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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第二部 町をつなぐ

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25/28

第二十五話 ひび割れは、壁だけに入らない

 木場の音は、朝鐘より早く帰り火へ届いた。


 どん。


 少し間を置いて、もう一度。


 どん。


 俺は布団の中で目を開けた。


「雷?」


 隣で眠っていたミラが、顔だけを毛布から出す。


「空は晴れてる」


 屋根を打つ雨音もない。


 三度目。


 どん。


 床板が、ほんのわずかに震えた。


 壁へ掛けた木の匙が揺れ、かすかな音を立てる。


「木場?」


 俺は身体を起こした。


 窓板を開ける。


 まだ朝鐘前。


 薄い空の下で、木場の作業員たちが動き始めていた。


「作業は朝鐘からじゃなかった?」


 ミラも窓を覗く。


「荷下ろしじゃない」


 木材を地面へ置く低い音ではない。


 一定の間隔で繰り返される、硬い衝撃。


「何か叩いてる」


 エナを起こさないよう、静かに扉を開ける。


 外へ出ると、音はさらに強く聞こえた。


 どん。


 地面を通して、足の裏へ小さな振動が来る。


「うるさい!」


 別の家からベルンが顔を出した。


「まだ鐘も鳴ってないぞ!」


「木場へ行く」


 俺が言う。


「俺もだ」


 ベルンは上着を羽織りながらついてくる。


「最初から信用できなかったんだ」


「何をしてるか見てから」


「見なくても分かる。商会が約束を破った」


「先に確認する」


「お前は、いつも確認だな」


 朝の冷たい空気の中。


 木場へ近づくにつれ、音は胸へ響くようになった。


     ◇


 作業員が、大きな木槌で地面の杭を打っていた。


 木材を積む場所の端。


 長い丸太が転がらないよう、支えとなる杭を何本も地面へ入れている。


「止めろ!」


 ベルンが柵の外から叫ぶ。


 作業員の木槌が止まった。


「何だ?」


「何時だと思ってる!」


「明るくなってるだろ」


「朝鐘前は作業しない決まりだ!」


「荷車を動かしてるわけじゃない」


「音は作業じゃないのか!」


 木槌を持った男が言い返そうとする。


 木場の管理小屋から、ヴァルクが出てきた。


「何がありましたか」


「この音だよ!」


 ベルンが地面を指す。


「家まで揺れてる!」


「朝鐘前の搬入は禁止していますが、場内整備については――」


「鐘まで仕事をしない約束だった!」


「正確には、騒音を伴う作業時間について、まだ正式な取り決めはありません」


 ヴァルクは冷静だった。


「決めてないなら、何をしてもいいのか」


「必要な作業です」


「眠ってる人間より、木が大事か!」


 周囲に住人が集まり始める。


 サラ。


 トルン。


 カイ。


 ほかの小屋からも、眠そうな顔の大人たちが出てきた。


「昨日、夕方の搬入が遅れました」


 ヴァルクが説明する。


「本日の荷受けまでに、長材の積み場を整える必要があります」


「商会が遅れた分を、こっちの朝に押しつけるのか」


 サラが言った。


「昨日の遅延は、車軸の故障です」


「それで、私たちが起こされる理由になる?」


 ヴァルクは少し黙った。


「作業開始を朝鐘後へ変更します」


「今さら止めても、もう起きた」


 ベルンの怒りは収まらない。


「二度とやるな」


「騒音を伴う作業は、朝鐘後とします」


「夕方は?」


「夕鐘までです」


「昼に寝る人は?」


 サラが尋ねる。


「夜の仕事から戻った人もいる」


「町の作業時間すべてを、個人の睡眠に合わせることはできません」


 ヴァルクの言葉に、何人かの顔が険しくなる。


「だから商会は嫌なんだ」


 誰かが言った。


「人が住んでることなんか、最初から邪魔としか思ってない」


「木場と住居区が共存する案へ、商会も同意しています」


「土地を十年使えるからだろ」


「商会が利益を得ることと、約束を守ることは両立します」


「今、破ったじゃないか」


 ベルンが一歩前へ出る。


「正式に決まってないと言ったはずです」


「そういう言い方が、破ったのと同じなんだよ!」


 言葉がぶつかる。


 技術の話ではない。


 何時なら音を出してよいかだけなら、鐘の時間を決めれば終わる。


 だが住人たちは、木場が自分たちを軽く見ていると感じている。


 ヴァルクは、決まっていない規則を破ったとは認められない。


「今日の木槌作業は、朝鐘後にする」


 俺は言った。


「今後の時間は、次の管理会で決める」


「お前が決めるな」


 ベルンが俺を見る。


「決めてない。話し合うって言った」


「また話し合いか」


「じゃあ、今ここで全部決める?」


「商会へ止めろと言えばいい」


「木場の仕事を全部?」


「音の出る仕事だ」


「木を積む音も出る」


「なら、家から離れた場所へ移せ」


「木場の土地は決まった」


「決めたのは、お前たちだろ!」


 ベルンの声が俺へ向けられる。


「この案を作ったのはお前だ!」


 周囲が静かになった。


「俺だけじゃない」


「地図を描いたのはお前だ」


「みんなに聞いた」


「最後に線を引いたのは誰だ」


 俺だ。


「木場と家を一緒に置けるって言ったよな」


「ああ」


「置けてないじゃないか」


「まだ最初の日だ」


「最初の日からこれだ!」


 返す言葉が見つからない。


 遠くで朝鐘が鳴った。


 木場の作業開始を認める鐘。


 けれど、誰も木槌を持ち上げなかった。


     ◇


 朝鐘後。


 住人たちは、それぞれの家へ戻った。


 木場の作業も再開した。


 ただし、杭を打つ木槌の下へ、厚い木の板を一枚挟む。


「音は変わる?」


 ミラが尋ねる。


 木槌が杭を叩く。


 ごん。


 最初より少し低い音。


 地面へ伝わる衝撃も弱くなったように感じる。


「板が衝撃を受けてる」


「板が割れない?」


「何度も使えば割れる」


 木場の作業員が答えた。


「ずっと使う方法じゃない」


「じゃあ、今日だけ?」


「杭が入れば終わりだ」


「次の積み場を作るときは?」


「また必要になる」


 今日だけの問題ではない。


「木槌を小さくする?」


「打つ回数が増える」


「杭を細くする?」


「丸太を止められない」


「穴を先に掘る」


 俺は言った。


「杭と同じ太さ全部じゃなく、先端が入る分だけ」


「地面が緩くなる」


 作業員が答える。


「浅くだ。最初の位置を決めるだけ」


 木槌で地面を一から押し広げるより、衝撃を減らせる。


「やってみる」


 一本目は、今まで通り。


 木槌を十数回。


 二本目は、細い鉄棒で先に穴を作る。


 杭を入れ、木槌。


 必要な回数は半分ほどになった。


「音も減る」


 ミラが言う。


「仕事は増えた」


 作業員が不満そうに鉄棒を抜く。


「叩く回数は減った」


「穴を作る時間がある」


「身体は?」


 大きな木槌を振る回数が減れば、作業員の負担も軽くなるかもしれない。


「慣れれば、こっちの方が楽か」


 男は認めた。


「全部これでやる?」


「地面が硬い場所はな」


 柔らかい場所では、穴を作れば杭が緩くなる。


 場所ごとに変える。


 また、技術で一つ解決できそうに思えた。


     ◇


 昼近く。


 サラの小屋へ行くと、室内の壁に糸が何本も張られていた。


「何してるの?」


 ミラが尋ねる。


「針仕事」


 サラは布を広げている。


 糸は、仕立てのために使っているものではない。


 天井から小さな金属片を吊るし、壁の前へ垂らしていた。


「揺れを見る?」


 俺が尋ねる。


「あんたたちが、いつも糸で見るからね」


 サラが少し皮肉っぽく答えた。


 木場で木槌が鳴る。


 ごん。


 吊るした金属片が、わずかに揺れる。


「前から揺れてた?」


「木場ができる前に、こんな物は吊るしてない」


「比べられない」


「だから、揺れてないって言うつもり?」


「そうじゃない」


 サラの作業台には、水を入れた浅い器も置かれている。


 木槌が鳴るたび、水面へ小さな波ができた。


「針がずれる?」


 ミラが尋ねる。


「細かい仕事のときはね」


「ずっと木槌を使うわけじゃない」


 俺は言った。


「今日は杭。明日は丸太を置く音。その次は何?」


 木場では、木材を下ろす。


 積み替える。


 楔を打つ。


 荷車が通る。


 常に同じ音ではないが、仕事が続く限り完全にはなくならない。


「作業場所を家の反対側にできない?」


 ミラが尋ねる。


「こっちが一番明るい」


 サラの針仕事には光が必要だ。


 南寄りの開口。


 木場とは反対側だが、地面を通る振動は壁の向きだけでは避けられない。


「机の脚の下へ布を入れる」


 俺は作業台を見る。


「床へ直接振動が伝わりにくくする」


「机を直せば、木場はそのまま?」


 サラの声が冷たくなる。


「両方やる」


「木場には何をさせる?」


「杭の打ち方を変えた」


「それだけ?」


「丸太を下ろす場所にも、受ける木を置く」


「私の家は?」


「壁と床の状態を見る」


 サラは針を置いた。


「結局、家が古いから揺れるって言いたいの?」


「まだ調べてない」


「調べて、古いって分かったら?」


「必要な補強を考える」


「誰がお金を出す?」


 答えられない。


 木場の振動で悪くなったなら商会。


 元から傷んでいたなら住人。


 両方なら。


「まず原因を見る」


「原因が二つなら、弱い方が払うの?」


「そんなことは言ってない」


「まだね」


 サラは再び針を持った。


「見ていいよ。壁は壊さないで」


     ◇


 小屋の石壁を調べる。


 外側。


 内側。


 石の継ぎ目。


 窓の周囲。


 大きな割れはない。


 ただし、北側の角に細いひびがあった。


「前から?」


「知らない」


「最近、広がった?」


「毎日壁を測ってない」


 ひびの上へ薄い粘土を塗り、線を引く。


 動けば粘土が割れる。


「今日だけじゃ分からない」


「いつまで待つ?」


「木場の作業ごとに見る」


「ひびが広がるまで?」


「広がる前に、振動の大きい作業を調べる」


 俺は壁へ手を当てる。


 木槌。


 ごん。


 小さな振動。


 石同士が動くほどではないように感じる。


 しかし、手の感覚だけでは分からない。


「器の水を、壁際と部屋の中央に置く」


「何が分かる?」


「どこで揺れが強いか」


 同じ器。


 同じ量の水。


 床。


 作業台。


 窓の下。


 木槌が鳴る。


 床の器は小さく揺れた。


 窓の下は、少し大きい。


「壁が揺れを増やしてる?」


「窓の周りが弱いかもしれない」


「木場から来た振動だよね」


「振動は木場から」


「なら、木場が悪い」


「でも、同じ振動でも――」


「今は、その言い方やめた方がいいよ」


 ミラが小さな声で言った。


「何で?」


「サラさん、怒ってる」


「原因を分けないと直せない」


「分ける前に聞いて」


「聞いてる」


「聞いてる顔じゃない」


 ミラの言葉に、サラが少し視線を逸らした。


 俺には、何が違うのか分からなかった。


     ◇


 午後。


 木場では、丸太の積み替え試験が始まった。


 今までは、荷車から地面へ直接近い位置まで下ろし、最後に落としていた。


 その衝撃が地面へ響く。


「受け木を二段にする」


 ガルドが太い端材を組んでいる。


 上へ丸太を載せ。


 縄を緩めながら、少しずつ下ろす。


「一気に落とさない」


 空き家の梁を下ろしたときと同じ。


「時間がかかります」


 木場の現場責任者が言った。


 名前はゲイル。


 太い腕と短い灰色の髪。


 ヴァルクより現場に慣れているが、話し方は荒い。


「今まで、このやり方で問題はなかった」


「今までは、隣に家がなかった」


 俺は答えた。


「あとから勝手に住みついた奴らへ、全部合わせろと?」


「今は住居区として認められてる」


「一年の試験だろ」


「木場も同じ土地を使う試験だ」


 ゲイルの目が細くなる。


「子どもが現場へ口を出すな」


「配置案を作ったのはレオです」


 ヴァルクが言った。


「現場の責任は俺だ」


「なら、振動を減らす方法も確認してください」


「荷を落としたくらいで壊れる家なら、先に家を直せ」


 近くにいた住人たちが反応する。


「聞いたか!」


 ベルンが声を上げる。


「商会の本音だ!」


「事実だろ」


 ゲイルは引かない。


「倉庫でも工房でも、物を落とせば音はする。静かな場所が欲しければ、森の奥にでも住め」


「その森から、木を取って金にしてるのは誰だ!」


「仕事をしてるんだ!」


「俺たちも暮らしてる!」


 柵を挟み、怒鳴り声が飛ぶ。


「止めて」


 俺は間へ入ろうとする。


「レオは、どっちなんだ」


 カイが突然言った。


「何が?」


「商会の仕事も必要って言った」


「ああ」


「家も残すって言った」


「ああ」


「両方できるって」


「できる方法を探してる」


「まだ探してるのか?」


 カイの声は大きくない。


 それでも、怒鳴り声より胸へ響いた。


「俺たちは、もうここに住んでる」


「分かってる」


「木場は、これからでも変えられる」


「全部は変えられない」


「じゃあ、家が我慢するの?」


「我慢じゃない。木場も音を減らす」


「ゲイルは減らす気ない」


「ヴァルクさんと話す」


「また話す」


 ベルンと同じ言葉。


「レオは、商会のことも分かるって言う」


 カイが続ける。


「役場のことも。住人のことも」


「全部関係するから」


「全部の味方なら、誰の味方でもないだろ」


 言葉が出なかった。


     ◇


「試験を続けます」


 ヴァルクが場を動かした。


「受け木を使用した場合と、使用しない場合を比べます」


「まだやるのか」


 ベルンが言う。


「結果を見ずに禁止を求めるのですか」


「家が壊れてからじゃ遅い」


「だから、小さい材から試します」


 最初は短い丸太。


 受け木なし。


 腰より低い位置から地面へ下ろす。


 どん。


 サラの小屋に置いた水の器。


 ミラが見ている。


 波が立つ。


「次、受け木あり」


 丸太を端材の上へ載せる。


 縄を緩める。


 ごと。


 音は小さい。


 器の水も、わずかに揺れるだけ。


「変わった!」


 ミラが木場へ向かって声を上げる。


「使える」


 俺は言った。


「全部これで下ろす」


「時間が倍になる」


 ゲイルが答える。


「人を増やす?」


「商会が払うのか?」


「木場の作業だ」


「この程度の音で文句を言う住人のために?」


 また言葉が悪い。


「ゲイルさん」


 ヴァルクが止める。


「何だ。事実だろ」


「木場を継続するには、住居区との合意が必要です」


「商会が頭を下げれば、次は匂い、その次は埃、その次は道だ。全部言う通りにするのか?」


 誰も答えない。


 実際、問題は増えている。


 音。


 振動。


 灯り。


 荷車。


「全部、困ってるから言ってる」


 ミラが言った。


「子どもの困ったに付き合って、仕事は進まない」


「子どもも住人だよ」


「働いてから言え」


「働いてる!」


 ミラが柵へ一歩近づく。


「溝も掘った。灰も片づけた。灯りも――」


「ミラ、下がって」


 俺が腕を伸ばす。


「レオは黙ってて!」


 振り払われた。


 初めてだった。


     ◇


 そのとき、木場の奥で大きな音がした。


 ぱきん。


 木が割れる乾いた音。


「止めろ!」


 ガルドが叫ぶ。


 積み上げられた丸太の一段目。


 転がり止めとして置かれた楔の一つが、中央から割れていた。


 丸太がわずかに動く。


「柵から離れろ!」


 作業員たちが住人を下がらせる。


 ゲイルが丸太の前へ走ろうとする。


「前へ入るな!」


 ガルドが怒鳴る。


 一本目の丸太が、割れた楔を押しつぶす。


 その隣。


 二本目も動く。


 積まれた材木全体が、ゆっくり斜めへずれ始めた。


「横の止めを入れろ!」


 作業員が長い棒を使い、外側から新しい楔を押し込む。


 だが、丸太の重さに弾かれた。


「木場側へ逃がせ!」


 人のいない作業空地。


 丸太が転がる方向へ誰も入らない。


 縄を切る。


 上段の丸太が一本、積み場から落ちた。


 どん!


 地面が揺れた。


 今までの木槌や短材より、ずっと大きい。


 サラの小屋から悲鳴が聞こえた。


「ミラ!」


 俺は走った。


     ◇


 サラの小屋では、壁へ取りつけていた棚が床へ落ちていた。


 布。


 糸巻き。


 木箱。


 割れた器。


「誰か下にいる?」


「いない!」


 サラが答える。


「子どもは?」


「こっち!」


 部屋の隅。


 ミラが、サラの娘を抱えるようにして座っていた。


「怪我は?」


「この子は大丈夫」


「ミラは?」


「大丈夫」


 声が硬い。


 右腕の袖が裂けていた。


 その下に、細い赤い線が見える。


「血が出てる」


「棚の端が当たっただけ」


 俺は近づこうとする。


「待って」


 壁から、細かな土が落ちた。


「全員、外へ出て」


「でも道具が――」


「触らないで。壁が動いたかもしれない」


 サラの娘を先に外へ。


 サラ。


 ミラ。


 全員を小屋から出す。


 俺は入口の外から、北側の角を見る。


 粘土を塗った細いひび。


 中央に、新しい割れが入っている。


「広がってる」


 外壁側。


 窓の下。


 石の継ぎ目から、新しい粉が落ちていた。


「木場のせいだ」


 サラが言った。


「丸太が落ちたから」


「家を調べる」


「先にミラを見て」


 サラの声に振り返る。


 ミラは自分の袖を押さえている。


「傷を洗う」


 俺が手を伸ばす。


「今さら?」


「何が?」


「最初に壁を見た」


「中に残ったら危ないから」


「外に出てからも、ひびを見た」


「家が崩れるかもしれなかった」


「わたしも血が出てた」


「大丈夫って言った」


「見れば分かるでしょ!」


 周囲が静かになる。


「壁のひびは見つけられるのに、これは見えなかったの?」


「ミラ」


「レオには、家の方が大事なんだ」


「違う」


「いつもそう!」


「違うって」


「雨が降れば屋根。水が出れば溝。音がしたら壁!」


 ミラの目に涙が浮かんでいた。


 傷が痛いからだけではない。


「人がいるから直してる」


「だったら、最初に人を見てよ!」


 何も言えなかった。


 俺は危険な壁から人を離した。


 間違ったとは思わない。


 それでも。


 ミラは怪我をしていた。


 怖かったはずだ。


「ごめん」


「今は聞きたくない」


 ミラはサラから布を受け取り、自分の腕へ巻く。


「エナのところへ帰る」


「一緒に――」


「来ないで」


 サラの娘が、心配そうにミラを見る。


「わたしは大丈夫」


 ミラは少女へ笑いかけた。


 俺には顔を向けず、歩いていった。


     ◇


「小屋は危険なのか」


 ベルンが尋ねる。


 住人たちは、サラの家を囲んでいる。


「今すぐ崩れる状態ではない」


 俺は答えた。


「入っていい?」


「まだ駄目。ガルドさんとドム親方に見てもらう」


「木場が壊したんだろ」


 誰かが言う。


「前からひびがあった」


 その一言で、空気が変わった。


「何だと?」


「今朝、細いひびを見つけてた。粘土を塗って、動くか見てた」


「じゃあ、家が悪いって言うのか」


 サラが俺を見る。


「違う」


「前から壊れてたから、木場には責任がない?」


「そんなこと言ってない」


「今、最初に前からひびがあったって言った」


「原因を調べないと、直し方も負担も決められない」


「私の娘とミラが棚の下敷きになりかけたんだよ!」


「分かってる」


「分かってない!」


 サラの声が震える。


「今必要なのは、家が古かったって話じゃない。木場を止めることだ!」


「積み場は止める」


「木場全部だ!」


「荷車や別の作業まで止める必要があるかは――」


「まだ商会の心配をするのか!」


 住人たちの視線が俺へ集まる。


「レオ」


 カイが言った。


「やっぱり、どっちの味方なんだ」


「誰かの味方だけで決めたら、原因を間違える」


「今は、俺たちの家が壊れた」


「だから、正しく調べる」


「正しい、正しいって」


 カイが拳を握る。


「正しかったら、ミラが怪我してもいいのか」


「そんなわけない!」


 思わず声が大きくなる。


「じゃあ、木場を止めて」


「危険な作業は止める」


「全部」


「全部止めたら、商会との約束を――」


「約束を守って怪我するなら、何のための約束だよ!」


 返せなかった。


     ◇


 木場では、積み上げ作業が停止していた。


 割れた楔。


 落ちた丸太。


 削られた地面。


「楔を見せて」


 俺が言う。


 ゲイルが顔をしかめる。


「今は住人を落ち着かせろ」


「なぜ割れたか調べる」


「見れば分かる。木が弱かった」


 割れた楔を拾う。


 表面は新しく削られている。


 だが、割れた内部には黒い筋があった。


「腐り?」


 ガルドが横から受け取り、刃物で削る。


「古い虫穴もある」


「使える材を選んだ」


 ゲイルが言う。


「誰が?」


「俺だ」


「木槌で叩いたか」


「楔だぞ。そこまで調べるか」


「丸太を止める楔だ」


 ガルドの声が低くなる。


「計画では、硬い新材を使うことになってた」


 ヴァルクが帳簿を開く。


「楔材は、北倉庫から搬入された樫材のはずです」


「樫を全部使えば、金がかかる」


 ゲイルが答える。


「端材で十分だと思った」


「あなたの判断で変更したのですか」


「現場じゃ普通だ」


「変更を記録しましたか」


「楔一本まで書くのか?」


「その一本で丸太が落ちました」


 ヴァルクの声から、いつもの冷静さが消えていた。


「誰も怪我していない」


「住居で棚が落ち、子どもが負傷しています」


「かすり傷だろ」


 後ろで、ベルンが動いた。


 ゲイルの胸元をつかむ。


「もう一度言ってみろ」


「離せ!」


「かすり傷ならいいのか!」


 木場の作業員たちが集まる。


 住人も前へ出る。


「やめろ!」


 ドムの声が響く。


「ここで殴れば、次に丸太が落ちたとき誰が止める!」


「こいつらが落としたんだ!」


「だから調べてる!」


 ベルンはゲイルを離した。


 だが、両者の間に戻れる道は見えなかった。


     ◇


 サラの小屋を、ガルドとドムが確認する。


 棚の固定。


 壁のひび。


 窓の上の木。


 基礎。


「棚の留め木が短い」


 ガルドが言う。


「壁へ指一本分しか入ってない」


「前から?」


「建てたときからだろう」


「じゃあ、木場の振動がなくても落ちた?」


 俺が尋ねる。


「いつかはな」


「今日落ちたのは?」


「丸太の衝撃がきっかけだ」


 ドムが壁のひびを見る。


「ひび自体も古い。だが、新しく動いた跡がある」


「原因は両方?」


「古い弱りと、新しい振動」


 家だけが悪いわけではない。


 木場だけが原因でもない。


「それを、住人に説明するのか」


 ガルドが尋ねた。


「ああ」


「今すぐ?」


「早い方がいい」


「レオ」


 ガルドは、俺の目を見る。


「正しいことを早く言えば、正しく伝わると思うな」


「でも、隠せない」


「隠せとは言ってない」


「じゃあ、どうする」


「先に、今夜どこでサラたちを寝かせるか決めろ」


 小屋は、補強が終わるまで使えない。


 サラと娘二人。


「俺たちの家は狭い」


「カイたちの家も」


「ネッサの詰め所?」


「ルナが戻ったばかりだ」


「共同の空いてる場所」


 帰り火には、人を泊められる共同建物がない。


「布と木場の板で、仮小屋を作る?」


「日が落ちる」


「じゃあ」


「考える順番を変えろ」


 ガルドが言った。


「原因より、人だ」


 ミラと同じ言葉だった。


     ◇


 サラたちは、今夜だけマーヤの店の奥へ泊めてもらえることになった。


 針仕事を受けている関係で、以前から知っている。


「明日以降は?」


 サラが尋ねる。


「壁を補強する」


「木場が払う?」


「商会と役場で話す」


「まだ決まらない?」


「原因が両方だから」


 サラの顔が硬くなる。


 また同じ言い方をしてしまった。


「でも、住めなくなったのは今日だ」


「仮住まいの費用は、商会へ求める」


 俺は続けた。


「補強費は、家の元の傷みと、今日の振動を分けて考える」


「分けられるの?」


「完全には難しい」


「なら、また話し合い?」


「ああ」


「私たちは、話し合ってる間も家がない」


「分かってる」


 サラは荷物を抱える。


「それを、最初に言えばよかったんだよ」


 俺を見ず、娘たちと歩いていった。


     ◇


 木場は、翌日の作業を全面停止することになった。


 ヴァルクが決めた。


「商会が全部止める?」


 俺が尋ねる。


「積み場だけを止めても、住人は納得しないでしょう」


「契約は?」


「事故調査と安全確認による一日停止は、商会の損失として処理します」


「ゲイルさんは?」


「現場責任から外します」


 ゲイルは何も言わず、管理小屋の中にいる。


「楔一本で?」


「楔を変更したことではありません」


「じゃあ」


「変更を記録せず、安全に関わる材料を確認しなかったこと。事故後、負傷を軽視する発言をしたことです」


「商会でも、人のことを見る?」


 ヴァルクが俺を見る。


「それは、どういう意味です」


「何でもない」


「ミラさんの怪我は?」


「浅い傷」


「会いましたか」


「帰ってから」


「先に行かなくてよいのですか」


 商会の男に言われた。


     ◇


 帰り火の共同地図は、丸太が落ちた衝撃で傾いていた。


 木場から直接当たったわけではない。


 石台の一つが、振動で緩んだらしい。


 板そのものにも、中央へ細い割れが入っている。


 住人の家を示す線。


 木場。


 道。


 その間を、割れ目が斜めに通っていた。


「直す?」


 カイが尋ねる。


「今日は触らない」


「いつもなら、すぐ見るのに」


「ミラのところへ行く」


 カイは何も言わなかった。


 俺が歩き始めると、後ろから声がした。


「レオ」


「何?」


「俺は、木場をなくしたいわけじゃない」


「分かってる」


「分かってない」


 カイは割れた地図を見る。


「俺は、また家がなくなるのが嫌なんだ」


「なくさない」


「絶対?」


 答えられない。


「その言い方はしないんだろ」


「ああ」


「だったら、なくならないように、今はこっちにいてよ」


「こっちって?」


「家に住んでる人の方」


「木場で働く人にも暮らしがある」


「そういうところだよ」


 カイは背を向けた。


     ◇


 家へ戻ると、エナがミラの腕へ薬を塗っていた。


 傷は長いが浅い。


 血は止まっている。


「ただいま」


 ミラは返事をしない。


「傷、大丈夫?」


「見れば分かるんじゃない?」


「ごめん」


「何が?」


「最初に見なかったこと」


「危ない壁を見てたんでしょ」


「それでも、ミラが怪我してた」


「家が崩れたら、もっと怪我した」


「そうだけど」


「なら、間違ってないじゃん」


 正しい。


 危険な建物から人を離す。


 構造が動いていないか確認する。


 間違ってはいない。


「間違ってないけど、傷つけた」


 俺は言った。


 ミラが初めてこちらを見る。


「それ、どういう意味?」


「正しくても、ミラが怖かったことは消えない」


「……怖くない」


「俺は怖かった」


 棚が落ちた小屋へ走ったとき。


 ミラが見えなかった一瞬。


 胸の中が冷たくなった。


「じゃあ、どうして壁を見たの?」


「まだ落ちるかもしれなかったから」


「わたしより?」


「比べたんじゃない」


「レオは、いつも比べるよ」


「何を?」


「どっちが危ない。どっちを先に直す。どっちが正しい」


 ミラは包帯を見下ろす。


「人の気持ちも、順番を決めるの?」


「決めないと、動けない」


「だから、わたしは壁のあとだった」


「違う」


「何が違うの?」


 言葉が出てこない。


 エナは、何も言わず俺たちを見ている。


「わたし、レオが家ばっかり見てても、分かってるつもりだった」


 ミラが言う。


「人のためだって」


「そうだよ」


「でも今日、分からなくなった」


「ミラ」


「今は、話したくない」


 ミラは立ち上がり、自分の寝る場所へ移る。


 同じ一部屋。


 離れられる距離は少ない。


 それでも、背中を向けた。


     ◇


 夜。


 俺は外へ出た。


 木場は暗い。


 いつもなら見張り小屋に灯りがある時間だが、今夜は作業が止まっている。


 帰り火の道には、灯守りの箱灯りが二つ。


 サラたちが帰らないため、夜帰りの札は少ない。


 共同地図の前へ立つ。


 板の割れ目。


 木場と住居区を分ける線。


 道。


 排水。


 人の名前と印。


 割れは、サラの針の印の近くを通り。


 カイの石とルナの月の横をかすめ。


 木場の商会印へ伸びている。


 板を替えればいい。


 裏から別の木を当て。


 木栓を入れ。


 線を描き直す。


 技術的には難しくない。


 けれど、今壊れたのは板だけではない。


 ベルンは、俺が商会と住居を同じ場所へ置いたことを責めた。


 サラは、家が古いと言われたように感じた。


 カイは、住人の側に立てと言った。


 ミラは、家より人を見てほしかったと言った。


 ヴァルクは商会を止めた。


 ゲイルは現場から外された。


 誰も、最初の地図と同じ場所にはいない。


 正しい線を引けば、皆が納得すると思っていた。


 危険を避け。


 水を流し。


 道を分け。


 火を管理する。


 条件を一つずつ満たせば、家と木場は共存できる。


 だが、線の上で暮らすのは人だ。


 音で眠れない人。


 仕事を止められない人。


 家を失うのが怖い人。


 怪我をして、先に見てほしかった人。


 同じ振動でも、受け取る意味は違う。


 木場にとっては作業。


 住人にとっては、家を壊す音。


 俺にとっては、測って減らすべき力。


 それだけではなかった。


「レオ」


 後ろからエナの声がした。


「寒いですよ」


「もう少し見る」


「板を?」


「どこを直せばいいか」


「今夜、直すのですか」


「分からない」


 エナが隣へ立つ。


「家のひびは、見つけやすいですね」


「線があるから」


「人のひびは?」


「見えない」


「見えないから、ないと思いましたか」


 答えられない。


「家は、壊れる前に音を出すことがあります」


 エナが言う。


「木が軋み。石が動き。扉が閉まりにくくなる」


「ああ」


「人も、言葉を出していたのではありませんか」


 ベルンの怒り。


 サラの不安。


 カイの質問。


 ミラの言葉。


 全部、今日突然始まったわけではない。


「聞いてたつもりだった」


「聞いた言葉を、すぐ直す材料にしていたのでしょう」


「どういう意味?」


「悲しいと言われて、悲しい理由を直そうとする。怖いと言われて、危険な場所を探す」


「駄目?」


「直す前に、隣へいる時間も必要なのかもしれません」


 エナはそれだけ言い、家へ戻っていった。


     ◇


 俺は割れた地図の前に残った。


 板のひびへ、指を当てる。


 簡単には閉じない。


 無理に押し戻せば、別の場所が割れる。


 家と同じだ。


 支える前に動かしてはいけない。


 壊れた部分だけを見て、すぐ切り取ってもいけない。


 どこまで力が伝わっているか。


 何が残っているか。


 誰が、その場所を使っているか。


 調べる。


 でも、人の関係には下げ振りも、均し枠もない。


 器へ水を入れても、怒りの大きさは測れない。


 正しい線を一本引いて、全員を同じ高さへそろえることもできない。


 それでも、見えないからと放っておけば、いつか大きく割れる。


 帰り火の地図へ入った最初のひびは、木場の振動で生まれた。


 けれど。


 人と人の間に入ったひびは、もっと前からあったのかもしれない。


 正しい方法を探すことに夢中で、誰がその音を受け続けていたのかを、俺が見ようとしなかっただけだ。

お読みいただきありがとうございます。


木場の振動によって家が傷み、帰り火の住人と商会、そしてレオとミラの関係にもひびが入りました。


次回、木場の停止を求める住人たちと商会の間で話し合いが開かれます。レオは技術的な正しさではなく、誰の隣に立つのかを問われることになります。

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