第十話 壊れた道と町役場
町役場は、これまで見た建物の中で一番立派だった。
中央広場の北東に建つ、石造りの三階建て。
正面には太い柱が四本並び、その上には町の紋章らしき彫刻が掲げられている。
左右の壁に傾きはない。
窓の高さもそろっている。
雨水を流す石の溝は、建物の周囲を途切れることなく囲んでいた。
「ここだけ、ずいぶん丈夫そうだな」
俺が見上げながら言うと、ガルドが鼻を鳴らした。
「役人が自分たちの働く場所を、先に直すのは当たり前だろ」
「町外れの家より、ずっと新しい」
「使ってる石も違う。あれは北の採石場から運んだ青石だ」
「高いのか?」
「お前の家を十軒建てても足りん」
比べる対象として、俺たちの家はあまりに安すぎる気もする。
正面の階段を上る。
俺の横にはミラ。
後ろにはガルド。
今日は森番のネッサも一緒だった。
道の穴が広がらないよう、朝一番で柵を確認してから来てくれたらしい。
「わたしも入っていいの?」
ミラが小声で尋ねる。
「駄目って書いてある?」
「読めない」
「俺も読めない」
「二人とも堂々と言うことじゃねえ」
ガルドがため息をつく。
「役所の中では勝手に触るな。走るな。大声を出すな」
「ガルドさんは?」
「俺は大人だ」
「昨日、広場で一番大声を出してた」
「必要だったからだ!」
役場へ入る前から大声を出している。
重い扉を押し開ける。
中は広い吹き抜けになっていた。
床には平たい石が隙間なく敷かれ、左右に木製の窓口が並んでいる。
町税。
商売の許可。
土地の記録。
それぞれ扱う仕事が違うらしいが、文字を読めない俺には見分けられない。
「道の修理は、どこ?」
ミラが尋ねる。
「知らん」
「ガルドさんも読めないの?」
「読める!」
「じゃあ教えて」
ガルドは壁に掛かった札を順番に見た。
「……あっちだ」
わずかに間があった。
本当に読めているのだろうか。
示された窓口へ向かう。
そこには、薄茶色の髪を後ろで束ねた若い女性が座っていた。
年齢は二十歳を少し過ぎたくらい。
机の上には何枚もの紙が重なり、細い筆と黒いインクが置かれている。
「ご用件をどうぞ」
「北広場の道に穴が開いた」
ガルドが答えた。
「北広場……どの位置でしょうか」
「共同井戸の南側だ」
女性は紙へ何かを書き込む。
「穴の大きさは?」
「表面は人一人分ほど。地下の空洞は、荷車一台分ほどあるかもしれん」
筆が止まった。
「荷車一台分?」
「昨日、片輪が落ちた」
「怪我人は?」
「いない」
「井戸は使用できますか?」
「使える。ただし、こぼれた水を仮の溝へ流してる」
「誰の許可で工事を?」
女性の視線が、ガルドから俺へ移った。
「工事じゃない」
俺は答えた。
「穴の周りへ柵を作って、井戸の水を地面の上へ逃がしただけ」
「排水経路を変更したのですか?」
「壊れた地下水路へ入る量を減らした」
「ですから、それを誰の許可で行ったのですか?」
「許可を取っていたら、昨日のうちに穴が広がってたかもしれない」
「質問に答えてください」
声は穏やかだが、表情は厳しい。
「俺が考えた」
「あなたが?」
「ああ」
「お名前は?」
「レオ」
女性が新しい紙を取り出す。
「家名は?」
「ない」
「職業は?」
答えに詰まる。
ガルドの弟子ではない。
建築組合にも入っていない。
町の人から修理を頼まれるようになったが、職人と名乗れるほどの腕はない。
「今は、ガルドさんの工房で働いてる」
「こいつは職人じゃねえ」
ガルドがすぐに訂正した。
「掃除と雑用をさせてるだけだ」
「ガルド親方の判断で、排水路を変更したのですか?」
「違う」
「では、資格を持たない子どもが、公共の井戸と排水設備へ手を加えたということですね」
言葉にすると、かなりまずいことをしたように聞こえる。
「何もしなければ、人が穴へ落ちた」
「緊急時の安全確保を否定しているのではありません」
女性は筆を置いた。
「ですが、水の流れを変えた結果、ほかの建物や道が傷んだ場合、誰が責任を負うのですか?」
「俺が――」
「お前には払えん」
ガルドが遮る。
何かが壊れれば、材料も人手も必要になる。
責任を負うと言うだけなら簡単だ。
金も資格もない俺が言っても、何の保証にもならない。
「仮の溝は、井戸の裏から今の排水溝へつないだ」
俺は説明を続けた。
「人があまり歩かない場所を通してる。水を全部止めず、古い水路にも少し流れるようにした」
「図面はありますか?」
「ある」
焦げた仕事板を机へ置く。
裏側に描いた、広場と水路の絵を見せる。
女性は板を持ち上げた。
井戸。
広場。
古い排水路。
道に開いた穴。
文字はなく、すべて絵と線で表している。
「これは、あなたが?」
「ああ」
「縮尺は?」
「しゅくしゃく?」
「実際の長さを、一定の割合で小さく描いたものです」
「測ってない」
「方角は?」
「上が北」
「それを示す印は?」
「ない」
「水路の深さは?」
「見えた場所だけ、腕一本分くらい」
「それがどこか、図に記録していますか?」
「してない」
尋ねられるたび、足りないものが増えていく。
俺は、見つけたものを忘れないために絵を描いただけだった。
だが、ほかの人へ正確に状況を伝え、工事の判断に使うには不十分だ。
「絵としては分かりやすいと思います」
女性は仕事板を机へ戻した。
「ですが、これだけでは役場が工事を認めることはできません」
「なら、何が必要?」
「現地調査と、修繕方法を示す工事計画。それから費用の見積もりです」
「誰が調べる?」
「町の道路と水路を担当する技官が確認します」
「その人を呼んで」
「現在、町の外へ出ています」
「いつ戻る?」
「早ければ十五日後です」
「遅い」
思わず言ってしまった。
女性の眉がわずかに動く。
「北側の道は、十五日も閉じられない。次に雨が降ったら、穴が広がるかもしれない」
「こちらにも手順があります」
「手順を守ってる間に、人が落ちたら?」
「レオ」
ガルドが低い声で名前を呼ぶ。
怒鳴るな、という意味だろう。
俺は一度口を閉じた。
役場の女性も、少しだけ息を吐く。
「申し遅れました。私は道路管理係の書記、リゼと申します」
「道路を管理してるなら、見に来て」
「道路係は記録と申請を扱います。私は書記なので、現場を判断したり工事を認めたりする資格はありません」
「見ることはできる」
「見ても、修繕の許可は出せません」
「でも、紙だけ見てるよりは分かる」
リゼはすぐには答えなかった。
机の上にある仕事板へ、もう一度目を落とす。
「穴の周囲は、本当に荷車一台分ほど空いている可能性があるのですね?」
「叩いた音が違う範囲は、それくらい」
「どのように調べましたか?」
ボルツからもらった下げ振りを取り出す。
「この重りで石を叩いた。穴の近くは音が鈍かった」
「正式な調査方法ではありません」
「分かってる。でも、穴の見える大きさだけで埋めるのは危ない」
リゼは迷っているようだった。
規則に従えば、技官の帰りを待つ。
だが、その間に事故が起きれば、道を管理する側の責任も問われる。
「石工を呼べ」
ガルドが言った。
「町の石工組合には、道路工事の経験がある親方がいるはずだ」
「現在、組合から役場の補修を請け負っているのは、ドム親方です」
「やっぱり、あいつか」
ガルドの顔が露骨に嫌そうになる。
「知ってる人?」
ミラが尋ねる。
「石みたいに頭が固い男だ」
「お前よりは柔らかい」
背後から声がした。
振り返る。
いつからいたのか、窓口の横に大柄な男が立っていた。
身長はガルドと同じくらい。
だが、横幅はこちらの方が広い。
灰色の作業着には白い石粉がつき、太い腕にはいくつもの古い傷がある。
髪は短く刈られ、顎には黒い髭。
片手には、先端の平たい金属棒を持っていた。
「誰が頭まで石だ」
ガルドが睨む。
「俺は固いと言っただけだ。中身まで詰まっているとは言っていない」
「喧嘩なら外でお願いします」
リゼが淡々と言った。
慣れているらしい。
「ドム親方。ちょうどよいところへ」
「石材置き場の使用許可を出してもらいに来ただけだ」
「北広場の地下水路が崩れました」
ドムの表情から笑いが消える。
「どこだ」
「共同井戸の南です。荷車の片輪が沈みました」
「怪我人は?」
「いません」
「穴を埋めたか?」
「埋めてない」
俺が答える。
ドムがこちらを見る。
「お前は誰だ」
「レオ」
「それだけじゃ分からん」
「穴を見つけた」
「見つけたのは荷車の車輪だろ」
「落ちた荷車を上げて、周りを囲った」
「誰の指示で?」
「俺が考えた」
ドムの目が細くなる。
「ガルド。いつからガキに公共工事をさせるようになった」
「させてねえ。勝手に動くんだ」
「止めろ」
「止めても動く」
「縛っておけ」
「縄がもったいねえ」
「二人とも」
リゼの声が少し低くなった。
「話を進めてください」
ドムは鼻を鳴らし、俺の仕事板を取り上げた。
「これが水路か」
「ああ」
「線が曲がってる」
「実際の水路も曲がってるかもしれない」
「測ってないんだろ」
「だから、これから調べる」
「何を使って」
「枝と縄と重り」
「子どもの穴遊びだな」
胸の奥が熱くなる。
だが、ここで怒っても意味はない。
「なら、親方のやり方を教えて」
「なぜ俺が」
「道を直せるんだろ?」
「直せることと、ただで働くことは別だ」
「お金はない」
「なら帰れ」
ドムは仕事板を机へ置いた。
「町の道だ」
「だから役場が金を出す」
ガルドが言う。
リゼは首を横に振った。
「現在、今年度の道路修繕費は、南門の橋へほぼ割り当てられています」
「まだ年の半分だぞ」
「春の洪水で橋脚が傷みました。放置すれば荷馬車が通れなくなります」
「北広場の道は、人が落ちる」
「危険性は理解しています。しかし、大規模な修繕費をすぐに出せるとは約束できません」
役場に金がない。
町外れの家が壊れたままなのも、同じ理由なのかもしれない。
必要な場所は多い。
使える金と職人は少ない。
だから、危険度や重要度を比べ、順番を決めなければならない。
「材料だけ出せない?」
俺が尋ねる。
「材料?」
「壊れた水路の石を使えるなら再利用する。足りない石と砂だけ役場が用意する」
「誰が施工するのですか?」
「広場の人たちに手伝ってもらう」
「素人へ道路工事をさせるつもりですか」
「石を運ぶことや、土を出すことはできる」
危険な場所の判断。
水路の石積み。
蓋石の設置。
それは、ドムのような職人に任せる。
だが、すべての作業を職人だけでする必要はない。
「親方が必要な仕事だけする。ほかは俺たちでやる」
「誰が金を払う」
「まだ分からない」
「話にならん」
「壊れた道の近くに店がある人は、直れば助かる。井戸を使う人もいる。少しずつ働いてもらう」
「働けない者はどうする」
「食事を作る。縄を用意する。子どもが近づかないよう見張る」
「それを誰が決める」
「相談する」
「責任者は」
また、その言葉だ。
人を集める。
材料を使う。
道を掘る。
事故が起きる可能性がある。
皆でやると言っても、失敗したときに責任が消えるわけではない。
「俺が――」
「子どもは責任者になれない」
リゼがはっきりと言った。
「少なくとも、役場の許可書には成人した責任者の名が必要です」
視線がガルドへ集まる。
「俺を見るな」
ガルドが言う。
「木工ならともかく、石水路の工事責任なんぞ負えん」
次にドムを見る。
「俺は仕事を受けていない」
「じゃあ、役場の人」
ミラがリゼを指差した。
「私も現場の責任者にはなれません」
「誰もできないの?」
ミラの素朴な疑問に、全員が黙った。
直す技術がある人。
許可を出す人。
実際に困っている人。
それぞれが別の立場にいて、誰も全体を引き受けられない。
「現場を見てから決める」
ドムが突然言った。
「何?」
「穴の状態も見ずに、金も工法も決められん」
「来てくれるのか?」
「調査だけだ」
ガルドと同じことを言う。
「調査の代金は?」
「役場から出せ」
ドムがリゼを見る。
「緊急点検なら、予備費を使えるだろ」
「一度の現地確認までなら可能です」
「なら決まりだ」
「まだ所長の許可が――」
「人が落ちて死んだら、許可を待ってましたと説明するのか?」
リゼは申請書と窓の外を見比べた。
先ほど俺が言ったときより、ドムの言葉は役場の手順へまっすぐ届いた。
資格と経験の差だ。
「分かりました」
リゼは紙へ素早く文字を書き始めた。
「緊急点検として処理します。ただし、調査後の工事は別途申請が必要です」
「その紙に、俺たちも見ていいって書いて」
俺が言うと、リゼの手が止まる。
「なぜですか?」
「現場で見て覚えたい」
「邪魔だ」
ドムが即答した。
「近づかない。指示されたことだけする」
「信用できん」
「ガルドさんもいる」
「それで信用が減った」
「何だと?」
「喧嘩は外で」
リゼが同じ言葉を繰り返した。
◇
役場を出て、北広場へ向かう。
ドムは俺の隣を歩こうとせず、ガルドと並んでいた。
会話はない。
仲が悪いというより、互いに意地を張っているように見える。
「二人は昔から知ってるの?」
ミラがネッサへ小声で尋ねる。
「若いころ、同じ現場で働いていた」
「ガルドさんは木で、ドムさんは石?」
「ああ。橋の工事で毎日喧嘩していた」
「どっちが勝ったの?」
「橋が完成した」
ネッサの答えは、それだけだった。
広場へ着く。
穴の周囲には、昨日作った柵が残っている。
何人かの住人が、遠巻きに様子を見ていた。
ドムは、まず柵の位置を確認した。
「穴に近すぎる」
第一声がそれだった。
「五歩離した」
「地下の空洞が五歩より広ければ意味がない」
「どうすればよかった?」
「安全な範囲が分からないなら、広く囲う」
ドムは周囲へ指示し、柵をさらに三歩分外へ動かした。
次に石畳を金属棒で叩く。
高い音。
低い音。
響く音。
同じように見える石でも、場所によって返ってくる音が違う。
「俺たちもやった」
ミラが言う。
「重りで叩いた」
「重りを傷めるな」
ドムは穴の周囲を一周する。
地面へ石粉で印をつけていく。
俺たちが炭でつけた範囲より、少し広い。
「どうして、そこまで?」
俺が尋ねる。
「穴へ向かって石が沈んでる」
言われて地面を見る。
ほとんど分からない。
ドムが長い板を石畳へ置いた。
中央に、わずかな隙間ができる。
「平らに見えても、下の土が流れれば石が傾く」
「音だけで決めてない?」
「音、傾き、石の継ぎ目、周りの湿り方。全部見る」
俺は仕事板へ急いで絵を描く。
ドムが足で板を押さえた。
「今は描くな」
「忘れる」
「見る順番を覚えろ」
金属棒で、穴の縁を指す。
「最初に、どこが危険か。次に、水がどこから入り、どこへ出ているか。そのあとで、何が壊れたかを見る」
「壊れた場所が先じゃないの?」
「壊れた石ばかり見て、水を見落とせばまた壊れる」
セナの雨漏りと同じだ。
目に見える破損だけではなく、原因となった流れを見る。
ドムは昨日開けた、水路の点検口へ移動した。
蓋を外す。
水量は少ない。
仮の溝が効いているらしい。
「誰がこの蓋をした」
「俺たち」
「布を使ったのは?」
「土が入らないように」
「水で布が詰まれば、全部塞がる」
布を持ち上げる。
すでに細かな泥が張りついていた。
「少し流れる隙間を残した」
「昨日より水が増えれば足りん」
「どう直す?」
「枝で格子を作れ。大きなごみだけ止める。細かい泥まで完全に止めようとするな」
「泥が水路へ入る」
「入った泥は、点検口からさらう。入口を詰まらせて水をあふれさせるよりましだ」
何を止め、何を通すのか。
ここでも、全部を防ごうとすると別の問題が起きる。
ドムの指示で、布を外す。
細い枝を交差させ、簡単な格子を作った。
「ミラ。縄」
「はい」
ミラが道具袋から縄を出す。
ドムは少し意外そうな顔をした。
「お前も手伝っていたのか」
「わたしの家も建てたよ」
「家?」
「三日で」
「三日で家が建つわけがない」
「建った」
ミラがガルドの認証札を見せるように胸を張る。
「今度見に来て」
「暇があればな」
「絶対来て」
「子どもの絶対は信用しない」
「大人の暇があればも信用できないよ」
ドムが一瞬黙る。
ネッサが横を向いて笑いをこらえていた。
◇
穴の状態を調べるため、ドムは長い木の棒を持ってこさせた。
先端には短い金属棒を結びつける。
「何をする?」
「水路の底を探る」
安全な位置から、穴の中へ棒を差し込む。
土。
石。
空洞。
先端へ返る感触を、少しずつ確かめている。
「ここは底がある」
棒へ炭で印をつける。
「こっちは深い」
別の位置。
さらに別の位置。
深さが違う。
「水路の石が外れてる?」
「おそらく、側壁が倒れた」
ドムは地面へ簡単な断面を描いた。
左右へ立てた石。
その上へ載せた蓋石。
水路の横の石が内側へ倒れ、蓋石が落ちる。
空いた隙間へ周囲の土が流れ込み、地面の下に空洞ができる。
「上の石畳は、しばらくそのまま残る」
「中が空でも?」
「石同士が支え合っていればな。だが、荷車の重さがかかって一気に落ちた」
見えていた道は、薄い蓋にすぎなかった。
「直し方は?」
「安全な場所まで石畳を外す。流された土を取り除く。水路の石を積み直し、蓋石を載せる。そのあと、土と小石を少しずつ入れて締める」
「一度に土を入れたら?」
「上だけ固まり、中に隙間が残る」
「水が入れば、また沈む」
「分かってるじゃないか」
初めて、少しだけ認められた気がした。
「使える石は?」
「水路の中を開けないと分からん。割れていなければ使う」
「足りない分は?」
「役場の石材置き場に、古い舗装石がある」
リゼが持ってきた紙へ何かを書き加える。
「廃材として保管しているものですね」
「あれなら水路の側石に使える。蓋石には薄すぎる」
「蓋石は新しいものが必要ですか?」
「二枚か、三枚」
「費用は?」
「現場を開けてからでないと確定できん」
リゼの表情が曇る。
「予備費で出せる範囲を超える可能性があります」
「人が死ぬより安い」
「それは理解しています。しかし、帳簿に存在しない金は使えません」
ドムが舌打ちする。
技術的な方法は見えてきた。
だが、金の問題は残っている。
「蓋石をもらえない?」
俺が尋ねる。
「どこからだ」
「壊す予定の建物」
「勝手に壊すな」
「商会が回収した土地に、崩れた家がある」
町外れには、住人が去ったあと放置されている家がいくつもあった。
石壁が崩れ、屋根も落ちている。
使える石が残っているかもしれない。
「所有者の許可が必要です」
リゼが言う。
「ドーレン商会のもの?」
「土地によります」
「調べられる?」
「記録を確認すれば」
「どれくらいかかる?」
「場所が分かれば、今日中に」
役所へ来る意味が、少し分かった。
現場の技術だけでは分からないことがある。
誰の土地か。
誰の材料か。
使ってよいものか。
それを記録し、判断する人が必要だ。
「使える石を探す」
俺は言った。
「費用を減らせれば、工事できる?」
リゼはすぐに答えなかった。
「材料費だけの問題ではありません」
「人手は集める」
「それでも、ドム親方の工賃が必要です」
「俺はただでは働かん」
ドムが言う。
当然だ。
職人が積み上げてきた技術には、値段がある。
善意だけで使わせていいものではない。
「いくら?」
「銀貨五枚」
周囲が静かになる。
釘一本で黒パン一つ。
銀貨一枚があれば、俺たち三人がかなり長く食べられる。
「高い」
「事故が起きれば、俺の名と資格がなくなる。安く引き受ける仕事じゃない」
「全部払わないと駄目?」
「仕事を減らせば安くなる」
「どこまで俺たちでできる?」
「石を運ぶ。土を出す。使える石を洗う。水をくみ出す。俺の指示で埋め戻す」
「石を積むのは?」
「俺と、俺の職人がやる」
「何人?」
「二人」
「一人にしたら?」
「時間が倍になる。穴を開けたまま雨が降れば危険だ」
安くするために人を減らせば、工期が延びる。
工期が延びれば、別の危険と費用が増える。
単純に削ればいいわけではない。
「銀貨五枚は、全部工賃?」
「道具の使用と、弟子二人分を含む」
「食事をこちらで用意したら?」
「銀貨半枚は下げる」
「運搬も全部する」
「さらに半枚」
「使える石を洗って、積む順番に並べる」
「俺が確認して使える状態なら、さらに半枚」
銀貨三枚と半分。
まだ高い。
「残りを、仕事で返せない?」
「何ができる」
「石工の仕事はできない。でも、木の道具や足場が必要なら、ガルドさんの工房で作る」
「俺を勝手に売るな!」
ガルドが怒鳴る。
「借りとして働く」
「お前は、まだ釘七本分の借りがある!」
「一本は返したから、七本」
「胸を張るな!」
ドムが顎髭を撫でる。
「木製の水路型が必要になるかもしれん」
「型?」
「崩れた部分が広ければ、水を一時的に横へ通す樋を作る。石を積み直す間、水を作業場所へ入れないためだ」
仮排水。
工事中だけ水の流れを変える設備。
「それを作れば?」
「銀貨一枚分として見てもいい」
「本当に?」
「使えるものならな」
残り銀貨二枚と半分。
まだ足りない。
「銀貨二枚は、役場の緊急予備費から出せる可能性があります」
リゼが言った。
「可能性?」
「所長の承認が必要です。ただし、住民側が残りを負担し、材料費を抑える計画があれば、説明はできます」
残り半枚。
「半枚なら、広場の人たちで集められるかもしれない」
ミラが言う。
「みんな、井戸を使ってるから」
「払えない人もいる」
「お金じゃなくて、食べ物や仕事でもいい?」
「役場の会計には使えません」
リゼが答える。
「だが、俺が受け取る分なら相談できる」
ドムが言った。
「銀貨半枚分の食事と燃料。工事中、弟子二人を食わせろ」
「それなら集められる」
パン屋のセナ。
魚売りのボルツ。
野菜売り。
井戸を使う住人。
一人がすべて負担するのは無理でも、少しずつならできる。
「決まりだ」
俺が言う。
「まだ決まっていません」
リゼが即座に止める。
「修繕範囲、材料、作業分担、予定日数。すべて書面にする必要があります」
「俺は文字が書けない」
「絵は描けますね」
仕事板を指される。
「役場へ戻ったら、あなたが見たものと、ドム親方から聞いた修繕方法を図にしてください」
「この板に?」
「紙を一枚渡します」
「失敗したら?」
「裏も使えます」
紙。
この世界へ来てから、初めて自分で使う紙だ。
高価なものだと思っていた。
「俺が使っていいの?」
「工事が承認されれば、役場の記録になります」
「承認されなかったら?」
「練習紙として、費用を請求します」
「いくら?」
「銅貨二枚です」
「高い」
「だから失敗しないでください」
リゼは真顔だった。
◇
夕方。
俺たちは再び役場の机を囲んでいた。
目の前には、白い紙が一枚。
その横には、細く削った炭。
手のひらにはまだ傷があるため、強く握れない。
それでも、線を描くことはできる。
「最初に、何を描く」
リゼが尋ねる。
「上から見た広場」
「何のために?」
「水路と穴の位置を伝える」
「方角は?」
「上を北にする」
「印を忘れずに」
紙の端へ、北を示す矢印を描く。
次に、井戸。
今の排水溝。
古い水路。
穴。
仮に掘った溝。
「長さは?」
ガルドの結び目つきの縄で測った距離を、同じ割合で紙へ移す。
正確な縮尺と呼べるほどではない。
だが、仕事板の絵よりは、実際の位置関係に近い。
「次は、横から見た水路」
ドムが言う。
石畳。
その下の土。
蓋石。
側石。
水が流れる空間。
崩れた側壁。
流された土。
地面の下にできた空洞。
「壊れた部分だけ描くな」
「直す範囲も?」
「安全な水路が残っている場所まで開ける。両端を確認しなければ、新しい石を何へつなぐ」
壊れた部分の左右へ、まだ形を保っている水路を描く。
そこへ新しい石をつなぐ。
「土は一度に戻さない」
「層に分ける」
薄く入れる。
締め固める。
また入れる。
それを絵の中へ何段かの線として示す。
「水は?」
「工事中は、木の樋で横へ逃がす」
ガルドが作る仮の樋。
水路の壊れた部分を避け、上流から下流へつなぐ。
「樋の勾配が足りなければ、水が止まるぞ」
ドムが言う。
「現場で水を流して確かめる」
「作る前に目安を出せ」
「長さと高低差を測る」
「何で測る」
答えに詰まる。
下げ振りは垂直を見る道具。
結び目の縄は長さを測れる。
高さの差を正確に見る道具がない。
「水を使う」
俺は言った。
「長い樋へ水を入れる。家の石台の高さを合わせたときと同じだ」
「この距離を一本の樋で測るのか」
ドムが尋ねる。
「短い区間ごとに基準を移す。途中の杭へ高さの印を残す」
「樋そのものが曲がっていたら?」
「向きを変えて二度見る。結果が違えば、その樋は基準に使えない」
ガルドが頷いた。
「長い材を無理に使うより、確かめた短い基準をつないだ方がましだ」
完全ではない。
だが、使える道具の中で精度を上げる方法だ。
紙の端へ、測り方も小さく描き込む。
気づけば、窓の外は暗くなり始めていた。
「できた」
炭を置く。
紙には、町の広場と、地面の下の水路が描かれている。
線は少し震えている。
文字による説明もほとんどない。
それでも、仕事板の絵よりはずっと多くの情報がある。
リゼが紙を持ち上げる。
「ドム親方」
「工法としては、これでいい」
「ガルド親方」
「木の仮樋は作れる。ただし、材料が見つかればだ」
「ネッサさん」
リゼが森番へ向く。
「作業中の立ち入り制限に、人手を出せますか?」
「午前と夕方なら見回りの者を一人出せる」
「では、役場側で緊急修繕の申請を出します」
「いつ決まる?」
「明日の朝、所長へ説明します」
「一緒に行く」
「来なくて結構です」
「どうして?」
「あなたが話すと、説明が長くなります」
「必要なことを言うだけだ」
ガルド、ドム、リゼの三人が同時に俺を見た。
「何?」
「自覚がないのか」
ガルドが呟いた。
ミラが笑う。
「レオ、止められてもずっと話すよ」
「話さないと伝わらない」
「話しすぎると、伝わらんこともある」
ドムが言った。
今日初めて、この二人の意見が一致した。
「明日の昼までに、広場の人たちへ作業と食事の協力を頼んでおけ」
ドムが立ち上がる。
「許可が出たら、午後から道を開ける」
「出なかったら?」
「出す」
リゼが書類をそろえながら言った。
「そのために、これだけ準備したのですから」
その言葉を聞いて、初めて彼女も同じ側に立ってくれているのだと分かった。
役人は、何もしてくれない人ではない。
規則は、動かないための言い訳だけでもない。
誰が責任を持ち、何を使い、どう直したのか。
それを残し、次の人へ伝えるためにも必要なものなのだ。
俺は机の上の図を見る。
自分の頭の中にあった形が、初めて紙の上へ残された。
ただ家を描いた図ではない。
人が安全に道を直すための図。
材料を集める人。
石を積む人。
許可を出す人。
食事を作る人。
通行人を守る人。
その全員をつなぐためのものだ。
「道は、誰のものなんだろう」
俺が呟くと、リゼが書類から顔を上げた。
「法律上は、領主の所有です」
思っていた答えと違った。
「でも、使うのは町の人だ」
「ええ」
「壊れたら、誰が直す?」
「本来は、管理する役場です」
「役場だけじゃ直せない」
「そうですね」
リゼは少しだけ笑った。
「ですから、あなたたちに手伝ってもらいます」
家は、住む人だけのものではなかった。
木を切る職人。
石を積む職人。
材料を運ぶ人。
土地を貸す人。
規則を決める人。
多くの人の力が重なって、ようやく一つの建物が立つ。
道も同じだ。
誰か一人のものではないからこそ、一人では直せない。
明日、俺が関わる初めての公共工事が始まる。
俺が建てるものは、もう自分たちの家だけではなくなっていた。
お読みいただきありがとうございます。
石工親方ドムと書記官リゼが加わり、レオたちは町の道を直す準備を整えました。
次回、住民たちと協力して、崩れた地下水路の修繕工事が始まります。




