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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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28/36

第二十八話 燃えたのは、家だけではない

 エナの言葉のあと、誰もすぐには動けなかった。


 炉の中で、崩れた薪が赤く光っている。


 家を暖めるための火。


 料理をするための火。


 夜、帰る場所を知らせる火。


 同じものが、四十一年前には家を奪うために使われた。


「町の人が、火をつけたの?」


 ミラが尋ねた。


 声が小さい。


「ええ」


 エナは答えた。


「でも、どうして?」


 俺も聞きたかった。


 誰が。


 何のために。


 西外仮宿にいた二十七人は、その後どうなったのか。


 聞きたいことはいくつもある。


 それでも、すぐに問いを重ねるのは違う気がした。


「エナ」


「はい」


「今、話せる?」


 エナは俺を見る。


「話したくなければ、今日は――」


「いいえ」


 ゆっくりと首を横へ振った。


「今日、話します」


「無理しなくても」


「今まで、そう言って話さずにきました」


 エナは欠けた月の印へ指を置いた。


「話さなかったから、なかったことになったのかもしれません」


     ◇


 四十一年前。


 エナは、八歳だった。


 四十一年が過ぎた今、エナは四十九歳だ。病と飢えは、その年月以上に彼女を老いて見せていた。


 町の北通りで、大きな火災が起きた。


 最初に燃えたのは、染料を扱う工房だったという。


 火は油と乾いた布へ移り。


 風に押され。


 狭い通りの屋根から屋根へ飛んだ。


「母は、私の手を引いて逃げました」


「お父さんは?」


 ミラが尋ねる。


「火が出たとき、倉庫の中にいました」


 エナは少しだけ目を伏せた。


「外へは出られませんでした」


 記録に残っていた死者八名。


 その中の一人だった。


 俺は何も言わなかった。


 ミラも、それ以上は尋ねなかった。


「北通りで家を失った者は、町の外へ集められました」


 西側。


 古い空堀に近い、空いていた土地。


 壊れかけた倉庫と、兵士が使っていた小屋が残っていた。


 最初は、本当に仮の住まいだった。


「春までには、新しい家を用意すると言われました」


 町から板が運ばれた。


 古い布。


 欠けた器。


 食料。


 十二本の釘。


 役場の記録に残っていた物だ。


「最初の冬は、町の人もよく来ました」


 パンを持ってくる者。


 古着を渡す者。


 壊れた屋根を直す職人。


「全員が悪い人だったわけではありません」


 エナが言った。


「助けてくれた人も、たくさんいました」


 春になれば家へ戻れる。


 そう信じて、住人たちは仮宿で暮らした。


 だが春が来ても、北通りの再建は終わらなかった。


 土地の境界。


 借金。


 焼けた家の所有者。


 新しい道路。


 工房の許可。


 決めなければならないことが多く、家を失った者たちの戻る場所は後回しになった。


「二年目になると、仮宿へ来る人は減りました」


 食料の支給も少なくなった。


 住人たちは町へ働きに出た。


 洗濯。


 荷運び。


 修繕。


 薪拾い。


 子どもも、できる仕事をした。


「母は、縫い物をしていました」


 欠けた月の下にある三本の線。


「三本の線は、糸だったの?」


 ミラが尋ねる。


「母は、月と糸だと言っていました」


「何で月?」


「夜でも、手元へ月の光があれば縫えるから、と」


 サラの針とは違う。


 同じ縫い手でも、それぞれ自分の印を持っていた。


「文字を読めない人が多かった?」


「ええ。私の母も、名前を少し書けるだけでした」


 そこで暮らす者たちは、自分を示す木札を持った。


 食料を受け取るとき。


 仕事を分けるとき。


 炉を使う順番を決めるとき。


 板へ自分の印を掛けた。


「今の帰り火と同じだね」


 ミラが言う。


「そうですね」


「おばあちゃんは、知ってたから印を使ったの?」


 帰り火で、文字を読めない住人にも分かる印を使い始めた。


 最初に提案したのは俺だった。


 だがエナは、何も言わずそれを受け入れていた。


「似ているとは思いました」


「どうして言わなかったの?」


 エナはすぐには答えない。


「思い出したくなかったのです」


     ◇


 三年目。


 仮宿の井戸で、問題が起きた。


「水が、苦くなりました」


「灰が入った?」


「原因は分かりませんでした」


 雨のあと。


 井戸の水に黒い粒が混じった。


 飲んだ者の何人かが腹を壊し、熱を出した。


 町では噂が広がった。


 北通りの火災で焼けた木材には、魔染みが残っている。


 仮宿の住人が、その病を町へ持ち込んでいる。


「本当に魔染みだった?」


 俺が尋ねる。


「森番が見たわけではありません」


「医者は?」


「町の医者は、一度だけ来ました」


「何て?」


「井戸を使わず、水を煮るようにと」


 病の原因は断定されなかった。


 だが、原因が分からないことは、噂を止めなかった。


 仮宿の人間を店へ入れない者が増えた。


 仕事を断られる。


 子どもへ石を投げる者もいた。


「おばあちゃんも?」


 ミラの手が、自分の膝の上で握られる。


「私は、火事の子と呼ばれました」


「火事を起こしたのは、おばあちゃんじゃない」


「子どもは、そう言っても聞きません」


 大人も同じだったのかもしれない。


     ◇


 役場は、仮宿を閉鎖すると決めた。


 住人たちには、南の石鳴村へ移すと伝えられた。


「みんな、喜んだの?」


「喜んだ者もいました」


 仮宿より、きちんとした村。


 働く場所。


 畑。


 新しい家。


 少なくとも、そう説明された。


「母は信じませんでした」


「どうして?」


「二十七人を運ぶのに、来た荷車が二台だけだったからです」


 俺たちが役場で見た記録。


 荷車二台。


「荷物だけ先に運ぶと言われました」


 寝具。


 道具。


 共同の器。


 保存食。


 役場が管理すると言い、二台の荷車へ積んでいった。


「人は歩いて行く?」


「翌朝、別の荷車が来ると言われました」


 だが、その日の夕方。


 役場の若い書記が、仮宿へ来た。


 人目を避けるように。


「名前は?」


「分かりません」


「顔は?」


「覚えていません。暗かったので」


 書記は、仮宿のまとめ役へ短い布を渡した。


 そこに書かれていたのが、


 二十七名。


 移送未了。


 そして。


「夜、火を放つとの話あり」


 役場で読めなかった、消えた部分。


「火をつけるって、教えに来た?」


「ええ」


「役場の人なのに?」


「役場の決定ではないと言っていました」


「じゃあ誰が?」


「町の自警団と、北通りの商人たちです」


 仮宿を残せば、病が町へ広がる。


 家を焼かなければ、住人が戻ってくる。


 そう信じた者たちがいた。


「役場は止めなかった?」


 俺が尋ねる。


「管理官は、その夜だけ町を離れていました」


 バルデス・ロウ。


 西区管理官。


 閉鎖記録へ署名した男。


「逃げた?」


「分かりません」


「火をつけることを知ってた?」


「母は、知っていたはずだと言っていました」


 役場は、全員を石鳴村へ移したという記録を先に作った。


 その夜、仮宿に誰もいないことになれば。


 何が燃えても。


 誰が傷ついても。


 記録の上では、そこに人はいない。


     ◇


「みんな、逃げたの?」


 ミラが尋ねた。


「持てる物だけ持って、出ました」


「どこへ?」


「決まっていませんでした」


 町へ入ろうとしても、門番が止めた。


 南へ向かう道。


 森の端。


 古い石切り場。


 二十七人は、行き先もないまま仮宿を離れた。


「木札は?」


「母が集めました」


 住人たちの印。


 誰がいたかを示す、二十七枚。


「母は、役場の名簿がなくなることを知っていたの?」


「荷車へ、記録箱も積まれていたそうです」


 石鳴村へ運ぶためではない。


 仮宿に誰がいたかを、持ち去るため。


 母はそう考えた。


「だから木札を隠した」


「ええ」


 仮宿の共同建物。


 床下の小さな収納。


 陶器の筒。


「布も?」


「書記から受け取った布です」


「証拠を残した?」


「母は、いつか誰かが見つけると言いました」


 けれど、火をつけると知っている場所へ戻るのは危険だ。


「一人で戻ったの?」


「私もついていきました」


「八歳で?」


「離れたくなかったのです」


 エナと母は、列から外れた。


 暗い仮宿へ戻った。


 家々の炉は消されている。


 人の声もない。


 母は木札と布を筒へ入れた。


 粘土で栓をし。


 床下へ隠した。


「そのとき、火をつける人が来た?」


 ミラが尋ねる。


「松明の光が見えました」


 町側。


 十人を超える人影。


 荷車に油樽。


 長い棒。


「顔は見た?」


「何人かは知っていました」


 以前、パンを持ってきた人。


 屋根を直した人。


 北通りで店を持っていた人。


「助けてくれた人もいたのに」


「三年の間に、恐れるものが変わったのでしょう」


 火災直後は、家を失った人だった。


 病の噂が出たあとは、町へ災いを持ち込む人になった。


「同じ人なのに」


「同じ人です」


     ◇


 母は、エナを床下から離れさせた。


 建物の裏。


 古い空堀へ下りる道。


「母は一緒じゃなかった?」


「隣の小屋に、老いた女性が残っていることに気づいたのです」


 歩けない者はいないはずだった。


 全員避難したと思っていた。


 だが、一人だけ。


 高い熱を出し、意識の薄い女性が寝かされたままだった。


「何で置いていったの?」


「運んでいた者たちは、別の者が連れ出したと思っていました」


 人数を数える名簿がなかった。


 暗闇。


 急な退去。


 二十七人が別々に動いた。


 誰かが連れていると思った。


「母は助けに戻った」


 エナの声が少しずつ細くなる。


「私には、空堀を走れと言いました」


「おばあちゃんは?」


「動けませんでした」


 母が小屋へ入る。


 町の人々が火を放つ。


 乾いた屋根。


 古い布。


 油をかけられた壁。


 火は、あっという間に広がった。


「母は、女性を外へ出しました」


「助かった?」


「女性は」


 エナは一度、息を整えた。


「助かりました」


「お母さんも?」


 ミラの問い。


 答えは分かっているような気がした。


 それでも、エナが言うまで誰も口を挟まなかった。


「母も、外へは出ました」


 背中と腕に、火傷を負っていた。


 仮宿から逃げ。


 南へ向かう住人たちへ追いついた。


「治療は?」


「町へ戻れませんでした」


「医者は?」


「呼ぶお金もありませんでした」


 森の近くにある、空いた薪小屋。


 そこで三日間休んだ。


「母は、亡くなりました」


 ミラがエナの手を握った。


 エナは、その手を握り返す。


「ごめんなさい」


 ミラが言った。


「ミラが謝ることではありません」


「でも」


「聞いてくれて、ありがとう」


     ◇


 エナは、その後、石鳴村へは行かなかった。


 仮宿の住人たちはいくつかの集団に分かれた。


 町の南へ行った者。


 別の町へ向かった者。


 森の仕事に入った者。


「私は、母が助けた女性に育てられました」


 その女性が、エナへ針仕事と読み書きを教えた。


「おばあちゃんの、おばあちゃん?」


 ミラが尋ねる。


「血はつながっていません」


「でも、家族?」


「ええ」


 エナは少し笑った。


「家族でした」


 西外仮宿の人々が、その後どこへ行ったのか。


 全員は知らない。


 亡くなった者。


 別の名前で暮らした者。


 過去を話さなかった者。


「何で、この町へ戻ったの?」


 ミラが尋ねた。


「すぐに戻ったわけではありません」


 エナが再び町へ来たのは、大人になってから。


 仕事を得るため。


 家族を持つため。


 ここで起きたことを確かめるため。


「仮宿を探した?」


「探しました」


「見つからなかった?」


「倉庫になっていました」


 住居の石台は埋められ。


 共同炉は壊され。


 役場の記録では、全員が別の村へ移ったことになっていた。


「町の人に聞いた?」


「古い火事のことを話す者はいました」


「仮宿は?」


「誰も知りませんでした」


 知らない。


 覚えていない。


 聞いたことがない。


 同じ答え。


「だから、言わなくなったの?」


「ええ」


「でも、ここに住んだ」


 ミラは周囲を見る。


 レオが屋根を直し。


 ガルドが柱を認め。


 住人たちが帰り火と呼ぶようになった場所。


「偶然?」


「最初は、偶然だと思っていました」


 町外れの安い土地。


 古い小屋。


 ミラと二人で暮らせる場所。


「けれど、古い空堀を見たとき、気づきました」


「ここが仮宿だったって?」


「近い場所だと」


「どうして言わなかったの?」


 ミラの声に、少しだけ怒りが混じる。


「わたし、ずっとここに住んでたんだよ」


「すみません」


「謝ってほしいんじゃない」


 ミラが俺を見た。


 自分が言った言葉を思い出したのかもしれない。


「知りたかった」


「話せば、ミラがこの町を憎むと思いました」


「憎んだら駄目?」


「憎しみは、家より長く残ります」


「でも、知らないまま住むのも違う」


「そうですね」


 エナは否定しなかった。


「私も、間違えました」


 初めて聞いた。


 ガルドは自分の間違いを記録した。


 俺も溝の高さを間違えた。


 エナは、過去を話さなかったことを間違いだと言った。


「怖かったのです」


「話すのが?」


「ミラが、私と同じ夜を見ることが」


     ◇


 その夜は、ほとんど眠れなかった。


 隣ではミラがエナのそばにいる。


 何度か小さな声が聞こえた。


 昔のこと。


 母のこと。


 エナを育てた女性のこと。


 俺は話へ入らなかった。


 聞きたいことは、まだある。


 誰が火をつけたか。


 管理官が本当に知っていたのか。


 なぜ名簿が消えたのか。


 だが今夜は、記録を完成させるための時間ではない。


 エナが、自分の家族をミラへ返す時間だった。


     ◇


 朝。


 話をどこまで共有するか、エナへ尋ねた。


「住人全員へ話す必要はありません」


「古い記録は、帰り火の土地に関係する」


「私の母の死まで、話す必要がありますか」


「ない」


 俺は答えた。


「エナが話したい範囲だけ」


「役場には?」


「記録を直すには、証言がいる」


「また記録になりますね」


 エナの顔に、不安が浮かぶ。


「書かれた記録が、人を消した」


「ああ」


「私の言葉も、別の意味に使われるかもしれません」


 役場が昔の過ちを認めるため。


 商会を追い出すため。


 木場を攻撃する理由。


 何に使われるか分からない。


「先に、エナが確認する」


「何を?」


「リゼさんが書いたものを、読んでもらう」


「私が読めない言葉があれば?」


「全部説明してもらう。違ったら直す」


「役場の言葉へ変えすぎない?」


「エナの言い方も、そのまま残す」


 役場用の記録。


 エナの言葉。


 二つを並べる。


「レオさんが考えたのですか」


「昨日、測る目的を先に書くって決めたから」


 記録も同じだ。


 何のために使うのか。


 誰の言葉なのか。


 先に残す。


「分かりました」


 エナが頷いた。


「ただし、私が話していないことを、推測で書かないでください」


「約束する」


「信用される約束ですか」


 ミラが横から尋ねる。


「確認してもらう」


「なら、少し信用できる」


     ◇


 役場からリゼとハーレンが来た。


 木場側からはヴァルク。


 ガルド。


 サラ。


 カイとベルンも、住人代表として共同地図の前に集まった。


 エナが話したのは、すべてではない。


 西外仮宿に住んでいたこと。


 石鳴村へ移送されていないこと。


 夜、退去を命じられたこと。


 仮宿へ町の人間が火をつけたこと。


 母親を失ったことは話さなかった。


「役場が、嘘の記録を作った」


 ベルンが言った。


「四十一年前の記録です」


 ハーレンが答える。


「今の役場が作ったものではありません」


「同じ役場だろ」


「建物も職員も違う」


「印は同じだ」


 閉鎖記録には、町の印章が押されている。


「過去の職員がしたことを、現在の職員個人の責任にはできません」


 リゼが言った。


「しかし、誤った記録を現在も保管し、正しい記録として扱っていた責任は役場にあります」


「認めるのか」


「エナさんの証言と、発見された木札、布の記録を正式に調査します」


「調査が終わるまで、嘘かどうか決めない?」


 カイが尋ねる。


「証言だけで、すべてを断定することもできません」


「おばあちゃんが嘘をついてるって?」


 ミラが前へ出る。


「そうではありません」


「同じに聞こえる」


「ミラ」


 エナが止める。


「調べることは必要です」


「でも」


「私の記憶が、すべて正しいとも限りません」


「火をつけられたことも?」


「それは覚えています」


 エナはハーレンを見る。


「ですが、誰がどこまで知っていたかは、私には分かりません」


 管理官。


 役場。


 自警団。


 商人。


 全員が同じ考えだったとは限らない。


「役場が調べるの?」


 ベルンが尋ねる。


「自分たちの昔の失敗を、自分たちで?」


「町議会にも報告します」


 ハーレンが答えた。


「外部の記録官へ、確認を依頼します」


「いつ終わる」


「四十一年前の件です。時間が必要です」


「また待て?」


「すぐ結論を出して、再び誤った記録を作るよりよい」


「その間、木場は?」


 ベルンの問いに、話題が現在へ戻った。


「昔も、仮宿の人間を追い出して、建物を倉庫にした」


 西外仮宿。


 西倉庫。


 現在の木場。


「今も同じだ」


「同じではありません」


 ヴァルクが答える。


「商会は住居区の撤去を求めていません」


「最初は求めてただろ」


「土地利用を整理する前の話です」


「木場を残せば、そのうち家が邪魔になる」


「条件付きの共存案へ同意しています」


「昔も、春には家を用意するって言われた!」


 ベルンの声が大きくなる。


 エナの過去が、現在と重なり始めていた。


「だから木場を出せ」


 住人の一人が言った。


「役場も信用できない」


「木場を止めたままにしろ」


「いや」


 オーデンが反対する。


「また仕事の話か!」


「過去の役人が嘘をついたからって、今日の俺の仕事をなくすのか!」


「同じことが起きる前に止めるんだ!」


「起きてないことまで木場のせいにするな!」


 声が増える。


 エナの話が、真実を明らかにした。


 だが同時に、住人たちの怒りへ新しい燃料を与えている。


「静かにしてください」


 エナが言った。


 大きな声ではない。


 それでも、皆が止まった。


「私は、木場を焼いてほしくて話したのではありません」


「誰も焼くとは言ってない」


 ベルンが答える。


「顔が、あの夜の人たちと同じです」


 ベルンの口が閉じた。


「怖いものを、先になくせばよい。邪魔なものを消せば安心できる」


 エナは木場を見る。


「そう考えた人たちが、私たちの家へ火をつけました」


「木場は人じゃない」


「木場で働く人がいます」


 オーデンが俯く。


「昔の人たちと同じことをするために、私は話したのではありません」


     ◇


「じゃあ、どうすればいい」


 カイが尋ねた。


「また家を取られないために」


 エナはすぐに答えなかった。


「私には、分かりません」


「分からない?」


「四十一年前、私は子どもでした」


 今は年老いている。


 けれど、町と木場をどう共存させるかを決める職人ではない。


「ただ」


 エナは続ける。


「誰かを記録から消さないでください」


 住人。


 木場で働く者。


 町の役人。


 商会。


「名前を残す?」


 俺が尋ねる。


「名前と、言ったことを」


「全員の?」


「声の大きな人だけではなく」


 怒鳴れる者。


 文字を書ける者。


 役職を持つ者。


 その人たちだけが記録に残れば、ほかの人は最初からいなかったことになる。


「今の話し合いも、全部記録する」


 リゼが言った。


「木場に賛成する住人。反対する住人。条件付きで認める者」


「印でも残す」


 俺は共同地図の横へ新しい板を置く。


「木場を残したい人は丸、なくしたい人は×?」


「二つだけに分けるの?」


 ミラが尋ねた。


「駄目だ」


 同じ失敗。


「条件を書く」


「文字が書けない人は?」


「自分の印を掛けて、誰かに言葉を書いてもらう」


「書いた人が、言い方を変えたら?」


「本人に読み上げる」


 エナの証言と同じ。


「一度で終わらない」


 サラが言った。


「考えが変わる人もいる」


「日付をつける」


「前の意見も消さない?」


「残す」


 人の考えは変わる。


 変わったからといって、前に何を恐れていたかまで消してはいけない。


     ◇


 その日の管理会は、結論を出さなかった。


 木場は、もう一日停止。


 サラの家は、補強方法が決まるまで使用禁止。


 住人全員から、木場についての意見を集める。


 役場は、西外仮宿の調査を開始。


 エナの証言は、本人が確認するまで正式記録にしない。


「何も決まってない」


 ベルンが言った。


「止めることは決まった」


「二日だけだ」


「二日で、安全確認と意見集めをする」


「終わらなかったら?」


「延ばす」


「商会は認めるのか」


 ヴァルクは少し考えたあと、頷いた。


「条件なしでは認めません」


「条件?」


「停止中の木材保管と警備に、住居区からも人を出してください」


「何で俺たちが商会の木を守る」


「木場を止めた状態では、通常の作業員を減らします。丸太が動いた場合や、火災が起きた場合、住居区にも危険があります」


「商会だけで見ろ」


「人を配置する費用が増えれば、停止期間を短くする判断につながります」


 脅しではない。


 商会の事情。


「住人が見張れば、木場を残す側に数えられる?」


 サラが尋ねる。


「いいえ」


 ヴァルクが答えた。


「見張ることと、木場へ賛成することは別です」


「なら、私が一刻出る」


 家を壊されたサラが言った。


「サラ?」


 ベルンが驚く。


「また丸太が落ちたら、今度は先に知りたい」


 木場を守るためではない。


 家を守るために、木場を見る。


「俺も出る」


 カイが言った。


「子どもだけでは駄目です」


「何で」


「夜番です」


「昼なら?」


「大人と一緒なら」


「じゃあ昼」


 少しずつ、役割が決まる。


     ◇


 夕暮れ。


 共同地図の前に、木場への意見を残す板が置かれた。


 最初に印を掛けたのはオーデン。


 車輪の印。


 その横へ、リゼが言葉を書く。


 ――木場を残してほしい。仕事が必要。ただし、積み場の安全確認は必要。


 読み上げる。


「そのままでいい」


 次はベルン。


 天秤棒の印。


 ――木場を住居区から離してほしい。難しければ、音と振動を出す作業を大幅に減らすこと。


「大幅って、どれくらい?」


 リゼが尋ねる。


「俺にも分からん」


「では、そのまま書きます」


 分からないことも、分からないと残す。


 サラ。


 針の印。


 ――木場をすぐになくすことは求めない。家の補強、仮住まい、再発防止を先に決めてほしい。


 カイ。


 石の印。


 ――家を二度となくしたくない。木場が残るなら、住人も仕事を止められる仕組みが欲しい。


「仕事を止められる?」


 俺が尋ねる。


「危ないと思ったら、商会の人じゃなくても止められるようにする」


「子どもでも?」


「子どもだけなら、いたずらだと思われる」


「じゃあ、大人へ言う?」


「間に合わなかったら?」


 木の輪が転がったとき。


 丸太の楔が割れたとき。


「緊急停止の合図」


 ミラが言った。


「誰でも鳴らせる鐘」


「いたずらされたら?」


「鳴らした理由をあとで話す」


「間違いだったら?」


「間違えて止める方が、止めなくて怪我するよりいい」


 次の仕組みが見え始めた。


     ◇


 最後に、ミラが自分の印を掛けた。


 火花。


「何て書く?」


 リゼが尋ねる。


 ミラは木場を見る。


 共同地図を見る。


 エナを見る。


「木場を残すかは、まだ分からない」


「そのまま書きます」


「でも、怖いことを言った人を、怖いから消すのは嫌」


「木場のこと?」


「人も」


 リゼが書く。


 読み上げる。


 ミラは頷いた。


「レオは?」


 カイが尋ねる。


「俺も書くの?」


「住人だろ」


「地図を作った人じゃなく?」


「住んでる人として」


 自分の印。


 まだ決めていなかった。


 いつも俺は、文字を書こうとしていた。


「印がない」


「釘は?」


 ミラが言った。


「ガルドさんへ返してない釘」


 盗んだ八本。


 一つ返した。


 残り七本。


「借りたままの釘?」


「盗んだ」


「自分で言うんだ」


「忘れないため」


 リゼが、小さな釘の形を板へ描く。


「意見は?」


 木場。


 住人。


 役場。


 昔の仮宿。


 誰の側に立つのか。


「木場を残せる方法を探したい」


「やっぱり木場側?」


 カイが言う。


「続きがある」


 俺は答える。


「住人が危ないと言ったら、理由を聞く前でも一度止める仕組みが必要。止めたあとで調べる」


「前は先に調べるって言った」


「ああ」


「変えた?」


「人が傷つくかもしれないときは、先に止める」


「商会が困っても?」


「止めた理由が間違いなら、謝って仕事を再開する」


「誰が謝る?」


「止めた人と、仕組みを作った人」


「レオも?」


「ああ」


 リゼが書き。


 読み上げる。


「そのままでいい」


 釘の印を、板へ掛けた。


     ◇


 その夜。


 灯守りはトルンだった。


 木場の作業は止まっている。


 見張りは、サラと商会の作業員。


 住居区側には、小さな箱灯り。


 木場側の見張り小屋にも、一つ。


 いつもより静かな夜。


 俺は家の中で、エナの証言を写した紙を見ていた。


 文字は読めない。


 それでも、リゼに教わった四つだけは分かる。


 西。


 外。


 仮。


 宿。


「覚えてる?」


 ミラが尋ねる。


「西外仮宿」


「明日も読めた」


「覚えた?」


「まだ二日」


「リゼさんなら、もう少しって言うね」


 エナは眠っている。


 話したことで疲れたのだろう。


「おばあちゃん、ずっと一人で覚えてたんだね」


 ミラが言った。


「うん」


「わたし、何も知らなかった」


「怒ってる?」


「少し」


「エナに?」


「分からない」


 ミラは炉の火を見る。


「悲しいのかも」


「うん」


「レオは直そうとしないの?」


「直せない」


「珍しい」


「消えた人の名前は探せる」


「お母さんは戻らない」


「うん」


「家も?」


「同じ家は戻らない」


「じゃあ、何ができる?」


「なかったことにしない」


 それだけで足りるとは思えない。


 けれど、始めるならそこからだ。


     ◇


 突然、外で鐘が鳴った。


 カン。


 カン。


 カン。


 荷車の合図ではない。


 間隔が速い。


 何度も。


 激しく。


「何の鐘?」


 ミラが立ち上がる。


 外から声がした。


「火だ!」


 扉を開ける。


 夜の空へ、細い煙が上がっている。


 木場の方向。


「木場が燃えてる!」


 誰かが叫んだ。


 俺たちは走った。


 交差点を越える。


 見張り小屋の向こう。


 丸太の積み場ではない。


 柵際に積まれた樹皮と細い端材。


 その一角から、橙色の炎が上がっていた。


「水!」


「排水路から汲め!」


「丸太へ火を近づけるな!」


 サラが桶を持って走る。


 商会の作業員が端材を引き離す。


 ヴァルクが見張り小屋から飛び出してきた。


「どうして火が!」


「分からない!」


 風は、住居区側から木場へ向かっている。


 炎はまだ小さい。


 だが、その先には乾いた木材が山のようにある。


「消すのが先!」


 俺は叫んだ。


「原因はあとだ!」


 水桶が渡される。


 火へかける。


 白い蒸気。


 煙。


 焦げた匂い。


 エナが語った火とは違う。


 四十一年前の夜とは違う。


 そう思いたかった。


 けれど、炎のそば。


 木場の柵へ、炭で印が描かれていた。


 三つの屋根。


 その上に、一本の長い横線。


 西外仮宿の印。


 四十一年前に消えなかった火が。


 誰かの中で、今夜もう一度燃え始めていた。

お読みいただきありがとうございます。

ごめんなさい。更新遅れました。


エナの証言によって、西外仮宿が放火によって失われた過去が明らかになりました。


しかし、その過去を知った何者かが、今度は木場へ火を放ちます。

次回、消火活動と犯人捜しの中で、帰り火の住人たちは「被害を受けた側なら、何をしても許されるのか」を問われます。


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