第二十六話 正しい側には、誰もいない
木場が止まった朝は、いつもより静かだった。
町外れの居住区。
住人たちが「帰り火」と呼ぶようになった場所には、木槌の音も、丸太を下ろす音もない。
聞こえるのは、炉へ薪を入れる音。
器を重ねる音。
子どもの声。
以前からあったはずの日常が、今日は不自然なくらい大きく聞こえた。
「静かだね」
ミラが言った。
「ああ」
返事をしたが、ミラはこちらを見なかった。
右腕には、昨日巻いた布が残っている。
血は止まっている。
傷も深くない。
それでも、布を見るたび、胸の奥が重くなった。
「痛い?」
「少し」
「薬は?」
「おばあちゃんに塗ってもらった」
「包帯、替えるなら」
「自分でできる」
会話はそこで終わった。
同じ家から出て。
同じ道を歩いている。
だが、いつもより離れていた。
◇
共同地図の前には、朝鐘より前から住人が集まっていた。
サラと娘たちは、まだマーヤの店にいる。
家が使えないため、今日の話し合いにはサラだけが戻ってきていた。
ベルン。
トルン。
カイ。
木場で日雇いを始めたオーデン。
ほかにも、大人が十人ほどいる。
木場側からはヴァルク。
役場からリゼとハーレン。
ガルドとドム。
ネッサ。
ゲイルの姿はない。
「最初に確認します」
リゼが紙を広げる。
「木場は本日、安全確認のため全面停止。サラさんの住居は、補強が完了するまで使用禁止です」
「木場は一日だけ?」
ベルンが尋ねる。
「現時点では」
「家は、いつ直る」
「状態と作業内容を確認してからです」
「木場だけ明日から動いて、サラは帰れないのか」
「明日動かすとは決まっていません」
「止めたままにしろ」
ベルンの言葉に、数人が頷く。
「木場は、ここから出ていけ」
「待ってくれ」
オーデンが声を上げた。
「木場をなくされたら、俺の仕事はどうなる」
車輪の印を使っている男。
灰休め場へ最初に灰を持ってきた住人でもある。
「町で別の仕事を探せ」
ベルンが答える。
「簡単に言うな。三日前に、やっと雇われたんだ」
「木場のせいで家が壊れた」
「壊したのは、あの積み場だろ。木場全部じゃない」
「同じ商会だ」
「商会から金をもらってるから、かばうのか」
「家族に食わせるためだ!」
オーデンの声が大きくなる。
「お前だって荷運びで金をもらってるだろ!」
「俺は家を壊してない!」
「俺も壊してない!」
二人が前へ出る。
ドムが間へ腕を伸ばした。
「近づくな」
「話してるだけだ」
「胸をぶつけて話す必要はない」
ベルンとオーデンが、互いに一歩ずつ下がる。
「木場をなくせば安全になる」
カイが言った。
「昨日みたいな丸太は落ちない」
「木場がなくなったら、木はどこへ置くの?」
ミラが尋ねた。
カイが少し詰まる。
「別の場所」
「どこ?」
「町の中」
「長い木を町の中まで運ぶのは危ないって、最初に言ってた」
「でも、ここに置いたら家が壊れる」
「だから、置き方を直すんじゃないの?」
「ミラは、木場を残したいの?」
「そういう言い方しないで」
ミラの声が硬くなる。
「何で?」
「どっちかを選ばないと話せないみたいになるから」
カイは、俺を見る。
「レオと同じことを言うんだな」
「一緒にしないで」
ミラがすぐに答えた。
胸が少し痛んだ。
◇
「木場をなくせと、私は頼んでないよ」
サラが言った。
ベルンが振り返る。
「お前の家が壊れたんだぞ」
「だからって、木場を全部なくせば家が直るのかい」
「次の振動は来なくなる」
「布も針も、町へ入ってこなくなるかもしれない」
「商会は木場がなくても運ぶ」
「運賃が上がる。材料も高くなる」
サラの針仕事は、町の仕立屋から受けている。
使う布。
糸。
留め具。
町へ運ばれる物が高くなれば、仕事にも影響する。
「それに、オーデンの仕事もなくなる」
「自分の家を壊した場所をかばうのか」
「かばってない」
サラはベルンを真っすぐ見る。
「木場には、壊した分を払わせる。安全な積み方もさせる。でも、怒ってるから全部なくせって言えば、困る人が別の場所へ移るだけだ」
「お前は、それで納得できるのか」
「納得なんかしてない」
サラの声が低くなる。
「昨日から、娘たちは自分の家で眠れない。仕事道具も取り出せない。ミラは怪我をした」
ミラが包帯を隠すように腕を身体へ寄せる。
「納得できないから、何が必要か決めに来た。怒鳴るためだけじゃない」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「必要なことを教えてください」
ヴァルクが言った。
住人たちの視線が集まる。
「商会が決めるんじゃないのかい」
サラが尋ねる。
「商会側の責任は、こちらで判断します。しかし、サラさんたちが今日必要とする物は、サラさんに聞かなければ分かりません」
俺はヴァルクを見る。
昨日の俺にはできなかったことだった。
「今夜眠る場所」
サラが答える。
「マーヤの店へ、いつまでも頼れない」
「宿の費用を、商会が負担します」
「宿は町の中央だ。娘たちの学校も、私の仕事も遠くなる」
「では、近隣の空き室を探します」
「仕事道具を取り出したい」
「安全を確認してから、作業員が運び出します」
「知らない男に、針や布を触られたくない」
「サラさんが指示し、作業員は指定された物だけ運びます」
「家は?」
「補強方法が決まり次第、材料費と作業費について提示します」
「全部商会が払う?」
ヴァルクはすぐには答えなかった。
「昨日の振動が直接のきっかけとなった損傷と、仮住まいに必要な費用は商会が負担します」
「壁全部じゃない?」
「家には、以前から存在したひびと、短い棚の留め木が確認されています」
周囲の空気が再び硬くなる。
「やっぱり、家が悪いって言うのか」
ベルンが言った。
「事実を隠して、商会がすべて悪いと認めろと?」
ヴァルクの声も冷たくなる。
「今は言い方を考えてください」
リゼが止める。
「記録上、原因を分ける必要はあります。しかし、それとサラさんたちの生活を戻すことは別です」
「分けられるのかい」
サラが尋ねる。
「完全には難しいでしょう」
俺は口を開いた。
「壁の古いひびと、昨日動いた部分を――」
「レオ」
サラに止められた。
「今は、ひびの説明を聞きたいんじゃない」
昨日と同じ。
「じゃあ、何を」
口にしてから気づく。
また、答えを相手に求めている。
サラは少し疲れた顔で言った。
「仕事を続けられるようにしてほしい。娘たちが、いつ家へ帰れるか知りたい。直したあと、また同じことが起きないと分かる方法が欲しい」
壁をどう直すかではない。
直したあと、暮らしを戻せるか。
「分かった」
「本当に?」
「今日、道具を出す。仮の作業場所も作る。家は、補強だけじゃなく、木場の作業を始める前に揺れ方を比べる」
「その説明なら聞くよ」
◇
話し合いのあと、サラの家へ入る準備をした。
壁へ仮支え。
窓の上。
棚が落ちた側。
入口の外に人を置く。
中へ入るのは、サラとガルド、俺の三人だけ。
「ミラは?」
俺が尋ねる。
「記録を手伝う」
リゼの横で、ミラが紙と炭を持っている。
「中へは入らない?」
「傷があるから」
「そうだな」
ミラはこちらを見ずに答えた。
「気をつけて」
小さな声だった。
「うん」
完全に拒まれてはいない。
それだけで少し安心した自分が嫌だった。
◇
サラの指示で、針箱。
糸。
注文を受けている布。
娘たちの服。
寝具。
一つずつ外へ運ぶ。
「その箱は傾けないで」
「分かった」
「下に針が入ってる」
「分かった」
「さっきから、そればかりだね」
「勝手に決めないようにしてる」
サラが、ほんの少しだけ笑った。
「昨日よりはましだ」
棚が落ちた場所には、土と割れた器が残っている。
棚板自体は使える。
留め木を長い物へ替えれば、再利用できる。
「これは直す?」
俺は尋ねた。
「娘が小さいころから使ってる」
「じゃあ残す」
捨てる物を勝手に決めない。
家だけではなく、中の物にも時間がある。
◇
外では、ミラが記録板を作っていた。
糸の先に小さな重り。
その下に、円を何本も描いた板。
「何これ?」
俺が尋ねる。
「揺れを見る」
「水の器じゃなく?」
「水は、入れる量で変わる。こぼれるし」
重りが動けば、先端が円のどこまで振れたか分かる。
「炭をつけたら、跡が残る」
ミラが重りの先へ黒い炭を塗る。
揺れれば、板へ線が描かれる。
「いいと思う」
「レオが言ったから作ったんじゃない」
「分かってる」
「リゼさんと考えた」
「うん」
「サラさんの家だけじゃなく、ほかの家にも置く」
「比べるため?」
「同じ作業で、どこがどれくらい揺れるか見る」
「木場からの距離も書く」
「それはレオが書いて」
「いいの?」
「仕事だから」
仲直りしたわけではない。
でも、一緒に仕事はする。
今はそれで十分なのかもしれない。
「板は全部同じ大きさにする」
俺は言った。
「糸の長さも」
「重りの重さも」
「取りつける高さも」
「床が違う家は?」
「床と壁、二か所にする?」
「全部やったら板が足りない」
「最初は壁だけ」
ミラが頷く。
話している間だけ、以前のようだった。
けれど、作業の話が終わると、また距離が戻った。
◇
記録具は、五つの家へ置くことになった。
サラの家。
俺たちの家。
カイとルナの家。
木場から一番離れた小屋。
地面の下に古い空堀がない、高い場所の家。
「同じ作業をしたとき、全部見る」
リゼが記録表を作る。
「丸太の荷下ろし」
「杭打ち」
「荷車の通過」
「木材を積み替える木槌」
作業ごとに、どの家の板へどの程度の跡がつくか。
「跡が大きかったら、木場が悪い?」
オーデンが尋ねる。
「木場から遠い家でも揺れるなら、地面の問題かもしれない」
ドムが答える。
「近い家だけなら?」
「距離の影響が大きい」
「サラの家だけなら?」
「家の弱り方も関係する」
「結局、何でも家のせいにできる」
ベルンが言った。
「逆だ」
ドムが睨む。
「何も測らなければ、何でも木場のせいにもできる」
「木場をかばうのか」
「俺は石と地面を見る」
「人を見ろって話だっただろ」
ベルンの言葉に、ドムが黙る。
「人を見るから、どこが危ないか確かめる」
俺は言った。
「でも、測った数字だけで負担を決めない」
「じゃあ何のために測る」
「同じことを繰り返さないため」
「金の話は?」
「役場と商会と住人で決める」
「また全員か」
「一人で決めたら、その人に都合のいい答えになる」
ベルンは納得していない。
だが、反対もしなかった。
◇
昼過ぎ。
木場の全面停止は続いている。
そのため、記録具の試験には、ガルドの工房から小さな木槌を借りた。
「木場を動かさずに、道具が動くかだけ確かめる」
サラの家から十分離れた地面。
杭を一本。
小さく叩く。
こん。
記録板の重りが揺れる。
先端の炭が、中央の円へ短い線を残した。
「動いた」
ミラが言う。
「風でも揺れる?」
ネッサが窓を開ける。
風が入る。
重りがゆっくり揺れ、別の方向へ線を描く。
「区別できない」
「作業するときは窓と扉を閉める」
「人が歩いたら?」
床を強く踏む。
板の線が動く。
「近くに人を入れない」
「家で暮らしながら測るなら?」
「毎回外へ出る?」
「それじゃ、普段の揺れ方じゃない」
測ることにも限界がある。
「作業開始の印を別につける」
ミラが言った。
「その前の半刻も残す」
「普通に暮らしているときの線と、作業中の線を比べる?」
「ああ」
作業だけの影響を完全に分けることはできない。
でも、前後を見れば違いは分かるかもしれない。
「人が歩いた回数も書く?」
「全部は無理」
「じゃあ、測った線も絶対じゃない」
「絶対じゃない」
俺は答えた。
「目安」
数字や線があれば、正しい答えが一つ出ると思っていた。
だが、測り方。
家の使い方。
風。
人の動き。
全部が混ざる。
「測ったから正しいじゃない」
ミラが言う。
「何が混ざってるか考える」
「うん」
「人の気持ちも?」
突然、こちらを見た。
「考える」
「測れないよ」
「だから、聞く」
「聞いたあと、すぐ直そうとしない?」
答えに迷う。
「努力する」
「それ、信用できる分かった?」
カイの言葉を使った。
「信用されるまで、聞く」
ミラは少しだけ口元を緩めた。
笑ったとは言えないほど、小さな変化だった。
◇
夕方。
共同地図の前で、仮住まいと補償について再び話し合うことになった。
サラたちは、帰り火の中にある空いた小屋へ移れることになった。
以前、昼だけ町で働く男が使っていた場所。
男は今月から町の工房へ住み込みになり、寝具だけが残っている。
「役場の記録では、空き家ではありません」
リゼが言った。
「本人の使用権があります」
「使ってないのに?」
「荷物があります」
空き家に見えても、誰かの場所。
以前学んだことだ。
「本人へ聞いた?」
「町の工房で確認しました。三十日間に限り、サラさんたちが使うことを認めるそうです」
「代わりに?」
「屋根の小さな穴を直してほしいとのことです」
「商会が直す」
ヴァルクが答えた。
「仮住まいの費用として処理します」
「今夜から入れる?」
「炉の確認が終われば」
「寝る場所は決まった」
サラが息を吐いた。
昨日から初めて、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
◇
「地図、直さないの?」
ルナが尋ねた。
共同地図は、昨日の振動で傾いたままだ。
「今から見る」
俺は石台へ手をかける。
「一人で動かすな」
ガルドが言った。
「支えを入れる」
傾いた柱の横へ仮の棒を当てる。
屋根と板の重さを受けてから、緩んだ石台を直す。
「板のひびは?」
「裏へ当て木」
「表から見える?」
「残す」
ひびを完全に隠さず、動いた場所として記録する。
「木場の印、変じゃない?」
ミラが地図を指した。
商会の木場を示す印。
昨日までは、丸太と小さな帳簿の絵だった。
その周囲だけ、板の表面が荒れている。
「割れたせい?」
「違う」
指で触る。
刃物で削った跡。
木場の印の一部が、意図的にえぐられている。
「誰かが消した?」
カイが近づく。
「商会の印だけ」
ヴァルクの表情が変わる。
「いつですか」
「朝はあった?」
俺が尋ねる。
「話し合いのときは、見てない」
「昨日の夜?」
誰も分からない。
「ベルン」
オーデンが言った。
「何だ」
「木場をなくせって言ってただろ」
「だから俺が削ったって?」
「ほかに誰がいる」
「お前は商会の犬か!」
「やっぱりお前だろ!」
二人が再び前へ出る。
「やめろ!」
サラの声。
「証拠もないのに決めつけるな!」
「木場を嫌ってる奴は、ほかにもいる」
「子どもがやったかもしれない」
「ミラの怪我を見た奴なら」
何人もの視線が、子どもたちへ向く。
木の輪を壊された少年。
サラの娘。
カイ。
ミラ。
「わたしじゃない」
ミラが言った。
「誰も、ミラだとは」
「見たから」
疑われる前に否定しなければならない空気。
「全員、地図から離れて」
俺は言った。
「削り跡を見る」
「犯人を見つける?」
カイが尋ねる。
「まず、いつ、何で削ったか」
「また物から見るのか」
カイの声は冷たい。
昨日と同じことを繰り返しているように聞こえる。
「誰かを勝手に疑わないため」
俺は答えた。
「削り方が分かれば、使った道具が分かるかもしれない」
「道具の持ち主が犯人?」
「借りたかもしれない。落ちてた物かもしれない」
「じゃあ、分からない」
「分からないまま、ベルンさんや子どもを犯人にするよりいい」
カイはしばらく黙った。
「見るだけなら」
◇
削り跡は浅かった。
刃物で何度もこすった跡。
木場の印を完全に消す前に、途中で止めている。
「刃は広くない」
ガルドが言う。
「小刀か、古いのみ」
「作業員の道具?」
「住人も持ってる」
犯人へつながる特徴はない。
「この黒い線は?」
ミラが削られた場所の中央を指す。
新しい木の色の中。
細い黒い筋が見えている。
「汚れ?」
布で拭く。
消えない。
「焼け跡だ」
ガルドが表面を少しだけ削る。
黒い線が広がった。
真っすぐではない。
何かの形。
「商会の印の下に、別の印がある」
木場の看板用に提供された板は、新しい板ではなかった。
ヴァルクが言っていた。
木場の看板として使う予定だった大きな板。
表面を削り、塗り直した物。
「どこから来た板?」
俺が尋ねる。
ヴァルクが記録を確認する。
「西倉庫の解体材です」
「その倉庫は、いつ建てた?」
「現在の商会が土地を借りる前からあった建物です」
「何に使われてた?」
「古い資材庫と聞いています」
リゼが黒い線へ近づく。
「もう少し見せてください」
「削っていい?」
俺は尋ねた。
「現在の地図を壊すことになります」
ヴァルクが言う。
「すでに一部は削られてる」
「しかし、記録板です」
「写しを作る」
リゼが答えた。
「現状を紙へ写したあと、必要な範囲のみ確認します」
地図の線。
木場の印。
削り跡。
ひび。
すべて紙へ写す。
それから、削られた周囲の表面を薄く落とした。
黒い線がつながっていく。
屋根のような形。
その下に、三つの短い線。
「家?」
ルナが尋ねる。
「三軒ある」
ミラが言う。
さらに右。
丸い印。
井戸のようにも見える。
その下には、古い文字。
「読める?」
俺はリゼを見る。
「現在使われている文字とは、形が違います」
「古い字?」
「一部なら」
リゼが指でなぞる。
「西……外……」
次の文字。
何度も確認する。
「仮宿」
「何?」
「西外仮宿、だと思います」
ハーレンが顔を上げる。
「聞いたことがある」
「何の場所?」
「火事や争いで家を失った者を、一時的に町の外へ住まわせる場所だ」
住人たちが地図を囲む。
「ここが?」
サラが尋ねる。
「断定はできません」
リゼが言う。
「この板が、元からこの土地にあった物とは限りません」
「西倉庫から出た」
ヴァルクが記録を見る。
「倉庫も、この西側にありました」
「古い役場の記録にないの?」
「現在の土地台帳にはありません」
「消された?」
ベルンが言った。
「失われただけかもしれません」
「商会が隠したんじゃないのか」
「当商会が土地を借りた時点で、倉庫はすでに廃屋でした」
ヴァルクの声が硬くなる。
「根拠なく商会を疑わないでください」
「じゃあ、誰が忘れた」
誰も答えられない。
◇
黒い文字の下には、さらに短い文が残っていた。
焦げて消えた場所。
虫に食われた場所。
現在の地図を描くため削られた場所。
すべては読めない。
リゼが分かる文字だけを紙へ写す。
「火……難……時」
「火事のとき?」
「その可能性があります」
「人を住まわせた場所に、今度は木を置いた?」
カイが言った。
「昔の用途が今も有効とは限りません」
リゼが答える。
「いつの記録かも分からない」
「でも、空き地じゃなかった」
ミラが黒い屋根の印を見る。
三つの屋根。
井戸らしき丸。
西外仮宿という文字。
今の帰り火と、よく似ている。
「前にも、家をなくした人がここへ来た」
サラが呟く。
「何で、いなくなったんだろう」
「火事が終わって、町へ戻った?」
「追い出された?」
「病気?」
「空堀を埋めた時期と同じかもしれない」
ドムが言う。
「地面の下にも、何か残ってる?」
カイが尋ねる。
「勝手に掘るな」
全員が一斉にカイを見る。
「掘らないよ」
「信用される分かった?」
ミラが尋ねる。
「それ、俺の言葉」
「帰り火では、みんなに言うんでしょ」
カイは少し不満そうに頷いた。
◇
「地図を削った人が、この印を知ってた可能性は?」
俺が尋ねた。
「古い印を出すために削った?」
リゼが考える。
「なら、なぜ木場の印だけを選んだのでしょう」
「下にあるのを知ってた」
「板を以前見た人?」
「商会へ渡る前?」
ヴァルクが西倉庫の記録を探す。
「解体に関わった者を確認します」
「犯人探しをするの?」
サラが尋ねる。
「記録板を損傷したことは事実です」
「でも、削らなければ古い印は見つからなかった」
「見つかったことと、許可なく削ったことは別です」
ヴァルクは曲げない。
「罰する?」
「理由を聞いてからです」
「すぐ追い出さない?」
「住人の決まりでも、最初は片づけと説明だったはずです」
灰のルール。
間違えて捨てたなら、自分から名乗り、直せば記録へ残さない。
隠して繰り返せば問題になる。
「自分から名乗れるようにする」
俺は言った。
「今日の日暮れまで」
「何をする?」
「共同地図の横に、削った理由を書ける板を置く」
「文字を書けない人は?」
「印でもいい」
「名前は?」
「書かなくていい」
「それじゃ、誰か分からない」
「先に理由を知る」
ヴァルクは納得していない顔をする。
「名乗らなかった場合は?」
「そのあと考える」
「遅らせるだけです」
「今、全員が疑い合ってる」
ベルン。
オーデン。
子どもたち。
商会。
「このまま聞けば、犯人じゃない人まで怒鳴られる」
昨日の俺なら、削り跡と道具だけを調べていたかもしれない。
今も、調べることは必要だと思う。
でも、その前に誰かを追い詰めれば、理由は聞けなくなる。
「一日だけです」
リゼがヴァルクへ言った。
「役場も認めます」
「記録板は役場の管理物です」
「現在は、住人と商会が共同使用しています」
「……日暮れまでです」
ヴァルクが折れた。
◇
共同地図の木場の印は、削られたまま残した。
消えかけた現在の印。
その下から現れた古い三軒の屋根。
新しい地図と、昔の印が重なっている。
「直さないの?」
ルナが尋ねる。
「まだ」
「壊れてる」
「何があったか分かるまで残す」
「ひびも?」
「残す」
「地図、どんどん汚くなるね」
「町も、ずっときれいなままじゃない」
家が増え。
道が曲がり。
溝が詰まり。
印が削られる。
そのたび、描き直してきた。
「新しい板へ替えた方が早い」
カイが言う。
「替えたら、古い印がなくなる」
「写せばいい」
「板そのものが、ここにあった」
「今まで誰も知らなかった」
「だから残す」
カイは黒い屋根の印へ触れないよう、指を近づける。
「昔の人も、帰り火って呼んでた?」
「分からない」
「家へ帰る火は、あったかな」
「炉があれば」
「煙も?」
「ああ」
今の住人たちより前。
同じ土地へ、家をなくした人が集まっていた。
その人たちは、どこへ行ったのか。
なぜ記録から消えたのか。
◇
日が傾くころまで、理由を書く板には何も増えなかった。
文字も。
印も。
「名乗らないね」
ミラが言う。
「夜に来るかもしれない」
「来なかったら?」
「調べる」
「道具から?」
「ああ。でも、最初から犯人って決めない」
「少し変わったね」
「少し?」
「昨日のレオと比べて」
ヴァルクと同じ言い方だった。
「ミラ」
「何?」
「昨日のこと」
「今は、全部許したわけじゃない」
「分かってる」
「分かったって言うだけ?」
「聞く」
ミラは、しばらく黙った。
「怖かった」
「うん」
「棚が落ちたときじゃない」
「その前?」
「木場で、みんなが怒鳴ってたとき」
予想していなかった。
「ゲイルさんに?」
「ベルンさんも。カイも。レオも」
「俺も怒鳴った?」
「大きい声だった」
「ごめん」
「まだある」
口を閉じる。
「レオが、誰の味方か聞かれて、答えられなかったとき」
「うん」
「わたしも、分からなくなった」
「誰の味方か?」
「レオが、誰を一番大事にしてるか」
胸が強く鳴った。
「ミラたちだよ」
「たち?」
言葉を間違えた気がした。
「エナと、ミラと」
「帰り火の人は?」
「大事」
「カイは?」
「大事」
「木場の人も?」
「怪我してほしくない」
「やっぱり、みんなだ」
ミラの声は怒っていない。
けれど、寂しそうだった。
「みんなが大事じゃ駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあ」
「わたしが怖かったとき、わたしだけを見てほしかった」
答えを探す。
でも、今は探さない。
「うん」
「直し方は言わないの?」
「言わない」
「次は先に見るって約束しない?」
「約束しても、危ない壁があったら見る」
「正直だね」
「でも、ミラが怖かったことを、あとにしない」
「どうやって?」
「分からない」
ミラは初めて、少し笑った。
「それは、信用できない分かった」
「信用されるまで、やる」
「何を?」
「聞く」
ミラは完全には笑わなかった。
それでも、家へ帰るときは、朝より少し近くを歩いていた。
◇
日暮れ。
共同地図の横へ置いた小さな板には、まだ何も描かれていない。
灯守りが、入口の箱灯りへ火をつける。
弱い光が、削られた木場の印と、下から現れた古い屋根を照らす。
現在の帰り火。
昔の仮宿。
同じ板の上に、二つの時代が重なっている。
木場をなくしたい者。
木場で働く者。
家を直してほしい者。
仕事を止めたくない者。
正しいことは、一つではなかった。
家を守る側。
仕事を守る側。
どちらかが正しく、どちらかが間違いなら、話は簡単だった。
だが、ベルンにも失いたくない家がある。
オーデンにも失いたくない仕事がある。
サラは家を壊され、同時に木場から来る材料で働いている。
ヴァルクは商会を守りながら、作業を止めた。
カイは家を失うことを恐れ。
ミラは、俺に自分を見てほしかった。
俺は、誰も傷つけたくないと思いながら、誰の隣にも立てていなかった。
全員に正しい答えを渡そうとしていた。
けれど、人が欲しいのは、いつも答えとは限らない。
隣で怒る人。
怖かったと言える相手。
自分の仕事や家を、失いたくないと認めてくれる者。
正しい側を選ぶ前に、立つ場所を選ばなければならないときがある。
俺は削られた地図を見る。
誰が削ったのかは、まだ分からない。
けれど、その傷の下から現れた物は、はっきりしていた。
この土地は、何もない空き地ではなかった。
昔にも、家をなくした人が集まり。
屋根を作り。
火を使い。
帰る場所にしようとした。
忘れられた居場所の上へ、俺たちは新しい居場所を作っている。
そして、忘れられた理由を知らないまま。
日暮れの鐘が鳴った。
名乗り出る者はいなかった。
ただ、灯りの下にある古い文字だけが、昨日までより濃く見えていた。
お読みいただきありがとうございます。
帰り火の住人たちは、木場を残すかどうかをめぐって意見が分かれました。
さらに、削られた共同地図の下から、かつてこの土地が「西外仮宿」と呼ばれていた可能性が浮かびます。
次回、レオたちは古い役場記録と西倉庫跡を調べ、この土地から人々が消えた理由へ近づきます。




