


 俺とは少し違った。


     ◇


 木場の火元は、縄で囲われている。


 焼けた樹皮。


 黒い土。


 油か樹脂の染み。


 火種らしい木片。


 焦げた青い布。


「青い布を」


 イルザが言った。


 ネッサが石の受け皿ごと差し出す。


「直接触らないでください」


「分かっています」


 イルザは自分の革鞄から、細い金属の挟み具を取り出した。


 焦げていない繊維。


 染料。


 革紐の結び目。


 一つずつ見る。


「この布に見覚えは?」


 ハーレンが尋ねる。


「あります」


 周囲の者が身構えた。


 イルザは自分の書類鞄を開く。


 中から、濃い青色の布袋を取り出した。


「商会本部で、封書を運ぶ際に使用する包み布です」


「同じ物?」


 ミラが尋ねる。


「色と織り方は似ています」


「じゃあ商会の人が火をつけた」


 カイが言う。


「まだ決まりません」


 イルザは即座に答えた。


「本部では、古くなった包み布を払い下げています。商人や工房へ流れた物もあるでしょう」


「染物工房にも?」


 トルンが尋ねる。


「可能性はあります」


「調べられる?」


「本部に残る使用記録と、払い下げ先を確認します」


 イルザは自分の青い布も、書記へ渡した。


「比較用として封をしてください」


「あなたの物も?」


 ベルンが言った。


「内部の者を調べるなら、私の所持品だけを除く理由はありません」


     ◇


 火元を一通り確認したあと。


 イルザは共同地図の前へ立った。


 現在の帰り火。


 木場。


 道路。


 排水。


 住人の印。


 削られた木場の印の下には、古い三つの屋根が残っている。


「西外仮宿」


 イルザが古い文字を読んだ。


「知ってるの?」


 ミラが尋ねる。


「商会本部の古い土地台帳に、名前だけ残っています」


 ヴァルクが振り返る。


「本部の台帳に?」


「あなたは見ていないのですか」


「現地契約書と、本部から送られた土地利用抄本だけです」


「抄本」


 イルザの声が硬くなる。


「原本ではなく?」


「土地契約の写しには、本部の照合印があります」


「出してください」


     ◇


 木場の管理小屋。


 机の上に、二つの契約書が並べられた。


 一つは、ヴァルクが保管していた現地用の写し。


 もう一つは、イルザが本部から持ってきた原本。


「同じじゃないの?」


 ミラが覗き込む。


 どちらも厚い紙。


 黒い文字。


 町と商会の印章。


 俺には、ほとんど読めない。


「ページの端を見てください」


 イルザが言った。


 現地用。


 一。


 二。


 三。


 数字ではなく、この世界のページ記号。


「次は?」


 リゼが数える。


「五番目です」


「四番目がない」


 紙を綴じている糸。


 中央付近だけ、色がわずかに違う。


「一度、糸を切って綴じ直しています」


 イルザが指で示す。


「契約書は、ページを抜けないよう一冊ごと封印されているはずです」


「照合印は本物です」


 ヴァルクが言った。


「印が本物でも、中身が完全とは限りません」


 イルザは原本を開く。


 抜けていた一枚。


 上部には、三つの屋根と長い横線の印。


「西外仮宿地に関する付記」


 リゼが読み上げる。


「何て書いてある?」


 カイが尋ねた。


 リゼは古い言葉を、現在の言葉へ直しながら読む。


「この土地は、町で火災、水害、戦乱その他の理由により住居を失った者が生じた場合、仮の居住地として優先的に使用する」


 全員が黙った。


「優先って?」


 ルナが尋ねる。


「木場より、家をなくした人が先に使えるということです」


「今の帰り火は?」


 サラが言った。


「住居を失った人ばかりではない」


「家を失った者。安全な住居を持たない者。退去によって住居を失う可能性がある者」


 リゼが下の項目を読む。


 カイとルナ。


 サラ。


 ベルン。


 正規の住居として認められていなかった小屋で暮らしていた者。


「私たちは、この条件に入る可能性があります」


 リゼが言った。


「可能性?」


 ベルンの声が尖る。


「正式な判断には、現在の制度との照合が必要です」


「また判断か」


「四十一年前の文言を、そのまま現在へ適用できるとは限りません」


「都合が悪くなったら、古いから無効?」


「そうは言っていません」


「木場の契約には使ったくせに」


 イルザが原本の次の行を指す。


「続きがあります」


     ◇


 仮宿として使っていない期間。


 町は土地を倉庫や資材置き場として貸し出せる。


 ただし。


「大量の乾燥木材、油、染料、燃えやすい廃材を常設する場合、仮宿区域との間に防火空地を設けること」


「防火空地?」


 俺が尋ねる。


「燃える物を置かない範囲です」


 イルザが答えた。


「どれくらい?」


「原文では、町の大人六十歩以上」


 現在の木場と住居区の間。


 最も近い家までは、六十歩もない。


「違反してる」


 ミラが言った。


「この配置は、付記の条件を満たしていません」


 イルザが認めた。


 ヴァルクの顔から血の気が引いていく。


「私は、その付記を受け取っていません」


「知らなかったから、責任はない?」


 ベルンが尋ねる。


「そうは言っていません」


 ヴァルクの声がかすれた。


「私は、契約書の写しが正しいと確認した上で計画を進めました」


「確認してないじゃないか」


「本部の照合印がありました」


「印を信じた」


「商会の正式な書類です」


「エナたちを石鳴村へ移したって書類にも、役場の印があった」


 ヴァルクが言葉を失う。


     ◇


「誰がページを抜いたのですか」


 リゼがイルザへ尋ねる。


「現時点では不明です」


「いつ?」


「現地用の写しが作成された時点か、その後」


「照合した人は?」


「照合印の管理番号から確認します」


「商会本部なら、すぐ分かる?」


「番号が正しく記録されていれば」


「正しくなかったら?」


 イルザは答えなかった。


 記録を調べるための記録自体が、間違っている可能性。


「この付記を、ヴァルクさん以外の商会の人は知ってた?」


 俺が尋ねる。


「土地契約部門。監査部。古い倉庫の処分を担当した者」


「木場をここに作る計画を承認した人は?」


「本部の地域事業部です」


「付記を確認しなかった?」


「確認した記録になっています」


「確認して、木場を認めた?」


「あるいは、付記のない写しだけを見た」


「どっち?」


「調べます」


 また、分からない。


 けれど、今度の分からないは商会の中心へ続いている。


     ◇


「木場は今日で終わりだ」


 ベルンが言った。


「契約違反なんだろ」


「少なくとも、現在の配置を続けることはできません」


 イルザが答える。


「では、撤去を」


 ヴァルクが口を開く。


「待って」


 俺は言った。


「何を待つ」


 ベルンが睨む。


「丸太を全部、今日動かすのは危険だ」


「また商会をかばうのか」


「積み場の楔が一度割れてる」


 安全確認をせず。


 急いで荷車へ積み。


 一度に道へ出せば。


 別の事故が起きる。


「木を残したら、また燃える」


「だから、見張りと防火帯を先に作る」


「契約にない木場を守るために?」


「家を守るためでもある」


 木場が燃えれば、帰り火も危ない。


「契約違反なら、すぐ出ていけ」


 住人の一人が声を上げる。


「昔、エナたちはどうされた?」


 俺は尋ねた。


 その男が黙る。


「役場の紙では、もういないことになってた。だから夜のうちに出された」


「商会と同じにするな」


「紙に権利がないと書いてあるから、すぐ追い出すのは同じだ」


「木場は人じゃない」


「そこで働く人がいる」


 オーデンが、俯いたまま立っている。


「俺は、昨日から仕事がない」


 声が小さい。


「木場が契約違反なら、俺が悪いのか」


「誰もそうは」


「木場をすぐ消せって言うなら、今日から金が入らない」


 家を壊された者。


 仕事を失う者。


 契約の誤りを作った者。


 知らずに働いた者。


 全員を、同じ責任にはできない。


     ◇


「木場の権利と、作業員の暮らしは分けます」


 イルザが言った。


「ドーレン商会は、停止期間中の直接雇用者へ最低賃金を支払います」


「日雇いは?」


 オーデンが尋ねる。


「契約上、保証の対象外です」


「やっぱり」


「ただし」


 イルザが続ける。


「木材の安全な移動、火災対策、現場整理に必要な作業へ、希望者を優先的に雇います」


「木場を片づける仕事?」


「はい」


「終わったら?」


「次の仕事を保証するとは、今は言えません」


 都合のいい約束をしない。


「正直だね」


 ミラが呟いた。


「できない約束を記録へ残せば、後の者が困ります」


 イルザはエナの方を見る。


 西外仮宿の記録を知っているらしい。


     ◇


「仮宿の付記が有効なら、この土地は帰り火のものになる?」


 カイが尋ねた。


「町の土地です」


 リゼが答える。


「帰り火の住人へ、所有権が移るわけではありません」


「また役場の土地?」


「ただし、仮住居として使用する権利は強くなります」


「追い出されにくい?」


「これまでよりは」


「十年の条件は?」


 帰り火は、一年間の試験。


 成功すれば残り九年。


「契約自体を見直す必要があります」


「また最初から?」


 サラが不安そうに言った。


「帰り火の承認を取り消すという意味ではありません」


「でも、変わるんだろ」


「木場と住居区が共存する前提が崩れました」


 リゼが共同地図を見る。


「別の前提で、土地利用を決め直します」


「今度は、何年?」


「町議会の判断です」


「四十一年前みたいに、春までって言われて三年待つ?」


 エナの話を聞いた住人たちが、役場を見る。


「期限を決めます」


 ハーレンが言った。


「いつまでに?」


「今日から二十日以内に、仮の土地利用案を提示します」


「決定じゃなく、案?」


「住人と商会の意見を聞くためです」


「また長くなる」


「急いで誤った紙を作るよりよい」


「でも、期限なしにもさせない」


 サラが言った。


「二十日。板に書いて」


 リゼが記録板へ日付を書く。


 数字の横に、昼と夜を二十個並べた印。


 文字を読めない者にも、期限が減っていくことが分かる。


     ◇


 イルザは、もう一通の書類を机へ置いた。


「火災のあと、本部へ届いた報告書です」


 ヴァルクが見る。


「私の報告ですか」


「あなたの管理符号が使われています」


「内容は?」


 イルザが読み上げる。


「仮設居住者による木場への放火が発生。共同使用は不可能と判断し、住居区の即時撤去を要請する」


 周囲の空気が凍る。


「俺たちが放火したって?」


 ベルンが前へ出る。


「私は、その報告を出していません」


 ヴァルクが言った。


「本物の報告は?」


「火災直後、犯人不明。原因調査中。木場を停止、と書きました」


「誰に渡した?」


「商会の使いへ」


「名前は?」


「レム」


「本部へ届いたのは、別の内容でした」


 イルザが二つ目の紙を出す。


「筆跡は?」


「報告本文は、商会書記が代筆する形式です。署名の代わりに管理符号を使います」


「符号を知ってる人なら変えられる」


「符号だけでは足りません」


 イルザが紙の下部を指す。


「緊急報告用の封印があります」


「本物?」


「本部の印です」


 ヴァルクの顔が強張る。


「使いは、どこに」


「本部へ報告を届けたあと、まだ戻っていません」


「また、人が消えた?」


 ルナが言った。


「所在を確認しています」


 ゲイル。


 今度は伝令のレム。


 ただしゲイルは見つかった。


「偽の報告を出した人は、帰り火を追い出したかった」


 ミラが言う。


「そう見える」


「火をつけた人と同じ?」


「まだ分からない」


 俺は答えた。


 だが。


 火災。


 西外仮宿の印。


 消えた契約書の一枚。


 住人による放火と断定した偽の報告。


 すべてが、帰り火の住人を土地から外す方向へ動いている。


     ◇


「商会は、この土地が欲しいのか」


 カイが尋ねた。


「木場のため?」


 イルザはすぐには答えなかった。


「現在の木場だけなら、ここまで危険な手段を取る利益は大きくありません」


「なら何がある?」


「調べなければ分かりません」


「木材以外?」


 木場の下。


 古い空堀。


 西外仮宿。


 埋められた水路。


 何かが隠れているのか。


「土地の価値は、地面だけでは決まりません」


 ヴァルクが言った。


「街道との接続。町の拡張。倉庫。税。将来の開発」


「この場所に、新しい道を通す?」


「計画は聞いていません」


「聞いてない計画が、またあるかもしれない」


 ベルンが言う。


 契約の一枚すら、ヴァルクは知らなかった。


「だから、商会の内部記録を監査します」


 イルザが答えた。


「土地利用計画、将来契約、役場との交渉、外部商人との取引」


「全部見せる?」


「商会の秘密に属するものは、すべて公開できません」


「都合が悪いところは隠す」


「公開しないことと、監査しないことは違います」


「俺たちには分からない」


「結果と、帰り火に関係する内容は説明します」


「また商会を信じろって?」


 イルザは、しばらくベルンを見る。


「信じなくて構いません」


 意外な答えだった。


「では、どうする」


「私が出した結論を、役場と住人側の記録と照合してください」


「三つ残す?」


 俺が尋ねる。


「商会の記録。役場の記録。帰り火の記録」


「どれかが変えられても、ほかが残る」


「はい」


 エナが言った。


 誰か一人へ記録を任せない。


 昔の名簿のように、一冊なくなれば人まで消える仕組みにしない。


     ◇


 午後。


 木場の一時安全計画を作った。


 すぐ撤去はしない。


 だが、今のまま置き続けることもできない。


 最初に、防火空地を確保する。


「六十歩全部は無理」


 俺は地図を見る。


 住居区と積み場の間。


 木場の敷地内だけでは、契約にある距離を取れない。


「最低限、柵際の端材と樹皮をすべて移す」


「どこへ?」


「木場の中央」


「丸太がある」


「先に短材を荷車へ移す」


「荷車は木場の外へ出る?」


「町側の臨時保管地へ」


 イルザが本部所有の空地を提供すると言った。


「道路の許可は?」


「役場が時間を指定します」


 荷車と住人の道が交わる。


 以前作った横棒と合図。


 だが、今度は一日に何台も通る。


「朝と夕方に分ける」


「子どもの通る時間を避ける」


「長材は最後」


「楔は全部確認」


「腐りと虫穴」


「記録してから交換」


 事故を起こした木場を、安全に片づける。


 片づけるためにも、順番がいる。


     ◇


「契約違反の木を、俺たちも運ぶのか」


 ベルンが言った。


「雇われた人だけ」


「共同作業じゃない?」


「商会の仕事だ」


 俺は答えた。


「住人が手伝わないと遅れる」


「手伝うなら賃金を払う」


 イルザが言った。


「善意の共同作業として処理しません」


「商会の間違いだから?」


「はい」


「役場の間違いは?」


 リゼが答える。


「土地契約を確認せず木場の計画を承認した責任について、役場内で調査します」


「金を払う?」


「必要な費用負担は、町議会で決めます」


「また議会」


「私個人が、町の金を約束することはできません」


 できない約束をしない。


 ただし、逃げないよう期限を記録する。


     ◇


 木場の移動作業は、翌朝から始めることになった。


 今日は、すべての積み場を点検する。


 ゲイルが選んだ楔。


 別の作業員が選んだ楔。


 縄。


 受け木。


 地面の沈み。


「ゲイルさんにも聞く?」


 ミラが尋ねる。


「身体が戻ってから」


「木場のこと、全部知ってる」


「だから必要だ」


「怒ってるサラさんは?」


「助けることと許すことは別って言った」


「仕事を頼むことも?」


「別だと思う」


 怪我人。


 事故の責任者。


 現場を知る職人。


 一人の中に、いくつもの立場がある。


     ◇


 夕方。


 共同地図の横に、三枚の紙が並べられた。


 商会原本の付記。


 役場の確認記録。


 帰り火の住人向けに、絵と印で書いた内容。


 三つの屋根。


 空地。


 炎へ引かれた×。


 住人の家。


 木場の丸太。


 その間に、大きな空白。


「この白い場所が、防火空地?」


 ルナが尋ねる。


「ああ」


「何も建てないの?」


「燃える物を置かない」


「もったいない」


「何もないことが、役に立つ場所もある」


 建物を作らない。


 物を置かない。


 人が逃げる。


 火を止める。


 空白もまた、町を守るための場所になる。


     ◇


 ヴァルクは、現地用の契約書を見つめていた。


 抜かれた一枚。


 綴じ直された糸。


 正式な照合印。


「ヴァルクさん」


 俺が呼ぶ。


「何でしょう」


「木場を残したい?」


 少し前なら、迷わず肯定したはずだ。


「私の仕事は、この土地で木場と住居区を成立させることでした」


「今は?」


「前提が、誤っていました」


「じゃあ、全部やめる?」


「分かりません」


 ヴァルクが、その言葉を使った。


「木場が必要なことは変わりません。帰り火の住人に使用権がある可能性も高い。現在の配置は契約違反です」


「全部、本当」


「はい」


「どれを選ぶ?」


「選ぶ前に、誰が契約書を変えたか確かめます」


「また物から見る?」


 ミラが横から言った。


 ヴァルクは、少し考える。


「同時に、仕事を失う者と、家を失うことを恐れる者の話も聞きます」


「少し変わったね」


「皆さんから、何度も言われましたので」


「信用できる分かった?」


 カイが尋ねる。


「結果で確認してください」


     ◇


 紙には、権利が書かれている。


 土地を使う権利。


 木場を置く権利。


 仮の家を建てる権利。


 だが、紙から一枚を抜けば、権利は最初からなかったように見える。


 正式な印を押せば、誤った内容でも正しく見える。


 西外仮宿の人々は、石鳴村へ移されたことにされた。


 帰り火の住人は、木場へ火をつけたことにされかけた。


 紙の上で人を動かすことは簡単だ。


 移送済み。


 退去。


 契約違反。


 使用権なし。


 けれど、実際の人は紙のようには動かない。


 家がある。


 仕事がある。


 怪我をした者がいる。


 帰る場所を失いたくない者がいる。


 木場の契約書から抜かれていた一枚には、昔の仮宿を守るための条件が残されていた。


 その一枚が見つかったからといって、今度は木場を一晩で消してよいわけではない。


 昔の間違いを正すために、別の人を同じように追い出せば。


 正しさの向きが変わっただけだ。


 俺は共同地図を見る。


 帰り火の家。


 木場。


 その間に描かれた、何もない白い帯。


 今まで、空いている土地を見ると何かを作りたくなった。


 家。


 道。


 溝。


 灯り。


 けれど、何も作らないと決めることも、町を作ることなのかもしれない。


 人と火の間。


 仕事と暮らしの間。


 正しいと言い張る二つの側の間。


 すぐには埋めない場所を残す。


 そこがなければ、互いの火は簡単に燃え移る。


 帰り火と木場の間には。


 初めて、何も置かない場所が描かれた。

お読みいただきありがとうございます。


木場の契約書からは、西外仮宿地を災害時の居住地として優先する付記と、防火空地を求める条項が抜き取られていました。


さらに、ヴァルクの名を使った偽の報告によって、帰り火の即時撤去が要請されていたことも判明します。


次回は木場の段階的な移動が始まり、作業中に地面の下から、現在の土地利用をさらに揺るがす古い境界標が発見されます。


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