第二十九話 火は、誰の味方もしない
「子どもと、歩けない人を先に離して!」
俺が叫ぶと、ミラがすぐに振り返った。
「カイ、ルナたちを共同地図の向こうへ!」
「分かった!」
「サラさんは住人を数えて!」
集合所の横へ決めていた火災時の退避線を、ミラが白い布で示す。説明より先に、住人たちはその印へ動いた。
火を消す前に、人を数える。
昨日までの俺なら、燃えている場所や風向きから先に見ていたかもしれない。
けれど、今は違う。
木場にいる人。
帰り火から駆けつけた人。
炎の近くに取り残された人。
全員が離れたかを確かめる。
「木場の作業員は三人!」
ヴァルクが答える。
「見張り二人と、管理小屋に一人です!」
「三人ともいる?」
「いる!」
「住人側は?」
「まだ数えてる!」
サラの声。
炎は、柵際に積まれた樹皮と細い端材から上がっていた。
腰より少し高い程度。
だが、火の粉が風に乗って木場の奥へ流れている。
その先には、乾燥中の木材が積み上げられていた。
火が移れば、桶の水だけでは止められない。
「水を運べ!」
商会の作業員が叫ぶ。
木場の排水溝。
共同の水桶。
見張り小屋に置かれていた火消し用の樽。
使える水を一か所へ集める。
「一列に並べ!」
ベルンが住人を並べた。
水を汲む者。
桶を渡す者。
空になった桶を戻す者。
荷車を動かしたときと同じように、一人ずつ役割を分ける。
「火へ全部かけろ!」
「待って!」
俺は先頭の男を止めた。
燃えている場所の根元。
炎の下に、濡れたように光るものが見えた。
「油かもしれない!」
「水をかけちゃ駄目なの?」
ミラが尋ねる。
「油が流れたら、火も広がる!」
少量なら水で冷やせることもある。
けれど、どれだけあるか分からない。
水面に油が浮けば、燃えたまま別の場所へ流れる。
「炎の上じゃなく、周りの木へ水をかける!」
「燃えてない木に?」
「先に濡らす!」
火を消すだけではない。
次に燃える物を、燃えにくくする。
「根元には土!」
木場の空地から、湿った土を運ぶ。
灰休めに使う平たい鋤。
長い柄のついた道具。
炎へ近づきすぎないよう、外側から土をかぶせる。
「風上から!」
ネッサが叫ぶ。
「煙の中へ入るな!」
炎の向こう側へ回ろうとした作業員を、ガルドが腕で止めた。
「端材を出します!」
「手で触るな!」
長い鉤を使う。
燃えていない樹皮を引き出し、火から離す。
一本。
二本。
三本。
積み重なっていた燃料を減らす。
炎が少し低くなる。
◇
「全員いた!」
サラが叫んだ。
「帰り火の住人は、ここに来た者が十四人! 子どもは全員、地図の向こう!」
「エナは?」
俺が尋ねる。
「家にいる! トルンがついてる!」
「ミラは?」
目の前にいる。
包帯を巻いた腕で桶を持とうとしていた。
「その腕で持つな」
「左手なら持てる」
「記録と人の確認を頼む」
「また遠ざけるの?」
一瞬、動きが止まる。
昨日なら、危ないから下がれと一方的に言っていた。
「炎を見ながら、誰がどこにいるか分かる人が必要なんだ」
「レオじゃ駄目?」
「俺は火の近くを見る」
「わたしは人を見る?」
「ああ」
ミラは炎と俺を交互に見る。
「分かった。でも、煙が濃くなったらレオも下がって」
「分かった」
「信用できる?」
「ミラに言われたら下がる」
「なら、見てる」
◇
木場の奥で、丸太を固定していた縄が火の粉を受けた。
「縄!」
カイが指を差す。
まだ炎は出ていない。
細い煙。
「濡れ布を!」
水へ浸した厚い布を、長い棒の先に掛ける。
縄と丸太の間へ押し当てる。
火の粉が消える。
「丸太の山へ水をかけ続けろ!」
ヴァルクが指示する。
「積み場の外側だけでいい! 上へ登るな!」
水が木の表面を流れる。
すべての丸太を濡らす必要はない。
火に近い面。
風下側。
火の粉が落ちる場所。
「端材をもっと離せ!」
ドムが鉤を使う。
湿った土で覆われた火元から、黒く焦げた樹皮が引き出される。
その下に、布の塊があった。
油を染み込ませたような布。
まだ赤く燃えている。
「それを水路へ入れるな!」
石の上へ出す。
上から土をかぶせる。
炎が消えた。
だが、布の中では熱が残っている。
「灰休めへ運ぶ?」
カイが尋ねる。
「木場の火と、住人の灰を混ぜない」
何が染み込んでいるか分からない。
染料。
油。
樹脂。
「別の石囲いを作る!」
灰休め場の横。
燃えた物専用の一時置き場。
石を並べ。
中へ焦げた布や樹皮を薄く広げる。
重ねれば、内部に熱が残る。
「煙が消えても、明日まで触らない!」
◇
炎は、次第に低くなった。
最後に残った小さな火へ、湿った土をかぶせる。
棒で土を広げる。
赤い場所が残っていないか。
煙が上がる場所はないか。
見える火がなくなっても、消火は終わりではない。
「火元を崩します」
商会の作業員が言った。
「一度に崩すな」
ガルドが止める。
「空気が入れば、また燃える」
外側から少しずつ。
湿った土を残しながら、焼けた樹皮を広げる。
中に赤い炭があれば、土を追加する。
「ここ!」
ミラが離れた場所から声を上げた。
火元の右側。
土をかぶせたはずの場所から、細い煙が出ている。
棒で探る。
小さな樹脂の塊が、まだ熱を持っていた。
「見つけた」
「煙がなくなるまで見るって言ったでしょ」
「ああ」
「一つ残ってた」
「助かった」
ミラは少しだけ胸を張った。
◇
「負傷者は?」
火が見えなくなってから、俺は尋ねた。
すぐ原因を調べたい。
焦げた布。
柵の印。
火のついた場所。
どれも気になる。
それでも、先に人を見る。
「大きな怪我はない」
サラが答える。
「商会の人が一人、腕に火の粉を受けた」
作業員の袖に、小さな穴が開いていた。
皮膚が赤くなっている。
「水で冷やした?」
「桶の水をかけた」
「きれいな水?」
「消火用の樽だ」
泥や木片が混じっている。
「井戸の水で洗い直す」
「この程度なら平気だ」
「あとから腫れるかもしれない」
ミラの腕を見落としたことを思い出す。
「先に洗う」
作業員は何か言おうとしたが、黙って頷いた。
「ほかは?」
「煙を吸った人が二人」
咳をしている。
風上へ移動。
服を緩める。
呼吸を確認。
「苦しい?」
「少し咳が出るだけだ」
「今夜まで続いたら、医者に見せる」
「金は?」
「消火中の負傷です」
ヴァルクが答える。
「商会が負担します」
「住人も?」
「消火へ参加した者も同じです」
ヴァルクの声は震えていない。
それでも、焦げた木材を見る目は硬かった。
◇
「今度は、こっちが家を焼かれるところだった」
オーデンが言った。
「木場だ」
ベルンが答える。
「家じゃない」
「俺の仕事場だ!」
「住む場所とは違う」
「だから燃えてもいいのか!」
「そんなことは言ってない!」
「同じだ!」
火が消えた途端。
人の声が戻ってきた。
「柵を見ろ!」
商会の作業員が叫ぶ。
炭で描かれた、三つの屋根。
その上の長い線。
「帰り火の奴がやったんだ!」
「証拠は?」
ベルンが睨む。
「こんな印を使ってるのは、お前たちだろ!」
「昨日まで誰も知らなかった!」
「知ったから描いたんだ!」
木場の作業員たちが、住人を見る。
住人たちは、互いの顔を見る。
西外仮宿の話を聞いた者。
管理会へ参加した者。
エナの過去を知った者。
「昨日、木場を出せって言ってた奴がいた」
オーデンがベルンを見る。
「また俺か」
「火事のあとも、木場を止めろって」
「俺が火をつけるなら、見張りに出ると思うか?」
「見張りだから、中へ入れた」
空気が一変する。
「お前……」
ベルンがオーデンへ近づく。
「二人とも止まって」
俺は間へ入った。
「火をつけた人と、木場を止めたい人が同じとは限らない」
「他に誰がいる!」
「分からない」
「また分からないか!」
ベルンの怒鳴り声。
「分からないまま、誰かを犯人にしない」
「じゃあ、全員の家を調べろ!」
商会の作業員が言った。
「油や布を隠してるかもしれない!」
「勝手に住人の家へ入るな」
俺は答えた。
「木場が燃やされたんだぞ!」
「だからって、全員を犯人にできない」
「一人は犯人だ!」
「帰り火の外から来た人かもしれない」
「門を通らずに?」
「木場には町側の入口もある」
ヴァルクが口を挟む。
「昨夜から閉鎖しています」
「鍵は?」
「見張りと管理責任者が持っています」
「誰?」
「今は関係者を確認します」
ヴァルクの返事が少し遅かった。
◇
「役場の許可なく、住居を捜索することは認めません」
ハーレンが言った。
「商会の土地が放火されたのです」
「商会は、役場の治安組織ではない」
「犯人が逃げます」
「木場と居住区の出口を記録します。必要であれば、門の見張りを増やします」
「誰も出すな」
ベルンが言った。
「俺たちを閉じ込めるのか」
サラが反発する。
「犯人を見つけるまでだ」
「子どもの仕事も、町へ行く人もいる」
「火をつけた奴が逃げるよりいい」
「四十一年前も、怖いからって人を閉じ込めたのかもしれないよ」
サラの言葉に、ベルンが黙る。
「被害に遭った側だから、何をしてもいいわけじゃない」
エナが、トルンに支えられて歩いてきた。
「エナ、外へ出て大丈夫?」
俺が尋ねる。
「火は消えたのでしょう」
「ああ。でも煙が残ってる」
「風上にいます」
エナは柵の印を見る。
表情がわずかに揺れた。
「この印を描いた者が、火をつけたとは限りません」
「同じ場所にある」
オーデンが言った。
「同じ場所にあることと、同じ人が行ったことは別です」
「かばうんですか」
「誰をかばえばよいのかも分かりません」
エナは、住人と作業員の両方を見る。
「傷つけられた者は、決して人を傷つけない。そんなことはありません」
「帰り火の誰かがやったって?」
カイが尋ねる。
「その可能性もあります」
カイの顔が強張る。
「ですが、疑われた者が犯人であるとも限りません」
「じゃあどうするの」
「事実と、想像を分けてください」
エナは俺を見る。
「家を調べるときと同じように」
◇
共同地図の横へ、大きな板を置いた。
上半分。
分かっていること。
下半分。
まだ分からないこと。
「最初は?」
ミラが炭を持つ。
「火が出た場所」
木場の柵際。
樹皮と端材の置き場。
「火元は一つ?」
ガルドが尋ねる。
焦げ跡を外側から確認する。
一番深く焼けている場所。
油のような跡。
布の塊。
「今のところ一つ」
ミラが描く。
「布に油か樹脂が染み込んでいた」
「まだ何か分からない」
ネッサが言った。
「油か樹脂のようなもの」
決めつけないよう、そのまま書く。
「火は自然に出た?」
サラが尋ねる。
「布の中に、火種が入ってる」
ガルドが焦げた塊を棒で開く。
中央に、細い木片。
先端だけが完全に炭になっている。
「誰かが火を入れた可能性が高い」
「可能性?」
「燃えた炭が偶然落ちた可能性は低い。だが、まだ断定はしない」
「火種を包んだように見える」
事実の板へ、
――布の中央に火種らしい木片。
下へ、
――誰が入れたか不明。
「柵の印」
炭で描かれている。
「火事の前からあった?」
「サラさんは?」
木場の見張りをしていた。
「夕方にはなかったと思う」
「絶対?」
「柵全部を見てたわけじゃない」
「発見したのは?」
「火が上がってから」
印が描かれた時刻は不明。
描いた者も不明。
火をつけた者と同じかも不明。
「事実が少ない」
カイが言った。
「だから、勝手な答えを増やさない」
◇
火元の周囲へ、細い縄を張った。
「入らない印」
赤い布。
踏み跡を増やさないためだ。
「もう、みんな踏んでる」
ベルンが言う。
消火のために、何人もの人が走った。
水。
土。
桶。
足跡は重なっている。
「残ってるものだけ見る」
「足跡で犯人は分からない?」
「今は難しい」
火元の地面は湿っていた。
昨日までの雨。
消火の水。
土を運んだ人の靴跡。
「柵の外は?」
印の下。
住居区側。
草が踏まれている。
「人が立った跡?」
「印を描くなら立つ」
「でも、火を見て集まった人もいる」
柵の内側。
樹皮の山の裏。
一か所だけ、深い足跡が残っていた。
「靴底が四角い」
ミラが言う。
「木場の作業靴?」
商会の作業員たちは、厚い底の靴を履いている。
住人にも同じような靴を持つ者はいる。
ベルン。
オーデン。
荷運びをする者。
「大きさは?」
「大人」
「男?」
「足の大きさだけじゃ決められない」
「また分からない」
「分からないことが分かった」
カイは不満そうだった。
けれど、板の「不明」の印を自分で描いた。
◇
焦げた布を、ネッサが長い棒で広げる。
「染料の臭いがする」
「染め布?」
「布ではなく、染める前に道具を拭いた物かもしれない」
黒く焼けているが、一部に濃い青色が残っていた。
「染物工房の布?」
全員がトルンを見る。
トルンは、東の染物工房から薪を運んでいる。
以前、染料のついた木を燃やし、その灰を溝へ捨てた。
「俺じゃない」
トルンがすぐに言った。
「まだ誰も、そうだとは」
「見ただろ」
「同じ布を持ってる?」
ベルンが尋ねる。
「工房にはある」
「持ち出せる?」
「掃除用の布は、捨てることもある」
「お前は、ごみを持ち帰ってただろ」
「燃やせる木だけだ!」
トルンの顔が赤くなる。
「灰で迷惑をかけた。だからって、今度も俺か!」
「落ち着いて」
俺が言う。
「この布が染物工房の物か調べる」
「同じだったら、俺が犯人?」
「違う。どこから来たかが分かるだけ」
「工房からなら、俺が疑われる」
「ほかにも出入りする人はいる」
「疑うのは同じだろ!」
トルンは拳を握る。
「俺は一度間違えた。それで、これから何か起きるたびに俺を見るのか」
誰も答えられない。
過去の失敗が、次の疑いになる。
「そうならないように、事実を分けてる」
俺は言った。
「トルンさんが灰を捨てたことと、今日の火は別」
「本当に別にするか?」
「ああ」
「信用できる分かったか?」
「記録へ書く」
俺は事実の板へ加えた。
――トルンが過去に灰を捨てたことは、今回の火災の証拠ではない。
「わざわざ書くのか」
「疑われたことも残す」
後で、都合よく忘れないために。
◇
焦げた布の中から、細い革紐が見つかった。
布を縛っていたらしい。
結び目が残っている。
「変わった結び方」
カイが言った。
「二回巻いて、端を内側へ入れてる」
木場の作業員が近づく。
「荷札の結び方だ」
「商会の?」
「長材につける札が外れないよう、この結び方をする」
ヴァルクの顔が険しくなる。
「商会の者なら全員できる?」
「運搬と荷受けの者は」
「外の人も?」
「商会から荷を受ける職人が、知っている場合はあります」
事実。
商会の荷札に使われる結び方。
不明。
結んだ者が商会の人間かどうか。
「布も木場にあった?」
端材を拭く布。
車軸の油を拭く布。
見張り小屋にもある。
「青い布は使わない」
作業員が答える。
「商会の布は白か灰色だ」
「染料があとからついた?」
「分からない」
また、不明。
◇
「門を調べます」
ヴァルクが言った。
木場には、住居区側の柵門。
森側の荷車入口。
町側の搬出口。
三つの出入口がある。
作業停止中。
荷車入口と搬出口は閉鎖。
住居区側は、見張りが出入りするときだけ開けていた。
「錠は?」
町側の門。
鉄の錠。
外見上、壊されていない。
「鍵なしで開けられる?」
ガルドが確認する。
「錠を壊さなければ難しい」
「柵を越えた?」
「大人なら越えられる高さです」
「荷物を持って?」
「小さな布なら」
森側。
こちらは木の横棒。
見張り小屋から見える位置。
「夜、見張りは?」
「商会の者が一人」
「寝てなかった?」
ベルンが尋ねる。
「交代時刻以外、持ち場を離れていません」
「本人が言ってるだけだ」
「住人の見張りも同じでしょう」
再び空気が尖る。
「見張りの記録を見る」
俺が言った。
「何時に、誰が、どこにいたか」
見張り小屋の板。
商会側は文字。
住人側は印。
夕鐘後。
サラの針。
商会作業員の名前。
次の交代。
トルンの薪。
商会の別の作業員。
「火を見つけたのは?」
サラが見張りから離れたあと。
トルンへ交代する少し前だった。
「サラさんは、なぜ持ち場を離れた?」
「娘へ食事を届けに行った」
「記録は?」
「ここ」
針の印の横。
小さな器。
「商会側の人は?」
「木場の奥を確認していた」
「同時に交差点から離れた?」
「少しの間だけ」
「その間、誰も入口を見てない?」
サラの顔が曇る。
「五十息くらいだ」
商会の作業員が答えた。
「見張りがいない時間があった」
「少しだけです」
「その少しで入れる?」
住居区側の門から火元まで。
走れば遠くない。
「入って、火をつけて、戻るには短い」
「先に火種を置いて、あとで燃えるようにした?」
ミラが尋ねる。
布。
油。
火種。
すぐ炎が上がるとは限らない。
「時間を遅らせる仕組み?」
細い木片の一部だけが燃えていた。
ゆっくり燃える縄や芯をつないだ可能性。
「危ないことを考えつくな」
ガルドが言う。
「考えないと、どう始まったか分からない」
「作り方を広めるな」
ミラは頷いた。
「記録には、遅れて燃える可能性だけ」
具体的な作り方は残さない。
◇
「商会側の鍵を確認します」
ヴァルクが見張り小屋へ入る。
壁の箱。
鍵の管理板。
町側門。
森側の倉庫。
油庫。
それぞれの鍵を掛ける場所がある。
「町側門の予備鍵がありません」
「誰が持ってる?」
ハーレンが尋ねる。
「管理責任者です」
「今の?」
「作業停止前までの管理責任者」
全員が、同じ名前を思い浮かべた。
「ゲイル?」
ミラが言った。
ヴァルクは答えなかった。
管理板の記録を確認する。
「昨日、現場責任から外した際に、返却を求めました」
「返した?」
「本人は、管理小屋の箱へ戻したと言いました」
「ない」
「はい」
「ゲイルさんは、今どこ?」
「町の宿舎にいるはずです」
「確認した?」
「今朝、出勤していません」
「仕事を外されたから?」
「本日は安全確認のため、作業員全員へ待機を命じています」
「待機場所は?」
「町側の宿舎です」
「そこにいる?」
ヴァルクは商会の男へ指示した。
「確認してきてください」
「今から?」
「走れ」
男が町側の門へ向かう。
ヴァルクは、鍵の箱を見つめたままだった。
◇
「ゲイルが火をつけた?」
ベルンが言った。
「まだ決まってない」
俺は答える。
「鍵を持ってる。住人を嫌ってた。責任者を外された」
「理由はある」
「なら犯人だ」
「それは理由じゃなく、疑う材料」
「何が違う」
「ゲイルさんが鍵を返したあと、誰かが取ったかもしれない」
「本人が嘘をついたかもしれない」
「どっちも分からない」
「またそれか」
「ここでゲイルさんを犯人にして、違ったら?」
「本人に聞けばいい」
「いない」
「逃げたんだろ」
「宿にいないと決まってない」
自分でも、繰り返しているように感じる。
分からない。
決めつけるな。
調べる。
それでも、今度はただ答えを遅らせているわけではない。
一人を犯人にした瞬間。
ほかの可能性を見なくなる。
サラの家の壁と同じだ。
木場の振動だけを見れば、短い留め木を見落とす。
古いひびだけを見れば、丸太を落とした責任を消してしまう。
「ゲイルさんが犯人じゃなかったら、次の火を止められない」
俺は言った。
「犯人だったら?」
「火をつけた方法と、入った道を確認する」
「捕まえるより先に?」
「捕まえて終わりにしたら、別の人が同じことをできる」
◇
町側の宿舎へ向かった男が戻るまで、木場の火元を見張る。
燃えた場所は、完全に冷えていない。
一度消えたように見えても、樹皮の中で熱が残る。
「半刻ごとに、棒を入れる」
「煙と熱を確認」
「夜まで?」
「少なくとも明日の朝まで」
「誰がやる?」
木場の作業員。
住人。
交代で二人ずつ。
「犯人が見張りに混じったら?」
カイが尋ねる。
「一人にしない」
「二人とも犯人なら?」
「全員疑ったら、何もできない」
カイは少し考える。
「印を残す」
「見張った人の?」
「確認した時間と、二人の印」
「異常があったら×」
「分からなかったら△」
帰り火で決めた記録。
今度は木場でも使う。
◇
「レオ」
ミラに呼ばれた。
「何?」
「腕」
昨日傷ついた右腕ではない。
俺の左手。
手の甲が赤くなっていた。
火元から樹皮を動かしたとき、熱い泥がかかったらしい。
「大丈夫」
「洗った?」
「まだ」
「人を先に見るんじゃなかったの?」
「俺も?」
「人でしょ」
ミラが井戸水を持ってくる。
「手を出して」
冷たい水。
赤い場所へ流す。
「痛い?」
「少し」
「どうして言わないの」
「消火中だった」
「火が消えたあとも言ってない」
「忘れてた」
「わたしの傷も、見れば分かるって言った」
「うん」
「自分のも見てないんだね」
「そうみたいだ」
ミラは布で水を拭く。
「レオが人を見るなら、レオを見る人も必要」
「ミラが?」
「仕事として」
「仕事だけ?」
口にしてから、昨日の「たち」を思い出した。
ミラの手が止まる。
「今は、そういうことを聞くときじゃない」
「ごめん」
「でも」
新しい布を軽く巻きながら、ミラが小さく言った。
「レオが火の中に入ったら、怒る」
「入らない」
「さっき近かった」
「次は下がる」
「信用される約束?」
「ミラに言われる前に、自分でも見る」
「少しだけ信用する」
◇
宿舎へ向かった男が戻ってきた。
一人だった。
「ゲイルは?」
ヴァルクが尋ねる。
「いません」
「いつから?」
「昨夜、宿へ戻っていないそうです」
「荷物は?」
「仕事着と寝具はあります。外套と作業靴がありません」
「町の門は?」
「昨夜、ゲイルらしい男が出た記録はありません」
「別の門?」
「北門と南門にも確認が必要です」
「宿舎の人は、何か見てない?」
「夕方、酒場へ行くと言ったそうです」
「酒場は?」
「来ていないと」
ベルンが鼻を鳴らす。
「逃げたな」
「まだです」
ヴァルク自身が答えた。
「鍵を持ち、姿が見えない。それだけです」
「商会も決めつけない?」
ミラが尋ねる。
「今、決めつければ、商会が最初からゲイルを犯人に仕立てたと言われます」
「信用のため?」
「それもあります」
ヴァルクは焦げた木場を見る。
「ゲイルが行ったのでなければ、真犯人を見逃します」
理由は一つでなくていい。
◇
日が昇り始める。
夜の火事が、朝の光の中で形を現す。
黒く焦げた樹皮。
土に埋められた火種。
水に濡れた木材。
柵の印。
踏み荒らされた地面。
燃えた範囲は小さい。
木場全体から見れば、ごく一部。
それでも、もし発見が遅れていたら。
もし風向きが反対だったら。
もし木材の縄へ火が移っていたら。
木場だけでは済まなかった。
帰り火の屋根。
共同地図。
サラの仮住まい。
エナとミラの家。
火は、誰が正しいかを選ばない。
被害を受けた者の火だから、商会の木だけを焼くわけではない。
商会の者がつけた火なら、住人を避けて燃えるわけでもない。
恨み。
恐怖。
利益。
どんな理由で火をつけても、炎は理由を知らない。
近くにある物を燃やし。
風が運ぶ先へ進むだけだ。
◇
共同地図の横。
分かっていることと、分からないことを書いた板。
俺は最後に一つ加えた。
――ゲイルが持っていた可能性のある門の鍵が見つからない。
その下。
――ゲイルの居場所は不明。
「犯人とは書かない?」
カイが尋ねる。
「書かない」
「逃げたのに」
「いなくなった理由も分からない」
「火をつけたあと、逃げたかもしれない」
「ああ」
「誰かに追われたかもしれない」
ミラが言った。
「事故に遭ったかもしれない」
サラが続ける。
「最初から、木場と関係なく町を出たかもしれない」
「全部書く?」
「全部は書かない」
「どうして?」
「可能性を増やしすぎても、事実が隠れる」
今分かっていることだけ。
鍵がない。
ゲイルがいない。
火がつけられた可能性が高い。
西外仮宿の印が描かれていた。
それらがつながるかどうかは、まだ分からない。
「ゲイルを探す」
ハーレンが言った。
「町の門、酒場、宿、以前の仕事仲間。役場から人を出します」
「帰り火の人も?」
カイが尋ねる。
「勝手に探し回らないでください」
「何で」
「見つけたとき、相手が危険な状態かもしれません」
「犯人だから?」
「負傷している可能性もある」
「役場だけ信用しろって?」
ハーレンは黙らなかった。
「信用できないなら、住人代表を一人同行させます」
「誰が行く?」
ベルンが前へ出ようとする。
「ベルンさんは駄目」
サラが止めた。
「何でだ」
「見つけたら殴る顔をしてる」
「殴らん」
「信用できない分かった」
ベルンが口を閉じる。
「私が行く」
サラが言った。
「家は?」
「今日は補強の準備だけだろ」
「娘さんは?」
「マーヤに頼む」
「昨日、木場で火が出たばかりです」
「だから行く」
自分の家を壊すきっかけを作った責任者。
その男が、木場を燃やしたかもしれない。
「問い詰めない?」
俺が尋ねる。
「見つけてから考える」
「先に決めて」
サラは少し考える。
「逃げたら追わない。刃物を持っていたら近づかない。話せる状態なら、役場の前で話す」
「家のことを聞かない?」
「聞きたいよ」
「でも?」
「今聞いたら、答えより先に怒る」
自分で分かっている。
「なら、サラさんがいい」
ハーレンも認めた。
◇
木場の火は消えた。
けれど、仕事を再開することはできない。
放火の可能性。
なくなった鍵。
消えた管理責任者。
そして、住人と商会の間に広がった疑い。
火元へ土をかけることはできても、疑いへ水をかけることはできない。
疑いを無理に消せば、見えない場所で熱を残す。
誰かを犯人にして覆えば、一度は静かになるかもしれない。
だが、その下に火種が残っていれば、また燃える。
焼けた樹皮を一枚ずつ広げたように。
分かっていることと、分からないことを分ける。
熱の残った場所を確かめる。
見えないからと、手を入れない。
人を傷つけずに開ける方法を探す。
それでも。
木場の門の鍵を持っていた男は、姿を消していた。
町の記録には、まだゲイルの名前がある。
木場の管理責任者。
昨日、職を外された男。
けれど、現在どこにいるかを示す印は、どこにもない。
四十一年前。
記録の上から人が消された土地で。
今度は一人の男が、実際の町から消えていた。
お読みいただきありがとうございます。
木場の火災は大きく広がる前に消し止められましたが、火元からは商会の荷札に使われる結び目が発見されました。
さらに、町側の門の予備鍵と、元現場責任者のゲイルが姿を消しています。
次回、サラは役場の捜索へ同行し、ゲイルが最後に目撃された場所をたどります。




