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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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26/29

第二十六話 正しい側には、誰もいない

 木場が止まった朝は、いつもより静かだった。


 町外れの居住区。


 住人たちが「帰り火」と呼ぶようになった場所には、木槌の音も、丸太を下ろす音もない。


 聞こえるのは、炉へ薪を入れる音。


 器を重ねる音。


 子どもの声。


 以前からあったはずの日常が、今日は不自然なくらい大きく聞こえた。


「静かだね」


 ミラが言った。


「ああ」


 返事をしたが、ミラはこちらを見なかった。


 右腕には、昨日巻いた布が残っている。


 血は止まっている。


 傷も深くない。


 それでも、布を見るたび、胸の奥が重くなった。


「痛い?」


「少し」


「薬は?」


「おばあちゃんに塗ってもらった」


「包帯、替えるなら」


「自分でできる」


 会話はそこで終わった。


 同じ家から出て。


 同じ道を歩いている。


 だが、いつもより離れていた。


     ◇


 共同地図の前には、朝鐘より前から住人が集まっていた。


 サラと娘たちは、まだマーヤの店にいる。


 家が使えないため、今日の話し合いにはサラだけが戻ってきていた。


 ベルン。


 トルン。


 カイ。


 木場で日雇いを始めたオーデン。


 ほかにも、大人が十人ほどいる。


 木場側からはヴァルク。


 役場からリゼとハーレン。


 ガルドとドム。


 ネッサ。


 ゲイルの姿はない。


「最初に確認します」


 リゼが紙を広げる。


「木場は本日、安全確認のため全面停止。サラさんの住居は、補強が完了するまで使用禁止です」


「木場は一日だけ?」


 ベルンが尋ねる。


「現時点では」


「家は、いつ直る」


「状態と作業内容を確認してからです」


「木場だけ明日から動いて、サラは帰れないのか」


「明日動かすとは決まっていません」


「止めたままにしろ」


 ベルンの言葉に、数人が頷く。


「木場は、ここから出ていけ」


「待ってくれ」


 オーデンが声を上げた。


「木場をなくされたら、俺の仕事はどうなる」


 車輪の印を使っている男。


 灰休め場へ最初に灰を持ってきた住人でもある。


「町で別の仕事を探せ」


 ベルンが答える。


「簡単に言うな。三日前に、やっと雇われたんだ」


「木場のせいで家が壊れた」


「壊したのは、あの積み場だろ。木場全部じゃない」


「同じ商会だ」


「商会から金をもらってるから、かばうのか」


「家族に食わせるためだ!」


 オーデンの声が大きくなる。


「お前だって荷運びで金をもらってるだろ!」


「俺は家を壊してない!」


「俺も壊してない!」


 二人が前へ出る。


 ドムが間へ腕を伸ばした。


「近づくな」


「話してるだけだ」


「胸をぶつけて話す必要はない」


 ベルンとオーデンが、互いに一歩ずつ下がる。


「木場をなくせば安全になる」


 カイが言った。


「昨日みたいな丸太は落ちない」


「木場がなくなったら、木はどこへ置くの?」


 ミラが尋ねた。


 カイが少し詰まる。


「別の場所」


「どこ?」


「町の中」


「長い木を町の中まで運ぶのは危ないって、最初に言ってた」


「でも、ここに置いたら家が壊れる」


「だから、置き方を直すんじゃないの?」


「ミラは、木場を残したいの?」


「そういう言い方しないで」


 ミラの声が硬くなる。


「何で?」


「どっちかを選ばないと話せないみたいになるから」


 カイは、俺を見る。


「レオと同じことを言うんだな」


「一緒にしないで」


 ミラがすぐに答えた。


 胸が少し痛んだ。


     ◇


「木場をなくせと、私は頼んでないよ」


 サラが言った。


 ベルンが振り返る。


「お前の家が壊れたんだぞ」


「だからって、木場を全部なくせば家が直るのかい」


「次の振動は来なくなる」


「布も針も、町へ入ってこなくなるかもしれない」


「商会は木場がなくても運ぶ」


「運賃が上がる。材料も高くなる」


 サラの針仕事は、町の仕立屋から受けている。


 使う布。


 糸。


 留め具。


 町へ運ばれる物が高くなれば、仕事にも影響する。


「それに、オーデンの仕事もなくなる」


「自分の家を壊した場所をかばうのか」


「かばってない」


 サラはベルンを真っすぐ見る。


「木場には、壊した分を払わせる。安全な積み方もさせる。でも、怒ってるから全部なくせって言えば、困る人が別の場所へ移るだけだ」


「お前は、それで納得できるのか」


「納得なんかしてない」


 サラの声が低くなる。


「昨日から、娘たちは自分の家で眠れない。仕事道具も取り出せない。ミラは怪我をした」


 ミラが包帯を隠すように腕を身体へ寄せる。


「納得できないから、何が必要か決めに来た。怒鳴るためだけじゃない」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


「必要なことを教えてください」


 ヴァルクが言った。


 住人たちの視線が集まる。


「商会が決めるんじゃないのかい」


 サラが尋ねる。


「商会側の責任は、こちらで判断します。しかし、サラさんたちが今日必要とする物は、サラさんに聞かなければ分かりません」


 俺はヴァルクを見る。


 昨日の俺にはできなかったことだった。


「今夜眠る場所」


 サラが答える。


「マーヤの店へ、いつまでも頼れない」


「宿の費用を、商会が負担します」


「宿は町の中央だ。娘たちの学校も、私の仕事も遠くなる」


「では、近隣の空き室を探します」


「仕事道具を取り出したい」


「安全を確認してから、作業員が運び出します」


「知らない男に、針や布を触られたくない」


「サラさんが指示し、作業員は指定された物だけ運びます」


「家は?」


「補強方法が決まり次第、材料費と作業費について提示します」


「全部商会が払う?」


 ヴァルクはすぐには答えなかった。


「昨日の振動が直接のきっかけとなった損傷と、仮住まいに必要な費用は商会が負担します」


「壁全部じゃない?」


「家には、以前から存在したひびと、短い棚の留め木が確認されています」


 周囲の空気が再び硬くなる。


「やっぱり、家が悪いって言うのか」


 ベルンが言った。


「事実を隠して、商会がすべて悪いと認めろと?」


 ヴァルクの声も冷たくなる。


「今は言い方を考えてください」


 リゼが止める。


「記録上、原因を分ける必要はあります。しかし、それとサラさんたちの生活を戻すことは別です」


「分けられるのかい」


 サラが尋ねる。


「完全には難しいでしょう」


 俺は口を開いた。


「壁の古いひびと、昨日動いた部分を――」


「レオ」


 サラに止められた。


「今は、ひびの説明を聞きたいんじゃない」


 昨日と同じ。


「じゃあ、何を」


 口にしてから気づく。


 また、答えを相手に求めている。


 サラは少し疲れた顔で言った。


「仕事を続けられるようにしてほしい。娘たちが、いつ家へ帰れるか知りたい。直したあと、また同じことが起きないと分かる方法が欲しい」


 壁をどう直すかではない。


 直したあと、暮らしを戻せるか。


「分かった」


「本当に?」


「今日、道具を出す。仮の作業場所も作る。家は、補強だけじゃなく、木場の作業を始める前に揺れ方を比べる」


「その説明なら聞くよ」


     ◇


 話し合いのあと、サラの家へ入る準備をした。


 壁へ仮支え。


 窓の上。


 棚が落ちた側。


 入口の外に人を置く。


 中へ入るのは、サラとガルド、俺の三人だけ。


「ミラは?」


 俺が尋ねる。


「記録を手伝う」


 リゼの横で、ミラが紙と炭を持っている。


「中へは入らない?」


「傷があるから」


「そうだな」


 ミラはこちらを見ずに答えた。


「気をつけて」


 小さな声だった。


「うん」


 完全に拒まれてはいない。


 それだけで少し安心した自分が嫌だった。


     ◇


 サラの指示で、針箱。


 糸。


 注文を受けている布。


 娘たちの服。


 寝具。


 一つずつ外へ運ぶ。


「その箱は傾けないで」


「分かった」


「下に針が入ってる」


「分かった」


「さっきから、そればかりだね」


「勝手に決めないようにしてる」


 サラが、ほんの少しだけ笑った。


「昨日よりはましだ」


 棚が落ちた場所には、土と割れた器が残っている。


 棚板自体は使える。


 留め木を長い物へ替えれば、再利用できる。


「これは直す?」


 俺は尋ねた。


「娘が小さいころから使ってる」


「じゃあ残す」


 捨てる物を勝手に決めない。


 家だけではなく、中の物にも時間がある。


     ◇


 外では、ミラが記録板を作っていた。


 糸の先に小さな重り。


 その下に、円を何本も描いた板。


「何これ?」


 俺が尋ねる。


「揺れを見る」


「水の器じゃなく?」


「水は、入れる量で変わる。こぼれるし」


 重りが動けば、先端が円のどこまで振れたか分かる。


「炭をつけたら、跡が残る」


 ミラが重りの先へ黒い炭を塗る。


 揺れれば、板へ線が描かれる。


「いいと思う」


「レオが言ったから作ったんじゃない」


「分かってる」


「リゼさんと考えた」


「うん」


「サラさんの家だけじゃなく、ほかの家にも置く」


「比べるため?」


「同じ作業で、どこがどれくらい揺れるか見る」


「木場からの距離も書く」


「それはレオが書いて」


「いいの?」


「仕事だから」


 仲直りしたわけではない。


 でも、一緒に仕事はする。


 今はそれで十分なのかもしれない。


「板は全部同じ大きさにする」


 俺は言った。


「糸の長さも」


「重りの重さも」


「取りつける高さも」


「床が違う家は?」


「床と壁、二か所にする?」


「全部やったら板が足りない」


「最初は壁だけ」


 ミラが頷く。


 話している間だけ、以前のようだった。


 けれど、作業の話が終わると、また距離が戻った。


     ◇


 記録具は、五つの家へ置くことになった。


 サラの家。


 俺たちの家。


 カイとルナの家。


 木場から一番離れた小屋。


 地面の下に古い空堀がない、高い場所の家。


「同じ作業をしたとき、全部見る」


 リゼが記録表を作る。


「丸太の荷下ろし」


「杭打ち」


「荷車の通過」


「木材を積み替える木槌」


 作業ごとに、どの家の板へどの程度の跡がつくか。


「跡が大きかったら、木場が悪い?」


 オーデンが尋ねる。


「木場から遠い家でも揺れるなら、地面の問題かもしれない」


 ドムが答える。


「近い家だけなら?」


「距離の影響が大きい」


「サラの家だけなら?」


「家の弱り方も関係する」


「結局、何でも家のせいにできる」


 ベルンが言った。


「逆だ」


 ドムが睨む。


「何も測らなければ、何でも木場のせいにもできる」


「木場をかばうのか」


「俺は石と地面を見る」


「人を見ろって話だっただろ」


 ベルンの言葉に、ドムが黙る。


「人を見るから、どこが危ないか確かめる」


 俺は言った。


「でも、測った数字だけで負担を決めない」


「じゃあ何のために測る」


「同じことを繰り返さないため」


「金の話は?」


「役場と商会と住人で決める」


「また全員か」


「一人で決めたら、その人に都合のいい答えになる」


 ベルンは納得していない。


 だが、反対もしなかった。


     ◇


 昼過ぎ。


 木場の全面停止は続いている。


 そのため、記録具の試験には、ガルドの工房から小さな木槌を借りた。


「木場を動かさずに、道具が動くかだけ確かめる」


 サラの家から十分離れた地面。


 杭を一本。


 小さく叩く。


 こん。


 記録板の重りが揺れる。


 先端の炭が、中央の円へ短い線を残した。


「動いた」


 ミラが言う。


「風でも揺れる?」


 ネッサが窓を開ける。


 風が入る。


 重りがゆっくり揺れ、別の方向へ線を描く。


「区別できない」


「作業するときは窓と扉を閉める」


「人が歩いたら?」


 床を強く踏む。


 板の線が動く。


「近くに人を入れない」


「家で暮らしながら測るなら?」


「毎回外へ出る?」


「それじゃ、普段の揺れ方じゃない」


 測ることにも限界がある。


「作業開始の印を別につける」


 ミラが言った。


「その前の半刻も残す」


「普通に暮らしているときの線と、作業中の線を比べる?」


「ああ」


 作業だけの影響を完全に分けることはできない。


 でも、前後を見れば違いは分かるかもしれない。


「人が歩いた回数も書く?」


「全部は無理」


「じゃあ、測った線も絶対じゃない」


「絶対じゃない」


 俺は答えた。


「目安」


 数字や線があれば、正しい答えが一つ出ると思っていた。


 だが、測り方。


 家の使い方。


 風。


 人の動き。


 全部が混ざる。


「測ったから正しいじゃない」


 ミラが言う。


「何が混ざってるか考える」


「うん」


「人の気持ちも?」


 突然、こちらを見た。


「考える」


「測れないよ」


「だから、聞く」


「聞いたあと、すぐ直そうとしない?」


 答えに迷う。


「努力する」


「それ、信用できる分かった?」


 カイの言葉を使った。


「信用されるまで、聞く」


 ミラは少しだけ口元を緩めた。


 笑ったとは言えないほど、小さな変化だった。


     ◇


 夕方。


 共同地図の前で、仮住まいと補償について再び話し合うことになった。


 サラたちは、帰り火の中にある空いた小屋へ移れることになった。


 以前、昼だけ町で働く男が使っていた場所。


 男は今月から町の工房へ住み込みになり、寝具だけが残っている。


「役場の記録では、空き家ではありません」


 リゼが言った。


「本人の使用権があります」


「使ってないのに?」


「荷物があります」


 空き家に見えても、誰かの場所。


 以前学んだことだ。


「本人へ聞いた?」


「町の工房で確認しました。三十日間に限り、サラさんたちが使うことを認めるそうです」


「代わりに?」


「屋根の小さな穴を直してほしいとのことです」


「商会が直す」


 ヴァルクが答えた。


「仮住まいの費用として処理します」


「今夜から入れる?」


「炉の確認が終われば」


「寝る場所は決まった」


 サラが息を吐いた。


 昨日から初めて、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


     ◇


「地図、直さないの?」


 ルナが尋ねた。


 共同地図は、昨日の振動で傾いたままだ。


「今から見る」


 俺は石台へ手をかける。


「一人で動かすな」


 ガルドが言った。


「支えを入れる」


 傾いた柱の横へ仮の棒を当てる。


 屋根と板の重さを受けてから、緩んだ石台を直す。


「板のひびは?」


「裏へ当て木」


「表から見える?」


「残す」


 ひびを完全に隠さず、動いた場所として記録する。


「木場の印、変じゃない?」


 ミラが地図を指した。


 商会の木場を示す印。


 昨日までは、丸太と小さな帳簿の絵だった。


 その周囲だけ、板の表面が荒れている。


「割れたせい?」


「違う」


 指で触る。


 刃物で削った跡。


 木場の印の一部が、意図的にえぐられている。


「誰かが消した?」


 カイが近づく。


「商会の印だけ」


 ヴァルクの表情が変わる。


「いつですか」


「朝はあった?」


 俺が尋ねる。


「話し合いのときは、見てない」


「昨日の夜?」


 誰も分からない。


「ベルン」


 オーデンが言った。


「何だ」


「木場をなくせって言ってただろ」


「だから俺が削ったって?」


「ほかに誰がいる」


「お前は商会の犬か!」


「やっぱりお前だろ!」


 二人が再び前へ出る。


「やめろ!」


 サラの声。


「証拠もないのに決めつけるな!」


「木場を嫌ってる奴は、ほかにもいる」


「子どもがやったかもしれない」


「ミラの怪我を見た奴なら」


 何人もの視線が、子どもたちへ向く。


 木の輪を壊された少年。


 サラの娘。


 カイ。


 ミラ。


「わたしじゃない」


 ミラが言った。


「誰も、ミラだとは」


「見たから」


 疑われる前に否定しなければならない空気。


「全員、地図から離れて」


 俺は言った。


「削り跡を見る」


「犯人を見つける?」


 カイが尋ねる。


「まず、いつ、何で削ったか」


「また物から見るのか」


 カイの声は冷たい。


 昨日と同じことを繰り返しているように聞こえる。


「誰かを勝手に疑わないため」


 俺は答えた。


「削り方が分かれば、使った道具が分かるかもしれない」


「道具の持ち主が犯人?」


「借りたかもしれない。落ちてた物かもしれない」


「じゃあ、分からない」


「分からないまま、ベルンさんや子どもを犯人にするよりいい」


 カイはしばらく黙った。


「見るだけなら」


     ◇


 削り跡は浅かった。


 刃物で何度もこすった跡。


 木場の印を完全に消す前に、途中で止めている。


「刃は広くない」


 ガルドが言う。


「小刀か、古いのみ」


「作業員の道具?」


「住人も持ってる」


 犯人へつながる特徴はない。


「この黒い線は?」


 ミラが削られた場所の中央を指す。


 新しい木の色の中。


 細い黒い筋が見えている。


「汚れ?」


 布で拭く。


 消えない。


「焼け跡だ」


 ガルドが表面を少しだけ削る。


 黒い線が広がった。


 真っすぐではない。


 何かの形。


「商会の印の下に、別の印がある」


 木場の看板用に提供された板は、新しい板ではなかった。


 ヴァルクが言っていた。


 木場の看板として使う予定だった大きな板。


 表面を削り、塗り直した物。


「どこから来た板?」


 俺が尋ねる。


 ヴァルクが記録を確認する。


「西倉庫の解体材です」


「その倉庫は、いつ建てた?」


「現在の商会が土地を借りる前からあった建物です」


「何に使われてた?」


「古い資材庫と聞いています」


 リゼが黒い線へ近づく。


「もう少し見せてください」


「削っていい?」


 俺は尋ねた。


「現在の地図を壊すことになります」


 ヴァルクが言う。


「すでに一部は削られてる」


「しかし、記録板です」


「写しを作る」


 リゼが答えた。


「現状を紙へ写したあと、必要な範囲のみ確認します」


 地図の線。


 木場の印。


 削り跡。


 ひび。


 すべて紙へ写す。


 それから、削られた周囲の表面を薄く落とした。


 黒い線がつながっていく。


 屋根のような形。


 その下に、三つの短い線。


「家?」


 ルナが尋ねる。


「三軒ある」


 ミラが言う。


 さらに右。


 丸い印。


 井戸のようにも見える。


 その下には、古い文字。


「読める?」


 俺はリゼを見る。


「現在使われている文字とは、形が違います」


「古い字?」


「一部なら」


 リゼが指でなぞる。


「西……外……」


 次の文字。


 何度も確認する。


「仮宿」


「何?」


「西外仮宿、だと思います」


 ハーレンが顔を上げる。


「聞いたことがある」


「何の場所?」


「火事や争いで家を失った者を、一時的に町の外へ住まわせる場所だ」


 住人たちが地図を囲む。


「ここが?」


 サラが尋ねる。


「断定はできません」


 リゼが言う。


「この板が、元からこの土地にあった物とは限りません」


「西倉庫から出た」


 ヴァルクが記録を見る。


「倉庫も、この西側にありました」


「古い役場の記録にないの?」


「現在の土地台帳にはありません」


「消された?」


 ベルンが言った。


「失われただけかもしれません」


「商会が隠したんじゃないのか」


「当商会が土地を借りた時点で、倉庫はすでに廃屋でした」


 ヴァルクの声が硬くなる。


「根拠なく商会を疑わないでください」


「じゃあ、誰が忘れた」


 誰も答えられない。


     ◇


 黒い文字の下には、さらに短い文が残っていた。


 焦げて消えた場所。


 虫に食われた場所。


 現在の地図を描くため削られた場所。


 すべては読めない。


 リゼが分かる文字だけを紙へ写す。


「火……難……時」


「火事のとき?」


「その可能性があります」


「人を住まわせた場所に、今度は木を置いた?」


 カイが言った。


「昔の用途が今も有効とは限りません」


 リゼが答える。


「いつの記録かも分からない」


「でも、空き地じゃなかった」


 ミラが黒い屋根の印を見る。


 三つの屋根。


 井戸らしき丸。


 西外仮宿という文字。


 今の帰り火と、よく似ている。


「前にも、家をなくした人がここへ来た」


 サラが呟く。


「何で、いなくなったんだろう」


「火事が終わって、町へ戻った?」


「追い出された?」


「病気?」


「空堀を埋めた時期と同じかもしれない」


 ドムが言う。


「地面の下にも、何か残ってる?」


 カイが尋ねる。


「勝手に掘るな」


 全員が一斉にカイを見る。


「掘らないよ」


「信用される分かった?」


 ミラが尋ねる。


「それ、俺の言葉」


「帰り火では、みんなに言うんでしょ」


 カイは少し不満そうに頷いた。


     ◇


「地図を削った人が、この印を知ってた可能性は?」


 俺が尋ねた。


「古い印を出すために削った?」


 リゼが考える。


「なら、なぜ木場の印だけを選んだのでしょう」


「下にあるのを知ってた」


「板を以前見た人?」


「商会へ渡る前?」


 ヴァルクが西倉庫の記録を探す。


「解体に関わった者を確認します」


「犯人探しをするの?」


 サラが尋ねる。


「記録板を損傷したことは事実です」


「でも、削らなければ古い印は見つからなかった」


「見つかったことと、許可なく削ったことは別です」


 ヴァルクは曲げない。


「罰する?」


「理由を聞いてからです」


「すぐ追い出さない?」


「住人の決まりでも、最初は片づけと説明だったはずです」


 灰のルール。


 間違えて捨てたなら、自分から名乗り、直せば記録へ残さない。


 隠して繰り返せば問題になる。


「自分から名乗れるようにする」


 俺は言った。


「今日の日暮れまで」


「何をする?」


「共同地図の横に、削った理由を書ける板を置く」


「文字を書けない人は?」


「印でもいい」


「名前は?」


「書かなくていい」


「それじゃ、誰か分からない」


「先に理由を知る」


 ヴァルクは納得していない顔をする。


「名乗らなかった場合は?」


「そのあと考える」


「遅らせるだけです」


「今、全員が疑い合ってる」


 ベルン。


 オーデン。


 子どもたち。


 商会。


「このまま聞けば、犯人じゃない人まで怒鳴られる」


 昨日の俺なら、削り跡と道具だけを調べていたかもしれない。


 今も、調べることは必要だと思う。


 でも、その前に誰かを追い詰めれば、理由は聞けなくなる。


「一日だけです」


 リゼがヴァルクへ言った。


「役場も認めます」


「記録板は役場の管理物です」


「現在は、住人と商会が共同使用しています」


「……日暮れまでです」


 ヴァルクが折れた。


     ◇


 共同地図の木場の印は、削られたまま残した。


 消えかけた現在の印。


 その下から現れた古い三軒の屋根。


 新しい地図と、昔の印が重なっている。


「直さないの?」


 ルナが尋ねる。


「まだ」


「壊れてる」


「何があったか分かるまで残す」


「ひびも?」


「残す」


「地図、どんどん汚くなるね」


「町も、ずっときれいなままじゃない」


 家が増え。


 道が曲がり。


 溝が詰まり。


 印が削られる。


 そのたび、描き直してきた。


「新しい板へ替えた方が早い」


 カイが言う。


「替えたら、古い印がなくなる」


「写せばいい」


「板そのものが、ここにあった」


「今まで誰も知らなかった」


「だから残す」


 カイは黒い屋根の印へ触れないよう、指を近づける。


「昔の人も、帰り火って呼んでた?」


「分からない」


「家へ帰る火は、あったかな」


「炉があれば」


「煙も?」


「ああ」


 今の住人たちより前。


 同じ土地へ、家をなくした人が集まっていた。


 その人たちは、どこへ行ったのか。


 なぜ記録から消えたのか。


     ◇


 日が傾くころまで、理由を書く板には何も増えなかった。


 文字も。


 印も。


「名乗らないね」


 ミラが言う。


「夜に来るかもしれない」


「来なかったら?」


「調べる」


「道具から?」


「ああ。でも、最初から犯人って決めない」


「少し変わったね」


「少し?」


「昨日のレオと比べて」


 ヴァルクと同じ言い方だった。


「ミラ」


「何?」


「昨日のこと」


「今は、全部許したわけじゃない」


「分かってる」


「分かったって言うだけ?」


「聞く」


 ミラは、しばらく黙った。


「怖かった」


「うん」


「棚が落ちたときじゃない」


「その前?」


「木場で、みんなが怒鳴ってたとき」


 予想していなかった。


「ゲイルさんに?」


「ベルンさんも。カイも。レオも」


「俺も怒鳴った?」


「大きい声だった」


「ごめん」


「まだある」


 口を閉じる。


「レオが、誰の味方か聞かれて、答えられなかったとき」


「うん」


「わたしも、分からなくなった」


「誰の味方か?」


「レオが、誰を一番大事にしてるか」


 胸が強く鳴った。


「ミラたちだよ」


「たち?」


 言葉を間違えた気がした。


「エナと、ミラと」


「帰り火の人は?」


「大事」


「カイは?」


「大事」


「木場の人も?」


「怪我してほしくない」


「やっぱり、みんなだ」


 ミラの声は怒っていない。


 けれど、寂しそうだった。


「みんなが大事じゃ駄目?」


「駄目じゃない」


「じゃあ」


「わたしが怖かったとき、わたしだけを見てほしかった」


 答えを探す。


 でも、今は探さない。


「うん」


「直し方は言わないの?」


「言わない」


「次は先に見るって約束しない?」


「約束しても、危ない壁があったら見る」


「正直だね」


「でも、ミラが怖かったことを、あとにしない」


「どうやって?」


「分からない」


 ミラは初めて、少し笑った。


「それは、信用できない分かった」


「信用されるまで、やる」


「何を?」


「聞く」


 ミラは完全には笑わなかった。


 それでも、家へ帰るときは、朝より少し近くを歩いていた。


     ◇


 日暮れ。


 共同地図の横へ置いた小さな板には、まだ何も描かれていない。


 灯守りが、入口の箱灯りへ火をつける。


 弱い光が、削られた木場の印と、下から現れた古い屋根を照らす。


 現在の帰り火。


 昔の仮宿。


 同じ板の上に、二つの時代が重なっている。


 木場をなくしたい者。


 木場で働く者。


 家を直してほしい者。


 仕事を止めたくない者。


 正しいことは、一つではなかった。


 家を守る側。


 仕事を守る側。


 どちらかが正しく、どちらかが間違いなら、話は簡単だった。


 だが、ベルンにも失いたくない家がある。


 オーデンにも失いたくない仕事がある。


 サラは家を壊され、同時に木場から来る材料で働いている。


 ヴァルクは商会を守りながら、作業を止めた。


 カイは家を失うことを恐れ。


 ミラは、俺に自分を見てほしかった。


 俺は、誰も傷つけたくないと思いながら、誰の隣にも立てていなかった。


 全員に正しい答えを渡そうとしていた。


 けれど、人が欲しいのは、いつも答えとは限らない。


 隣で怒る人。


 怖かったと言える相手。


 自分の仕事や家を、失いたくないと認めてくれる者。


 正しい側を選ぶ前に、立つ場所を選ばなければならないときがある。


 俺は削られた地図を見る。


 誰が削ったのかは、まだ分からない。


 けれど、その傷の下から現れた物は、はっきりしていた。


 この土地は、何もない空き地ではなかった。


 昔にも、家をなくした人が集まり。


 屋根を作り。


 火を使い。


 帰る場所にしようとした。


 忘れられた居場所の上へ、俺たちは新しい居場所を作っている。


 そして、忘れられた理由を知らないまま。


 日暮れの鐘が鳴った。


 名乗り出る者はいなかった。


 ただ、灯りの下にある古い文字だけが、昨日までより濃く見えていた。


お読みいただきありがとうございます。


帰り火の住人たちは、木場を残すかどうかをめぐって意見が分かれました。

さらに、削られた共同地図の下から、かつてこの土地が「西外仮宿」と呼ばれていた可能性が浮かびます。


次回、レオたちは古い役場記録と西倉庫跡を調べ、この土地から人々が消えた理由へ近づきます。


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