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世界の端で、家を建てる  作者: 黒瀬リク
第一部 居場所を建てる

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11/22

第十一話 穴を掘る前に、支える

 工事の朝、北広場には人より先に食べ物が集まった。


 パンの入った籠。


 野菜を煮込んだ鍋。


 塩漬けの魚。


 水を入れた桶。


 薪と炭。


 井戸の近くへ並べられたそれらを見て、俺は思わず足を止めた。


「道を直すんだよな?」


「そうだよ」


 鍋の横に立っていたセナが答える。


「宴会じゃないんだから、期待するんじゃないよ」


「こんなに食べる人が来るのか?」


「石工が三人。役場から二人。森番が一人。それに、広場の店から手伝える人が交代で来る」


 セナは指を折りながら数える。


「レオ、ミラ、ガルド。あとは見物人が何人来るか分からないね」


「見物人には食わせなくていい」


「そう言って、本当に腹を空かせた子どもを追い返せるのかい?」


「……少しだけなら」


「最初からそう言いな」


 セナが笑った。


 自分たちの家を建てたときにも、多くの人に助けてもらった。


 だが、今日はそのときより人数が多い。


 しかも、全員が俺たちのために集まったわけではない。


 井戸を使う人。


 広場で商売をする人。


 道を通る人。


 それぞれが、自分の暮らしを守るために来ている。


「レオ」


 ミラが仕事板を抱えて駆けてきた。


 焦げた板の表には、これまでの仕事が絵で並んでいる。


 裏には、昨日役場で描いた水路の図を写してあった。


「人が来たら、何をすればいいか説明するんでしょ?」


「ああ」


「何て言うか決めた?」


「まだ」


「昨日、話しすぎるって言われたのに?」


「必要なことを短く話す」


「できる?」


「できる」


 ミラは疑うような目を向けた。


「それ、ガルドさんに言う『分かった』と同じ顔」


 反論する前に、広場の向こうから荷車の音が聞こえた。


 石工親方のドムが、二人の男を連れて現れる。


 一人は大柄で、ドムと同じように石粉のついた服を着ている。


 もう一人は十六、七歳ほどの少年だった。


 短い金髪。


 細い身体。


 荷車の後ろで、鉄棒や木槌を落とさないよう必死に押さえている。


「弟子二人?」


 俺が尋ねると、ドムは大柄な男を指した。


「ベン。石工になって八年だ」


 次に少年を見る。


「そっちがロイ。入って半年」


「半年でも弟子は弟子だ」


 ロイが不満そうに言った。


「レオです」


「知ってる。三日で家を建てたとかいう、変な子どもだろ」


「変は余計だ」


「家は本当に建ったのか?」


「あとで見せる」


「暇があればな」


 ドムと同じ返事だった。


「挨拶は終わりだ」


 ドムは荷車から道具を下ろす。


「許可は出たのか?」


 ちょうどそのとき、役場の方角からリゼが歩いてきた。


 いつもの机仕事用の服ではない。


 裾の短い上着と厚い靴。


 肩には書類の入った革袋を掛けている。


 その後ろには、白髪交じりの男が一人ついていた。


「緊急修繕の許可が下りました」


 リゼが紙を掲げる。


「こちらは道路管理係長のハーレンです。本日の工事を役場側から監督します」


 ハーレンは俺たちを見回した。


 細い目。


 深く刻まれた眉間のしわ。


 工事へ来たというより、失敗を見つけに来たような表情だ。


「先に言っておく」


 ハーレンが低い声で話し始める。


「許可されたのは、崩落部分の開削、地下水路の修繕、地盤の埋め戻し、舗装の復旧だ。周囲の建物や井戸本体へ手を加えることは認められていない」


「井戸の横の仮の溝は?」


 俺が尋ねる。


「工事期間中のみ使用を認める。終了後は埋め戻す」


「地面の上へ残した方が、次に水路が詰まっても分かりやすい」


「今回の許可範囲ではない」


「でも――」


「レオ」


 リゼが俺の名前を呼ぶ。


 昨日、話しすぎると言われたことを思い出した。


「分かった。今は水路を直す」


「その言葉を忘れないように」


 ハーレンが言った。


「工事の責任者はドム親方。木製の仮樋についてはガルド親方。立ち入り管理は森番。住民の作業は、責任者の指示がある範囲に限る」


「俺は?」


「住民協力者だ」


「図を描いた」


「図を描く者と、工事の責任を負う者は別だ」


 正しい。


 それでも、胸の奥が少しだけ重くなった。


 自分が見つけ、自分が考えた仕事なのに、俺には決める権限がない。


「不満そうだな」


 ガルドが隣で言った。


「別に」


「顔に出てる」


「俺が考えた方法が使われるのに、俺はただの手伝いなんだなって」


「当たり前だ」


「もう少し迷ってから言ってくれない?」


「責任を取れない奴に、勝手に決めさせる現場があるか」


 ガルドは道具袋を地面へ置いた。


「見て覚えろ。指示された仕事を、間違えずにやれ。それができるようになってから、決める側へ行け」


 言い方は厳しい。


 だが、今の俺に必要な言葉だった。


     ◇


 工事を始める前に、ドムは集まった人全員を柵の外へ並ばせた。


「穴を掘る前に、役割を決める」


 石粉で地面に大きな四角を描く。


 その中へ、穴と水路の線を加える。


「石畳を外すのは、俺、ベン、ロイ。それとガルドだ」


「俺は木工だぞ」


「石を持ち上げる程度ならできる」


「勝手に数えるな」


「昨日、そこのガキに同じことを言われてたな」


 ドムはガルドの反論を聞かず、続ける。


「外した石を運び、泥を落とすのは住民。だが、使えるかどうかは俺たちが決める。勝手に積むな」


「土を運ぶのは?」


 ボルツが尋ねる。


「開けた場所から出す土は二種類に分ける。上の乾いた土と、下の水を含んだ土だ」


「混ぜたら駄目なの?」


 ミラが言う。


「濡れた土をそのまま戻せば、締まらん。乾かして使えるものと、捨てるものを分ける」


 ドムは地面の二か所に丸を描く。


「乾いた土はこっち。濡れた泥はあっち。石と混ぜるな」


「何で?」


 ロイが小さく尋ねた。


 ドムの眉が動く。


「半年も弟子をして、それを聞くのか」


「分かってます。確認です」


「なら、お前が説明しろ」


 ロイは口を開いたまま止まった。


 俺と同じだ。


 分かっているつもりでも、説明しようとすると言葉が出てこない。


「石と土が混ざったままだと、隙間ができる」


 俺が言った。


「大きさがばらばらで、締めても均等にならない?」


 ドムがこちらを見る。


「半分だ」


「半分?」


「大きな石は、埋め戻しの中へ適当に入れるな。水の道を作る。土だけでも沈む。小石を混ぜ、層ごとに締める」


「土と石は混ぜるけど、何でも一緒じゃ駄目?」


「そういうことだ」


 ロイが俺を睨む。


「俺が言おうとしてた」


「次は先に言え」


「子どもに言われたくない」


「俺も子どもなんだけど」


「分かってる!」


 年齢は俺より上でも、立場は似ているのかもしれない。


「話を戻すぞ」


 ドムが地面を木槌で叩いた。


「水のくみ出しは交代。仮樋ができるまでは、水路へ入った水を桶で外へ出す。森番は柵の外へ人を近づけない」


「俺たちは?」


 セナが鍋を指す。


「飯を作ってくれ。休みも取らせろ」


「休む時間まで決めるのかい?」


「疲れた人間を穴の近くへ立たせる方が危険だ」


 工事には、作業だけでなく休む時間も必要なのだ。


「レオとミラ」


「はい」


 二人同時に返事をする。


「お前たちは、外した石へ印をつけろ」


「印?」


「どこから外した石か分かるようにする。北側、南側、蓋石、側石。炭で印を変えろ」


「再利用するときに、元の場所へ戻すため?」


「必ず同じ場所へ戻すわけじゃない。だが、形の似た石がどこでどう使われていたか分かれば、選びやすい」


 記録を残す仕事。


 力は必要ない。


 けれど、間違えれば石の使い道が分からなくなる。


「分かった」


「お前の分かったは信用できるのか?」


 ガルドが横から口を挟む。


「今日は信用させる」


     ◇


 最初に外すのは、穴の周囲にある石畳だった。


 ドムが石粉で描いた線は、俺たちが想像していたより広い。


「こんなに外すの?」


 ミラが尋ねる。


「地面の下が空なら、上だけ残しても危ない」


 穴のすぐ横から外すのではない。


 十分に離れた、安全だと判断した場所から始める。


 鉄棒を石の継ぎ目へ差し込む。


 ガルドとベンが押す。


 石がわずかに浮いたところへ、ロイが木のくさびを入れた。


「手を抜け!」


 ドムが怒鳴る。


 ロイが反射的に手を引いた直後、くさびが外れた。


 重い石が元の位置へ落ちる。


 鈍い音が広場に響いた。


「指を潰したいのか」


「入れないと、くさびがずれるから」


「ずれたくさびは、長い棒で直せ。石の下へ指を入れるな」


 ロイの顔が青くなっている。


 少し前の俺なら、大丈夫だと思って手を入れていたかもしれない。


 家を建てたとき、ガルドに何度も止められた。


 怪我をしても働く者が職人ではない。


 怪我をしないよう働く者が職人だ。


「もう一度だ」


 ドムは怒鳴ったあとも、ロイを作業から外さなかった。


 鉄棒で石を持ち上げる。


 くさびを入れる。


 長い棒で位置を直す。


 隙間が十分に開いたところで、縄を回す。


「引け!」


 石が横へ移動する。


 下から湿った土が見えた。


 俺は石の側面へ、炭で三本の線を引く。


「何の印だ?」


 ミラが尋ねる。


「北側の三枚目」


「一本が北で、三本が三枚目?」


「そう」


「南側は?」


「丸」


「蓋石は?」


「三角」


「側石は?」


「四角」


「覚えられる?」


「板に描いておく」


 仕事板の端へ、印の意味を記録する。


 文字がなくても、決めた記号を共有すれば情報を残せる。


 石を一枚。


 また一枚。


 外すたびに、地面の様子が変わった。


 最初の数枚の下は、締まった土だった。


 穴へ近づくにつれ、土が柔らかくなる。


 鉄棒を差すと、深くまで沈んだ。


「ここから先は、上へ乗るな」


 ドムが全員を止める。


「でも、石を外すには近づかないと」


 俺が言う。


「近づかずに外す」


 太い梁を二本、穴をまたがない方向へ置く。


 安全な地面の上だけで支える。


 その梁へ板を渡し、仮の作業床を作る。


「足場だ」


「地面がない場所でも、上から作業できる」


「ただし、この梁が安全な場所へ載っていることが条件だ」


 ガルドが梁の端を確認する。


 下げ振りで位置を見て、石畳の沈みも調べる。


「こっちは、もう少し外へ出せ」


「これ以上出すと、通路が狭い」


「人は止めてる。通路より、支える方が先だ」


 何を優先するか。


 昨日まで使っていた道を守ることより、今作業する人を守ること。


 梁の位置を直し、板を載せる。


 ドムが最初に自分で乗った。


 ゆっくり体重をかける。


 揺れはない。


 次にベン。


 ロイ。


 最後にガルド。


「レオは乗るな」


「記録するなら近くで見たい」


「外から見ろ」


「でも――」


「責任者の指示だ」


 昨日までなら、食い下がっていたかもしれない。


 だが、今日は俺が責任者ではない。


「分かった」


 悔しい。


 けれど、従うことも仕事の一つだ。


     ◇


 石畳を外すほど、穴の正体が見えてきた。


 地表に開いていた穴は、空洞の一部にすぎなかった。


 水路の側石が内側へ倒れ、その上の蓋石が斜めに落ちている。


 周囲の土が水路へ流れ込み、地面の下には大きな空間ができていた。


「荷車一台分より広い」


 俺が言う。


「ああ」


 ドムの表情が険しくなる。


 石粉でつけた予定線より、空洞が北側へ伸びている。


 井戸の方向だ。


「まだ外すの?」


「安全な土が出るまでだ」


「井戸の近くまで行ったら?」


「その場合は、今日中に終わらん」


 集まった人たちの間に不安が広がる。


「井戸が崩れるのか?」


「水が使えなくなる?」


「工事費は増えるのか?」


 声が重なる。


「静かに!」


 ハーレンが叫んだ。


「まだ井戸本体への影響が決まったわけではない。柵の中へ入るな!」


「でも、役場は大丈夫だって――」


「誰も大丈夫とは言っていない!」


 言葉が強すぎたのか、周囲の表情がさらに硬くなった。


 不安な人へ、決まっていないと言うだけでは安心させられない。


「今分かってるのは、ここまで」


 俺は仕事板を持ち上げた。


 広場の絵へ、空洞の範囲を追加する。


「井戸の真下まで空いてるとは限らない。今、少しずつ石を外して、固い土が残ってる場所を探してる」


「子どもに何が分かる」


 年配の男が言った。


「分からないから調べてる」


「壊しすぎて、余計に広げてるんじゃないのか?」


「表面だけ埋めたら、見えないまま残る」


「それでも昨日までは道だった!」


「昨日、荷車が落ちた!」


 声が大きくなった。


 ガルドに話しすぎるなと言われたことを思い出す。


 怒鳴り返しても、理解してもらえるわけではない。


「俺も怖い」


 声を落とす。


「井戸まで壊れてたらどうしようって思ってる。でも、見ないまま大丈夫とは言えない」


 男は黙った。


「ドム親方が、壊れてない場所まで調べる。そこから先へ進むかは、状態を見て決める」


「今日中に終わるのか?」


「分からない」


 不満の声が上がる。


「でも、分からないのに終わると言う方が危ない」


 誰も納得した顔はしていない。


 それでも、先ほどよりは静かになった。


 リゼが俺の横へ来る。


「説明は、今くらいの長さで十分です」


「短かった?」


「昨日よりは」


「褒めてる?」


「比較の相手が昨日のあなたです」


 ガルドと同じ言い方だった。


     ◇


 予定より広く石畳を外したところで、ようやく固い地盤が見つかった。


 空洞の端は、井戸の石積みから大人二人分ほど離れている。


「井戸の下までは続いてない」


 俺が言う。


「今見える範囲ではな」


 ドムが訂正する。


「ただし、水路の上流側は傷んでる」


 古い水路は、崩れた場所より先にも続いている。


 側石は傾いているが、完全には倒れていない。


「全部積み直す?」


「この一枚は残す」


 ドムが大きな側石を叩く。


「なぜ?」


「土へ深く入ってる。無理に抜けば、井戸側の土を崩す」


「傾いてるのに?」


「傾きが、すぐ危険になるほどかを見る」


 長い板を当てる。


 下げ振りを垂らす。


 上と下のずれを測る。


「許容できる範囲だ」


「真っすぐじゃなくてもいい?」


「新しい家の柱も、全部真っすぐだったか?」


「少し曲がってた」


「必要なのは見た目じゃない。動かず、力を受けられることだ」


 曲がった柱。


 長さの違う柱。


 古い側石。


 すべてを新しく、きれいにそろえることが正解ではない。


「残すものを決める方が、難しいな」


「壊すだけなら素人にもできる」


 ドムは残す側石へ白い印をつけた。


「使えるものを壊さず、新しいものへつなぐのが職人だ」


 外した石を一つずつ確認する。


 ひびがあるもの。


 角が欠けたもの。


 表面だけ傷んでいるもの。


「これは使える?」


 ミラが平たい石を指す。


「蓋には使えん。側石なら削れば使える」


「こっちは?」


「割れが深い。舗装の小石にする」


「捨てないの?」


「割って使う」


 ドムは大きな金槌を振り下ろした。


 傷んだ石がいくつかに割れる。


「形が変われば、別の場所で使える」


 壊れたから終わりではない。


 家の廃材。


 曲がった釘。


 焦げた仕事板。


 今度は石だ。


     ◇


 昼前、ガルドの仮樋が完成した。


 細長い板を谷の形に組み合わせ、その外側を横木で補強してある。


 継ぎ目には樹皮を挟み、縄で締めていた。


「木で水路を作ったの?」


 ロイが覗き込む。


「工事中だけだ」


 俺は答えた。


「石を積む場所へ水が入らないよう、上流から下流へ渡す」


「漏れたら?」


「漏れる」


「駄目じゃないか」


「少しなら下でくみ出す。全部止める必要はない」


 ガルドが仮樋の一端を持ち上げる。


「説明してる暇があるなら、反対を持て」


「俺?」


「ほかにロイがいるか」


 ロイが慌てて端を持つ。


 仮樋を水路の中へ下ろす。


 上流側を、残っている水路へつなぐ。


 下流側は、壊れていない場所へ渡す。


「傾きを見るぞ」


 樋の中へ、柄杓一杯の水を入れる。


 水は途中まで進み、止まった。


「真ん中が低い?」


 俺が言う。


「低いところへ水がたまって、その先が高い」


 ガルドが中央の支えを少し上げる。


 再び水を流す。


 今度は下流まで進んだが、継ぎ目から水が漏れた。


「失敗だ」


 ロイが言う。


「使いながら直す」


 俺が樹皮をもう一枚差し込む。


「最初から漏れないものを作れないのか?」


「作れるなら、その方がいい。でも時間と材料が足りない」


「中途半端じゃないか」


「仮の道具は、必要な間だけ役目を果たせばいい」


 ロイは納得していない顔をする。


「家も仮みたいなものだって聞いた」


「俺たちの家は、ちゃんとした家だ」


「布の壁なんだろ?」


「今はな」


「じゃあ仮だ」


 胸の奥が少し熱くなる。


「住んでる人がいる。雨も防いだ。ガルドさんの認証もある」


「でも、石の家より弱い」


「弱ければ家じゃないのか?」


「俺は――」


「二人とも、樋を見ろ!」


 ガルドに怒鳴られた。


 水が継ぎ目を越え、別の場所からあふれ始めている。


「押さえ木がずれてる!」


 俺とロイが同時に手を伸ばす。


「下へ入るな!」


 ガルドの声で止まる。


 樋の下は、掘り開けた水路だ。


 落ちれば怪我をする。


 長い棒で押さえ木を戻し、上から縄を締め直す。


 水は再び樋の中へ戻った。


「喧嘩をして、足元を見なくなる奴は現場から出す」


 ガルドが俺とロイを交互に見る。


「すみません」


「……悪かった」


 ロイも小さく頭を下げた。


 俺たちの家を馬鹿にされたと思った。


 だが、言い返すことに集中し、目の前の危険を見落とした。


 建物を守ろうとして、人を危険にしたら意味がない。


     ◇


 仮樋へ水が流れ始めると、壊れた水路の中から水が減った。


 底へ残った泥を桶でくみ出す。


 濡れた土は重い。


 大人二人で持ち上げても、足元がふらつく。


「一度に入れすぎるな!」


 ドムが言う。


「回数が増える」


 ボルツが答える。


「腰を壊したら、魚を誰が売る」


「ミラに任せる」


「魚の名前を知らないよ」


「全部、今日の魚って言えばいい」


 ボルツが笑いながら、桶の土を減らした。


 工事が始まったときには、それぞれが勝手に動いていた。


 今は、少しずつ流れができている。


 掘る人。


 運ぶ人。


 石を洗う人。


 食事を作る人。


 水をくみ出す人。


 記録する人。


 自分の仕事が終われば、次に何をするかドムへ確認する。


 レオだからと、誰も俺の指示を待ってはいない。


 少し寂しい。


 けれど、工事は進んでいる。


「レオ」


 リゼが紙を持ってきた。


「外した石の数と状態を、こちらにも残します」


「俺が印を読む」


「私は文字で書きます」


 北側一枚目。


 使用可能。


 二枚目。


 角欠け。側石として再利用。


 三枚目。


 深い割れ。小石へ加工。


「絵と文字を一緒に残せば、俺も分かる」


「文字も覚えれば、もっと分かります」


「教えてくれる?」


「今ですか?」


「工事が終わってから」


「仕事として依頼するなら」


「いくら?」


「そういう話は、文字を一つ覚えてからにしてください」


 リゼは石という文字を紙の端へ書いた。


 俺には、複雑な傷のようにしか見えない。


「これが石?」


「ええ」


 炭で、同じ形をまねる。


 線が一本足りない。


「違う」


「ここです」


 リゼが指す。


 もう一度書く。


「今度は?」


「読めなくはありません」


 初めて書いた、この世界の文字。


 石。


 今日の仕事には、ちょうどよかった。


     ◇


 午後になると、水路の底が完全に見えるようになった。


 倒れた側石を取り除き、崩れた土を外へ出す。


 残っている石の下を、ドムが細い棒で探る。


「ここも土が抜けてる」


「石を外す?」


「先に支える」


 ドムは短い木材を二本、水路の中へ入れた。


 上に残った蓋石の下へ、斜めに当てる。


「石を取る前に、落ちてくるものを支える」


「上の蓋石は、あとで外すんじゃないの?」


「外すまでの間に落ちたらどうする」


 家を建てるときは、下から順番に積み上げた。


 修理では、すでに上にあるものを残しながら、下を直す。


 新しく作るより難しい。


「穴を掘る前に、支えるんだな」


 俺が言うと、ドムが一瞬だけこちらを見る。


「やっと分かったか」


 仮の支えを入れたあと、倒れた石を動かす。


 その下から、さらに小さな空洞が現れた。


「まだ続いてる」


 ミラが不安そうに言う。


「ここまでなら予定の範囲だ」


 ドムが土の硬さを確かめる。


「安全な地盤は出ている」


 水路を新しく積み直せるところまで、ようやく掘り終わった。


 これからが本当の修繕だ。


「側石を選ぶ」


 洗った石の中から、ドムが候補を並べる。


 高さ。


 厚さ。


 割れ。


 隣の石とのかみ合わせ。


「一番大きいものを下へ置く?」


 俺が尋ねる。


「大きさだけで選ぶな」


 ドムは石を一つ持ち上げ、底を見せる。


「接する面が少ない。これを下へ置けば、荷重が端へ集まる」


 別の石。


 少し小さいが、底が平らだ。


「こっちの方が安定する」


「削って平らにすることは?」


「できる。だが、削る時間と、石を弱くする量を考える」


 木と同じだ。


 加工すれば使いやすくなる。


 削りすぎれば弱くなる。


「これを一段目へ」


 石を水路の底へ下ろす。


 底には小石と砂を薄く敷き、高さを調整してある。


 ドムが木槌で叩く。


 石が沈む。


「揺らしてみろ」


 ロイが石へ手を掛ける。


 少し動いた。


「下の砂が多い?」


「右の角が当たってる」


 石を持ち上げ、当たっている場所だけを少し削る。


 もう一度置く。


 今度は動かない。


「一枚置くのに、こんなに時間がかかるのか」


 俺が呟く。


「最初の一枚が動けば、その上は全部動く」


 家の石台と同じだ。


 最初の間違いは、上へ行くほど大きくなる。


 ドムが次の石を選ぶ。


 俺は仕事板へ、積まれた順番を描き込んだ。


     ◇


 日が西へ傾いたころ、新しい側石が両側へ並んだ。


 その上へ蓋石を載せる前に、ドムは作業を止めた。


「今日はここまでだ」


「まだ明るい」


 俺が言う。


「蓋石まで載せられる」


「新しい側石が動いていないか確認する」


「今確認すれば?」


「水を一晩流してからだ」


「雨が降ったら?」


「仮樋を残す。上には板と布を掛ける」


「今日中に道を戻す予定じゃなかったの?」


 周囲の人たちも、同じ表情をしている。


 ハーレンが書類を確認する。


「申請では、予定工期は二日となっている」


「最短で二日だ」


 ドムが答える。


「今日中に終えるとは書いてない」


「でも、明日も道が使えない」


 荷車の持ち主が言った。


「南側を回れば通れる」


「遠回りだ」


「落ちるよりは近い」


 ドムは譲らなかった。


 俺も、早く完成した道を見たい。


 今日集まった人たちへ、終わったと言いたい。


 だが、家を建てた夜、ガルドに言われた。


 焦って柱を立て、夜の間に傾けば、朝からやり直しになる。


「一晩、見るべきだと思う」


 俺は言った。


 皆の視線が集まる。


「今は動いてなくても、水が流れたら、下の砂や小石が沈むかもしれない」


「明日、動いてなかったら蓋をする?」


 ミラが尋ねる。


「ああ」


「動いてたら?」


「直す」


 完成が一日遅れる。


 けれど、完成したふりをして、また崩れるよりいい。


「見張りはどうする」


 ネッサが尋ねる。


「夜は森番を出せない」


「俺が残る」


 言うと、ガルドがすぐに首を横に振った。


「子ども一人を置けるか」


「じゃあ、ガルドさんも」


「勝手に増やすな」


「俺も残る」


 ロイが言った。


 ドムが振り返る。


「お前は帰れ」


「水路の動きを見たい」


「昼に疲れてる」


「見張るだけならできる」


「眠ったら意味がない」


「眠らない」


 その言い方は、無理をしていたころの俺と同じだった。


「交代にする」


 俺は言った。


「一人で一晩じゃなくて、何人かで時間を分ける」


「誰が時間を測る?」


 リゼが尋ねる。


 町役場の塔には鐘がある。


 夜も一定の間隔で鳴るらしい。


「鐘が鳴ったら交代する」


 ボルツが腕を組む。


「最初は俺が見る。市場の片づけで、どうせ遅くまでいる」


「次は私」


 マーヤが言う。


「店が広場の隣だからね」


「その次は俺が来る」


 ガルド。


 最後にドムが息を吐いた。


「夜明け前は俺が見る」


「俺とロイは?」


「寝ろ」


 二人同時に反論しようとする。


「疲れた子どもが穴の近くへいる方が危険だ」


 また、俺たちの意見が一致してしまった。


     ◇


 仮樋の周囲を板で覆い、雨が入らないよう布を掛ける。


 柵を二重にする。


 夜でも見えるよう、入口へ灯りを置く。


 今日外した石は、印が消えないよう屋根の下へ並べた。


 道は、まだ直っていない。


 穴も開いたまま。


 新しい水路の壁が、地面の下に並んだだけだ。


「今日は半分?」


 帰り道でミラが尋ねる。


「半分より少し進んだくらい」


「たくさん働いたのに?」


「ああ」


「家は一日でできたのに」


「家より小さく見えても、難しい仕事があるんだな」


 新しく作る家には、最初からすべてを決められた。


 だが、古い水路の修理は違う。


 残すもの。


 外すもの。


 支えるもの。


 水を流し続ける方法。


 道を使う人への説明。


 一つずつ確かめながら進むしかない。


「レオ、今日はあんまり作ってなかったね」


「石に印をつけた」


「それと絵と、文字」


「石って書いた」


「見せて」


 紙の端へ写した文字を見せる。


 ミラが首を傾げる。


「石には見えない」


「文字は絵じゃない」


「じゃあ、何に見えれば正解なの?」


 答えられない。


 それでも、この線が石を意味することを、俺は今日覚えた。


「今日は、自分で作る日じゃなかった」


「じゃあ、何の日?」


「人がどうやって作るのかを見る日」


 ドムの石積み。


 ガルドの仮樋。


 リゼの記録。


 ネッサの安全管理。


 住人たちの運搬と食事。


 俺一人では、どれもできない。


「それも仕事?」


「ああ」


 指示される側。


 記録する側。


 責任を負う側。


 同じ場所にいても、それぞれ違う仕事をしている。


 いつか、自分が全体を決める側になりたい。


 そのためには、まず自分にできない仕事がどれほどあるかを知らなければならない。


「明日は道が完成する?」


 ミラが尋ねる。


「水路が動いてなければ」


「動いてませんように」


 ミラが両手を合わせた。


 俺も同じことを願った。


 だが、本当は祈るだけでは足りない。


 作ったものが正しいか、朝になったら自分たちの目で確かめる。


 そして間違っていたら、直す。


 穴を掘る前には、残るものを支える。


 道を閉じる前には、通る人の代わりの道を作る。


 決める前には、責任を負える人の話を聞く。


 今日、俺が作ったものは一つもないように見える。


 それでも、家を建てたときには知らなかった大切なことを、いくつも手に入れた。


 明日の朝、水路が形を保っていれば、蓋石を載せる。


 土を戻す。


 石畳を敷く。


 そして、人が歩ける道へ戻す。


 けれど、このときの俺はまだ知らなかった。


 夜の間に水路を動かしたのは、水の力ではなかった。

お読みいただきありがとうございます。


次回、夜の間に水路で起きた異変と、その原因をレオたちが追います。


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