ep2-1 英雄の回帰
あの時の絶望を、忘れることはない。
重たい雲に覆われた灰色の空、冬の始まりを知らせる冷たい風がヴォルフに吹きつけた。
焼け焦げた木々の匂い。崩れた屋敷の所々から煙が上がっていた。
人の声はもはや聞こえない。
呆然とその光景を眺めるヴォルフのそばには、数人の騎士たちがいた。
ヴォルフを含め、すでに彼らは激しく傷を負い、消耗していた。
領地の魔獣を討伐し、なんとか屋敷に戻ったところでのこの惨状に、ヴォルフたちは言葉を失っていた。
遠くで狼の遠吠えが聞こえる。
我に帰ったヴォルフが、騎士たちに指示を出そうと振り返った。
その時、黒い狼が、騎士の1人に後ろから飛びかかろうとしていた。
ヴォルフが剣を抜くより先に、黒々とした獣の牙が騎士の首に勢いよく刺さった。
「ぐっ」
首を噛まれた騎士が顔を歪め、魔獣を引き離そうと掴み掛かる。しかしその巨躯の身体に押し倒されてしまった。
それは生きている狼ではなかった。
人を襲う、禍々しい魔獣だった。
ヴォルフが魔獣の体を真っ二つに切り裂いた。しかし、切り付けられた魔獣の身体はぐにゃりと溶けていく。そして粘り気のある塊が、また一つになって狼の形に戻ったのだ。
「うそだろ……」
騎士の誰かが、震える声でもらした。
倒れた騎士の首からおびただしいほどの血が広がっていく。
その目から、光が消えていった。
ヴォルフが眉間に深く皺を寄せ、鋭く叫ぶ。
「走れ!」
残った騎士はたった2人だった。
ヴォルフたちは一斉に駆け出し、屋敷から離れようとした。
——ここを離れなければ。
そう思いつつも、思考が止まる。
——だが一体どこへ。
ヴォルフが守ろうとした土地は、もはや死にかけていた。
草木は枯れ果て、作物は育たない。魔獣が蔓延り、人が生きようとするのを阻むのだ。
それでも駆ける足を止めず、ひたすらに進もうとした。
——死ぬわけにはいかない。俺が、戦わなくては。
また、耳を刺すような狼の遠吠えが聞こえた。
そして瓦礫の中から、木々の影から、黒い魔獣たちがヴォルフたちの前に飛び出した。
それを切り捨てても、瞬く間に切った肉体は一つとなり、再びヴォルフたちに襲いかかる。
騎士がひとり、またひとりと倒れていく。
そしてついに、ヴォルフひとりが残された。
ヴォルフの足や腕に、魔獣たちの牙が食い込んでいた。堪えきれず倒れ込む。それでも剣を離さず、なんとか獣を振り払おうともがいた。
しかし何度でも蘇る魔獣にとって、その行為はもはや無意味だった。
そうして、ヴォルフの一生は生きながらにして魔獣に食い荒らされ、幕を閉じる。
そのはずだった。
⭐︎
ヴォルフが死に戻ってすぐ、ヴォルフがリナリアと出会う前のこと。
ヴォルフは自分が死んだ時のことを思い返していた。
「隊長?」
副官に呼びかけられ、ヴォルフはハッと顔を上げた。
屋敷の執務室の中、大机の奥に腰掛けたヴォルフは、目の前に立った副官を見上げた。
「すまない。考え事をしていた」
長髪を一つにまとめた副官は、何か言いたそうに口を開きかけた。
しかしその言葉を口にすることはなく、本題に入る。
「例の調査結果です」
「ああ、ありがとう」
ヴォルフは副官から、薄い紙束を受け取った。その紙束に書かれているのは、1人の女の名前だった。
「何故その令嬢を調べたのか、伺ってもよろしいですか」
副官の問いに、ヴォルフは表情を固くした。
だがしかし、目の前の副官には、どうしてと告げておかなければならない。
ヴォルフは小さく息を吐いた。
「彼女は、魔女だ」
その言葉に、副官が目を見開く。
「その調査をまとめたのは私です。令嬢が魔女とは、とても思えません」
「魔女で間違いない。死に戻る前、俺は彼女に一度会っている」
「……魔女は人の胎から生まれると言うのは、真実だったのですね」
ヴォルフが静かに頷いた。
報告書に目を通すと、そこにはリナリア・ソレイユの生い立ちや、生活の様子が書かれていた。
どれだけ読んでも、どこにでもいるような貴族の令嬢としか読み取れない。
リナリアが魔女だと知る者は、本来この世にいないのだ。
(本当に、人間のフリをしているんだな。)
だからこそ、この報告書がより異様に見えた。
ヴォルフは、報告書を読み終え、椅子に深くもたれかかった。
(やはり、彼女なら……)
眉間に皺を寄せ考え込むと、同じように険しい顔をした副官が口を開いた。
「これは、難しいですね」
副官が続けた。
「現時点で魔女は、人として社会に馴染んでいる。討伐したとしても、ソレイユ侯爵家は彼女を魔女と認めないでしょう。私たちが、ただの貴族殺しの汚名を着せられてしまうかと」
その言葉に、ヴォルフの眉がわずかに動いた。
「俺がお前に彼女を調べさせたのは、彼女を殺すためではない」
「どういうことですか?」
「俺は、彼女に協力を仰ごうと思ってる」
今度こそ副官が言葉を失った。
喉をごくりと鳴らし、乾いた声を漏らした。
「正気ですか?」
ヴォルフが目を固く閉じた。
(当然の反応か。俺たちは、魔女を殺すためにいるんだから)
副官が机に身を乗り出しながら捲し立てた。
「隊長の死に戻りの話は、最初こそ驚きましたが受け入れられました。それは隊長の言うとおりの場所に魔獣が出た、社会が動いたから。確かに未来を見たとしか考えられないことが続いたからです」
ヴォルフはただ黙ってそれを聞いていた。
「ですが魔女との協力は、受け入れられません。それだけは」
ヴォルフには返す言葉もない。
自分がその立場でも、全力で止めただろうから。
副官がヴォルフの顔を真っ直ぐ見据えた。
「魔女は、人を殺す化け物です。隊長、どうか考え直してください」
ヴォルフは机に肘をつき、その額を拳に押し当てた。
(魔女を頼るなんて馬鹿げている。その通りだ)
しかしそれは、ヴォルフが死に戻ってから、ずっと悩み続け、考え抜いた結論だった。
他に手がないと、追い詰められて出した結論。
その選択を覆す方法が、どれだけヴォルフが考えても見つからないのだ。
「分かっているよ。それは、俺も。痛いほど」
「魔女による破滅なら、私たちで防げるはずです。今までだってそうでした。これまでどれだけの魔女を殺したとお思いですか」
「そうだ。俺たちの気持ちはひとつだった、未来でも。俺たちなら魔女を殺せると、この地を守れると」
ヴォルフの言葉に、副官の目に力が入った。
そして机に両手を打ち付け、ヴォルフに詰め寄る。
「なら!」
「でも死んだ。お前も、俺も。みな死んだんだ」
副官が何度も口を開きかけ、そして悔しそうに歯噛みした。
「なぜ魔女なのですか。せめて王都に助力を乞うだとか、人の力ではだめなのですか」
「駄目だったんだよ。それでは」
「だから、魔女などと」
ヴォルフは椅子から立ち上がった。そして振り向き、窓の外に目をやる。そこには、訓練場で剣を振るう騎士たちの姿が見えた。
(もう誰も死なせたくない。魔女なんかに、殺させたくない)
矛盾した感情だと、ヴォルフも理解していた。
魔女は危険な生き物だから殺す。
その魔女を殺すために、魔女に助けを願うなど。
「隊長。なら、聞かせてください。隊長がその魔女を選んだ理由を。その魔女だけを殺さない理由を」
副官の言葉に、ヴォルフは振り向いた。
「お前は、人のために泣く魔女を見たことがあるか?」
レオニールが眉を顰め、その言葉の意味を咀嚼した。
「いえ、聞いたことがありません」
ヴォルフが視線を落とす。
その脳裏には、未来で見た菫色の瞳を持つ魔女の姿が浮かんでいた。
額に刻まれた皺が、一層深くなった。
「賭けるしかない。だが、お前たちまで巻き込みたくないとも思っている」
ヴォルフが、目の前に立つ副官を見据えた。
「レオニール、お前に最初に話したのはそのためだ」
名を呼ばれた騎士の顔が、怪訝そうな顔をした。
「何かあれば、俺の隊はお前が継げ。いずれローエンとフィンにもこのことは伝える。充分補佐してくれるだろう」
レオニールが拳を握りしめた。肩を震わせながら、まなじりを吊り上げた。
「隊長!それでは意味がありません。あなたに何かあっては。私たちは、あなたを信じて付いてきた人間の集まりなんですよ!」
怒気をはらんだ副官の言葉に、ヴォルフがふっと口角を上げた。
「俺も、死ぬつもりはない。ただ俺の考えが的外れで、この魔女が敵になったら。俺は命に代えてでもこの魔女を殺す。それが俺の責任だ」
「隊長……」
ヴォルフは、机の上の報告書を再び手に取った。
「次の戦勝パーティー、彼女も参加するんだな?」
「……はい」
レオニールは、どうやってもヴォルフの考えが変わらないという事実を、受け入れるしかなかった。
「話してみるつもりだ」
「危険です。ならば私も共に行かせてください」
ヴォルフが首を振った。
「まずは俺だけで話してみるさ」
屋敷の外からは、騎士たちの活力に満ちた声が聞こえていた。
「もうあんな未来は、訪れない。俺たちなら、大丈夫なんだ」
言い含めるように告げるヴォルフの言葉に、レオニールはただ視線を落とすことしかできなかった。




