第二十七話 消された名前にも、家がある
翌朝、共同地図の横へ置いた板には、一つだけ印が増えていた。
夜番の記録には、板へ触れた者の名はない。誰かが見張りの交代と交代の間を選び、文字ではなく印だけを残していた。
「文字じゃない」
ミラが箱灯りを持ち上げる。
夜露に濡れた小さな板。
そこには、三つの屋根のような形が描かれていた。
昨日、共同地図の下から現れた古い印と似ている。
ただし、三つの屋根の上には、長い横線が一本引かれていた。
「これ、何の意味?」
カイが尋ねる。
「地図を削った人が描いたのかな」
「名前はない」
「理由を書く板だった」
「理由が、この印?」
誰かが共同地図を削った。
その下から、かつてこの土地にあったらしい「西外仮宿」の印が現れた。
偶然ではないのかもしれない。
「昨日の夜、誰が灯守りだった?」
俺が尋ねる。
「ベルンさん」
ミラが灯守りの記録を見る。
「でも、途中でトルンさんと交代してる」
「何で?」
「荷運びの仕事で、朝が早いから」
ベルンが灯りを見ていたのは夕鐘から半刻ほど。
そのあと、トルンが引き継いだ。
「板へ近づいた人は?」
「何人もいる」
トルンが答えた。
「自分の印を確かめる人。夜帰りの札を掛ける人。俺が灰休めを見に行ってる間もあった」
「ずっと見てたわけじゃない?」
「灯守りは、地図だけを見張る仕事じゃない」
その通りだ。
「この印を、役場へ持っていく」
俺は板へ手を伸ばした。
「その前に」
ミラが止める。
「何?」
「サラさんの仕事場」
昨日、仮住まいとなる小屋へサラたちの荷物を運んだ。
だが、針仕事を再開するための作業台は、まだ作っていない。
「先に記録を調べた方が――」
「サラさんは、今日から仕事をしたいって言ってた」
「役場の記録は、逃げない」
「サラさんの注文には、期限がある」
昨日までの俺なら、古い印の意味をすぐ調べに行っていた。
誰かが地図を削った理由。
西外仮宿の記録。
この土地の過去。
気になって仕方がない。
「分かった」
俺は板から手を離した。
「サラさんのところを先にする」
「本当に?」
「今、必要なのはそっちだ」
ミラは少しだけ頷いた。
◇
サラたちが借りた小屋は、帰り火の東側にあった。
町へ向かう道に近く、もともとの家より木場から離れている。
ただし、内部は狭い。
壁際には、持ち主の寝具と箱が置かれていた。
サラの家から運んだ布や道具を入れると、歩ける場所はさらに減る。
「ここで仕事できる?」
俺が尋ねる。
「できるようにするしかないね」
サラが答えた。
南側に小さな窓。
光は入る。
だが、その下へ作業台を置くと、入口から寝床への通路を塞いでしまう。
「机を小さくする?」
ミラが尋ねる。
「布を広げられなくなる」
「使うときだけ広くする」
俺は、昨日運んだ棚板を見る。
落ちた棚。
板そのものは壊れていない。
「壁へ固定する机は?」
「この小屋は借り物だよ」
サラが言った。
「壁に穴を増やしたくない」
「脚を折り畳めるようにする」
「どうやって?」
普段は壁際へ立てる。
仕事のときだけ板を倒し、下から脚を出す。
鉄の蝶番はない。
代わりに、木の軸と縄を使う。
「板の一辺を、二本の柱で支える」
小屋の壁へ直接留めない。
床と天井の間へ、細い仮柱を二本立てる。
「天井を押しすぎたら、屋根が上がる」
ガルドが言う。
「石台と楔で、動かない程度」
仮柱へ作業板を取りつける。
使わないときは上へ上げ、縄で固定。
使うときは水平近くまで下ろし、折り畳んだ脚を立てる。
「布の重さだけ?」
「肘もつく」
サラが答える。
「娘が寄りかかるかもしれない」
「大人が腰掛ける可能性も」
ミラが付け加える。
「机に座るなって書けばいい」
「文字を読めない人もいる」
「座れないよう、幅を狭くする?」
「布が広げられない」
結局、人が腰掛けても急に落ちない強さを持たせる。
「正しく使う人だけを考えない」
ミラが言った。
「荷車の横棒と同じ」
「そうだな」
仮柱の間隔。
脚の位置。
板の反り。
一つずつ確認する。
◇
作業板を下ろす。
サラが布を広げる。
「高さは?」
「前より少し高い」
「脚を短くする?」
「これでいい。立って切るときは楽だ」
「座って縫うときは?」
低い椅子へ座る。
肘が少し上がる。
「長く使うと、肩が疲れる」
「椅子を高くする」
「娘も使う」
サラと娘では、身体の大きさが違う。
「足台を作る」
椅子を共通の高さにし、小さい人は足元に台。
「机は動かさない?」
「仮住まいだから、大きく変えない」
すべてを以前の家と同じにはできない。
だが、仕事ができる最低限の環境を作る。
「揺れは?」
ミラが、昨日作った記録具を仮柱へ取りつける。
糸。
重り。
炭。
円を描いた板。
「木場から離れた場所だから、比べられる」
「仮住まいまで測るの?」
サラが尋ねる。
「仕事へ影響する揺れが、どれくらいなのか見る」
「揺れが少なければ、このまま住めって言われない?」
サラの声に警戒が混じる。
「言わせない」
ミラが答えた。
俺より先だった。
「ここは仮の場所。サラさんの家を直す話とは別」
「記録にも書く」
俺も続ける。
「仮作業場で仕事ができたから、元の家へ戻さなくていいとはしない」
「ちゃんと書いておくれ」
「リゼさんに頼む」
測ったものは、使う人によって意味を変えられる。
木場から遠い小屋なら揺れない。
だからサラをここへ移せばよい。
そんな結論に使われる可能性もある。
「測る前に、何を決めるための記録か書く」
俺は仕事板へ加えた。
「それならいい」
サラは糸を針へ通す。
「仕事を始められる」
「今日の注文は?」
「子ども用の上着が二枚。明日の昼まで」
「間に合う?」
「話しかけなければね」
俺たちは小屋を出た。
「先に来てよかった?」
ミラが尋ねる。
「ああ」
「古い記録、気になってる顔してたけど」
「今も気になる」
「正直だね」
「でも、サラさんの仕事は今日だった」
古い記録は、過去の人の暮らし。
サラの作業台は、今ここにいる人の暮らし。
どちらも大事だ。
順番を決めることは、人の気持ちへ優劣をつけることではない。
今、待てないものから手をつける。
◇
役場の記録室は、以前入った会議室より暗かった。
窓が小さい。
火を使えば紙を燃やす危険があるため、昼でも箱灯りは置かれていない。
「全部、古い紙?」
ミラが棚を見上げる。
「町が保管しているものだけです」
リゼが答える。
「なくなった物も多い」
「どうして?」
「火災。水濡れ。虫。紛失。廃棄」
「勝手に捨てた?」
「古い記録を不要と判断した時代もあります」
帰り火で、ごみを分けた。
使えないと思って捨てた物が、あとで必要になることもある。
「西外仮宿」
リゼが古い索引帳を開く。
文字の形が今と違う。
俺には、一つも読めない。
「どこに書いてある?」
ミラが尋ねる。
「この列です」
「同じ字に見えない」
「昔は、書き方が違いました」
「リゼさんは読める?」
「すべてではありません」
役場の人でも読めない記録がある。
「レオさん」
「何?」
「これが現在の『西』です」
リゼが別の紙へ文字を書く。
次に、古い帳簿の文字を横へ写す。
「似てる?」
「線の向きが違う」
「形の一部は残っています」
「今、文字を教えるの?」
ミラが言った。
「記録を調べるなら、レオさんも読める方がよいでしょう」
「一日で?」
「一文字ずつです」
西。
外。
仮。
宿。
四つの文字を並べる。
「宿は、家と人?」
「よく気づきましたね」
上の部分が屋根。
下に人。
「人が屋根の下にいる?」
「古い形では、そうした意味が含まれたとも言われます」
文字にも、建物の形が残っている。
「これなら覚えられる」
「では、読んでください」
「西、外……」
三つ目で止まる。
「仮」
「仮」
「宿」
「宿」
「明日も読めたら、覚えたことにします」
「厳しい」
「一度見ただけで覚えたと言わないでください」
ガルドたちと同じだった。
◇
索引に従い、古い記録箱を探す。
箱の表面には、三つの屋根の印があった。
「同じ」
ミラが、朝の板を横へ置く。
三つの屋根。
上の長い横線まで同じ。
「西外仮宿の印?」
箱には文字を読めない人でも分かるよう、施設の印が描かれていたらしい。
「朝、これを描いた人は、この印を知ってる」
俺は言った。
「昨日、地図の下から出た印を見て、まねしただけかもしれません」
リゼが答える。
「上の横線は、昨日全部出てなかった」
共同地図の下から現れたのは、三つの屋根と丸い印。
その上の長い線は、現在の地図に隠れている。
「以前から知っていた可能性があります」
「昔の仮宿にいた人?」
「記録が古ければ、現在も生きているとは限りません」
「子どもや孫」
「誰かから聞いた者」
箱を開ける。
中には、数冊の薄い帳簿。
紙の束。
木の札。
ただし、保管状態は悪い。
端が虫に食われている。
湿って文字が滲んだ紙もある。
「最初の記録です」
リゼが慎重に開く。
「北通り大火の翌月。町外の仮宿を設置」
「北通り大火?」
「四十一年前、町の北側で起きた火災です」
「どれくらい燃えた?」
「住宅二十六棟、工房七棟」
「死んだ人は?」
リゼの指が止まる。
「死亡八名。行方不明三名」
直接見たわけではない。
四十一年前の記録。
それでも、部屋の空気が重くなる。
「家を失った人が、西外仮宿へ?」
「記録上は三十八名」
「屋根三つなのに?」
「三軒という意味ではなく、複数の仮住まいを示す印でしょう」
仮宿には、共同の大きな建物と、小さな住居がいくつかあった。
地図の簡単な写しも残っている。
「今の帰り火と似てる」
ミラが言った。
井戸。
共同炉。
人が歩く道。
小さな小屋。
古い空堀に沿った、何も建てない場所。
「昔の人も、空堀を避けた」
ドムが見れば分かるかもしれない。
「地面が弱いことを知っていた?」
「当時は、空堀が完全には埋まっていなかった可能性があります」
◇
次の帳簿。
食料の配給。
薪。
布。
炉の修理。
井戸縄の交換。
「釘もある」
俺が読めない文字の横に描かれた絵を指す。
「鉄釘十二本」
「十二本だけ?」
「仮宿の扉と炉煙道の修理に使用」
釘一本が貴重なのは、昔も同じ。
物資の数量は細かく残されている。
だが、暮らしていた人の名前が見つからない。
「住人名簿は?」
箱の底。
帳簿の間。
別の棚。
「索引にはあります」
リゼが言った。
「西外仮宿居住者名簿、一冊」
「ここには?」
「ありません」
「別の箱?」
「移された記録はありません」
「なくなった?」
「可能性があります」
名前だけがない。
食べたパンの数。
使った薪。
直した炉。
すべて残っているのに、そこで暮らしていた人の名前がない。
「変だね」
ミラが言った。
「物の数はあるのに、人がいない」
◇
三冊目には、仮宿の閉鎖記録があった。
「設置から三年後」
リゼが文字を追う。
「全居住者を石鳴村へ移送。仮宿を閉鎖。建物の一部を資材庫へ転用」
「西倉庫になった?」
「おそらく」
人が住んでいた建物を、資材庫へ変えた。
共同地図の板も、その建物に残っていたのかもしれない。
「石鳴村って、どこ?」
「町から南へ二日ほどの場所です」
「三十八人、全員?」
「閉鎖時の居住者は二十七名となっています」
「減った十一人は?」
「町へ戻った者。別の場所へ移った者。死亡した者もいるでしょう」
「記録は?」
「名簿がなければ分かりません」
閉鎖命令には、二十七名を移送したと書かれている。
「何で移送した?」
「荷車でしょう」
「何台?」
「輸送記録を探します」
役場の別の帳簿。
馬や荷車を使った場合、その費用や担当者が記録される。
四十一年前の輸送帳。
ページを一枚ずつめくる。
「ありました」
「何台?」
「二台です」
「二十七人を?」
「荷車二台で、二往復した可能性もあります」
「記録の日は?」
「同じ日です」
「片道二日だよね」
石鳴村まで二日。
一日に往復はできない。
「別の荷車が記録されてない?」
「この帳簿では二台」
「人だけ乗せた?」
「大人二十七人でも、二台は難しい」
ガルドの工房へ材木を運ぶ荷車。
木場の大型荷車。
大きさは違う。
だが、人だけを詰め込んでも限界がある。
「荷物は?」
寝具。
器。
服。
仕事道具。
三年間暮らした人が、何も持っていなかったとは考えにくい。
「歩いた人もいる?」
ミラが尋ねる。
「病人や子どもだけ荷車」
「それなら、食料と案内役の記録がいる」
リゼが別の帳簿を見る。
「二十七人分の旅費や食料支給はありません」
「石鳴村の受け入れ記録は?」
「町の役場には保管されていません」
「村に行けばある?」
「四十一年前の記録が残っていれば」
閉鎖記録には、全員移送済み。
輸送記録には、二台の荷車だけ。
文字の上では、人は移ったことになっている。
だが、実際にどう動いたのかが見えない。
「この記録を書いた人は?」
「署名があります」
「誰?」
リゼが読み上げる。
「当時の西区管理官、バルデス・ロウ」
「知ってる人?」
「四十一年前の役人です。現在は亡くなっています」
「家族は?」
「調べることはできます」
「その前に、西倉庫の跡を見る」
文字だけでは分からない。
建物に何が残っているか。
◇
「レオ」
ミラが呼び止める。
「何?」
「また、すぐ行くの?」
「倉庫跡は木場の中だ。作業が止まってる今日の方が調べやすい」
「サラさんは?」
「仕事台を作った」
「家の補強は?」
「ガルドさんとドム親方が確認する」
「ミラは?」
自分のことを聞かれたのかと思った。
「一緒に行く?」
「そうじゃない」
少し考える。
「腕、痛くない?」
「まだ少し」
「疲れたら、今日は戻る?」
「記録は手伝いたい」
「じゃあ、一緒に来てほしい」
「仕事だから?」
昨日と同じ問い。
「ミラが見つけたことが多いから」
「わたしじゃなくてもいい?」
「ミラがいい」
言ってから、胸が熱くなる。
ミラは目を逸らした。
「……じゃあ行く」
◇
西倉庫の跡は、木場の北西にあった。
現在は、半分が資材置き場。
残りは草に覆われている。
「共同地図の板は、ここから?」
ヴァルクが古い記録を確認する。
「解体時、北壁に使われていた大板です」
「元は地図だった板を、壁に使った?」
「裏返して使われていました」
「どうして?」
「板として使えたからでしょう」
記録としての意味が失われ、ただの材料になった。
それでも板は残り。
また地図になった。
「基礎が二つある」
ガルドが地面を見る。
倉庫の外形を示す石列。
その内側に、別の古い石列。
「倉庫を建てる前の建物?」
「位置が少し違う」
外側の倉庫は、木場の道へ合わせて建っている。
内側の基礎は、南向き。
現在の帰り火の家々と同じように、日と風を考えた向きだった。
「住居の跡?」
床下に残る小さな石台。
等間隔。
床を地面から上げていたらしい。
「カイたちの床に作ったものと似てる」
ミラが言う。
「昔から、湿気を避けてた」
北側には、平たい石が集まっている。
炉の跡。
煙道のような穴。
「倉庫なら、大きな炉はいらない」
仮宿の共同建物だった可能性が高い。
◇
土を勝手に掘らないよう、役場と商会の許可を取る。
表面の草だけを外す。
石列の位置を測る。
地図へ記録。
「ここ、音が違う」
カイが棒で地面を軽く叩く。
「掘るなよ」
「叩いただけ」
一か所だけ、乾いた高い音がした。
ドムが棒を差し込む。
「下に空間がある」
「古い空堀?」
「位置が違う」
床下の小さな収納か。
排水口か。
土を薄く除く。
平たい石板が現れた。
「蓋?」
石の端には、指を掛ける小さなくぼみ。
「先に周りを確認する」
石が構造を支えていないか。
上から荷重がかかっていないか。
周囲の土が崩れないか。
「開けていい?」
リゼが現場記録へ書く。
「役場の立ち会い。商会の土地管理者の許可あり」
ヴァルクも署名する。
「何かあったら?」
「先に記録してから開けます」
ガルドとドムが、二本の棒を石板の下へ差し込む。
「指を入れるな」
「正面に立たない」
「少しだけ上げる」
石板が動く。
下から、湿った土の匂いがした。
毒のある空気や煙はない。
虫が飛び出すこともない。
「中を見る」
箱灯りを近づける。
深さは腕一本ほど。
小さな空間。
中には、細長い陶器の筒が横たわっていた。
「水は入ってない?」
「少し湿ってる」
「出す前に位置を描く」
筒の向き。
深さ。
周囲の石。
全部記録する。
「早く見たい」
カイが言う。
「記録が先」
「分かってる」
◇
陶器の筒には、粘土の栓がされていた。
表面に、三つの屋根の印。
「西外仮宿の物」
栓は一部欠けている。
中へ水が入った可能性もある。
「ここで開ける?」
「役場へ持っていく方がいい」
リゼが答える。
「中に紙があれば、風で崩れるかもしれません」
「持ち上げると割れない?」
筒の下へ布を通す。
両端を支え、木箱へ入れる。
「家の修理みたい」
ミラが言う。
「先に支えてから動かす」
「中身より筒を見てる」
「筒が割れたら、中身も壊れる」
「それは正しい」
「人を先に見る話と違う?」
「これは筒だから」
ミラが小さく笑った。
◇
役場へ戻り、陶器の筒を開ける。
粘土の栓を少しずつ削る。
無理に引けば、筒の縁が割れる。
内部には、紙ではなく細い木札が入っていた。
全部で二十七枚。
「閉鎖時の人数と同じ」
リゼが言う。
木札には、文字ではなく印が彫られている。
針。
鍋。
鳥。
樹木。
車輪。
今の帰り火と同じように、文字を読めない人でも自分を示せる印。
「昔の住人の印?」
「名簿の代わりかもしれません」
札の端には、小さな穴。
縄を通せる。
「配給札?」
「食料を受け取るときに使った可能性もあります」
帳簿へ印を写し、渡した物を記録する。
「名前は分からない?」
「札だけでは」
木札の中に、一枚だけ割れたものがあった。
半分しかない。
そこには、細い三日月。
下へ三本の短い線。
「月?」
ルナの印とは違う。
ルナの月は丸い。
こちらは欠けた月。
「これ、朝の印と関係ある?」
三つの屋根の上に引かれた横線ではない。
別の家族の印だろう。
「全部、紙へ写す」
ミラが一枚ずつ描き始める。
「待って」
リゼが筒の底を見る。
木札の下に、細く丸めた布が残っていた。
布を広げる。
文字が書かれている。
水で滲み、半分以上が読めない。
「何て書いてある?」
「少し待ってください」
リゼが灯りを近づける。
「二十七名……」
次の文字。
「移送……ではない」
「何?」
「移送、未了」
部屋が静かになる。
「未了って?」
ミラが尋ねた。
「終わっていない、という意味です」
役場の閉鎖記録には、全居住者を移送済みと書かれていた。
筒の中の布には、移送未了。
「どっちが本当?」
カイが言う。
「書かれた日を確認します」
「日付は?」
「閉鎖記録と同じ日です」
同じ日。
一方には、全員を移した。
もう一方には、移送は終わっていない。
「誰が書いた?」
「署名がありません」
布の最後。
滲んだ文字の中に、短い文。
「夜……」
リゼが読む。
「火を……」
その先は消えている。
「火事?」
「分かりません」
「仮宿を燃やした?」
カイが言った。
「決めつけるな」
俺は答える。
「でも、火って書いてある」
「夜に炉を使うな、かもしれない」
「火を持って逃げろ、かもしれない」
ミラが言う。
「続きがないと分からない」
物の記録。
人の印。
二つの違う報告。
消えた名簿。
「石鳴村へ行く必要があります」
リゼが言った。
「受け入れ記録が残っているか確認する」
「二日かかる」
「往復で四日以上です」
「今すぐ行く?」
カイが尋ねる。
「木場とサラさんの家もある」
以前の俺なら、すぐ行きたいと言っただろう。
「今は行かない」
「謎が気にならない?」
「気になる」
「じゃあ」
「帰り火の問題を途中にしたまま、四日離れられない」
サラの補強。
木場の安全確認。
ミラとの関係。
誰が地図を削ったのか。
「先に、町で調べられることを調べる」
「誰に聞く?」
「四十一年前を知ってる人」
現在も生きているなら、かなり年を取っている。
役場の古い職員。
木場の倉庫を解体した者。
西外仮宿にいた人や、その家族。
「三日月の印も見せる?」
ミラが尋ねる。
「ああ」
◇
その日の夕方。
俺たちは木札の写しを持って家へ戻った。
エナは炉の近くで、古い服を繕っていた。
「役場の調査は終わりましたか」
「まだ」
「何が見つかったの?」
ミラが紙を広げる。
「昔、この土地に住んでた人の印」
針。
鍋。
鳥。
木。
車輪。
一枚ずつ見せる。
「文字を読めない人が、自分を示すために使ったみたい」
エナの手が止まった。
「どうしたの?」
「いえ」
最後の紙。
欠けた月。
下に三本の線。
エナの指から、針が落ちた。
「おばあちゃん?」
ミラが拾おうとする。
エナは紙を見たまま動かない。
「この印を、どこで見つけたのですか」
声が震えていた。
「西倉庫の跡」
俺は答えた。
「昔の仮宿の床下に、木札が隠されてた」
「木札は、何枚ありましたか」
「二十七枚」
エナが目を閉じる。
「知ってるの?」
ミラが尋ねる。
長い沈黙。
炉の薪が、小さく弾ける。
「その印は」
エナがゆっくり言った。
「私の母が使っていたものです」
ミラが息を止める。
「おばあちゃんのお母さん?」
「ええ」
「西外仮宿にいた?」
エナは頷いた。
「私も、あそこに住んでいました」
四十一年前。
家を失った人々が集められた仮宿。
エナは、その中の一人だった。
「役場の記録には、全員が石鳴村へ移ったって」
俺が言う。
「移っていません」
エナの声は小さい。
けれど、はっきりしていた。
「荷車は二台しかなかった」
「荷車に乗ったのは、役人と荷物だけです」
「じゃあ、二十七人は?」
エナは、欠けた月の印へ指を置く。
「私たちは、夜のうちに仮宿を出されました」
「どこへ?」
「どこへでも行け、と」
「どうして?」
エナの指が震える。
「火事が起きる前に」
家の炉とは違う音を立てて、薪が崩れた。
「火事が起きたの?」
ミラが尋ねる。
エナはすぐには答えなかった。
やがて、紙から目を離さずに言った。
「役場の記録では、私たちは移送されたことになっているのですね」
「ああ」
「なら、あの夜のことも、別の形で書かれているでしょう」
「何があったの?」
エナが俺を見る。
今まで見たことのない目だった。
弱った老人の目ではない。
四十一年前。
家を失い。
仮宿へ集められ。
夜の中へ追い出された子どもの目。
「西外仮宿は、事故で燃えたのではありません」
エナは言った。
「町の人間が、火をつけたのです」
お読みいただきありがとうございます。
西外仮宿の記録には、「全員移送済み」と「移送未了」という二つの異なる報告が残されていました。
そして、エナ自身がかつて仮宿で暮らしていたことが明らかになります。
次回、四十一年前に仮宿が焼かれた理由と、エナが語らずにいた夜の出来事が語られます。




