第十四話 風は、見えなくても押している
「屋根が歌う」と聞いて、俺はもっと静かな音を想像していた。
細い隙間を風が抜ける、笛のような音。
あるいは、張られた布が低く震える音。
だが、マーヤの露店の前へ立った瞬間、その考えは間違いだったと分かった。
ばたん。
ばたばたばたっ。
頭上で布が激しく鳴る。
「歌というより、暴れてないか?」
「夜になると、もう少し上品に聞こえるよ」
マーヤが平然と答えた。
「近所の人から苦情は?」
「三軒向こうまで眠れないって」
「それは苦情だろ」
「風が強い日の話だよ」
「今日は強くない」
広場を吹く風は、人の服の裾をわずかに揺らす程度だ。
それでも、露店の屋根は何度も上下している。
四本の木柱に縄を渡し、その上へ大きな布を張った簡単な屋根。
布は赤と黄色の縞模様だが、長年使われたため色が薄くなっている。
何か所も別の布で継ぎ当てされ、端には細かな裂け目があった。
「破れたところを縫えば直る?」
ミラが尋ねる。
「何度も縫ったよ」
マーヤが屋根の端を指す。
「縫ったところの隣が、また破れるんだ」
「布が弱くなってる?」
「それもある」
俺は屋根全体を見る。
風が吹く。
布が上へ膨らむ。
縄が張る。
風が弱まると、膨らんでいた布が落ちる。
その勢いで、ばたんと音がする。
「雨は漏れる?」
「縫い目から少しね。でも、商品は下へ移せば済む」
「屋根を直してほしいんじゃないの?」
「夜うるさい方が困るんだよ。風が強い日は、屋根ごと飛んでいきそうだしね」
水を止めることより、風で壊れないこと。
屋根には、雨を防ぐ以外の役割もある。
「いつから鳴るようになった?」
「去年の秋くらいから」
「それまでは?」
「音はしたけど、今ほどじゃなかった」
「何か変えた?」
「何も」
何も変えていないように見えても、布は少しずつ伸びる。
縄も摩耗する。
柱が傾くこともある。
「屋根を張り直したことは?」
「春に一度。緩んでいたから、縄を全部締めた」
「締めたあとから、音が大きくなった?」
マーヤが少し考える。
「そう言われれば、そのころからかもしれないね」
「緩んでるんじゃなくて、締めすぎ?」
ミラが首を傾げる。
「まだ分からない」
布が緩ければ、風でばたつく。
普通なら、強く張れば音は減るように思える。
だが、張り方によっては、風を受けた布全体が一枚の大きな膜のように動くことがある。
「まず、どこが動いてるか見る」
仕事板を地面へ置く。
広場の絵や水路の記録で、描く場所はほとんど残っていない。
端のわずかな空白へ、露店を横から見た形を描いた。
「また、その板を使ってるのかい?」
マーヤが言う。
「新しいのを探してる」
「うちに薄い板ならあるよ」
「もらっていい?」
「仕事が終わったら考える」
この町では、何かを直すたびに道具が増える。
ただし、先に仕事を終えなければならないらしい。
◇
屋根の動きを見るため、布の何か所かへ短い糸を結んだ。
中央。
四隅。
風上側の端。
風下側の端。
「糸をつけるだけで分かるの?」
ミラが尋ねる。
「布そのものより、小さな糸の方が風の向きを見やすい」
「風はこっちからでしょ」
ミラが西を指差す。
頬に当たる風も、西から東へ吹いている。
「地面の上ではな」
「屋根の上は違うの?」
「柱や店の荷物に当たって、曲がるかもしれない」
見えない風は、何かへ当たれば流れを変える。
水と同じだ。
ただし、地面の低い方へ流れる水と違い、風は上下にも回り込む。
「少し離れるぞ」
正面。
側面。
露店の後ろ。
場所を変えながら糸の動きを見る。
西側の糸は、風と同じ方向へなびく。
屋根の上の糸も東へ流れる。
だが、東側の軒下につけた糸だけは違った。
風上である西の方へ吸い上げられている。
「逆に動いてる」
ミラが言う。
「屋根の下から風が戻ってる?」
「戻るというより、巻いてる」
屋根を越えた風が、風下側で渦を作っている。
その渦が布の下へ入り込み、屋根を持ち上げていた。
風が弱くなると、布は落ちる。
それを繰り返すため、大きな音が出る。
「下から風が入らないように、全部塞ぐ?」
マーヤが尋ねる。
「塞ぐと、別の場所から入った風が逃げられなくなる」
「じゃあ、入れたままにするのかい?」
「風を受けにくい形に変える」
屋根の端を見る。
風下側の布が長く垂れ下がっている。
日差しを遮るため、あとから布を継ぎ足したらしい。
「この垂れた部分、いつつけた?」
「去年の夏だよ。夕方になると、横から日が入るからね」
「春に張り直したのは、そのあと?」
「そうだね」
垂れた布が、風を受ける壁のようになっている。
風がそこへ当たり、屋根の下へ押し込まれる。
「これが風を捕まえてる」
「日よけなのに?」
「風には袋みたいに見える」
「風に目があるの?」
ミラが尋ねる。
「そういう意味じゃない」
「レオの説明は、ときどき変だよ」
自分でもそう思う。
俺は仕事板へ、屋根の横から入る風を線で描いた。
「ここへ当たった風が、布の下へ入る」
「垂れた部分を切る?」
「切る前に、上げて試す」
マーヤの大事な布だ。
一度切れば戻せない。
まず縄で巻き上げ、一時的に短くする。
風を待つ。
布はまだ動く。
だが、先ほどより膨らみが小さい。
音も少し減った。
「原因は、これだけ?」
ミラが尋ねる。
「違う」
中央の布を見る。
垂れを上げても、中央部は大きく上下している。
「まだ、布が広すぎる」
四本の柱の間を、一枚の布だけで覆っている。
風を受ける面が大きい。
中央に支えがないため、布全体が一度に膨らむ。
「真ん中へ柱を立てる?」
「店の中に柱が増えたら邪魔だね」
マーヤが即座に言った。
布を売るための台や棚が並んでいる。
中央へ柱を立てれば、人が通りにくくなる。
「柱じゃなく、縄を渡す」
「今も縄はあるよ」
屋根の四辺に沿って、太い縄が張られている。
布の端を支えるためのものだ。
「中央にも入れる。布を二つの面に分ける」
風を受ける一枚の大きな布を、中央の縄で押さえる。
左右へ分かれれば、一度に大きく膨らみにくくなる。
「上から縄で縛る?」
「下から支える」
ガルドの声がした。
いつからいたのか、露店の柱を調べている。
「工房へ行かなくていいの?」
「お前が布屋の柱を倒さないか見に来た」
「俺は柱に触ってない」
「これから触るだろ」
図を見せる。
ガルドは布屋根を見上げた。
「中央へ横木を渡した方が早い」
「柱の上に?」
「ああ。ただし、この柱じゃ支えられん」
北東の柱を手で押す。
柱が目に見えて動いた。
「こんなに傾いてた?」
マーヤが驚く。
「毎日見ていると、少しずつ動いたものは分からん」
ボルツからもらった下げ振りを取り出す。
柱の上から縄を垂らす。
重りが静まる。
柱の下端と上端では、指三本ほど位置がずれていた。
「全部の柱を見る」
残り三本も確認する。
西側の二本はほぼ真っすぐ。
東側の二本は、どちらも外側へ傾いている。
「屋根の布に引っ張られた?」
ミラが尋ねる。
「それもある」
風で布が持ち上がるたび、布を固定した縄が柱を内側や外側へ引く。
さらに、風下側の垂れ布が風を受け、東の柱へ繰り返し力をかけていた。
「地面の中は?」
柱の根元を調べる。
石の間へ差し込まれ、周囲を土で固めてある。
東側だけ、土が少し浮いていた。
柱が揺れるたび、根元の穴が広がったのだろう。
「屋根より先に、柱を直す」
俺が言う。
「ようやく順番を覚えたか」
ガルドが頷く。
支える柱が傾いたまま、屋根だけを強く張れば、さらに柱へ力がかかる。
「でも、店を閉めないと直せない?」
マーヤが不安そうに尋ねる。
「柱を抜くなら、商品を全部動かす必要がある」
露店の中には、布の束や糸、服が並んでいる。
一日店を閉じれば、その分だけ売上が減る。
「抜かずに直せない?」
「引き起こす」
ガルドが答えた。
「柱の上へ縄を結び、反対側から少しずつ引く。真っすぐに戻したら、根元を固め直す」
「折れない?」
「先に腐りを確認する」
柱の根元へ小さな刃物を当てる。
表面は黒く汚れているが、内部はまだ硬い。
上部にも大きな割れはない。
「使える」
「なら、すぐ直せる?」
「すぐと言う奴の仕事は信用するな」
最近、ドムも同じようなことを言っていた。
◇
柱を起こす前に、屋根の布を緩める。
すべて外せば店を閉じなければならないため、東側だけ縄を外す。
布が風にあおられないよう、何人かで押さえる。
「切るなよ!」
マーヤが何度も言う。
「切らない」
「その布は、南の町から仕入れたんだ。高かったんだからね」
「切らないって」
「レオは直してる途中で、必要だからって形を変えるだろ」
否定できない。
「今日は、先に聞く」
「絶対だよ」
東側の柱へ太い縄を結ぶ。
反対側は、西の柱ではなく、地面へ置いた大きな石へ回す。
「向かいの柱へ結ばないの?」
ミラが尋ねる。
「西の柱を引っ張って、そっちまで傾いたら困る」
動かしたいものと、支えるものを同じ構造の中だけで完結させると、別の部分へ負担が移る。
十分に重い石を、独立した支点として使う。
「一度に引くな」
ガルドが縄を握る。
「レオは下げ振りを見ろ」
「俺が?」
「真っすぐになったところで止めろ」
柱へ力をかけるのは大人たち。
位置を判断するのは俺。
責任者ではないが、見る役割を任された。
「分かった」
「その顔は、少し信用できるようになったな」
ガルド、ボルツ、マーヤが縄を引く。
柱がわずかに動く。
根元から、土の崩れる音がした。
「まだ」
重りと柱の位置を見る。
上端のずれが少し減った。
「もう少し!」
さらに引く。
「止めて!」
縄を石へ固定する。
下げ振りの糸と柱が、ほぼ平行になっている。
「真っすぐ?」
ミラが横から覗く。
「この向きは」
「別の向きも見る」
正面から真っすぐでも、横から傾いている可能性がある。
下げ振りを柱の別の面へ移す。
「少し、店の外側へ倒れてる」
「どちらへ引く」
ガルドが尋ねる。
「広場の方から、店の奥へ」
別の縄を追加する。
二方向から引き、柱を起こす。
「今!」
二本の縄を仮に固定する。
柱は真っすぐになった。
「ここから根元を固める」
浮いた土を取り除く。
柔らかくなった部分を残したまま押し固めても、また動く。
柱の周囲へ、小石を少しずつ入れる。
棒で突く。
別の方向からも小石を入れる。
土を薄く戻し、また締める。
「水路と同じだね」
ミラが言う。
「一度に土を戻さない」
「家の柱でも同じ?」
「地面へ直接立てるならな」
俺たちの家では、柱を石台の上へ置いた。
そのため、地面の中へ埋めた柱とは傷み方が違う。
「どうして布屋の柱は埋めてあるの?」
「昔から、この辺りの露店はこの作りなんだよ」
マーヤが答える。
「簡単に建てられるからね」
早く作れる。
だが、根元が濡れれば腐りやすい。
揺れれば穴が広がる。
建て方には、それぞれ利点と弱点がある。
もう一本の東側の柱も、同じ方法で起こした。
◇
四本の柱がそろったところで、屋根の張り方を考える。
「横木を一本、中央へ渡す」
ガルドが言う。
「木はどこから?」
マーヤが尋ねる。
「余ってる布の巻き棒を使え」
「あれは商品を巻くためのものだよ」
「今使ってない長い棒が二本あるだろ」
「よく見てるね」
「使ってない木を見るのが職人だ」
「盗人の考え方と似てる」
カイが言った。
いつの間にか、広場の片づけを終えて見に来ていたらしい。
「盗人は勝手に持っていく。職人は持ち主に聞く」
ガルドが睨む。
「じゃあ、レオは?」
「必要だからって先に形を変える」
マーヤが答える。
「今日は聞くって言っただろ」
「覚えてるよ」
巻き棒は軽く、屋根を支える横木としては細い。
一本では、中央でたわむ。
「二本を重ねる」
俺が言う。
「縄で結ぶだけ?」
「少しずらして重ねる」
二本の棒を並べるのではなく、上下に重ねる。
何か所かを縄で固く縛り、一体に近づける。
「完全に一本にはならん」
ガルドが言う。
「でも、一本よりは曲がりにくい」
「短い期間なら使える」
「また仮?」
カイが言う。
「この露店そのものが、動かせる作りだ」
立派な建物のように何十年も使う前提ではない。
市場の配置が変われば、柱や布を外して別の場所へ移す。
必要な期間と使い方に合った強さがあればいい。
「どの向きに渡す?」
ミラが尋ねる。
風は西から東へ吹いている。
横木を南北へ渡せば、布を風上側と風下側の二つに分けられる。
「風と交わる向き」
俺は南北を指した。
「西から来た風が、一枚の大きな布を全部持ち上げないようにする」
横木を柱の上へ載せる。
木栓を打つような仕口を作る時間はない。
柱の上部に短い受け材を当て、その上へ横木を置く。
縄で柱と固定する。
ただ結びつけるだけでは、横へ滑る。
「縄の結び方は?」
俺がガルドを見る。
「見て覚えろ」
柱へ一周。
横木へ二周。
交差させて締める。
最後に、結び目が動かないよう別の細い縄で止める。
「強く引けばいい?」
カイが尋ねる。
「強すぎれば、細い横木が割れる」
「じゃあ、どこまで?」
「手で揺らして、ずれなくなるまでだ」
「数字じゃないのか」
「同じ太さでも、木の状態が違う」
経験で決める部分。
目で見て確かめる部分。
言葉だけでは伝わりにくい。
ガルドが結んだ縄を触る。
固い。
それでも、木へ食い込むほどではない。
「自分でやってみろ」
反対側を任される。
傷はほとんど治ってきたが、強く縄を引くと手のひらが痛む。
一度巻く。
二度目。
交差。
締める。
「緩い」
ガルドが横木を揺らす。
「もう少し引く」
「力だけで引くな。縄の向きを変えろ」
柱を回る縄の角度を直す。
同じ力でも、先ほどより締まった。
「今度は?」
「使える」
褒められたわけではない。
それでも、以前ならすぐやり直しと言われていた。
◇
布を張り直す。
これまでのように、四隅だけを強く引くのではない。
まず、風上側の西端を固定する。
次に中央の横木へ布を沿わせる。
布へ直接穴を開けて縄を通せば、そこから裂ける。
「細い布を挟む」
マーヤが余り布を折り重ねる。
屋根布と横木の間へ幅広く当て、その外側から縄で巻く。
「力を広い場所へ分けるのか」
俺が言う。
「布を扱うなら、これくらい常識だよ」
マーヤは少し得意そうだった。
木や石だけではない。
布にも、布を扱う人の技術がある。
「四隅を全部、同じ強さで張らない」
ガルドが言う。
「どうして?」
「同じように見える柱でも、距離が少し違う。布も伸びてる」
先ほど柱を起こしたことで、四本の位置は以前と変わっている。
一か所ずつ布の張りを確かめる。
「ここは緩い」
ミラが中央を押す。
「少し動くくらいでいい」
「音がするんじゃない?」
「動かないほど張ると、風の力が全部縄と柱にかかる」
完全に動きを止めるのではない。
少しだけたわみを残す。
風を受けたとき、布自身がわずかに変形して力を逃がせるようにする。
「緩すぎず、張りすぎず」
マーヤが言う。
「一番面倒な答えだね」
「建物は、そういうものが多い」
強ければ強いほどよい。
固ければ固いほどよい。
厚ければ厚いほどよい。
いつもそうとは限らない。
最後に、風下側の垂れ布をどうするか決める。
「切らない約束だよ」
「分かってる」
垂れ布の上端へ、細い棒を通す。
縄を引けば巻き上がり、必要なときだけ下ろせる形にする。
「日差しが強いときは下ろす」
「風が強い日は上げる」
ミラが言う。
「誰が風の強さを決める?」
マーヤが尋ねる。
「屋根が大きく動き始める前」
「それじゃ遅い」
「布の端へ、短い糸をつけておく」
最初に風を見るため使った糸。
普段から屋根の隅へ残しておけば、風の向きを目で確かめられる。
「糸がまっすぐ伸びるくらいなら、日よけを上げる」
「毎回見るの?」
「店にいるなら見える」
マーヤは糸を指でつまんだ。
「これなら分かりやすいね」
目に見えない風を、見える形へ変える。
水路の点検口や、石に残した印と同じだ。
◇
修理を終えてから、全員で風を待った。
「待ってると吹かないね」
ミラが言う。
「風にも都合がある」
カイが露店の椅子へ座る。
「勝手に座るんじゃないよ」
マーヤに怒られ、すぐに立った。
「本当に直ったか、どうやって確かめる?」
「風が吹くまで待つ」
「今日吹かなかったら?」
「次に吹いたとき、マーヤさんに見てもらう」
「自分で確かめないの?」
「毎日ここにいるのは、マーヤさんだから」
使う人にしか分からない変化もある。
修理した者が見た一度だけの試験で、すべてを判断することはできない。
「風の魔法を使えば?」
ミラが指先を上げる。
「火しか出せないだろ」
「練習したら、風も出るかもしれない」
「屋根を燃やすなよ」
マーヤが布を抱えて離れる。
「燃やさないよ!」
ミラが頬を膨らませたとき、広場の旗が大きく動いた。
「来る」
ネッサが西を見る。
少し強い風が、通りの奥から広場へ入る。
糸が東へ伸びる。
屋根の布が持ち上がった。
以前のように、一枚全体が大きく膨らむことはない。
中央の横木で二つに分けられ、それぞれが浅くたわむ。
風下側の糸が、一瞬だけ逆へ巻く。
それでも、巻き上げた日よけが風を受け止めないため、屋根の下へ入る量は少ない。
布が戻る。
ばたん、ではない。
小さく、ぱた、と鳴っただけだった。
「静か」
ミラが言う。
もう一度風が吹く。
布は動く。
だが、柱は揺れない。
縄も緩まない。
「歌わなくなったね」
マーヤが少し残念そうに言った。
「困ってたんじゃないのか?」
「静かになると、あれはあれで寂しいものだよ」
「夜眠れないって言ってた」
「人は勝手なんだよ」
マーヤは柱を押す。
以前のような揺れはない。
「これなら、強い風でも大丈夫?」
「今日より強い風は、まだ受けてない」
「絶対とは言わないんだね」
「絶対と言う職人は信用するなって、ドム親方が言ってた」
「もう職人のつもりかい?」
「まだ違う」
はっきり答える。
「だから、次に強い風が吹いたら教えて」
「分かったよ」
「日よけは必ず上げる」
「分かった」
「縄が緩んでないか、朝に見る」
「分かったってば」
「柱の根元が動いたら――」
「話が長い!」
マーヤとガルドに同時に止められた。
◇
「これが報酬だよ」
マーヤが店の奥から薄い板を二枚持ってきた。
一枚は、今の仕事板より少し大きい。
もう一枚は細長い。
「本当にいいの?」
「布を巻いていた板だ。少し曲がってるけど、絵を描くには使えるだろ」
「使える」
「それと、これ」
小さく丸めた布を渡される。
中には、太さの違う糸が何本も入っていた。
「風を見るため?」
「それにも使える。長さを測ったり、印を結んだり、必要なら縫い物もできる」
「縫い物はできない」
「覚えればいい」
木。
石。
縄。
布。
家を作る材料は、それぞれ性質が違う。
知っているつもりでも、その材料を毎日扱う人には敵わない。
「ありがとう」
「次からは、布を切る前に必ず聞くんだよ」
「今日は切ってない」
「今後の話だよ」
新しい板を受け取る。
焦げていない、きれいな木の面。
最初に何を描くか、少し迷った。
「古い仕事を写す?」
ミラが尋ねる。
「全部は描ききれない」
「じゃあ、新しい仕事だけ?」
「終わってないものを写す」
古い板から、枝水路の絵を新しい板へ移す。
次に、カイとルナが暮らしていた空き家。
マーヤの屋根は、終わった印をつける。
「これで、新しい仕事板?」
「ああ」
「前の板はどうするの?」
「家に置く」
「終わった仕事ばかりなのに?」
「何を直したか残ってる」
パン屋の煙道。
ボルツの露店。
広場の水路。
たくさんの線と、意味を決めた記号。
初めはただの焦げた板だった。
今は、この町で俺が見てきたものの記録になっている。
「捨てないの?」
「捨てない」
直した場所を隠さない。
終わった仕事も忘れない。
それが、次に似た問題へ出会ったときの手がかりになる。
◇
夕方、家へ帰る途中で、俺は新しい仕事板を何度も見た。
風は見えない。
それでも、糸を揺らす。
布を持ち上げる。
柱を傾ける。
見えないからといって、力がないわけではない。
水も同じだった。
地面の下へ入れば見えなくなる。
だが、土を運び、石を崩し、道に穴を開ける。
「レオ」
ミラが隣を歩きながら言う。
「次は、カイの家?」
「まず、持ち主を調べてもらう」
「住んでいいって言われたら?」
「屋根と壁を見る」
「直せそう?」
「まだ見てないから分からない」
「また、それ」
「分からないものは、分からない」
「上手になったね」
以前なら、見ただけで直せると言ったかもしれない。
あるいは、自分には無理だと最初から諦めていた。
今は、まず調べる。
水の流れ。
風の向き。
土の状態。
使う人の困りごと。
見えないものを、見える形にする。
そのあとで、自分たちに直せるものか考える。
「風って、家を押すんだね」
ミラが両手を広げ、風を受ける。
「ああ」
「わたしは押されないよ」
「屋根より小さいからな」
「大きくなったら押される?」
「身体が大きくなれば、重くもなる」
「じゃあ大丈夫」
「何が?」
「レオより大きくなっても、飛ばされない」
「俺を基準にするな」
ミラが笑う。
前を歩いていたガルドが振り返る。
「遊んでないで早く歩け。風が変わるぞ」
「雨が降る?」
空を見る。
雲は少ない。
「工房の木くずを外に出したままだ」
「それを先に言ってくれ」
「走るな。転ぶぞ」
「急げって言っただろ!」
「早く歩けと言った」
相変わらず面倒な言い方をする。
それでも、俺たちは少しだけ歩幅を速めた。
夕方の風が、背中を押す。
同じ風でも、屋根を壊すこともあれば、人を前へ進めることもある。
大切なのは、風を止めることではない。
どこから来て、どこへ抜けようとしているのかを知ること。
水にも、風にも、力の向きがある。
そして、その力を受ける建物にも、逃がすための形が必要になる。
俺は新しい仕事板を抱え直した。
町の水の次は、町の風。
見えないものを見る仕事が、また一つ始まっていた。
お読みいただきありがとうございます。
マーヤの布屋根を通じて、レオは水だけでなく風の流れも読むことを覚えました。
次回は、カイとルナが暮らしていた空き家の持ち主と、二人の今後について調べます。




